ミヤの結末
松長良樹
ミヤの結末
その橋は深い峡谷に掛かったつり橋だった。大きな橋ではなかったが切り立った崖を
若い女はその橋の上にいて、思いつめたような眼差しで谷底を見つめていた。女は深呼吸をして赤いパンプスを脱いで揃えた。
――シンドウ・ミヤは失意の果て。橋の上から身を踊らせた。
しかし、ミヤは死ななかった。死ぬどころか気が付くと病院のベッドの上にいたのだ。何がなんだか判らない。誰かに助けられたとでもいうのか? ミヤが
「まだ、寝ていないとだめですよ」
若く凛々しい青年医師。薄目をあけるミヤ。
「わたしは、いったいどうなったの?」
ミヤが尋ねると青年が微笑を
「僕は釣りが好きなのですが、二日前の休日に渓流釣りをしていたら、突然あなたが眼の前に降ってきたのです。驚きましたよ。それで僕はあなたを夢中で助けたという次第です」
「――今までわたし寝ていたの? ずっと意識がなかったのですか」
「そうです。でももう大丈夫です」
「まあ、あなたが…… 命の恩人なのですね。ご迷惑お掛けいたしました」
ちょっと悲しげにミヤが額に手をあてた。
「いいんです。誰にだって死にたいくらい辛い時がありますよ。でも生きてさえいれば、良い事だってきっとあります」
青年は吸い込まれるほどの澄んだ湖のような瞳をしていた。
「気が付かれて良かった。これで一安心です。しかし不思議だなあ。あなたが何処から落ちて来たのかわからない。あの辺りには橋がありません。あなたがあの切り立った崖に登ったとは考え難い」
ミヤはただぼんやりとして聞いていた。
「本当にあなたは運が強い人です。かすり傷一つ無い。所持品が無いので身寄りの人に連絡も出来なかった。警察にとも考えましたが、色々とご事情もおありだろうと思いまして……」
「本当にありがとうございました」
何度も礼を言うミヤだった。急に自分のした事が恥ずかしく感じられる。青年医師が部屋を出て行った後、何気なく壁のカレンダーを見てミヤは驚いた。 2070年。という表示。
(どういう事だろう? 今年は2021年のはずだ。病院が人をからかう訳もないし、まさか……)
様々な想像や思念が頭の中を駆け回った。目眩がするほど頭の中が混乱する。そして最後にこう思った。――タイムスリップ。SF小説の好きなミヤの頭にその言葉が浮上した。
(もしかしたら、自分は橋から飛び降りた瞬間。時間を飛び越えてしまったのかも知れない)
ミヤはそう思った。そうとしか説明のつけようがない。ミヤには記憶が無かった。どういう経緯で自分がここに来たのか思い出せなかった。
開業医の青年医師はミヤに小さな個室を与えた。どうしようもなかった。精神科の医者に相談すると青年医師が言った。
いつの間にか一週間が過ぎていった。青年に連れられて精神科に行ったが、記憶は簡単には回復はしなかった。青年医師の好意でミヤはその小さな部屋に暫らく滞在する事となった。
◇
「気持ちがいい」
ミヤがそういった。公園のベンチに春風が心地よかった。空は冬の衣を脱ぎ捨てて淡い春色をしていた。
「たまには外出した方がいい。と精神科の先生が言いました。少しは何かを思い出せそうですか?」
青年がミヤの横顔を眺めてそう言った。ミヤが首を横に振った。記憶は曖昧のままだ。しかしミヤの心は何かに満たされていた。簡単なことだった。青年といるだけで心の寂しさが埋められる。惚れやすい性格のミヤは淡い恋心を青年医師に抱きはじめていた。
そのまま青年といて夕暮れになった。青年がミヤを食事に誘った。ミヤは嬉しかった。それから一緒に酒を飲んだ。
そして病院に帰る途中青年がミヤの手を握った。昼間あんなに饒舌だった青年が別人のように寡黙になった。手を握られたミヤは驚いたがそれを拒まかった。
「あなたを好きになっていいですか?…… 僕は」
と青年医師が真剣な顔でミヤに言った。
「わたし。嬉しいです」
身体を少し震わせながらミヤが答えた。青年がミヤの唇を求めた。ミヤが反射的それに応じた。狂おしい瞬間だった。ミヤの吐息を青年が吸い込んだ。
青年がタクシーを呼んだ。タクシーは病院とは別な場所に二人を案内した。
二人の恋の始まりだった。いやその恋は青年とミヤが会った瞬間にもう始まっていたのかもしれない。二人は身悶えするほどの熱い恋の虜になった。ミヤにとって青年は全てになった。かけ替えのない心の支えになった。
――それは窓に水滴のつく雨の日だった。梅雨の頃だ。ホテルのベッドに二人は裸で寝ていた。白いシーツが二人の裸体を包んでいた。
「あなたはいったい何者なんでしょうねえ」
天井を見つめえてぽつりと青年が言った。
「わたしは、そう。きっと時の彼方からやって来たのよ」
青年が軽く受け流した。ミヤはベッドの中で青年の肌に光るペンダントをなんとなく眺めていた。
と、突然ミヤが真剣な顔になった。ハッとしたように身を起こす。ペンダントを手に取り、見つめながら青年に尋ねた。
「このペンダントどうしたの?」
ミヤがペンダントを凝視している。
「ああ、これ。これは僕の二十歳の誕生日に母さんから貰いました。母さんからのプレゼントなんですよ」
それを聞いたミヤが突然ひどく取り乱した。
「も、もしかしてあなたの母さん。由佳という名ではない?」
「えっ。なぜ母の名をあなたが知っているんです? いったいどういう事です?」
青年が不思議な顔をしてそう言うと、見る間にミヤの顔から血が引いていった。五体を砕かれ、心までボロボロに引き裂かれたようなミヤの表情だった。目から光るものが止めどなくこぼれ落ちた。泣き声さえ掠れる。
青年がその様子を見て身を硬直させた。何がなんだか判からない。
――突然ミヤの心にあの時の事がはっきりと思い出された。
かつて夫だった男と別れる際に男に親権を奪われ、泣きながら小学生の娘に送ったあのペンダント。それはミヤの心のこもった銀のペンダントだった。
ミヤはタイムスリップと言う言葉を呪った。ミヤは逃げるように無言でその部屋を出て行った。行くところもないのに。
――シンドウ・ミヤは失恋の果て。渓谷の崖の上から身を踊らせた。
了
ミヤの結末 松長良樹 @yoshiki2020
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