第26話 マルダレス山 広場3

 山頂へと続く道は、すぐ近くで見れば階段の残骸だ。

 土と木材で段を付け、石畳を敷いて作られた階段。

 

 横幅は、人が十人単位で並べるくらいか。

 山道を行くための通路ではなく、聖なる神殿に向かうための参道として作られていたんだろう。


 階段の両脇には僅かに水が流れる溝が残っていた。

 そこにも白い石がたくさん残っているから、水路としてあったに違いない。


 女神の神殿へと向かう、白い階段。

 両脇の水路には清流が飛沫を陽に輝かせる。

 楢の葉が柔らかな木陰を作り、そこを行き交う敬虔な巡礼と参拝者たち。 


 露出した木材は朽ちて土に還ろうとしている。

  石畳もほとんど剥がれ落ち、往時の様子は想像するしかない。

 穏やかな秋の午後の日差しを浴びて、木も草も、僅かに面影を残す遺構も、うつらうつらと微睡んでいるかのようだ。


 ただ崩れ、自然に還ろうとしている今でも、この場所は十分美しいと思う。


 山頂の様子は見えない。改めて見ればこの山は人工的に整備され、大きな段上の造りになっている。

 段の奥に次に続く階段があり、聖女神殿が見えるのは、最後の段まで登ってからになるという演出なのかな。


 最初の段が広場のある場所。

 これから至るのは二段目。


 聖女神殿の追討戦に関する報告書を思い出してみると、宿坊なんかがあるのは、この二段目なのかもしれない。


 三段目に神殿と一緒に建てるのもなんか変だしな。

 いや、四段、五段目まである可能性もあるか。


 そんなことを考えながら階段の残骸を踏んでみると、ぐらりと揺れた。

 避けて歩いた方が無難そうだ。


 みんなに階段の残骸に気を付けるように指示を出し、先ほどの山道よりずっと急な斜面を登り始める。


 特に会話もなく、半ば程まで到達した時。


 「!」

 先頭を行くユーシンが、無言で右手を閃かせる。


 ぐしゃり、と音がして、現れたクバンダ・チャタカラの胸が破裂した。

 体液をまき散らしながら青草の上に墜落する。

 左手で槍を握っているなあと思ってたら、右手には礫を潜ませていたらしい。


 「おでましか」


 ユーシンの隣でクロムが抜刀する。

 今回、後方からの攻撃はほぼないと判断して、前衛後衛に別れて隊列を組んでいた。

 相手がいくら空中を進めると言っても、一度は頭上を越されるわけだし、見落とすほど小さくも静かでも無臭でもない。


 今も、木の幹にとまっていたらしい群が、堂々と俺たちの「前」に展開していた。


 こいつらには通り過ぎるのを待って「後ろ」から攻撃するという習性がないんだろうか。

 人に飼育されるようになって失った習性なのか、最初からないのか、今はとにかく余裕がなくて、獲物を見つけて飛び出してしまったのか。


 本来の生息地である南方の密林でなら、恐らくこの臭いは目立たない。

 似たような臭いを発する花や果実も多いからだ。


 青と黒で塗りたくられた巨体も、歩行が困難なほど生い茂った低木や竹、つる植物の中なら目立ちにくいし、見つかったとしても獲物ひとは逃げにくい。

 三方から取り囲んで攻撃するって言う知能はあるから、不必要と切り捨てられた動作なのかもしれない。


 魔獣の中には、獲物を恐怖させるのを好む種類もいるらしいけれど、この魔獣にそんな「感情」があるとは到底思えない。


 大都に戻ったら、マーヤー博士に聞いてみたいところだ。

 ただ、あの人研究者としては尊敬しているけれど、ちょっと癖が強いというか、なんというか…二人きりでは会わないようにしよう。


 「数は、さっきのを入れて四匹…やっぱり、それがこいつらのパーティ構成なんだな」


 卵持ちの「乳母」を中心として、身軽に動く兵隊が三匹。

 三方向からの攻撃をかわすことは難しい。理にかなった構成だ。


 相手が、単独なら、がつくけれど。


 ユーシンの一撃で、兵隊は一匹堕ちている。

 残る二匹は左右に別れた。だが、やっぱり動きは緩慢だ。さっきよりも遅いかもしれない。


 「ユーシン、いけるか?!」

 「無論!」


 言いながらも投じた礫が「乳母」の腹を裂く。


 先ほどと同じく、卵を守ろうとクバンダ・チャタカラの意識が零れ落ちる卵に向いた。落ちていく卵を追うのも、さっきと同じだ。


 獲物を嬲り、愉しむ感情はなくても、卵を、これから生まれてくる姉妹を慈しむ心はあるのか。

 それとも、ただ生きるために幼虫を必要とするのか。


 それはきっと、明確な答えは出ない質問だ。


 ただ、はっきりしているのは、たとえクバンダ・チャタカラに「慈しむ心」があったとしても、俺たちは餌になるわけにはいかないってことだ。

 俺達にだって俺たちの命を慈しんでくれる親はいるし、自分の命を差し出す義理もない。


 地上に近付けば、クバンダ・チャタカラに剣を防ぐ手段はない。


 クロムとヤクモが一匹ずつ兵隊を切り捨て、ユーシンの槍が「乳母」の胸を貫いて戦闘はあっけなく終わった。


 「また、卵潰すのぅ…?」

 うええ、と顔全体で拒否を表明しながら、ヤクモが問うてくる。


 「いや、キリがない。先へ行こう」


 俺たちがここを離れれば、戻ってくるまで人は通らない。

 それなら、放置しておいても危険はないはずだ。


 もともと、クバンダ・チャタカラの幼虫は成虫以上に脆い。

 卵から孵ったとしても、夜の気温低下に耐えられないか、鳥の餌になるだけだろう。

 

 食っちゃった鳥が魔獣に変容しないか心配だけど…。


 「さすがに縄張りに入ったか?」

 「ああ。襲撃を避けるのに横にそれた方が良いかもな」


 水路だった溝の向こうは、楢の生い茂る斜面だ。

 さっきの道でみた楢より、根が露出している。


 流れ出た雨がさっきの広場で一度止まるから、広場より下の山肌は水に流されずに、腐葉土が残っているのかもしれないな。


 根が出ていて藪がないというのは、足場に困らないってことだ。

 張り出た硬い楢の枝はクバンダ・チャタカラの飛行を阻害する。

 

 加えて、木陰は日向より気温が低い。

 日向の、俺たちには温かいと感じる場所でさえ、クバンダ・チャタカラにはすでに身震いするほどの低温だ。

 さらに温度が下がる場所に潜んでいるとは考えにくい。


 「出てきたらその都度仕留めても良いがな」

 「その方が安心っちゃ安心だけどな。んー、どうするか」


 とりあえず、道からそれたらどんな具合か、少し行って見てみるか。

 近くの幹に手を掛けて、ひょいとその向こうに進んでみる。


 「おい!一人で行くな!」

 「そんな先まで行く気はないよ」


 とは言え、クロムを振り切ったら(振り切れないけど)後が怖い。

 少し立ち止まって、待つことにした。


 「ん?」

 ふと、鼻が異臭を捉える。


 クバンダ・チャタカラの臭いじゃない。似た系統だけれど、明らかに違う。


 そして何より、俺はこの臭いを知っている。


 「クロム、わかるか?」


 問いかけると、返答より先に表情が答えを返してきた。

 ぎゅっと眉を寄せ、頭に巻いている布の端で口と鼻を覆う。


 「…ああ。あの馬鹿の方がさらにわかると思うが」

 「いや、二人で行こう。…ヤクモに見せたくない」


 「甘いぞ。だが…確かに反吐ブチ撒かれてもウザいな」


 俺も首に巻いていた布を、鼻を覆うように上げる。

 予想が正しければ、臭いの元を見つけた時には、涙が出るほどの悪臭になっているはずだ。


 「ユーシン、ヤクモ!ちょっとこの先を見てくるから、待機しててくれ!」


 俺たちが鼻を覆っているのを見て、ユーシンは何かを感づいたようだ。

 少し顔を上に向け、鼻をひくつかせる。


 「…心得た」


 「え?どしたの?なんかあったの!?」

 「腐臭だ」

 目だけを出したクロムが、吐き捨てるように答える。


 「え…」

 「未帰還の冒険者かもしれない。見えないのにここまで臭うとなると判別は難しいけれど…一応、見てくる」


 もし、麓の村で心配されている馴染みの冒険者なら、事故死なのか、殺害されたのか、クバンダ・チャタカラへの供物になったのかは確認しておきたい。


 クロムと視線を交わし、木の幹を伝い、根を足場に先へと進む。


 手を幹に置くと、蠅が逃げ散った。

 蠅の数が増えるごとに、臭いがきつくなっていく。


 「一人じゃないな…」

 ぽつりとクロムが呟く。一人でも、人間が自然に腐るとひどい臭いを放つ。


 けれど、これは…

 まるで、戦場の臭いだ。


 アスランの戦法では、完全に騎馬兵のみで構成された先鋒隊アルギンが戦局を開く。

 ここがアスラン軍の花形ともいえる部隊で、独自の作戦展開が許されている。

 大雑把な戦略は与えられるけれど、次の目標を攻撃するのに王命を必要としない。


 記録では、五代大王ジルチの将、「有翼の」イントルは先鋒隊だけで三国を抜き、本隊が追いつくのに一年かかったという。


 先鋒隊の後を本隊が、更に遅れて輜重部隊が続き、先鋒隊が突破した敵を潰していく。

 俺は当然ながら先鋒隊に属せるほど強くないので、兵役についたときに配属されたのは本隊だった。


 先鋒隊が蹂躙した後の、戦場だった場所は、この臭いに満ちていた。

 どれだけ風が吹いても、散らしきれず、馬の腹の下に滞るような臭い。


 複数の屍が、腐っていく臭いだ。


 「近いな」


 目が、刺激に潤む。

 涙の膜越しに辺りを見回すと、それはあっさりと見付かった。


 木の根元に引っかかっている、塊。


 「…あまり、見るなよ」

 「ああ」


 見て、気持ちの良いものじゃない。


 全身を黒く覆うのは、蠅だ。

 体が動いて見えるのは、その幼虫が蠢いているからだ。


 ざっと見ただけで、そんな人の亡骸が…いや、亡骸だったものが、五つ。いや、六つ。


 すでに虫や動物に食われ、風雨にさらされて原形をとどめておけなかったのだろう。

 ずっと下の方の根元に、髪を残した頭蓋骨が転がっていた。


 戻ろう、と手で示して、来た道を引き返す。


 ざっと見て、わかったことある。

 あれだけの亡骸が散乱しているのに、衣服の残骸がない。


 服は虫も食わないから土に還りにくく、大抵は亡骸の側に散乱している。

 勢いよく急斜面を転がり落ちたり、水死したのなら脱げることはよくあるが、この程度の斜面でそれはないだろう。


 だけど、麓の神殿側で発見された遺体は、巡礼らしい服を着ていたそうだ。

 なら、あの巡礼は飼育者側だったのかもしれない。


 仲間が消え、探しているうちに、いるはずのない成虫を見つけた。


 飼育場に閉じ込めているはずのクバンダ・チャタカラが外に出ていて、自分たちも獲物になりえると気付き、逃げるなりしたのかもしれない。


 女王のフェロモンがあれば話は別だけど…


 ああ、そうか。もしかしたら。

 飼育者が女王のフェロモンと思っているものが、すり替えられていたら。


 南方の密林じゃ甘い臭いがまぎれるけれど、現地では犬や猿を訓練して、クバンダ・チャタカラの臭いを覚えさせるらしい。

 人間には同じ臭いに感じても、嗅覚の鋭い動物は嗅ぎ分ける。


 当然…クバンダ・チャタカラには、全く違う臭いとわかるだろう。


 同じように、似た系統の臭いのただの香水にすり替えられていたら。

 例えば、左方で使われる、薔薇の香油、とか。

 だけど、何のために?仲間割れ?


 うん。駄目だなあ。今は答えが出ない。いったん保留だ。


 参道に戻ると、空気が透き通って見えた。

 口許の布を外し、まずは大きく吐きだしてから息を吸う。


 「とりあえず、冒険者かどうかは分からなかった。ただ、遺体の状況から見て、かなり長期間にわたって遺棄されているな。白骨化しているのもあったし」


 クロムも同じく布を降ろし、ぺっと地面に唾を吐いた。

 腰のポーチにしまってある薄荷油の小瓶を取り出して、一嗅ぎしてからクロムにも差し出す。

 つんとした清涼感のある刺激臭が、今は鼻にやさしい。


 「聖女神殿に神官が棲みついたのは一昨年とか言ってたか。探せば埋もれた骨も出てきそうだな」

 すんすんと小瓶の中身を嗅ぎつつ、クロムは唾と同じように吐き捨てた。


 「んー、でもさ。クバンダ・チャタカラは冬を越せないから、そんな長期的に密造しているとは思えないんだよな。そうしたらもっと早く、今回みたいな事態になってたと思う」

 亡霊の噂が出始めたのが何時からだったか聞いとくべきだったな。

 ああ、でも、「許しを請う女性の声」がクバンダの蜜を投与された被害者とは限らないか。


 元々、聖女神殿跡地で良からぬことをやっている神官がいて。

 それこそ、盗品や禁制の品や奴隷の売買。南フェリニスから北フェリニスへ抜けさせる密入国密出国の手引きもあったのかもしれない。


 …いや、儲けを考えたら逆だな。

 監視の厳しい国境の川を直接越えるんじゃなく、アステリアを経由して南フェリニスの鉱山へ、奴隷を連れて行った方が金になる。

 鉱山奴隷の帰宅を手助けしても、ろくに報酬を払えないんだから。


 そこに目を付けた『誰か』が、クバンダの蜜の密造と密売を持ちかける。

 羽化や繁殖のことを考えれば、時期は春の終わりか夏の初めだ。


 つまり、ドノヴァン大司祭が「月に一度」この場所に通い始めたころ。


 最初は飼育ではなく、既製品で「お試し」させて、安価に作る方法もあると囁いたのかもしれない。


 春や夏のころには、十日に一度は巡礼たちがやって来ると言っていた。


 そのくらいのペースで供給されれば、十分だ。

 そして、力尽きた亡骸は、山の斜面へと投げ捨てる。


 「なんにせよ、できれば犯人はアスランの国法で裁きたいな。この国の法じゃ、違法薬物の使用やなんかの罪は、そこまで整備されていない」


 そもそも、違法とされてるかもわからない。

 毒物を流通させたって罪で売ってる側は裁けても、使用した側は無罪放免になるかもしれない。


 もちろん、いかがわしい薬に手を出したってことで、神官としてはもうやってはいけないだろう。

 けれど、実家に戻ってのうのうと暮らすことは出来てしまう。

 家の恥として、事故死や病死する可能性も高いけれど。


 クバンダ・チャタカラの存在を知っていた以上、大神殿の神官たちが無関係という事はない。


 「なあなあにせず、罪人としてキッチリと引導を渡したい。

 無事遭遇してこっちに武器でも向けてくれれば、そこらへんから引っ張れるかな」

 「そりゃあな。クバンダの蜜を作ったことより重罪にできるだろ。一番軽くて馬裂きだ」


 「馬を裂いちゃうの?可哀相じゃない?って言うか、なんで馬?」

 「馬を裂くんじゃない。馬で裂くんだ。両手両足をそれぞれ一頭ずつの馬に結んで、別方向に走らせる。四肢のどれが最後まで残るか、賭けの対象になるしな」


 顔をひきつらせて、ヤクモは首を振った。

 「こわいよ!やっぱアスランてこわいよ!」


 「そうされるだけの罪なんだから仕方ないだろ。武器を向けるってことは、ぶっ殺すぞって宣言なわけだ。下手すりゃこっちは死ぬんだぞ。もちろん、させんがな」


 ふん、とクロムは鼻を鳴らし、薄荷油の小瓶を再び鼻に近付けた。

 まだ臭いらしい。


 「…そんな、たいへんな感じたったの?」

 「ざっと見て、六人。それで全部とは、思えない」


 きゅっとヤクモの顔が歪む。

 「みんな、虫に食べられたのかなあ…」


 「もう、腐乱が進んじゃって判別はできなかったけど…その可能性は高いな。けど…」


 「けど?」

 「杜撰すぎる」


 猪をしとめたのが語り草になるくらいだから、あの村の猟師は大物をしとめる方じゃなく、ウサギや狐、鳥が主な獲物なんだろう。

 だから、山の上まで登らず、広場辺りが主な猟場だとは推測できる。


 けれど、亡霊の声を最初に聞いたのが猟師だったように、このあたりまでやってこないわけじゃない。


 今は村長さんが禁じているけれど、未帰還者が出る前なら…やってきた猟師や樵に、腐臭を気付かれててもおかしくはない。


 「と、なると、やっぱりだいたい一月前…その頃になんかあったな。

 たぶん、遺体の扱いも以前はもっと慎重だったはずだ」

 「仕切ってたやつが逃げたか?」

 「その可能性はある」


 「え?どゆこと?」

 「クバンダ・チャタカラの飼育開始が春の終わりから夏ごろと仮定して…一人で大体4匹から6匹のクバンダ・チャタカラが孵化する。成虫は幼虫の分泌液でしか栄養が摂れないから、常に幼虫が孵化する環境を整えていなければ、群はすぐに餓死する。寄生された人が生きていられるのは五日から長くても十日。最低、五日に一人は犠牲者を増やさなくちゃ群れの維持は難しい」


 「うん。だから、どゆこと?」


 「要は死体はもっとあるはずだってことだ。で、それをこうやってポイポイ投げ捨ててたら、もっと前に気付かれちまうだろ」


 またもやクロムが言いたいことを要約してくれる…。

 うん。いいんだ。必要なことだし。


 少しぼんやりした顔をしていたユーシンが、クロムの説明にふむ、と頷いた。


 「鴉なども騒いだであろうしな。だが、村の者たちはそのような事はいってなかったな」

 「だから、もうちっと頭の回る奴がしばらく前まで仕切ってて、死体の処理もちゃんとしてたんだろ。

 それが、今は適当だ。仕切りが変わったとしか思えん」


 おそらく、最初に仕切っていたリーダー格は、こうしたことに手馴れている。

 密売のルートやなにかを設定したのもそいつだろう。


 いくら心底腐っていても、一介の神官にできることとは思えない。


 盗賊ギルド、なんてのは噂話の中だけの存在だろうけれど、素人の闇商いを裏稼業の人間が嗅ぎつけないはずはない。

 そうすれば、冒険者や傭兵の斥候たちの耳にもはいっただろう。

 現にコルムは、クバンダの蜜が出回っていることは聞きつけていたんだし。


 「そいつが魔族召喚を企んでいるのか?」

 ユーシンが首を傾げる。


 死体を丁寧に隠匿する魔族崇拝者と言うのは、たしかにどうもピンとこない。


 「魔族召喚ってのも、俺が勝手に仮説を立てた最悪のパターンだけどな。

 んー、やっぱり、商売にしていた連中と、魔族の召喚を試みるような奴は別じゃないかと思うんだ」


 「あ、その事なんだけどさ、ファン」

 ヤクモもユーシンに習ったように首を傾げた。


 「その薬?をずっと飲んでると、魔族になっちゃうかもって、皆知ってることなの?」

 「へ?」

 「だからさ、あの継母の林檎のはなしみたいに、ファンの中では常識でも、フツーは知らない事っていっぱいあるじゃない。

 あの蜂オバケを連れてきたようなヤツなら、知ってること?」


 「多分、ほとんど知られてない」


 クバンダの蜜は、確かにチュレルの神降ろしの儀式に使われる。

 けれど、現在ではチュレルの神殿自体がほとんどない。


 あるとしてもひっそりと、密林の奥に人目を忍んで建てられているとか、街の地下に潜んでいるか。


 逆に言えば、「知っている」なら…それ自体が仮説の証明になるだろう。


 「じゃあ、魔族召喚はないのか」

 若干がっかりした様子でユーシンが口を挟む。


 「いや、ない方が良いだろ。どう考えても。本当に魔族が召喚されたら、俺たちの手にはあまりまくるぞ」


 魔族の強さは幅が大きい、らしい。


 けど、一番弱くても小さめの町なら一日かからず全滅するし、地方軍なら手も足も出ない。

 戦士、魔導士、神官が適切に割り振られた小隊を複数用意して、少しでも消耗したらスイッチ、これを繰り返して討伐するのが基本だ。


 もちろん、規格外の強者と言うのはいるので、一人で魔族と渡り合えるような人もいるにはいる。


 だけど、敗北は直接その地域の壊滅を意味するから、確実に討滅すべく単独ソロで魔族に挑むなんてことはしない。

 うちの兄貴だってやるなら一軍を率いていくだろう。


 「ファンのよけーな心配だったってことでいいの?」

 ユーシンと違ってヤクモは嬉しそうだ。

 むしろこっちが普通だろう。魔族と会いたい奴なんていない。


 「いや、いるとは思っておいた方が良いだろうな」

 答えたのは、クロムだった。


 ようやく落ち着いたらしく、薄荷油の小瓶を返してくる。

 虫除けの予備にって思ったんだけど、持ってきてよかったよ。


 「なんでぇ!?」

 「勘だ。何となくヤバい気がするってだけだがな」


 「うん。いなきゃいないで良いんだ。でも、もしいたら、予測できず不意を突かれるのが一番怖い。最初の一瞬で全滅なんてこともあり得るからな」


 こちらで初手で殲滅を狙うなら、あちらだってそうだ。

 それに、偶然で片付ける方が不自然なほど…状況証拠は揃いつつある。


 クバンダの蜜。偽りの神託。

 ただ一人山頂へ向かった大司祭。


 そして、女神の矢を託された俺たち。


 「じゃあ、じゃあさ、魔族いたらどうするのぅ?」

 「馴染む前に倒す」


 「馴染む、前?」


 「一番いいのは、召喚の儀式そのものを潰すこと。

 まずはこれを目指す。魔族召喚なんてものが本当に企まれているならな。もし、呼ばれてしまったとしてもだ」


 異界の門をこじ開けて、神々の妨害を突き破って魔族を召喚するのは、そう簡単にできることじゃない。


 それなりの儀式が必要だ。


 当然時間もかかるし、おそらく満月が登るまでは開始されない。

 ここに俺たちが付け入る隙が発生する。


 ただ、儀式を経ずとも魔族が現れた記録は、残念ながら、ある。

 複数の条件が適えば、奴らは人間の手引きがなくても異界の門から侵入してきてしまうのだ。


 今回は、召喚を企んでいる奴がいなかったとしても…条件がそろっている。


 むしろ、儀式の阻止と言う一番安全確実な妨害ができない分、危険だ。

 だが、もしそうなったとしても、希望がないわけじゃない。


 「奴らは呼ばれてすぐに自在に動けるわけじゃない。器が馴染み、完全に魂の支配権を奪い取るまではまともに動けない。まあ、これは神も同じ、なんだけど」


 「…問題は、あの爺さんがどれほど自我を保てるかだな。ガンギマりなんだろ?」

 「麻薬に溺れていても、信仰心は…保てると思うんだけどな。あまり期待しないでおこう」


 「あ、きっとそこで女神さまの矢を使うんだよ!ぴかーっ光って、撃ったら魔族だけ射貫いて、大司祭様正気に戻るみたいな!」


 「そうだと良いんだけどなあ」

 本当に、そうだと良い。


 いくら穢されていても、女神アスターの力が強い場所だ。

 女神がなんらかの手助けをしてくれる可能性もある。

 敬虔な使徒を救い、魔族を滅ぼす為ならありえるだろう。


 …過度な期待はしないけど。神頼みは、もっと困ってからだ。


 「さて反対側も同じ状況なら…この道を登るしかないな」

 「いきなり腐乱死体踏むのは御免だな。それならバケモノを潰しながら進んだ方が良いだろ」


 クロムの顔には、あんな臭いもん二度と嗅がすな!と書いてある。

 実際、腐った死体と言うのは病の苗床みたいなもんだ。

 近付かなくて済むならそうした方がいい。


 「うん。このまま進もう」


 「待て。死体を両脇に投げ捨てているのは、その為と言うことはないのか?」

 珍しく、ユーシンから「待った」が掛かる。


 「えっと、どういう意味だ?ユーシン」

 「臭い場所には好きこのんで人は近付かん。

 つまり、この道を通る。進軍路が敵に決められるのは良くない事だ」


 「あ…」

 そっか。その可能性もあるか。


 「え?なになに?」

 「この道以外を通って接近するのを防いでるってことだよ。ここからくるのがわかれば、伏兵や罠を仕掛けられるからさ」


 さすがユーシン。戦術眼は俺なんかよりずっと上だ。


 「…まあ、その可能性も、あるな」

 どうでもいいことのように呟いているけど、クロムも言われてその可能性に思い至ったんだろう。


 「じゃあ、どすんの?」

 「うむ。このまま登ろう!」

 きっぱりとユーシンは告げ、ヤクモは頬をひきつらせた。


 「え、ええ?じゃあ、なんで待ってって言ったの?良くない事じゃないの?!」


 「伏兵は、あると判っていればむしろやりやすい。地の優位は敵方にあるが、それだけだ。踏みつぶせばよい!」

 「ま、馬鹿の言うとおりだな。高所に布陣されるのは面倒だが、差し引いても雑魚は雑魚だ」


 「強い人いたらどーすんの!」

 「楽しい!」


 一点の迷いもなく言い切ったユーシンに、ヤクモががっくりと肩を落とす。


 まあ、ユーシン以外には楽しくないからなあ。

 俺もできれば御免こうむりたい。


 けど、この先、待ち伏せするほどの人数が待ち構えてるだろうか。


 俺の疑問を感じ取ったのか、ユーシンは道の先を見つめた。

 天色の双眸が猛禽の鋭さを帯びて、その先にいるであろう敵を捉えようとしていた。


 こうしていると、本当に顔きれいだなあ。

 女の子たちがキャーキャー言うのも無理はない。


 「…敵の気配は、ないな」


 「そっか。でも、用心に越したことはないな。クロム」

 「ん?」

 「この先、戦闘の指示はユーシンにも任せる」


 うわ、露骨に嫌そうな顔。


 けど、戦闘のセンスに関しては、俺より断然ユーシンのが上だ。

 不意打ちに気をつけなきゃいけないわけだし、最適解だと思う。


 「…それは、命令か?」

 「命令と言うより、指示だな。ユーシン、不意打ちを受ける予感がしたら、間違いでもいい。クロムに合図を。クロムは、それを受けたら全力で。いいな」


 「俺は構わん」


 「…御意」

 ものっすごい不貞腐れた顔でしぶしぶ言われてもなあ。


 「よし。じゃあ、隊列は今までと一緒だ。先に進もう。クバンダ・チャタカラにも警戒を」

 「えっとさ、相手の言うこと聞くわけじゃないんだよね?あのハチおばけ」

 「襲われなくなるようにはできるけど、操ることは出来ないはずだ。ただ、敵方にテイマー能力があるやつがいれば、わからない。できるのかも」


 ただ、そんなケースがあれば、資料に乗っていてもおかしくない。

 全部読んだなどとはさすがに断言できないけれど。

 俺が見た範囲じゃ、なかったと思う。


 「一緒に出てきたら、困るよねぇ?」

 「乱戦になったら、敵味方構わず麻痺毒を発射してくるだろうし…条件的にはあまり変わらないんじゃないかな」


 「乱戦になったら、お前がファンと組んでバケモノ倒せよ」


 「え」


 「え、じゃない。人間の破落戸相手は俺たちがやる。お前はファンが接近されないようになんとかしろ。アイツの弓で落とすのが手っ取り早いだろ」


 「うん!ぼく、頑張るよ!さっきも、ちゃんと倒せたしね!」

 ぐ、とヤクモは握りこぶしを作った。


 その様子を見て、僅かにクロムの頬が緩む。

 まあ、なんだかんだ言って、クロムも弟分が可愛くないわけはないんだよな。


 素直じゃないだけで。


 「身を粉にして働けよ」

 こん、とその拳に自分の拳を当て、前へと向き直る。

 あとはもう、さっさと歩きだした。


 あれは、自分でやっといてちょっと照れてるな。まあ、言わないでおこう。


 「さ、俺達も行こう」

 「おーう!」

 元気に返事をして、ヤクモは先を往く二人の背中を追いかける。


 さて。この先は本当に気を引き締めてかからないとな。


 矢筒を開け、一本、矢を抜き取る。

 シドウの大弓に合わせた、アスラン製の矢だ。


 女神の矢だって、大変に貴重な品ではあるけれど、俺のこの弓と矢も、負けてない。


 弓は俺の成人の祝いにと、うちの祖父ちゃんの代から、俺たち一家の弓を作ってくれているお爺が、生涯最後の一張りと打ってくれたものだ。


 矢は、その曾孫で俺の幼馴染が作ってくれた。

 材料になる鏃は、母方のはとこが。


 皆、俺の勝利を願って作ってくれたんだ。


 まあ…矢の残り本数を考えると、節約したくはなるけど。

 出し惜しみをしている場合じゃないな。


 左手に弓と矢を纏めて持ちながら、三人の背中を追いかけた。


***


 その、備えも虚しく。

 斜面を登り切るまで、伏兵も待ち伏せも罠もなかった。


 拍子抜けするほど何もなく、斜面は終わり、平坦な場所に出る。


 先ほどの広場よりは狭い。


 しかし、先ほどとは違い、ここにははっきりと、人の暮らしがあった形跡が残っていた。


 立ち並ぶ、廃墟。


 それほど大きな建物はない。

 二階建てか平屋で、館とかお屋敷と言えるような規模のものはない。


 どの建物も、壊されて瓦礫になっているのではなく、誰も住まなくなって静かに朽ちて行っているように思えた。


 屋根や壁からは青草が芽を出し、蔦が門や窓を塞ぐ。

 元は手入れされた庭だったであろう場所に小さな薔薇が咲き、往時の様子を辛うじて伝えている。


 「多分ここは、参拝者の為の宿屋や食堂だったんだろうな…」


 多少金に余裕がある巡礼や参拝者は、ここで泊って夜明けに間に合うように神殿へ向かったのだろう。


 一番近くの廃墟は、白い壁に赤い屋根の小さな建物だ。

 門柱だったらしい石材は崩れ、足元に大きめの木材が横たわっている。

 風雨と虫や黴、茸類によって土に還ろうとしている表面に、僅かに白い模様が見えた。

 よく見れば白馬だ。白馬亭って言う宿か食堂だったのかもしれない。


 ここは、墓地だ。


 嘗ての繁栄と、賑わいの墓地。その墓標として、朽ちていく建物たちがそびえたつ。


 だが、その建物の墓場を貫くように、道がある。


 道は、人か獣が通らなければ、やがて草に呑まれる。

 さっきの広場でも、草が緑に染めていなかったのは、石畳が残る場所だけだ。


 だが、ここは違う。

 土が、露出している。


 「どう思う?」

 「最近まで誰かが行き来してなきゃこうはならないよな」


 幅は、俺たちがこのまま進めそうなくらい。

 つまり、男二人が十分な間隔を維持して通れる広さ。


 草が刈られている様子はない。

 ただ単に、ここを通るものの足で踏み固められ、草が芽吹かない…そんな感じだ。


 「なら、ここに間抜けがいるってわけだ」


 クロムが音もなく剣を抜く。

 だが、人の気配は今のところない。

 ユーシンも槍の穂先を下げ、辺りを伺うが何も捉えていないようだ。


 「建物で隠れながら進もう。道で鉢合わせはしたくない」

 「うむ。その方が良いだろうな!」


 白馬亭(仮)の崩れかけている壁伝いに、道から離れて山林へ近づく。この辺りでは腐臭は感じない。


 「広場の端から、下に向けて投げ落として捨ててたんじゃないか」

 ちらりと斜面の下を見ながら、クロムが呟いた。


 「なんでそんな、酷いことするんだろう…」

 「もう死んでりゃ痛みもクソも感じないだろ」


 「そーだけどさぁ…」


 「生きてる時からモノとして扱ってるような連中だ。

 そいつらも問答無用でぶっ殺されても文句はないだろ。

 人様を粗末に扱うんだ。テメェがクソ扱いされる覚悟はできてるだろ」


 俺からでは、クロムの背中しか見えない。

 けれど、口の端を持ち上げているのが何だか分かった。


 「ま、覚悟があろうとなかろうと、クソはクソだがな」

 「違いない」


 そしてユーシンもきっと、同じ表情をしている。

 顔は似てないけど、こいつら親戚だなって、たまに実感するんだよなあ。


 建物伝いに奥へと進んでいくと、前を往く二人の動きが止まった。

 そのまま、静かに、ゆっくりと、しゃがみこむ。


 半壊した壁の隙間から先は見えるが、生い茂る草…よく見れば、本来庭に植えられる園芸植物だ…に隠されて、反対側からは良くよく目を凝らさなくては見えないだろう。


 ヤクモの肩を叩き、俺達もゆっくりと二人に習って膝を折り、身を屈める。


 草の葉の隙間から、二人の視線の先を追うと、他の廃墟より大きな建物があった。


 あきらかに、周囲の建物とは違う。

 屋根や壁に穴はなく、庭は荒れ放題だが建物自体は修繕されている。


 つまり、誰かが住んでいる。


 こちら側から見えるのは、どうやら裏庭に面したポーチのようだ。

 敷石も庇も健在で、ドアも外れたり倒れたりせず嵌っている。


 そのドアが、開いた。


 中から出てきたのは、一言で言えばだらしない男だった。


 緩んだ体にシャツを羽織り、ズボンもよれてずり下がっている。

 顔も無精髭に覆われ、清潔感とは程遠い。出来れば近付きたくない手合いだ。


 男はよたよたと、俊敏性の欠片もない動作でポーチの端まで行き、ズボンに手を掛けた。


 くるり、とクロムとユーシンがこちらを向き、俺とヤクモは下を向く。

 これから行われることは当然予想がついたが、ものすごく見たくない。


 しばらくそうしていると、ドアが再び開き、閉まった音がした。

 …もう、顔を上げても大丈夫だろう。


 「…あれが、ここにいるって言う神官だと思うか?」

 「思いたくないなあ…」


 神官なら人里離れた山奥でも清潔にしていろとは言わないけれど。

 ラヤ教の千日行なんかは最終日には人より獣に近くなっているし。


 というか、さっきの男に微妙に見覚えがある気がする。


 「どっかで見た気がするんだよなあ…」

 「ええ~?あんなのとどこで知り合ったのぅ?」

 「知り合ったってんじゃなくて、見た覚えがあるというか…」


 街中って可能性もあるけれど、流石に街中ですれ違っただけの相手の顔は覚えない。

 とすると、多少なりとも言葉を交わしたとか、なんかやってて目についたとか、だよなあ…


 無精髭はなかったかもしれない。その辺も踏まえて、記憶をほじくり返す。


 「あ」


 「思い出したのか?」

 「前に、ギルドで見かけた。アンナさんに、報酬の事で絡んでいたような…」


 「同業者ぼうけんしゃか」

 クロムの笑みが、凄絶な怒りを帯びる。


 「なるほど。未帰還つっても、被害者とは限らんな」

 「…その可能性、考えてなかったけどあり得るな」


 クバンダ・チャタカラ自体は、落ち着いて対処すればゴブリン退治を引き受けられる程度の腕前で倒せる。

 襲われて、返り討ちにしたところで飼育者が口封じの代わりに仲間に引き込んだ、というのはありえそうだ。


 「神官以上に、冒険者に清廉な人格を求めるわけにはいかないからな」


 「いやーな人と、いるもんねぃ。ぼくも思い出してきたよ。コルムに酷い事いったやつだ」

 「ほぅ?クトラの猿でも言ってたか?」

 「うん。そんなとこ…って、ぼくが言ったんじゃないんだからね!?その顔やめて!こわい!」


 仲のいい冒険者や、アンナさんたちと過ごしていると忘れがちになるけれど、アステリアは排他的なところがある。


 アスランの隣国とは言え、文化交流はほとんどなかった。


 まあ、農業国って言うのは、他の国でもそうなんだけれど、基本的に異人種や異文化を恐れる。


 特に、遊牧民が隣接する地域にいる場合は。


 逆に遊牧民は人種をあまり重要視しない。

 何故なら、人間も略奪対象の一つであり、血が混じることを気に掛けないからだ。

 能力が高い、もしくは見目麗しい男女がいれば、自分たちの中に取り込むことを厭わない。


 その習性は、奪われる側としては脅威だ。


 結果として、長年遊牧民アスランの脅威にさらされてきたアステリアやフェリニス、カーランでは遊牧民を蛮族と呼び、嫌う傾向がある。


 先祖代々の土地を大切にする彼らから見れば、遊牧と言う生き方自体劣っているように見えるのだろうし、いろいろと奔放な部分は受け入れがたいんだろう。


 今ではアスランも周辺諸国を略奪して回らないし、自分の国に対して言うのもなんだけれど、文化や教養の水準で言えば、大陸でも屈指のレベルになっていると思う。

 交易によってアスランと関わりを持つ人も増え、野蛮な馬賊ヒャッハー集団という印象はだいぶん薄れた。


 けど、アスランやキリク、そしてクトラの民に対して、自分たちよりも劣った人種だ、と言う偏見を持つ人がいなくなったわけじゃない。


 まして、その劣っている人種が自分より良い暮らしをしているように見えれば、面白くないんだろう。


 だからって、悪態を吐いていいわけじゃないけどな。


 「どうする?」


 放っておいて先に進むか。接触してみるか。


 「万に一つも可能性はないとは思うけれど、満月花を取りに来てクバンダ・チャタカラに襲われて避難中かもしれない」

 「ねぇだろ」

 「いや、ないとは思うけどさあ。なんで、とりあえず突入しよう。飼育者側についたんなら、情報を聞き出せる」

 「アスラン式にか?」


 「…場合によっては」


 に、とクロムの頬が歪む。

 「御意」


 ドアの方に視線を戻し、クロムはしゃがんだ時と時と同じくらいゆっくりと立ち上がった。


 「鍵がかかる音はしなかったが、基本的に突入でいいんだな?潜入ではなく」

 「不意をうてるならそれに越したことはないけどな」


 「面倒くさい」

 「同感だ」


 半ばより穂先近くに槍を持ち替え、ユーシンも立ち上がる。


 二人は、野生の雪花豹イルスのようにしなやかに進んでいく。

 足音や装備の音は一切しない。


 「俺達も行こう」

 「うん!」


 前を往く二人よりは賑やかではあるけれど、極力音をたてないように立ち上がり、後を追った。


 近付いてみると、ポーチは手入れはされておらず、落ち葉や木の枝、埃がひどい。


 それに何より…鼻を打つ悪臭。

 腐臭ではあるけれど、肉が腐る匂いじゃない。

 生ごみの臭いだ。もっと言えば、下水の臭いだ。


 顔を顰めつつ、ユーシンがドアノブに手を掛ける。


 ちらりと、こちらに視線が向く。応えて、頷いた。


 静かにユーシンの手がドアノブを回す。

 抵抗もなく、その動きに合わせてノブは回転した。


 ドアは内開きだ。扉に張り付くようにして、肩でユーシンはドアを押す。


 開かれた空間から漏れ出す、悪臭。


 そこは、どうやら台所だったようだ。

 テーブルと椅子が乱雑に置かれ、食器棚が壁を埋めている。

 かつては瀟洒な食器が収まっていただろう場所は、今は何もない。


 テーブルの上にはうずたかくゴミが積み重なり、虫が蠢いている。

 床や椅子の上にも、もぞもぞと白いそれが這いまわっていた。


 似てはいるが、小さい。ごく普通の蛆虫だ。

 クバンダ・チャタカラの幼虫じゃない。


 床にも恐らく食べ残しだったのだろうゴミや、倒れて床に染みを作っている酒瓶が転がっている、


 「!」


 そのゴミに混ざるようにして。


 女の子が、転がっていた。


 年のころはヤクモや聖女候補の子たちと同じくらいか。

 服は何も身に着けていない。


 肌は所々変色し、体液や何かがこびりついて汚れている。

 投げ出された手の指は何本か、あり得ない方向に曲がっていた。

 その体に、不自然な瘤はない。

 上を向いている目も、両方とも眼窩にはまっていた。


 クバンダ・チャタカラに寄生されてはいない。


 ただ、とても酷い扱いを受けたことは一目瞭然だ。


 けれど、彼女はもう何の苦痛も感じていないだろう。

 半分ほど開いた目の上を、蠅が這いずり回っても、瞬き一つしないのだから。


 ユーシンとクロムの肩を叩き、その間を進む。

 クロムが止めようとしたのは気が付いていたけれど、あえて無視して足を進ませる。

 慎重にテーブルやごみを避け、彼女の傍まで。


 微かな期待を込めて、右手の手袋を外し、細い首に指をつける。


 何の動きも熱も、なかった。

 既に硬くなり出している。おそらく、こと切れたのは昨夜か今朝くらいだろう。


 蠅を追い払って瞼に手を掛け、降ろす。

 完全には閉じなかったけれど、見開いた目の上を蠅に動き回られるよりはいいよな。死者であっても。


 うん。これで確実。

 この先にいるのは、「敵」だ。


 彼女の先に、更にドアがあった。ここが宿屋なら、おそらく食堂へ通じるドアだろう。


 「クロム、先頭に。盾を使うかもしれない」

 「御意」


 「ユーシン、正面以外の警戒を。ヤクモ、ないとは思うけれどバックアタックを警戒してくれ」

 「心得た」


 こくん、とヤクモは頷いた。目が潤んでいる。

 悪臭にじゃなく、年の変わらない少女の無残な死に対してだろう。


 ああ、ヤクモはこういう遺体を見るのは、多分はじめてだものな。


 もしかしたら、この先にもっと悲惨なものを見せてしまうかもしれない。


 きっと、それをヤクモもわかっている。

 それでも、ヤクモは前を見ている。


 なら、遠ざけようと、見せまいとするのは、過保護だろう。

 ヤクモだって、こんなことをした馬鹿野郎に怒っているのだから。


 「いくぞ」

 呟いて、クロムは足を上げ。

 思いきり、ドアを蹴り飛ばす!


 「!!!?」


 思った通り、そこは食堂だった場所だ。


 台所にあったそれよりも重厚で高級そうなテーブルと椅子に、毛足の長い絨毯。

 長椅子ソファやサイドテーブルがあるのをみると、食堂兼談話室だったのだろう。


 だが、今は汚れ、埃を被り、穢されている。


 そうでなければ、今、間抜けな顔でこちらを見ている男二人など、場違いすぎて居ることも許されない。


 一人は、さっき出てきた男。

 もう一人は、長椅子でだらしなく寝そべる男。

 こちらも染みと皺だらけの服をはだけて、垢じみた肌をさらしている。汚い。しまえ。


 その男の足元に、膝に顔を埋めるようにして座っている女の子が、二人。


 のろのろと顔を上げ、こちらを見て。

 たすけて、と、その口が動いた。


 「な、なんだテメェら!」

 さっき出てきた方の男が喚く。

 声は、思っていたより随分と若い。荒んでいるだけで、まだ十代なのかもしれない。


 男の濁った視線が俺を見る。にたあ、と喚いていた口が緩んだ。


 「お前ら、あの女に媚び売ってる連中か!」


 あの女?

 疑問が顔に出ていたのか、唾を飛ばして男は言葉を続ける。


 「あの、赤毛の女だ!気取ったギルド職員の!あの女、ちょっと荷物を壊したくらいで、依頼失敗にしやがって…!」


 あの揉めてたときか。

 荷物運びをしていてその荷物を壊したら、そりゃ依頼失敗だろう。


 「お前ら、うまいこと取り入りやがって!へ、へへへ、お前らも満月花取りに来たんだろ?残念だったなあ!」


 勝ち誇った顔は、おそらくこいつらの後ろにもっと強い奴か人数がいることを教えている。

 ほっとけば喋りそうだな。

 とにかく自慢して、俺達をビビらせて悦に浸りたい。そんな感情が駄々洩れだ。


 「お前、お前だよ!そこの馬野郎!お前は虫の餌だ!もう弱ってるけどよ、差し出せば食うだろ!ひひ、他の奴らは、商品かもなあ!?男でも良いってそのツラなら、アンダさんも言うかもしれねぇ!」


 アンダさん?それが黒幕の一人か?

 うまく突けばペラペラしゃべってくれそうだ。どうやって乗せようか?


 「諦めろよ?こっちは五十人はいるんだ!今、上まで行ってるけどよ、もうすぐ帰ってくる!はは、東の草っぱらで草でも食ってりゃいいのによ、のこのこ人間様の国にまでくるからこうなるんだよ!いい気味だぜ!」


 五十人!?流石に数多くないか?盛っているとして、三十人程度だと思いたいけれど…。


 「あの女、どうやって誑し込んだんだよ!?やっぱり、アレも馬並ってか?ぎゃははは、虫の餌になるんじゃ意味ねぇ…」


 引き攣った様に馬鹿笑いをする男の前に。


 クロムがつかつかと歩み寄る。


 「な、なんだよ!こっちは…」

 男の口からは、続く言葉は出なかった。


 かわりに、ぐちゃりと言う音と、赤と白の欠片が飛び散る。


 男の前まで進み出たクロムは、何の躊躇いもなく、左手の盾で男の口を殴りつけた。


 革製とは言え、縁を金属で覆って強化した盾だ。

 小振りなのは身を完全に守るより、攻撃手段の一つとして取り回しやすくなっていることを重視した結果だ。


 それで盾強打シールドバッシュを行えば、人体を壊すのに十分すぎる威力になる。


 冒険者として、それほど鍛えられていたわけではなかったんだろう。

 男は殴られた勢いのまま、床に叩きつけられた。絨毯に赤い染みが飛び散る。


 それでもクロムは、攻撃を止めない。


 「あがっ!?」


 鈍い音がして、転がる男の腹にクロムのつま先がめり込む。

 その反射反応のように、男の口から反吐が飛び出た。


 「選ばせてやる」


 硬質な無表情で、クロムは男を見下ろす。


 「お前の粗末なモノと、目玉、どっちを潰されたい?」


 当然ながら、男の返答はない。

 クロムの声が聴こえているかも怪しいところだろう。


 「そうか。決められないか。なら、俺は優しいから両方やってやろう」


 やってやろうの、や、のあたりで、クロムの足が真っすぐに踏み下ろされる。

 男の股間に向かって。


 血と、反吐と、声にならない絶叫を吐き散らしながら、男は悶絶した。


 「お、お、あえ!こ、ただじゃ、すまねっ!」

 長椅子の男が喚く。

 先ほどまで占領していた長椅子の端にぴたりと体を寄せ、言葉になっていない声を上げている。


 「ユーシン!ヤクモ!」

 「心得た!」

 「え、あ、うん!」


 男と、少女たちの間に隙間ができている。好機だ!


 悶絶する男を飛び越え、ユーシンは少女ともう一人の男の前に割って入る。

 これで、彼女たちが人質になることはない。


 「こっち!」

 しゃがみこんだままの少女たちの腕を掴み、ヤクモがさらに距離を稼ぐ。

 立ち上がるだけの体力がないのか、または足をやられているのか…少女たちは膝と手で這いずって、壁際まで退避した。


 男はおそらくそれに気付いていない。

 ぎゃあぎゃあと喚きながら、ユーシンに向かって手を突き出し、なんとか遠ざかろうとして長椅子から落ちた。


 「む、こいつ小便を漏らしているぞ。だらしのない奴だ」


 「マジか、汚ねェな。ま、コイツは糞まで漏らしてやがるが」

 踏み下ろした足を絨毯に擦り付け、クロムは硬質な無表情のまま吐き捨てた。


 「な、なんだよお…!?なんで、こんな…っ!」

 クロムの視線が、見てわかるほど震える男を捉える。


 「コイツは、俺の主を侮辱した」


 静かな、平坦な声。


 「万死に値する。そうだろ?」


 同意を求められても、そいつも困ると思うけどなあ。


 男はそもそも返答を求めていないだろう。

 近付くクロムを見ながら奇声をあげ、バタバタと藻掻く。

 逃げているつもりなのだろうけど、絨毯の上ではそうそう尻は滑らない。


 「なあ、お前。少しは楽に死にたいだろう?」


 ぶんぶんと、男は首を振った。


 「ほお?拷問受けてからのがいいのか?嗜虐趣味でもあるのかよ。気持ち悪ィな」

 そっちじゃないと思うなあ。


 「しに、たくね!た、すけ…」


 「扉の向こうで死んでた女や、あいつらは、何度お前にそう言って助けを求めた?で、お前は助けてやったのか?」


 クロムの足が、床についた男の指を踏む。


 「なあ?ただの一度も、助けてやってないだろ?」


 指の骨が砕ける音は、男の叫び声にかき消され、聞こえなかった。


 「うるせぇよ」

 男の手からどいた足は、加減なく男の肩を蹴り飛ばした。


 吹っ飛び、サイドテーブルを巻き込んで転がった男は、蹴られた肩を抑えながら泣いている。いたい、いたい、かあちゃん、と言っているようだ。


 きっと、彼女たちも同じように泣いたはずだ。

 もしかしたら顔見知りだったかも知れない男たちに蹂躙されながら。


 おそらく、彼女たちが、二番目の未帰還の冒険者だ。


 どうしてこうなったのかはわからないけれど…聞き出すのも酷だろう。


 「言え。あと何人いる。今、そいつらは何している」


 男は答えない。

 ち、と舌打ちしてクロムは無表情を崩した。とても苛立っているようだ。


 「お前がやりすぎたのが悪い!しかし、ここまで脆いとは思わなかった…」


 その後ろで冷やかすような表情をしていたユーシンの目が、見開いた。


 同時に、ちりりと俺の右手に痺れが走る。


 この気配を、俺は知っている。

 大気が震え、あり得ない現象が起こる前触れ。


 「クロム!ユーシン!下がれ!」

 叫びながら、俺もヤクモと少女たちの傍らまで駆け寄る。


 二人が跳ね飛ぶように、伸ばした手で掴める位置までやってきた時。

 

 白光が、視界を灼いた。

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