「私」が「わたし」を自覚する時

 辛い現実と言われて、意識を失うまでのことを思い出した。セシリアを突き落として成り代わり、イライアスにその罪を告白した。そして、何故か疲れやすくなったり、自分が覚えのない行動をしていたこと……。


 嫌な可能性に思い当たって血の気が引いた。私はまた知らないうちに何かやったのかもしれない。


「……わ、私は、何かしたのですか……? まさか、今度は本当にセシリアを……?」


 考えて気分が悪くなってきた。吐き気を堪えるように手で口を押さえると、イライアスが私の背をさすってくれる。


「それは違う! セシリアは元気だし、君のことを心配していた。そうじゃなくて、君のご両親のこととか、色々だよ」


 混乱もあって、気分が一層悪くなった。イライアスを手で押しやって俯く。


「……っ、申し訳ありません。気分が、悪くて……」

「水を持ってくるから、待っていてくれ!」


 イライアスは慌てて立ち上がると、また廊下を駆け出した。私はしばらく惑乱の中、襲いくる吐き気と戦っていた──。


 ◇


「落ち着いたかい?」


 水を飲んで一息つくと、イライアスは心配そうにそう言った。顔をよく見ると、薄っすらと隈があり、疲れた顔をしている。私のせいかもしれないと思うと自然に頭が下がった。


「申し訳ありません……。きっとご迷惑をおかけしたのでしょう? 疲れた顔をされています」

「どうして謝るんだ? 君は悪いことをしていないが」

「……ですが……」


 これを言っていいのかと躊躇した。だけど、隠し事がどれほどしんどいのか、身を持って学んだ。意を決してイライアスの顔を見上げ、告げる。


「……恥ずかしい話ですが、時々記憶がなくなるのです。その間に自分が何をしているのかわからなくて……。もしかしたら、その間に罪を犯しているのかもしれなくて……」


 緊張と不安で、体に変な力が入る。爪が食い込むほどに拳を握りしめた。その手をイライアスが包み込んで、指を一本ずつ優しくほどく。


「大丈夫だ。私はその間の君をずっと見ていたが、おかしなことは何一つしていない」

「見ていた……?」

「……ああ。君は……先程知りたいと言ったね? 多分、聞いたらまた混乱すると思うが、それでも知りたいと思うかい?」


 イライアスのただならぬ様子に腰が引ける。本当に知りたいか、と聞かれたら即答できなかった。そこにはまた辛い現実が待っているのかもしれない。そう考えて、少しばかりの知りたくない気持ちが膨らんだ気がした。


 ──私はまた、逃げるの? セシリアも言っていたじゃない。辛いのは私だけじゃないと。あれは一体誰のことだったの?


「……知るのは怖いです。だけど、セシリアにもう逃げるなと叱られたので……」

「セシリアが?」


 イライアスは不思議そうな顔をしたかと思うと、得心したように頷いた。


「……そうか。が……。わかった。それじゃあ、君が意識を失ってからのことを話そう」


 イライアスは私の隣に腰掛け、一息ついて続けた。


「君が意識を失った後、セシリアと一緒に君の部屋に運んだ。すぐに目が覚めるだろうと私たちは思って、君の目覚めを待った。その間にセシリアと少しだけ話をしたよ。セシリアは……自分がアリシアを突き落とそうとして、反対に自分が落ちたと言った。どうして本当のことを言わなかったんだ?」


 セシリアが? どうしてそんな自分の首を絞めるようなことを言ったのか、理解できない。物事は結果が全てだ。そう言ったのは両親だった。過程はどうあれ、突き落とした私が悪いから、それでよかったのに。


「……結果的に突き落としたのは私です。そこに殺意が全く無かったとは言えません。その時点で、あれは事故ではなく、殺人だった。私はそう思っています」

「君は……やっぱり君があの時の彼女なんだな」


 あの時のが指すのは、私たちが本当に初めて会った時のことだろう。確信を深めるような言い方をするイライアスに、もう否定することはできなかった。


「……はい」

「セシリアからもそう聞いた。君たちの間の事情が、セシリアに嘘をつかせたんだろうということもわかっている」

「そうですか……」


 私は項垂れることしかできなかった。自分がいかに無能で家族から愛されていなかったか、イライアスは知ってしまったのだ。惨めで消えたくなる。


「いや、責めているわけではないんだ。責められるべきは私だよ」

「え……何故ですか?」


 イライアスの思いがけない言葉に私はイライアスの顔を見上げた。そして、イライアスの射抜くような強い視線とぶつかる。


「私は君から逃げたんだ。君の懺悔から。ちゃんと話を聞くべきだったと後悔したよ。あまりにも君が目覚めないから……」


 ──目覚めない? どういうこと? 私はこうして起きているけど……。


 私の眉間に皺が寄る。イライアスは変わらずに真剣な表情をしている。私を騙そうといった感じではない。私は固唾を飲んで、イライアスの次の言葉を待った。


「……君の目は、確かにすぐに開いたよ。だが……目覚めたのは君じゃなかった」


 君じゃない、という言い方が引っかかった。じゃあ、誰なのか。すると、これまでに感じた違和感が一気に押し寄せた。


 時々途切れていた記憶、だけど両親と成立していた会話、妙な倦怠感や眠気。自分じゃない自分がいるように感じた、それらが指す事実は──。


 イライアスは言いづらそうに言葉を区切った。


「……君の中にはリアという女性がいる。彼女が君の心が辛い時の肩代わりをしているんだそうだ」

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