消えつつある自分

 結婚を早めたいという両親の言葉に、イライアスは頷かなかった。当然だろう。私にアリシアの死をもっと悼むべきだと言った彼だ。世間体よりは、今は亡きアリシアの心情を慮ってというところだろうか。


 だけど、私はそれが嬉しいのかもわからなくなりつつあった。セシリアになりたい、また一つに戻りたい、と思った時から少しずつ私の気持ちに変化が現れ始めた。


 自分がセシリアであることを受け入れ始めた私は、両親がセシリアとの懐かしい思い出を語ることを、覚えていない振りをして聞いていた。まるで私もその場所にいたかのように。ああ、そうだった、そんなこともあったと。笑顔すら平気で浮かべられるようになった。


 私はセシリアであり、アリシアなのだ。だから、私も知っている──。


 そう思うと心の痛みが和らいだ。そして、自分がどう振る舞っているのかを考えることがなくなった。私とセシリアに何の違いがあるというのだろうか。


 こうして少しずつアリシアであった私は消えつつあった。


 ◇


「そんなにしょっちゅう来なくてもいいんですよ?」


 ヒースロット邸の庭園で、四阿あずまやに腰掛けた私は、隣のイライアスにそう告げてみた。


 セシリアとして初めて会ってから、三週間経った。その間イライアスは忙しい身であるにもかかわらず、三日に一度はやってくる。仕事の合間に抜け出してくることもあるから、時間としては長くない。今日も少し時間ができたからと、立ち寄ってくれた彼の提案で庭園にいた。


 夏の日差しはきついものの、庭園に咲いている花々はその日差しを喜んで、すくすくと成長している。瑞々しい葉に溢れた水が、陽の光に乱反射して眩しい。目を細めてしばらく眺めていたけれど、返事のないイライアスを訝って隣を見やる。


「……もしかして迷惑でしたか?」


 ようやく答えてくれたイライアスの声音はどこか不安気だ。私は彼を不安にさせるようなことをしたのだろうか。思い出そうと視線を左上に向ける。だけどやっぱり心当たりがない。私は首を左右に振った。


「いえ、そんなことはないのですが。どうしてそう思われたのです? 私はあなたに何か失礼なことをしたのでしょうか?」

「しばらくは門前払いでしたし、私と会うたびに憂いを含んだ顔をされるので、もしかしたら私と会いたくないのかと」


 それは否定できない。ただ、会いたくなかった理由は別のものではあるけれど。


 イライアスは両親とは違って、アリシアの気持ちも考えた上で発言してくれる。だからといってセシリアが蔑ろにされるわけでもない。この歪な家族の中で育ってきた私には彼が眩しく映る。


 裏切られるのが怖かった。愛してもらえると期待した次の瞬間に自分は愛されないと悟り、裏切られたと失望する。勝手に期待する自分が悪いのに、他人のせいにする浅ましさ。そんな自分が嫌いだったから、消えつつある自我にほっとした。


 それなのに、イライアスはそんな私の心を恋心で揺り起こしてしまう。人を好きになればなるほど、愛すれば愛するほど、綺麗な感情と共に醜い感情も浮き彫りにされる。光が強ければ強いほど影は濃くなるのと同じなのかもしれない。


 真っ直ぐに私を見るイライアスの視線から逃げるように目を伏せた。


「……どうしてもアリシアのことが頭から離れなかったんです。自分だけが幸せになるようで──」


 言いながら、自分の言葉に疑問を感じた。偽りの中で成り立つ幸せなんてあるのだろうか。その幸せもまた偽りかもしれないのに。あるとすれば砂上の楼閣のように、儚くも簡単に崩れるものだろう。私は本当にそんなものが欲しかったのだろうか。


 私はドレスの上で知らず知らずのうちに拳を握りしめていたようだ。その手をイライアスが包みながら体をこちらに向けた。


「あなたは優しい方ですね。なんと言えばいいのか難しいのですが……」


 ──この後に続く言葉は、アリシアのことは忘れてアリシアの分まで幸せになれ、かしら? 結局は彼も両親と同じ……。


「アリシア嬢のことを無理に忘れる必要はないと思います。あなたがアリシア嬢を覚えている限り、アリシア嬢はあなたと共に生き続ける。だから、たまには私に話してください。アリシア嬢のことを。あなたが辛くなければ、ですが」


 凍りついていた心が溶解して、涙になって溢れた。どうしてイライアスには私が欲しい言葉がわかるのだろう。彼の言葉の全てが温かく私の心に染み渡る。


「ありがとう、ございます……」


 その一方で、どうしてこんな形でしかイライアスと関わることができなかったのかと後悔の念に苛まれる。私は彼から愛する女性を奪ったのだ。真実を知れば憎まれるに違いない。


 これ以上彼に惹かれたら、彼を手放せなくなる。傷が浅いうちに離れた方がいいのかもしれない。そう思う心とは裏腹に、私は包まれていた拳を解くと彼の左手を両手で強く握りしめた。


 ポロポロと涙を流す私の目元を、イライアスは慌てて右手でスラックスから出したハンカチで拭ってくれた。

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