強くなりたい
セシリアの時に簡単に聞いたことはあるけど、どうしてまた……。そんな私の疑問が顔に出ていたのか、イライアスは続けた。
「あの時の女性が誰なのか、はっきりわかったから。全てを清算してから改めて言いたかったんだ」
「そんなこと気にしなくても」
「いや。私にとっては大切なことなんだ」
イライアスは清々しい笑顔を浮かべた。
「……これでようやく始められる」
「え?」
「いや、独り言だから気にしないでくれ」
聞き取れたけれど意味がわからず聞き返すと、イライアスは含みのある顔で笑った。アルマが私とイライアスを交互に見て目を輝かせる。
「そういうことなんですね、坊ちゃん。どうしてリアさんでは駄目なのかと思いましたが……納得しました」
「アルマ……。しばらくは静観してくれないか? 私にはまだやらなければならないことがある」
「はいはい。余計なことはいたしません」
アルマは自信ありげに胸を張る。反対にイライアスは不安そうに頭を抱えていた。
「……アルマは突っ走るから。くれぐれも頼んだよ」
私は二人の会話の意味がわからず、首をかしげるのだった。
◇
初めて見る風景、初めて味わう空気。全てが新鮮で、私は屋敷の周囲を探索することにした。心配そうなイライアスがついてこようとしたけれど、遠くには行かないと約束をして一人で森の近くまで来た。まるで子ども扱いだ。こんな風に心配してくれる人がいることも初めてで、戸惑いながらも面映ゆい思いを味わった。
「潮の香りがしない……。本当にここはヒースロットではないのね」
鬱蒼とした森は、昼間でも暗い。一歩足を踏み入れただけでも、その闇に取り込まれそうな恐ろしさを感じる。
もしかしたら何か感じるかと思ったけれど、何も感じない。もう一人の私がこちらに来て約一カ月。そう、もう一カ月も経っていたのだ。自分はその間時間の感覚もなくただ眠っていただけだというのに、この体は家事の手伝いをしていたそうだ。
両てのひらを出して眺めると、あかぎれと火傷、切り傷が増えていた。信じがたいけれど、この体が真実だと物語っている。
私が今も貴族の娘だったら傷を増やすことで価値が下がるとか労働はみっともないといわれそうだけど、そんなことは瑣末なことだ。今の私は元貴族のアリシア。もうそんなことを気にしなくてもいいのだ。
だけど、そうすると反対に不安になる。私はその生き方しか知らなかった。これからどう生きていけばいいのかわからないのだ。
自分が甘えているのはわかっている。これまで与えられたものだけを享受して、辛い辛いと思いながら現状を変える勇気もなく、考えることを放棄して生きてきたツケが今になって回ってきたのだろう。
──これではいけない。
イライアスとセシリアは婚約を解消して、私とイライアスは無関係だ。むしろ、元婚約者の姉がここにいることがいかに外聞が悪いか、私にもわかる。
ここを出て行くことを考えなければ。そのために何をすればいいのか。
これまでの私だったら、わからなければ聞けばいいと思っていた。家庭教師が私を導いてくれたから。だけど今はそんな人はいない。お膳立てされた人生を歩むのは、期待に応えなければという重圧はあったけど、先が見えない不安は感じなかった。
「……どうすれば、いいのかしら。私にはもう帰る場所なんてない。というより、この世界に私の居場所はあるの……?」
独り言は、思った以上に私の心に刺さった。家族に愛されていなくても、次期当主という与えられた役割があったから私は居場所を見出していた。それだけが生きるよすがだったのだ。だけどそれがない今、私は誰にも必要とされていない。そんな私に生きる意味はあるのだろうか。
──目覚めない方がよかったのかもしれない。
夢を見ていたわけでもないから、私は無の世界にいた。だけど、私にとってはそれが一番幸せだったのかもしれない。
幸せな夢は現実との落差を感じてがっかりするし、不幸な夢は現実の延長だと思い知らされて辛い。何もないということは、私の心を動かすものがないということ。何も感じないのはすごく楽だった。
そう考えて気づいた。私は何も感じたくないから、もう一人の私を作り出したのだと。
幸せの後には不幸がくるし、不幸の後には幸せが訪れる。どちらか一方だけということはないのだ。いつまでも続く幸せなんてないから、私は無を望んだ。
もちろん、セシリアにしたことへの罪悪感もあった。というよりは、罪悪感に覆い隠されて、このことに気づけなかった。
利己的な自分を、思いやりの気持ちで蓋をする自分が嫌い。どうして自分はこうなのだろうと自己嫌悪に苛まれる。
強くなりたいと思った次の瞬間には、やっぱり自分は駄目だと自分で打ち消してしまう。
強さとは何だろう。しばらく散策しながら一人、煩悶するのだった。
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