第14話 エミ~その2~ぬくもり病

 父親がいなくなってから三か月。私は中学生になり、母とともに二十三区から離れた町に引っ越した。

 六畳一間で三万円。風呂トイレ別。二人で住むなら上等の物件だった。

 母は夜遅くまで仕事をして帰ってくるから、私が代わりに炊事や洗濯を担当した。

 今となっては仮想通貨をするより、こっちの方が性に合っていた気がした。

 毎日学校帰りにスーパーで特安の豚肉を買ったり、浴槽の白カビと戦っている方が楽しく思えた。

 でもやはり生活自体は芳しくなかった。

 時々水道を止められそうになったこともある。

 そのせいか、母は突然夜の仕事をするようになった。

 早朝の電車で通勤し、夜は泥酔して帰ってくる。

 そんな生活が毎日だったが、母は愚痴もくだも巻かず死んだように寝ては、白雪姫のごとくパッと目ざめまた仕事に向かって行ったのだった。

 母が健気に働いている姿を見て、私はより一層心臓がえぐられる気分になった。


 「こんな役立たずの私のために、どうしてそこまでしてくれるの?」

 

 中学二年になったある日、誰にも母のことを話していないのに、教室でクラスメイトが夜の街で母を目撃したという話を耳にした。


 「俺の父ちゃんから聞いたんだけど、昨日歌舞伎町で氷河ひかわさんの母さんが男の人連れて歩いていくの見たんだって」

 「それ知ってる。私のパパも見たって」

 「それに氷河さんって仮想通貨もやってるらしいよ」

 「うっそ。え、エミちゃんがやってるの?」

 「そうそう。なんでもめちゃくちゃ大きな借金を抱えちゃってるんだって」

 「それヤバくない? そのためにお母さんはキャバクラで、エミちゃんは仮想通貨でお金稼いでるの?」

 「親子そろって貧乏暇なしとは、不憫だよね」

 「ほんとにね……。というか、私と君のパパも歌舞伎町で何してるの?」

 「それ蛇足」


 中学校という狭い社会の中で、私と私の母の悪い噂は一日で全校生徒に知れ渡った。

 人の噂も七十五日というが、私は信用していない。

 というのも、やはり噂に尾ひれや背びれ胸びれにあごひげはつきもので、根も葉もないことまで知れ渡ってしまうのだから恐ろしい。

 結局その一年間は私たちの噂で持ち切りだった。

 

 「え、うっそマジぃ?」

 「マジマジ。氷河のママ一日で十五人とヤッたんだって!」

 「ウケる! 超絶リンじゃん! 氷河のママってもうアラフォーとか言うやつでしょ? なのにそんなにできるとか種馬レベルだよね!」

 「種馬から出てきた氷河は超絶ド変態のサラブレッドってことじゃん! めっちゃ細い体して脱いだら半端ないかも!」

 「まさしくディープインパクトってとこかしらね! あ、あとさ氷河ってヤバいビジネスしてるんだって」

 「なになにそれ、聞きたい!」

 「なんか、近所の人や商店街のおばさんとかに「最近よく眠れてますか? いい枕あるんですけどー」って言いまわって胡散臭い枕買わせてるんだって!」

 「やっば親子そろって枕営業とかやっば!」

 「でしょー! それに二組の山下先生いるじゃん」

 「あの陰キャオタ眼鏡?」

 「氷河の枕買ったらしいよ!」

 「マジで?!」

 「そんで、一緒に寝たって!」

 「え、寝たの?! 教師と生徒が? マジの枕営業じゃん。まさか根暗な氷河がエンコウなんて、人は見かけによらないわね」

 「私たちですら彼氏とやったこともないのに、エンコウ少女は流石ね!」

 「エンコウ少女とかマジウケるんですけど! これからあいつのことエンコウ少女ってあだ名にしようぜ!」

 「それな! 今度あいつが稼いだ援助金巻き上げに行くか!」

 「アリよりのアリ!」


 結局私はエンコウ少女やら、種馬のサラブレッドやら汚いレッテルを張られ、時にはなけなしのお金も薄汚い輩に巻きあげられてしまった。

 そして学校に居場所がなくなった私は不登校になり、一日中布団にこもり動画を見る廃人と化してしまったのだ。

 夕方ごろに起きてはポテチをむさぼり、炭酸ジュースを飲んで、充電ケーブルにつなげたスマホでアニメを傍観する日々。

 まさに無の境地。

 それは釈迦も至ることのなかった無の境地と私は呼んでいた。

 ただその無の境地を破壊する出来事が起きた。

 

 「たらいまぁ~」

 「お母さん……。おか……え?」

 「お邪魔します。すみません、こんな夜更けに。今日は美里さんが飲みすぎてしまったみたいで。大丈夫ですか美里さん」

 「らいじょうぶ、らいじょうぶ。さとしさん。平気だから~」

 「平気じゃないでしょ。お布団どこですか? 敷きますから」

 「いいろいいろ。床で大丈夫よ~。聡さんも一緒に寝たらー? 冷えてて気持ちいいわよ」

 「二月なのに床で寝れるわけないじゃないですか! 流石にカーペットまでは頑張ってください。床暖つけますから。エミさんごめんなさい、通りますね」

 「悪いわねえー」

 「あと、お水用意しますんで。あ、子熊のマグカップ。これでいいですね」

 「あっとー(ありがとう)……」


 …………え。だれだれだれ? 知らないこんな男の人。飲みすぎちゃった? ってことはいつもお母さんと飲んでるの? 床暖のことも知ってる。一度うちに来たことがある? いや一度じゃないかも。お母さんが使ってる子熊のマグカップ。このことも知ってるようだった。てか、私の名前まで知ってる。私この人のこと知らないのに。聡さん? 誰? 一緒に寝る? は? え、え、え、ええ、え、ええ、ええ、? 分かんないわかんないわかんあい……………。


 「ゔ、オ゛ロ゛ロ゛ロ゛ロ゛ロ゛ロ゛ロ゛ロ゛ロ゛ロ゛……!」

 「だ、大丈夫ですかエミさん!」

 「え? ……エミ!」


 そこからの記憶は全くない。

 ただ、胃の中にあったポテチとジュースもろとも、五臓六腑が外に吐き出されたのかと思った。

 気づいたころにはこの病室のベッドに横たわっていたのだ。


 「お腹も、心臓も大丈夫みたい」


 幸いにも臓器は元の位置にあるらしい。


 「でも、なんでだろう。煮えたぎるほど熱い気がする。だけど指や体は氷みたいに冷たい」


 起きて初めに感じたのは、心臓が燃えるほど熱いこと。そしてそれ以外の全身がドライアイスに包まれているかのように寒かったことだ。

 触れたものすべてが凍ってしまいそうな、いや実際に花が凍ってしまったくらい、私の身体は冷たかった。

 表面温度マイナス十度。体内温度八十度。

 どうやら私は異常な病気にかかってしまったらしい。




 愛着性自己否定障害。通称ぬくもり病に。

 

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