第5話

3

 アンヌが知っていたかどうかは知る由もないが、ランデブー・ド・リヴィエールは、私の行きつけの川沿いのカフェだった。

(良かった。少なくとも、始めましての人達でなくて本当良かった……)

 しかし安心ばかりはしていられない。家に戻るなり、机の上にカフェの見取り図を広げると、お店のストックの花リストを睨んだ。

(確か、入り口が北側にあって日が差し込まないから寒々しい雰囲気だったんだわ――)

 薄灰色の壁に、焦げ茶色の床。花の都パリのカフェと言うには、いささか地味な装いだ。

(そういえば、まだ何回か行っただけだけど、いつも混み合っていなかった。観光客や、お洒落なパリっ子で賑わっていないところが、むしろお気に入りだったのだけれど――)

 少し古くなったパンを齧りながら、私はその後一睡もすることなく考え続けた。


 夜が明け、窓の外が白み始めるころ、部屋の中の気温はぐっと下がる。余りの寒さで目が覚めた。

「――頭痛い」

 ふらふらとキッチンへ向かって、お湯を沸かす。ケープを身体に巻き付けて、ぼんやりしながら沸騰するのを待った。熱いお湯で、目が覚める程苦いコーヒーを淹れる。啜すすりながら机に戻ると、散乱した筆記用具と一晩考え抜いたお花の図案があった。

「とにかく、やってみるしかないわ」

 言い聞かせるように呟くと、出掛ける準備に取りかかった。


 まだ開店する前のカフェに到着すると、私はそっと裏手に回った。どこかに従業員用の入り口があるはずだ。

(挨拶に伺うには、どこから周ればいいのかしら……)

 壁と壁の間の細い空間には、大きなゴミ箱が幾つも並んでいて、人の気配は全くない。

(入口、無いのかしら……)

「そこの人、この店に何か用?」

 突然声をかけられて私は文字通り飛び上がった。周りを見回しても、声の主が見当たらない。

「こっちだよ、上」

「……上?」

 よく見ると、コンクリートの小さな階段状のものが上に向かって伸びている。その上の踊り場のようなところに男の人がいてこちらを見下ろしていた。

「お客さん、じゃなさそうだね」

「す、すみません。私、クーロンヌ・ド・フルールの者です。フラワーアレンジメントの件で伺いまして……」

 慌てて頭を下げたところで、彼がこの間、面接をしていた日本人の青年だと気がついた。

「フラワーアレンジ……。あぁ、この間オーナーが言っていたやつかなぁ。ちょうどいいや。僕が担当者です。どうぞ、こちらに」

 彼は踊り場のドアを開けると、さっさと部屋に入ってしまった

(……じゃあ、これを登るということね)

 目の前の頼りない階段状のでっぱりを見上げると、私は小さくため息をついた。

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