プロローグ 六十回目の記念写真(2)
肩を並べて歩くこと数分。
それでも目的地はまだ着かない。日本庭園を意識した造りの庭を春の日差しを含んだ暖かい風を全身に浴びながら歩き進める。
ソヨソヨとした心地よく吹く風が頬を撫でて通り過ぎていく。草と土の匂いが鼻をくすぐる感覚に身体の芯がうち震える。
春という季節は好きだ。何年、何十年と経とうともこればかりは変わらない。
ソヨソヨと風にあおられて舞い落ちてきた花弁を空中で器用に摘まんだ少女はフフッと花が綻んだような可憐な笑みを浮かべて、
「今日は良い天気ね。まるでお母様が今日という日を祝福してくれているみたい」
「・・・・・・そうだといいね」
これは皮肉なのか。
姉は母親の記憶があまりない。
なのにあえて母親のことを会話に持ち出すのか。久しぶりに外に出られて気分が上がっているのか。それか叔母の不調に気持ちが掻き乱されて、何でもいいから喋りたかったのか。
彼女の真意は分からないが、勇一郎は姉の気分を損ねないように相槌をするしか他がなかった。
取り敢えず話題を変えなければ。せっかく我が孫の綾音と百合音が企画した撮影会なのだ。
姉には笑顔で参加して欲しかった。
姉にとっても今年は節目の年だし、何よりようやく彼女を外に出して上げることが出来る。
慣例でしかないこの撮影会も今年ばかりはーーーーー、ひと味違うことを姉にも感じて貰いたい。
それは弟である自分の願いでもあるのだ。
いや、自分だけじゃない。家族みんなが同じ気持ちを抱いている。
ただ当の本人にはあまり通じていないのが残念ではあるが。
「それより姉さん、一昨日の夜に届いた封筒の中身ちゃんと見た?」
突然の話題そらしに眉を潜めた少女であったが、それでも律儀に弟の問いかけに答える。
「まだ見てないけど・・・・・・。というか、今さら見なくても把握してるわよ。勇一郎の時も音羽の時にも傍で見ていたから」
「そうだけど、昔と今じゃ色々と変わっているかもしれないよ。あとで恥をかくのは姉さんだよ」
「・・・・・・はいはい、分かったわよ。あとでちゃんと確認しておくわ」
数十年前とは正反対のやり取りだと苦笑する勇一郎だった。昔は自分が姉に口酸っぱく言われていたのに。
とはいえ久し振りに姉弟の会話を堪能できた。姉のメンタルが安定しているのもあるし、何より春という四季のなかで一番心地よい季節、しかも嬉しいイベントが控えているという相乗効果の賜物であろう。
姉の機嫌が良いうちに早く事を済ませておこう。いつまた不安定になるか分からないから、と勇一郎は姉の手を取って優しく目的地へと導いていく。
日本庭園をしばらく無言で進んでいくと、これまた立派な造りの木造家屋が姿を現し、その玄関前にはアンティーク調の椅子が五脚ほどが前列に並べられていた。
どうやら撮影会場に着いたようだ。今回はいつもの場所と違うのね、と少女が呟くと、
「今日は趣向を凝らしてね。それにまだ桜の季節には少し早いから」
「そう、残念ね」
本当に残念そうに表情を曇らせる少女。日本庭園の外れに植わった桜の樹を気に入っており、天気の良い日には暇さえあれば季節問わず行っていた。
とはいえ、彼女の誕生日では桜の樹の開花には間に合わないのだが、彼女は自身と同じ誕生日に植えられた桜と共に写りたいと言うので、毎年の記念撮影には蕾の付いた桜の樹をバックにして写真を撮っていた。
満開の桜と共に撮れたら文句の付け所はないのだけれど、こればかりは仕方がない。季節を操るなんてのは人の身では為し得ない業なのだから。
彼女も大人なのであまり自身の要望を口にしないが、それでももう少し我が儘を言って欲しい。
自分がこの小さな姉の我が儘や願いを聞いて叶えてあげられるのも限られているのだから・・・・・・。
そんな悩みも知ってか知らずか、姉は弟の手を離して既に撮影場所に集っている家族の元へと歩み寄っていく。
彼女の手が離れた瞬間、勇一郎はつい反射的に姉の名を呼びそうになるも、自身の寂しさを気取られたく一心でどうにか踏み止まる。
折角の晴れの日にわざわざ水を差すことはない。この気持ちは己の胸の内にしまっておこう、と勇一郎は胸ポケットに差し込んだ遠き昔に亡くなった母の遺品である桜色のハンカチへと手をやって、数十年ほどの遠い遠い過去へと想いを馳せる。
家族写真を撮るようになってはや六十年目の月日が流れた。両親揃っての写真を撮ったのは自分が十代の頃だ。
あの時はまだ母は健在で、自身の記憶に残っているのは若く美しい母親の姿である。
それは双子の妹である音羽も同じであろう。
だけど、我が姉はーーーーー、初音は物心つく前から母親とは一度も顔を会わせておらず、唯一母親の姿を視認できるのは家族で撮った写真のみ。
それは十年前に亡くなった父が作った家族の掟となって、両親亡き今もずっと続いている我が家の慣習となっている。
唯一違うのは母親が亡くなってから、姉もこの家族写真に参加するようになったことか。
それは良き事か。残酷なことなのか、半世紀たった今でも分からない。
父は何を思ってこんな慣習を作ったのか。
母さんが生きている間は一度も参加させなかったくせに、亡くなってからすぐに今まで家の奥の奥に閉じ込めていた姉を表に出すようになって、こうやって家族写真に参加させるようにもなった。
その事自体は反対はしてないけど、なんだかものすごく複雑な気持ちだった。
母さんの定位置だった場所に、姉さんを座らせて、まるで長年連れ添った相手のように接する父を見て、ゾワゾワと胸の奥がざわつくのを感じたのを今でもハッキリと覚えている。
それは妹である音羽も同意見であろう。
ゆっくりと成長していく姉は、亡き母に生き写しであり、母が好きだった父はそんな姉にねちっこい視線を送っていた。
そんな父の視線を一身に浴びて、彼が亡くなるまで共に写真に写った姉の胸中は平静だったのだろうか。
遠目から見る限りでは、いつもと変わらぬ様子の姉だ。
僕の視線に気づいた我が姉は、こちらへと振り返ると、
「ーーーーーー勇一郎。ほら、みんな待っているわよ」
美しい顏を綻ばせながら、まるで歌うかのように鳥の囀りのような高く綺麗な声で僕の名を呼んだ。
僕は一先ず考え事を中断することにして、僕が来るのを待ちわびる愛しい家族の元へと歩み寄るべく一歩踏み出すのであった。
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