ティラミスの魔法
広い庭園をくまなく周り、たくさんの花を車に摘んで私達は『植物の庭』を後にした。御会計のとき、もう一度おじいさんに会うことが出来た。
私の選んだ花を見ると、「これは、中心街の花屋の人たちが買い取りたがると思っていた物だよ。君はなかなか目の付けどころがいいねぇ」と、褒めてくれた。
南部の花たちは彩も鮮やかで美しいが、庭園の花たちも、生き生きとした美しい色合いの花たちばかりだった。
(またここに来よう)
過ぎていく田園の景色を眺めながら、大きな手応えを得ることができた実感を噛みしめていた。
しかし、一息いれている時間は無い。
これでやっと仕事が始まるのだ。
カフェに戻る途中、私の携帯にアンヌから電話がきた。
「今どこにいるの? カフェの前にいるけれど、誰もいないじゃない」
「花の買い付けに出ているんです」
「なんですって? ネイサンを連れていったの? ――まぁいいわ。エレーヌの居場所がわかったの。彼女はセントラルホスピタルで入院している」
「入院? どうして――」
「道で倒れていたんですって。まだ意識が戻っていないの」
ネイサンはすっと顔色が悪くなった。
「そんな」
「とにかくあなたは、ネイサンを連れて今すぐホスピタルに向かいなさい。いいわね?」
「わかりました」
黙って私にしがみついてきたネイサンの背を撫でながら、私は園田さんをみた。彼は黙って頷いた。
そして、何も言わずに車の進路を病院に向け、アクセルを踏み込んだ。
✻
案内された産婦人科の廊下に、アンヌが一人待っていた。
彼女は私達に気づくと、急いで駆け寄って来た。
「ネイサン! 大丈夫?」
「僕は大丈夫。――ママは?」
「こっちよ」
そこは小さな一人部屋で、ベッドにエレーヌが寝かされていた。彼女の顔は、白いというよりも蒼白だった。側にはスーツ姿の男性が座っていた。彼は、しっかりとエレーヌの手を握っている。
「旦那さん出張中だったみたい」
こそっとアンヌが耳打ちしてきた。
「会社のほうから連絡がいったらしいの。ついさっき到着したのよ」
「――ママ!」
ネイサンが飛び出して行くと、エレーヌはうっすらまぶたを開けた。息子の姿を認めると、ゆっくり起き上がった。
「ママ!」
「ネイサン」
彼女の様子は、どこか朦朧としている。ネイサンを受け止めながら、掠れるような小さな声で言った。
「どうやら、予定より少し早く赤ちゃんが外に出たがっているみたい」
「ごめんなさい。赤ちゃんもちゃんと面倒を見て、しっかりしたお兄ちゃんになるから。元気になって」
「――ネイサン」
エレーヌの瞳から涙が溢れる。旦那さんも二人を穏やかに見つめていた。その様子を見届けると、アンヌは私だけ廊下に出るように目で合図した。
「ほっとしたわ。エレーヌもあの様子なら大丈夫そう」
「ええ」
「で もレイコ。あなた一体どういうつもり? ネイサンをきちんと保護するどころか連れ回して。そもそもソノダはクーロンヌ・ド・フルールにとってはお客様なのよ。そのお客様にお世話になるなんて、言語道断」
「――すみません」
私は深々と頭を下げた。何もかも、アンヌの言う通りだ。
「あなたはプロとしての意識が欠けているわ。このことが他の花屋に知れ渡ったら私は大恥をかくのよ。――申し訳ないけれど、あなたはクビ」
「……え?」
一瞬、言われた言葉の意味がわからなかった。
「他の店にいくか、ニホンに帰るべきよ」
ポカンとしている私に躊躇いもなく、アンヌははっきりと言い放った。
病院から戻る間、私は一言も話せなかった。園田さんは何も言わず、また何も聞かなかった。
カフェに戻ると、薄明かりの静かな店内で私は一人、ぼーっとしていた。
『あなたはクビ』
アンヌの言葉が頭の中をずっとグルグル回っている。
「――とにかく、お花の処理をしないといけないわ」
立ち上がろうとしたが頭がクラクラする。もう一度座り込んでしまった。
コトッと何か置かれた音がして顔を上げると、園田さんが向かいに腰掛けたところだった。
私の前には湯気の立つハーブティー、そして、小さなプレートが置かれている。
四角い、茶色の、可愛らしいケーキ。でも、私は何も受け付けられない。
「今、お腹空いていません」
「まぁまぁ、そう言わずに。ゆっくりでいいからさ。一口入れてみてよ」
それだけ言うと、彼は視線を逸らし、自分の分のコーヒーカップを口につける。
彼は何も言わない。
何か、責められているような気持ちがした。
ちらっとみても、彼は、黙ってコーヒーを飲んでいる。
私はしぶしぶスプーンを取った。たっぷりとココアパウダーがかかった端っこを、ほんの、ほんの少し掬って口に入れる。
すると滑らかなクリームと、ほろ苦いコーヒーの香りがフワっと広がっていく。
「――美味しいです」
「それは良かった」
園田さんは、薄く微笑んだ。そして、自分のコーヒーを一口飲むと、キッチンに戻っていった。
私はもう一口、ティラミスを口に入れる。
――甘い、苦い、甘い、苦い。
辛いことの次にはきっと、良いことが待っている。
そんな気がした。
(落ち込んでなんかいられない。私はまだここで、やりたいことがあるのだから)
顔を上げると、目の前には買ってきたばかりの花たちが待っていた。
私は今度こそしっかり立ち上がった。
そして、仕事に取り掛かった。
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