幸せと不幸
それから二日後。私はイライアスとともにヒースロットの屋敷へと出立した。乗り合いの馬車に乗って一人で行くつもりだったが、イライアスに反対されたのだ。何故なのかと不思議だったけれど、ヒースロットの屋敷を出たときの話を聞いたら、イライアスが反対するのももっともだった。
「ですが、ヒースロットの屋敷まで一緒に行くのは……。イライアス様の評判にも関わりませんか?」
隣に座るイライアスの様子を窺うと、イライアスは苦笑した。
「それは大丈夫だろう。婚約の打診をしてきたのはヒースロット卿で、私たちは彼の都合で婚約を解消したと思われているからね。また、振り回されているようにでも見えるんじゃないか?」
「それなら尚更、私と一緒にいるとあなたが悪く思われるような……。死んだはずの私を匿っていたとか、以前から密通していたと思われたら……」
「いや……。アリシアが生きていたとまだ公表していないだろう? ヒースロットがそれを認めていないのだから、それは事実ではない、と表向きには判断せざるを得ない。まあ、噂は別だが」
「……噂の方が恐ろしいのですが」
嘘がまことしやかに囁かれて、真実になることもある。罪を捏造されて爵位を剥奪された方も古くにはいたようだ。悲しいことだけど、権力や富を手に入れると、変わってしまう人もいる。今あるものに満足できず、もっともっとと人の物まで欲しがって、結果他人から奪うのだ。権力や富の対価として責任や義務が発生するということを忘れて──。
イライアスも神妙な顔で頷く。
「ああ。人の不幸は蜜の味とも言うし、悪い話の方が広まるのは早い。仲よさそうに振舞っていても、その実、足を引っ張ろうと手ぐすね引いている奴らばっかりだ。だから私は貴族って奴らが嫌いだ」
「イライアス様……」
吐き捨てた言葉には憎悪がこもっていた。詳しいことはわからないけれど、以前にイライアスが話してくれたことを思い出した。
──どうしても家名で値踏みされることが多くてね……。私自身を見てくれる人なんていないと腐っていたが、君の言葉で目が覚めたよ。他人に価値を求めるのではなく、自分で自分の思う価値を高めていけばいいと吹っ切れた。
それに、アルマも坊ちゃんは難しい方だと言っていた。きっとイライアスにも事情があるのだろう。
「あの……」
聞いてもいいのか逡巡してから話しかけると、イライアスははっと目を見開いて、目元を和らげた。
「感情的になってすまない。つまらない噂に振り回されるのもうんざりだと思ってね。真実は見る人によって違うものだ。私たちが大切なことをわかっていればいい。つまらない噂で印象操作をしようというなら、こちらも同じ手で封じ込めるだけだ」
「そう、ですね。大切なことを忘れなければ……」
そう言いながら、私は自分の服の胸元を掴む。強くあろうとしても、人の悪意は怖い。それに自分自身が持つ悪意も。一度自分の内に潜む悪意に気づいてしまうと、瞬く間に悪意は増幅されていく気がするのだ。
イライアスが私の手を包み、顔を覗き込んできた。その表情には不安が滲んでいる。そうだ、不安なのは私だけじゃない。
「……わかってもらえるまで何度でも話します。これまで両親に逆らったことがなかったので不安でしたが、家を出た時点で逆らったも同然ですものね。あらかじめわかっていれば、そこまで不安ではないかもしれません」
イライアスに笑いかけると、イライアスも表情を緩めた。
「ああ。だが、どうしてもわかり合えない場合もある。そのときは、相手を屈服させるしかないだろうが……。あまりしたくないな」
「屈服ですか……」
力だったり、言葉だったり、他人を捩じ伏せることは好きじゃない。だけど──。
「……綺麗事では成り立たない世界です。そうやってイライアス様が力を見せることで、お父様の態度は軟化するかもしれません。政略で姻戚関係が結ばれて一時的ではなく長期に及ぶ場合、一個人としては娘婿が自分よりも能力が高いと複雑ですが、当主としては子爵家の影響力が増すと喜ぶのではないでしょうか。そうなるとイライアス様とセシリアを結婚させるという話がまた出てきそうですが……」
「ああ。だからセシリアが能力のある男と結婚する必要があるだろうな」
「私は……セシリアがそれを望むならともかく、ヒースロットへの責任を押し付けた上に結婚まで無理強いしたくはありません」
「ああ。君はそう言うだろうと思ったよ。だが、セシリアは選んだんだ。自分がヒースロットに残るという道を。きっとこうなることも覚悟の上だろう。元々政略として他家に嫁ぐはずだったんだ。そこにセシリアの意思は必要なかった」
イライアスの言葉が胸に刺さる。初めからわかっていたはずだ。女は政略の道具に過ぎないと。
「……私だけ幸せになるのは、間違っていませんか?」
こうして好きな人と思いが通じ、私は自分の望んだ未来を手に入れることができる。反対に、セシリアは……。俯いた私の頭にイライアスの手が乗せられた。
「幸せかどうかなんて他人が決めることじゃないだろう。幸せの形なんてそれぞれ違うのだから。それに、誰かが幸せになれば誰かがその影で泣いているかもしれない。厳しいことを言うようだが、全ての人が幸せになるというのは幻想だよ」
辛辣にも聞こえる言葉に私は顔を上げた。だけど、言葉とは裏腹にイライアスは悲しそうだった。
きっとそう思わざるを得ない経験をしてきたのだろう。どうやったらイライアスの心に寄り添えるのか、私はそれをしばらく考えていた。
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