小さな世界の価値観
詳しい話はまた改めてということで、夕食は終わった。一月ここで暮らしていたと言われても実感のない私は、ありとあらゆる刺激に疲れ、入浴するとすぐに床についたのだった──。
◇
薄暗い廊下を伝い歩き、扉を叩くと「どうぞ」と
「アリシア、どうし……って、リアか」
「……せっかくアリシアの振りをしてあなたを試すつもりだったのに、気づくとは思わなかったわ」
わたしが肩を竦めると、イライアスは呆れたように眉を上げる。
「アリシアは深夜に独身男の部屋を訪ねないだろうし、もっと恥じらうはずだ。夜着を見られるのが嫌でシーツで隠そうとするくらいだからな」
「まあ、そうね」
今のわたしは夜着にローブを纏っただけの姿だ。イライアスを男性として意識していないからできるのかもしれない。アリシアはイライアスを愛しているから見られたくないのだろう。イライアスに教えるつもりはさらさらないが。
そんなことよりもわたしはイライアスの真意を知りたかった。イライアスに促され、ソファに腰掛けると、向かいのイライアスに問う。
「それよりもどうしてあんなことを言ったの? アリシアを雇うだなんて」
「どうしてもこうしても言葉通りだ。アリシアは教育を受けてきたから所作も上品だし、頭の回転も早い。そのくせ世間知らずだし、自己評価が低い。あのままだと、市井に出てもいいように扱われて、ヒースロット家での二の舞になる。それは君も思っているんじゃないか?」
「……それは否定しないわ。逆らわないのをいいことに、他人を都合のいいように扱う、ヒースロットの両親のような人間はゴロゴロいるもの。さも自分の持ち物のようにね。相手が自我がある一人の人間だということも忘れてしまうのか、自分には逆らえないと勘違いしているのかはわからないけれど」
だから、あの家を出るときにわたしが逆らったことに過敏に反応したのだろう。殴られはしたけれど、あの顔は見ものだった。それだけで溜飲は下がった。
イライアスは重い溜息をつく。
「……アリシアは潔癖すぎるんだ。自分を厳しく罰しようとするから、自分は悪くないお前が悪いと反省しない人間の、格好の標的になる。あそこまで行くと自傷行為にしか見えない」
「ええ、そうね。だからそういう人間を増長させてしまう。他人を責めないのは寛容で優しいように思えるけれど、違うのよね。あの子が他人を責められないのは、一度でも他人に殺意を抱いてしまった罪悪感によるもの、ではないかと思うの。他人を傷つけることを極端に恐れているから、自傷に走る。自傷も他害も、極端に走ると健全ではないわね。あの子はずっと傷つけるか傷つけられるかという環境に身を置いていた。そのせいでまともな判断が出来ずにいるのかもしれないわね」
可哀想なアリシア。間違った価値観を植え付けられていることにも気付かずに、自分は劣った人間だと思い込んでいる。狭い世界しか知らないからだろう。アリシアの世界の基準は家族。家族に認められなければ劣っているとなる。だけど、実際は世界は広い。家族は世界の最小単位にしか過ぎない。
「……視野を広げるのはいいことだと思う。あの子の価値観は家族のものでしかなかったから。だけど、忘れてはいないかしら? あの子は死んだままなの。あなたは伯爵令息ということもあって貴族の知り合いが多い。あの子を仕事に関わらせるということは、その知り合いとも関わる可能性が高い。そうなったときにあの子だけでなく、あなたも社交界の醜聞に巻き込まれるということも覚悟の上なの?」
イライアスは表情を引き締めて頷く。
「全て覚悟の上だ。そうでなければアリシアを自分の元に連れて来るわけがない。だが、そうなる前に止めるつもりだ。アリシアを傷つけないようにするよ」
イライアスはわかっていると思っていたけど、わたしの勘違いだったようだ。わたしは首を左右に振る。
「そうじゃないでしょう。わたしはあの子が転んだときに立ち上がるのを待つのはいいと思うわ。だけど、転ばないように最初から障害を排除することが正しいとは思わない。セシリアがいい例よ。両親はアリシアを叱責するだけしてセシリアには反対に甘かった。その結果、どうなった? あの子は嫉妬を募らせてアリシアを憎むまでになった。あなたは本当に守るということを理解しているの?」
「それは……」
イライアスは言葉を詰まらせた。わたしも難しいことを言っているという自覚はある。甘やかすことと守ることの違いはどこにあるのか。その境界線は曖昧で、わたしにだってわからないのに。わたしの中に生まれたアリシアやイライアスへの同情のような感情がそれを言わせるのだ。
アリシアが前向きに生きようとすればするほど、わたしは恐らく出てこなくなる。アリシアの逃避から生まれたわたし。アリシアが現実に向き合うようになったその時、わたしはどうなるのか。
──消えたくない。
自分の都合よくわたしを扱うアリシアに腹が立つ。自分は消えても構わないと、甘えたあの子が嫌いだった。だったらわたしがあの子に成り代わってやると思ったりもした。だけど──憎みきれない。
アリシアがセシリアを思うように、わたしもアリシアを思っているということなのだろう。
──セシリアに……手紙を書こうかしら。
今もセシリアは他人だと思っている。だけど、アリシアの中にはまだセシリアがいるのだ。嫌いになりきれないアリシアのために、アリシアが目覚めたことくらいは知らせてもいいかもしれない。そんなことを考えたのだった。
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