王国編
三者三様異世界行脚 #1
――儀式は失敗した。
息を切らせながら、シャーリィ・ジュード・オブスキュアは必死に走っていた。
こうして精一杯全力疾走するなど、たぶん百年ぶり――うんと小さい時以来だった。
心臓がずきずきと痛み、肺は苦しげに身をよじる。
樹木の根っこがそこかしこで盛り上がり、足を何度も取られそうになりながら、それでもシャーリィは足を止めなかった。
――失敗、してしまったのだ。
じわりと、目尻に涙が浮かび上がる。
手順は何も間違っていなかったはずだ。この身に宿れる
なにがいけなかったのだろう。強いて言うなら、儀式の際に、この身に流れ込んで消費された精霊力の量が、想定を遥かに超えていたのは確かだ。だがそれはシャーリィの高貴な血に宿れる魔力の許容量が極めて大きかったことを示すものであり、決してマイナス要因などではなかったはずだ。
英雄召喚の儀。
異世界の英雄をこの世界に召喚する、オブスキュア王家の魔法奥義。始祖アウラリスと同じく金髪碧眼の先祖返りのみが執り行える奇跡の具現。
だが、儀式が完了し、爆発的な魔力の奔流が収まった後も、祭祀場に異界の英雄は現れなかった。
「……っ」
脇腹が痛くなってきた。
――どうしよう。どうしよう。
頭はぐるぐると空回りするばかりで、何も有効な手立てが思い浮かばない。
儀式の失敗とほとんど時を同じくして、シャーリィは自分たちが“敵”に取り囲まれていることを察した。
何もかも手遅れだった。
ここまで伴をしてくれた騎士リーネ・シュネービッチェンが、ただひとりで“敵”の大群を引き付けていてくれている。
ああ、リーネ。どうか無事でいて。あなたがものすごく強いのは知っているけれど、あの数を相手にたったひとりで本当に大丈夫なのか。私を逃がすための嘘なのではないか。
ぶんぶんと首を振って、弱気な考えを振り捨てる。私が私の騎士を信じないでどうするのだ。リーネが大丈夫と言ったなら絶対に大丈夫なのだ。
だから、とにかく、生きて、逃げ延びないと。“敵”をすべて倒して、再び私の姿を目にした時、私が死体になっていたら、きっとリーネは一生立ち直れなくなってしまう。生きないと。逃げないと。
――だけど、生き延びて、それからどうする?
その考えにぞっとした。
英雄召喚は失敗した。つまり、シャーリィにはもう、オブスキュア王国を救う手だてが、ないのだ。
冷たい絶望が、足に絡み付き、萎えさせる。
二、三歩、惰性で脚を進め、糸が切れたように膝をつき、その場に崩れ落ちた。胸がひくつき、唇が震える。
背後から、軽い地響きとともに、“敵”が追い付いてきた。鉄が擦れる音が付随する。濁音の多い言語で一言二言喋ったのち、ぐつぐつと何かが煮立つような声でシャーリィを嘲笑う。
神代より続く、この世で最も古きエルフ王朝の末裔としての誇りが、辛うじて体を動かした。
そうだ。泣いてなんてやるもんか。せめて、“敵”を睨みつけながら死んでやる。
恐怖で力の入らぬ体を叱咤し、シャーリィは、後ろを振り向いた。
●
フィン・インペトゥスは、自らを全方位から取り囲む驚異の数々に、その神聖さすら宿る苔むした大樹の威容と美しさに、少し泣いた。
――なんて。
大きく丸い瞳から、ひとすじ、透明な雫が零れ落ちる。
――なんて綺麗なところなんだろう。
世界はカイン人の汚濁に蝕まれ、天然の植物などフィンが生まれる前に絶滅したと、歴史の本には書いてあった。
黒と灰色の荒野がどこまでもつづき、ぽつぽつと鈍色のアルコロジーが点在する。それがフィンを取り巻く世界の現実だったはずだ。
ならばこれは夢なのか。
ゆっくりと首を振る。
夢とは記憶から作られる。では、この軽く蒼みを帯びた大気はなんだ。大樹の根に紛れて点在する、半透明の結晶質で形作られた花のようなものは。そして、たまに空中をゆらめくように漂う、多数のヒレを備えたあの生物は。
いずれもフィンは初めて見る。だからこれは記憶を再構成して作られた夢などではない。
そう教えてくれたのはちちうえだ。ちちうえが言うのなら間違いない。
「……ちち……うえ……」
そう、口の端で呟いた瞬間、フィンの理性は猛烈な危機感を覚えた。いま思い出すのはまずい。立ち上がれなくなってしまう。
だから強引に、他のことに気を逸らした。
「そうだ。みんなにもこの景色を見せるであります」
左手を掲げると、〈哲学者の卵〉が薄く錬成文字を発し、そこから七つの小さな発光体が次々と出てきた。
それらは最初、驚くようにフィンの周囲を飛び回っていたが、やがで心細くなったのか、近くに寄ってきた。
そばで見ると、それは掌に乗る大きさの、小さな軍服を着た、七人の子供であった。
男の子が四人。女の子が三人。
いずれも背中から発光する半実体の翅が二対伸び、細かく振動していた。それに合わせて煌めく粒子が下に零れ落ちる。
「見ての通り、我が分隊は非常事態に陥っているであります。ひとまず点呼を取るであります!」
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