第11話

家の中にいるより体を動かした方が良いと考えた僕は、動きやすい服装に着替えて出かける準備をした。


「母さん出かけてくる」

そう言って家を出た僕は駅へと向かった。


電車に揺られること約2時間、僕は高尾山の麓に来ていた。


「ここが高尾山の入山口です」

そうヨウリンに説明する僕。


「写真に写っていた山のこと?」


「そう」


「もしかして今から登る気なの?」


「ヨウリンは今本格的な登山を想像しているんじゃない?」


「うん、そうだけど違うの?」


「高尾山には幾つかの登山ルートがあるんだけど、初心者向けのコースもあるんだよ」


「そうなんだ」


「それでは登山開始!」


僕は高尾山のメインルートである一号路から登り始めた。


東京都にある山とはいえ、空気が澄んでいて都会で聞こえる人工的な音がしない。


聞こえてくるのは風に揺られる木々の音や鳥の声、目に映る景色と自然の音は僕の心を癒してくれた。


「とても気持ちが良い場所ね」


「でしょ、これでもここは東京なんだよね」


「信じられないわ」


どうやら彼女も癒されているようだ。


山道の途中にある薬王院に寄ってお参りをした。


そしておみくじを引いた。


結果は吉。


「吉ならまあ良いか」


「吉が出れば良いの?」


「薬王院のおみくじの吉は大吉の次に良いんだよ」


「そうなんだ」


「前に引いた時は凶だったからそれに比べたら全然ましだよ。しかも健康に関してとても良いことが書いてある」


「それは嬉しいね」


「そうだね」


おみくじで気分が良くなる単純な僕、でもここまでの疲れが吹っ飛んだ。


「さあ山頂まで登るよ!」


気分を良くした僕の足取りはとても軽やかだった。


そして薬王院を後にしてから30分、僕は山頂にたどり着いた。


「着いたよヨウリン」


「ここが山頂?」


「想像していたのと違うかい?」


「もっと足場が狭くて険しい場所を想像してた」


「それは本格的な登山のイメージだね、高尾山は登頂ルートにもよるけどそんなに険しい山じゃないんだよ」


「確かに、見ていてそれは分かった。それにしても山頂なのに人がいっぱいいるね」


「高尾山は日本人だけじゃなく外国人の観光スポットにもなってるからね」


駅の自動販売機で買ったミネラルウォーターを飲みながら彼女と会話をしていた。


「登るの辛かった?」

そう彼女が僕に聞いた。


「ちょっとだけね」


そう答えた僕はヨウリンに東京のビル群を見せたくて見える場所まで歩いた。


「今日は天気が良いからきっと見えるはず・・・ほら!」


今日は初夏の割には湿度が低くて空気が澄んでいたんだろう、約50キロほど離れた東京のビル群をはっきりと見ることが出来た。


「低い山って聞いてたけど景色はとても綺麗」


「そうでしょ」


僕達はしばらくの間ここに留まり景色を眺めていた。


「ヨウリンのこともう少し聞いてもいいかな?」


「いいよ」


「ヨウリンは23歳だったでしょ」


「そうだよ」


「23歳だと就職していてもおかしくない歳だと思うんだけど」


「私は大学院に進んだから」


「そうだったんだ、彼氏も一緒に?」


「彼は大きな会社に就職した」


「そうか」


僕達は景色を眺めながら会話を続けた。


「あのビル群の後ろに僕の実家があるんだよ」


「ひかるには実家が見えてるのか?」


「それって実際に見えてるってこと?」


「違うの?」


「見えるわけないでしょ」

僕は思わず笑ってしまった。


周りの人達に変な目で見られたかもしれない、あの人ひとりで笑ってるよって。


「ちょっと笑わせないでよ、周りの人に変な目で見られるでしょ!」


「だってひかるが見えるなんて言うから」


「見えるなんて言ってないよ、実家があるよって説明したの」


「そうだったの?」


「もしかしてヨウリンってちょっと天然入ってる?」


「天然ってどういう意味?」


「いや、なんていうか面白いねっていう意味かな」


「私面白いか?」


「面白いよ」

僕がそう答えるとヨウリンは少し困惑した様子だった。


僕は困らせるつもりは無かったのだけど。


「そろそろ帰ろうか」


「それはひかるが決めること」


急にドライな回答が返ってきてヨウリンを怒らせちゃったと思った僕は、


「そうだね」


と返事をして余計な詮索をせず下山し家に帰った。



それから数日たったある日のこと、姉ちゃんは有給休暇で弟は大学が休校。


父さんも何でか知らないが仕事が休みで、平日なのに家族の皆が居間でくつろいでいた。


僕は冷蔵庫からチョコレートケーキを取りだし、グラスにアイスコーヒーを注ぐ。


そしてチョコレイトケーキとアイスコーヒーが入ったグラスを持って居間のテーブルまで運んだ。


「この部屋は他の部屋と比べるとかなり広いよね、12畳ぐらいはあるでしょ」

僕がそう言うと父さんが、


「俺の親父が大家族で食卓を囲むのが夢でな、居間は広くなきゃいけねえてことでこの広い居間を造ったんだ」


「へえ、それは知らなかった」


僕はチョコレートケーキをフォークで一口サイズにカットし口の中に頬張った。


すると弟が、


「兄貴そのケーキ凄く美味しかったよ!」


そう僕に話しかけてきた。


「そうだろ、青山にある有名な洋菓子店で買ってきたんだ」


そう言った後、僕はアイスコーヒーを飲もうとしたのだが姉ちゃんの目線が気になって飲むのを止めた。


「姉ちゃんどうしたの?僕の顔に何かついてる?」


「いや、ひかるがその体になってからずっと思ってたんだけど、全然男っぽさを感じないなと思って」


「そう?」


「食べる所作や歩く姿勢も女にしか見えないんだよ。お前もそう思うだろう?」


姉ちゃんが弟にそう言うと、弟は僕から顔を背けて、


「そうだね」

と答えた。


すると父さんが、


「子供の頃に箸の使い方、食べ物の食べ方を厳しく躾けたからなあ」


「くちゃくちゃ音を立てて食べるとよく怒られたもんね。姿勢は母さんによく注意されたっけ」


そう僕が言うと母さんが、


「そうだったかしら?まあ、美しい所作は男も女も変わらないってことじゃないかしらねえ」


「そうかもしれないね」

と姉ちゃんは両親の言うことに頷いた。


「それはそうと兄貴って自分のことを僕って言うよね」

そう弟が言ってきた。


「そうだね」


「女性らしく私とかに言い直そうとは思わないの?」


「直さないよ、心は僕のままだからね」

そう僕が答えると、


「なるほど」

と弟は頷き、


「兄貴はこれからどうするの?」

と更に問いかけてきた。


「それは私も気になってた、また前の仕事に戻るの?」


そう言った姉ちゃんの言葉に母さんが反応する。


「ひかる、それだけはやめてほしいと私は思ってるの。だってストレスが凄くかかる仕事なんでしょ?」


すると父さんが、


「俺はお前の好きなことをすればいいと思ってる」


「お父さん‼」


父さんの言葉に母さんが怪訝そうな顔をしていた。


父さんはそんな母さんを横目でちらっと見た後、手にした新聞に視線をやりながら話を続けた。


「ひかるもいい大人なんだ、子供の頃はお前達をしっかり育てなければと厳しく躾けてきたが、もう自立したいい大人なんだから好きなことをすればいい」


「お父さん」

と声のトーンを落としてまだ心配そうな表情をする母さん。


「ただし自分の責任でな!」


僕は穏やかな表情で、


「有難う父さん、でもトレーダーはもうやらないよ」

と言った。


「そうなの?」


母さんは僕の言葉に安堵し胸をなでおろす。


「じゃあ何をするの?」

姉ちゃんが僕に聞く、


「カフェをやろうと思ってる。珈琲が好きなんだ、店を持つことにも前から興味があったんだ」


「カフェか、ひかるは子供の頃から珈琲が好きだったもんね。よくコーヒー味のソフトクリームを食べていたのを思い出すよ」


「でも資格がいるんじゃないの?」

そう言う弟に僕はある本を見せた。


「この本によると食品衛生責任者、防火管理者。あと許可申請も必要で飲食店営業許可申請、その他にも幾つかあるんだけど勉強はしているよ」


「それじゃあ、後は珈琲の出来次第ってことですか」

そう言う姉ちゃんに、


「そういうこと」

と僕は答えた。


「という訳なので僕は部屋に戻って勉強します」


食器を片付けた僕は姉ちゃんの部屋に向かった。


姉ちゃんの部屋に戻った僕は本棚の一番上にある本を取ろうとしていた。


そこへ弟がやって来る。


「何やってるの?」


「一番上の棚にある珈琲豆の専門書を取ろうとしている」


そう言いながらつま先立ちをして懸命に手を伸ばしてみるが、後僅かなところで手が届かない。


その様子を見た弟は


「何でそんな所に置いたのさ?」

と不思議そうな顔をしていた。


「何でか分からないけど姉ちゃんが悪戯でもしたのかな?僕はここに置いといたつもりだったんだけど」


そう言って今の僕でも取れる上から三段目の棚を指し示した。


「俺が取ってあげるよ」


弟はそう言ってくれたが僕はもう少しで取れそうだったので頑張ってみた。


「無理すんなよ、何か辛そうな顔してない?」

そう言う弟に、


「足を攣ってしまった!」

僕は顔をしかめてそう答えた。


「そうだったの!」


「駄目だもう我慢できない!」


体勢を崩して床に倒れていく僕、それを見た弟は慌てて僕の体を支えようとした。


けれども結果むなしくふたりは一緒に畳の上に倒れてしまった。


「大丈夫か兄貴?」


「大丈夫、お前がかばってくれたから」


「そうか・・・」


今の状況はこうだ!


倒れかけた僕を抱きかかえ一緒に倒れてしまった弟。


弟は体を張って僕を守ってくれたのだ。


しかし、弟は抱きしめたまま僕から離れようとしない。


「有難う、もう離してくれていいよ」


弟は返事をせず僕を見つめめている。


「どうした?何だか顔が赤いぞ」


頬を赤く染めた弟が僕を見つめたまま体を離してくれない。


「もう大丈夫だから体を離してくれないか?」


「兄貴」


「どうした?」


「ごめん、俺もう我慢できない!」


そう言った弟が僕の唇に視線をやりながら顔を近づけてくる。


「ちょ、ちょっと待った!」


僕は弟のあごに手を当て必死になって顔を遠ざけようとした。


だがそこは男と女、力の差が歴然で弟の体が僕の体の上に覆いかぶさっているので身動きがまったく取れない。


僕は今まさに危機的な状況に陥っていた。


そこへ救世主が現われる。


「あんたら何やってるの?」


声がした方向を見ると真顔で突っ立てる姉ちゃんがいた。


「いや、兄貴が本が取れなくて困ってたから」


弟は慌てた様子で姉ちゃんに答えていた。


「ふ~ん、それでどうすればそういう状況になるわけ?」


「いや、僕が足を攣って倒れそうになったのを助けてくれたんだよ」


僕がそう答えた。


「そうなの亮太?」


そう姉ちゃんが問い詰めると、弟はスクッと立ち上がりワー‼と大きな声を上げて部屋から飛び出していった。


その様子を見届けた姉ちゃん、


「ひかるは気づいてなかったの?」


「今気が付いた、多分そういうことだよね?」


「お前が入れ替わってからどこか亮太の様子がおかしかったからな」


「そうだったの?」


そう答えた僕を見た姉ちゃんは、鈍感な僕に呆れてため息をついていた。


この事をきっかけに弟は僕から距離をおくようになり暫く会話もしなくなった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る