第27話 マルダレス山 登山道入り口

 「!?」

 びくり、と肩を震わせてエルディーンは来た道を振り返った。

 同時に辺りの梢から鳥たちが飛び立ち、賑やかだった声がピタリと止む。


 僅かに怯えて落ち着かない様子の馬たちと、身を竦める聖女候補たち。

 「な、なに、いまの…」

 少女たちを怯えさせ、鳥たちの平穏を奪ったのは、大きな音だった。


 ドン、と足元が震えるような音。


 エルディーンは、その音に覚えがあった。


 (…鉱山が、崩れる音…)


 深く、硬い岩盤を崩して鉄鉱石を求めるために、火薬、と言う粉を使うのだという。


 それを用いれば、火球ファイアーボールほど火は燃え盛らないが、爆発が起きる。

 狭い場所で用いれば、岩盤を粉々に破壊するほどの威力になるのだと聞いた。


 ただし、火薬の扱いには事故がつきものだ。


 酷い鉱山主になると、鉱山奴隷にそれと知らせず火薬を持たせ、作業をさせる。

 鶴嘴が岩に当たり火花が散れば、火薬に引火し…

 そうして爆破を起こし奴隷を始末しつつ、坑道を広げるのだとか。


 至近距離で爆破が起これば、人の身体など原形を保たないと教わった。

 離れた場所でさえ、爆風が坑道を駆け抜けてくれば…紙切れのように吹き飛ばされ、岩盤に叩きつけられ、ばらばらになるのだと。


 その不吉な音に、先ほど響いた音は似ていた。


 (…山の上の、方…?)


 彼らが、向かった先。


 不吉な音に、心臓は早鐘のように鳴り響き、冷たい汗が背中を流れる。


 見に行きたい。駆けつけたい。


 聖女候補たちは、全員癒しの御業を心得ている。

 もし、怪我をしていたら、今なら助けられるのではないか。


 一瞬で脳裏を占めた考えのまま聖女候補たちを見ると、少女たちは互いの手を握り合い、不安そうな顔でエルディーンを見つめ返していた。


 (だめ!)


 彼女たちを守るのが、自分の受けた仕事だ。

 それを放棄して、また危険な場所に戻るわけにはいかない。


 きっと、それは彼も喜ばない。


 「あ、あれを見て!」

 一番年上の少女が、ぱっと顔を輝かせて指をさす。

 その指の先を少女たちは辿り、同じように表情を不安げなものから、年相応の輝く笑顔に変えた。


 エルディーンも視線を前に戻し、指先を追う。


 「あ」


 少女の細い指先が示すのは、木々の枝に紛れる青い屋根。

 今はまだ見下ろす位置だが、このまま下っていけば、すぐに見上げるようになるだろう。


 屋根。人の営みの証。


 (ついた…!戻ってこれた!)


 おそらく、あれはファンが言っていた村の神殿だろう。

 女神アスターに仕える女性たちがいる神殿。


 山道を下る途中、襲撃などはなかった。

 拍子抜けするほど穏やかな道は、ゆっくりと恐怖をなだめてはくれていたが、完全に安心できるというわけではない。


 だが、あの場所まで行けば違う。

 屋根と壁に守られて、あのバケモノから完全に逃れることができる。

 レイブラッドも治療してもらえるかもしれない。


 「急ぎましょう、皆さん!」


 あの音は、気になる。絶対によくない事が起こっている。

 けれど、自分の仕事は、彼女たちの護衛だ。


 (それに…あなたたちがそう易々と敗れるようなことは、ありませんよね?)


 信じなければ。

 彼が、自分を信じてくれたように。


 馬の手綱を握りなおし、エルディーンは足を速めた。

 しっかりと意識を前に向け、先を急ぐ。


 だから、その後のことは、彼女の過失とは言えないだろう。


 馬たちが盛んに耳を動かしていても、鳥の声が静かなままでも、彼女にはそれが異変だと気付けるような経験はなかった。


 聖女候補たちも、涙が自然に零れるような安堵の中で、周囲に気を配れたはずはない。


 はやく、あの屋根の下に。

 それだけが彼女たちの意識を占めたとして、責められるわけはない。

 

 「っひ!?」

 

 掠れたような声が、エルディーンの足を止めた。


 弾かれるように振り向いた彼女の目が捕えたのは、一番後ろを歩く少女の腕を握りしめる、太い指だった。


 誰!と誰何したつもりで、自分の声帯が何も音を出さず、ただ呼気が漏れただけなのに気付く。


 指は、当然ながら手に繋がり、手は小枝や葉やらがひっついた腕に繋がり、その腕は道の脇の木の茂みから突き出ていた。


 「おお、おぬしら、無事だったか」

 ガサガサと音を立て、その茂みがちょうど途切れる辺りから人影が飛び出す。


 出てきたのは、神官服をまとった男だった。

 顔には細かい傷がいくつもでき、全身に葉っぱや草が張り付いている。

 道なき道を通ってきたのは間違いないだろう。

 真っ白だったズボンや靴は泥で汚れ、見る影もない。


 「司祭様…」

 エルディーンの背に張り付くように身を寄せて、少女が呟く。


 「いやいや、心配していた。皆無事とは、これは女神の加護だな」


 へらへらと笑う男は、何か焦っているように見えた。


 ぎゅっと右手を握る。

 武運を、と交わした握手と、掌の熱を思い出す。


 (落ち着け。落ち着け。気取られるな…!)


 彼らは、敵かもしれない。いや、きっと…


 敵だ。


 敵でなければ、何故、怯える少女の腕を握って引き寄せ、拘束している?


 少女を捉えているのは、大剣の自慢をしていた護衛の戦士だ。

 血走った目で捕えた少女を見下ろしている。


 「…皆さんも、ご無事だったのですね」


 声は、酷く小さく、掠れていた。

 けれど、今度はきちんと声帯は震え、発したかった言葉を紡いでくれた。


 「彼女を、離してください。何故、捕えているんです?」

 「いや、それは、だな」


 司祭の目が泳ぐ。

 大剣の男がゲタゲタと調子はずれな笑い声をあげた。


 「お前ら、大人しく付いてこい」


 笑いを収めきれないまま、血走った目で男は喚く。

 「このまま、この娘の首を折られたくねぇだろ!?」


 「何故、そんなことを…!」

 「うるせぇ!黙ってついてこい!」


 男の怒鳴り声に、少女たちの目から再び涙が溢れだす。

 それを見て、司祭は落ち着けとでも言うように手を上げ下げした。


 「彼はちょっと興奮していてね。あんな化け物に襲われたのだから…皆で安全な所へ移動するだけだよ」

 「…この先に村があります。そこへ私たちは向かっています」


 「い、いけない!そこは駄目だ!駄目なんだよ!」

 司祭の焦りが大きくなる。


 「なあ、もういいだろ?誤魔化してどうすんだよ。どうせやることは同じだろ?」

 「いやあ!いたい!」

 捕えた少女の胸を握りつぶしながら、男はにいいと顔全体を歪めた。


 「お前ら、見たんだろ?あのバケモノ」


 「そ、その子を離しなさい!」

 「離しなさい、だと!お前、自分の立場がほんっとわかってねぇなあ!お前はこれから俺たちに輪姦まわされて、死ぬんだよ!こいつらもな!」


 叩きつけられる悪意に、エルディーンは気を失いそうだった。


 少女たちの恐怖に見開かれた視線が、司祭の顔に縋る。

 だが、彼はああ、と溜息をついて首を振った。


 「今、ここで言えば騒ぐだろうに…」


 「気付かれてんだ、どうせ騒ぐだろうよ。まどろっこしい」

 げたげたと男は笑う。


 (ど、どうしよう…!どうしたら…!)


 武器を持っているのは、自分一人。

 だが、勝てるのか?人質を抱えた男に。


 想像なら何千回もした。

 華麗に横を通り過ぎ、一陣の風が起こると同時に、倒れる敵。

 人質は自分の手に抱えられていて、その体には傷一つ付いていない。


 けれど。


 自分の足は、華麗なステップを刻むどころか、震えを止めるのが精いっぱいだ。


 どこをどう斬ったら、完全に抱え込まれている人質を傷付けることなく奪還できる?

 わからない。いや、そんなこと、できるはずがない!


 鼓動はますます煩く、思考を妨げる。

 だが、その雑音の中で、何かが必死に警告を発している。


 なに、なんなの?うるさくて聞こえない。どうする?どうしたら?ああ、女神様…


 じわっと視界が揺れた。限界を超えて涙が出てきたことはわかるが、拭うこともできない。

 自分の一挙で人質の少女が害されるかもしれない。ああ、でも、黙っていても…!


 ますます視界は涙の膜で覆われ、閉ざされていく。


 だから彼女は気付かなかった。

 手綱を握る馬が、かつんと蹄を鳴らして前に進み出た事に。


 「…て、よ」

 

 「!!」

 ガン、と響いた音が、彼女の意識を再び山道の先…彼女の背後に引き戻した。


 歪む視界に映るのは、先を塞ぐように立つ男たち。


 先頭の男の手には、抜身の剣がある。

 今しがた、振りぬかれたような姿勢で。


 「死にぞこないが!」


 男は吠え、もう一度剣を振った。

 だが、再びガンと音がして、剣が弾かれる。


 それを成し遂げたのは、震える盾。

 いや、正確には。その少し先に形成されたもう一回り大きな、光の『盾』だった。


 「え、るでぃ…さま、にげ…」

 「レイブラッド!」


 馬の首に縋りつくようにして、盾を掲げるのは彼女の騎士。


 おそらく、麻痺はまだ完全に彼を解放していない。

 それでも、彼は盾を掲げていた。


 震える腕で、馬からずり落ちかけながら。


 「『盾』の御業か。すぐ消える。二度は使えんだろう」

 忌々しそうに男に話しかけるのは、一緒にやってきた助祭だ。


 (挟み撃ち…!)


 神官と護衛戦士は、全員で七人。自分の中で叫んでいた警告は、人数が合わないと告げていたのか。


 レイブラッドが盾を掲げなければ、さっきの一撃で背中から斬られていた。

 騎士はなおも盾を降ろさない。

 『盾』が消えれば、今度こそ男の剣はレイブラッドを斬るだろう。

 彼にそれを避ける、または捌くような余力はない。


 (私が…戦わなければ…レイが死ぬ)


 煩い鼓動が沈黙する。

 代わってエルディーンの脳裏を占めるのは、何千回も想像した光景。


 華麗に脇を駆け抜けると、一陣の風が吹いて敵が倒れる。


 想像しただけじゃなくて、練習もした。

 踏み込みと同時の抜刀。

 剣が抜ければ、あとは。


 「あ?」

 男は、酷く間の抜けた声を上げていた。


 練習通りに腕の動きに従い、剣はすらりと鞘から抜けてくれる。

 レイブラッドにだけ注目していた男は、エルディーンに何の注意も向けていなかった。


 その隣を駆け抜けながら、抜刀と同時に斬り下ろす。

 

 突き通すのは、エルディーンの膂力では難しい。

 だから、剣の重みに逆らわず、そのまま斬りなさいと教えてくれたのはレイブラッドだった。


 教えの通りに。何百回も練習して、何千回も想像したとおりに。

 彼女は剣を抜き、振り下ろす。

 その白銀の動きに従って。

 男の鼻から頬、顎に赤い裂け目ができ、血が噴き出した。


 「あああ!?!」


 男は叫びながら、傷を抑える。がらん、と音を立てて剣は地面に転がり落ちた。


 鋭くステップを踏んで旋回したエルディーンは、すぐさま落ちた剣に駆け寄り、道の先、茂みの方へと蹴り飛ばす。


 (え…?何で?)

 再びレイブラッドの横に立ちながら、彼女はひどく戸惑っていた。 

 (なんで私、こんなことできているの!?)


 すべて、練習の通りの動きだ。


 いや、練習よりずっと滑らかに、手足は動いた。

 エルディーンを戸惑わせるほどに。


 「こいつ、けっこうやるぞ!?」

 護衛の一人が喚く。助祭が小さく悲鳴を上げて、男たちの後ろへ逃げ込んだ。


 剣を油断なく構えながら、エルディーンはその光景を他人事のように見ていた。

 思考が全く追いつかない。

 ただ、彼女にわかるのは、レイブラッドをとりあえず助けられた、それだけだ。

 

 「うるせぇ!小娘一匹にビビッてどうすんだよ!」

 再び、大剣の男が喚く。

 捕える腕の力が強くなったのか、少女がくぐもった悲鳴を上げた。


 「おい、剣を捨てろ!コイツが死ぬぞ!」

 男の指が少女の細い首にかかる。


 今、ここで従ったとしても、男たちは殺す気だ。

 従ったところで、待っているのは同じ末路だ。


 いやに冷静な自分が呟く。


 正解はきっと、気にせず男に斬りかかることなのだろう。うまくすれば、助けられるかもしれない。

 

 けど、うまくいかなかったら?

 

 今の一撃は、間違いなく奇跡の一閃だ。

 絶対に、もう一度を狙っても出せるものではない。

 

 うまくいかなかったら。

 

 自分が逆らった、という明確な理由で、彼女は殺される。

 自分のせいで、人が死ぬ。

 それの恐怖が蔦のようにエルディーンの心臓を捉えて離さない。

 

 指は剣の柄に吸い付いたように離れない。剣を捨てるという選択肢はない。

 けれど、迷いが、恐怖が絡みつき、囁く。


 もし、うまくいかなかったら?失敗したら?

 お前のせいで、みんな死ぬぞ。


 その声が、全身を縛り付ける。


 それを、男は見抜いたのだろう。

 「おい、その間抜けはほっといて、さっさと小娘どもを捕まえろ」


 背後で男たちが動く気配がする。

 レイブラッドが藻掻きながら何かを叫ぶ。

 それらが、エルディーンを通り過ぎていく。


 なのに、剣を構える力が、出ない。


 「手間取らせやがって…。おい、この小娘は俺がやる。いいな?」

 少女を抱え込んだまま、男が歩み寄ってきた。


 ごつい手がエルディーンに伸び、泥の詰まった爪が見て取れる。


 あの手に捕まえられたら、終わりだ。

 そう思うのに。

 ただ、せめて目を逸らさない。反撃の隙を見逃さない。


 それだけに縋り、エルディーンは男の腕を見据えた。

 

 ちらりと、泥や葉で汚れた男の腕が、光った気がした。

 凝視し続けたエルディーンだからこそ見つけられたような異変だ。


 それは、蜘蛛の糸のような、ほんの一瞬の輝きで、よく見ようと思ったらもう消えていたけれど。


 だが、それが彼女の幻覚ではないと知らしめるように。


 赤い線が、男の腕に奔る。

 それが噴き出る血だと理解できたのは、男が何か言葉にならない声を上げてからだった。


 「あ、ごめんねぇ」


 場違いな、のんびりした声。大剣の男の声ではない。

 見れば、男の首にも赤い線が刻まれ、発声を禁じていた。


 「アンタ、汚れてるね。傷口に泥はいっちゃったから、死んじゃうね」


 響くのは、のんびりとした声だけ。

 男は視線だけを激しく動かし、声の主を探していたが、恐怖がその目を赤く染めていく。


 男が見ているのは、もう、声の主ではない。腕から滴り落ちる血の赤。


 鮮血は滲む、などという量ではなかった。

 赤い筋を刻む糸を伝い、雨のように地に垂れる。


 もう、その視線は声の主も、人質の少女も、エルディーンも、見ていない。


 「!」


 考えつくよりも速く、身体は動いていた。


 しゃにむに男の身体に飛び込むように体当たりをし、緩んだ腕から人質の少女を奪い取る。

 男から流れる血で汚れてはいたが、少女は気絶もせず、エルディーンに思いきりしがみついてきた。


 「お、すごいすごい。お嬢さん、なかなかやるねぇ」


 そのまま少女を抱えて道の端に倒れ込むと、すぐ近くで声がする。

 声のした方へと視線を上げれば、楢の木の枝にしゃがみこむ人影が、見えた。


 灰色の髪を無造作に布でまとめ、身に纏う衣服も暗雲の色。

 その中で一点、首に巻いた布だけが鮮やかに青い。


 エルディーンよりは年上で、レイブラッドより…年上?年下?まだ若いような、草臥れ果てた老人のような、奇妙な気配を彼は纏っていた。


 ただ、顔つきを見ればまだ青年と呼べるような年頃ではあるのだろう。


 「あ、そこなひと。動かないでねぇ?糸がこれ以上締まれば、首落ちるよう」


 「な、なんだ、お前は!?わた、私は大神殿の司祭だぞ!?」

 頭上の青年を見上げて、司祭が喚く。

 だが、彼は些かも恐れ入った様子を見せない。


 「ええ~?若い女の子に汚いおっさんが武器向けてぎらついておったてて、司祭なんて言われてもねぇ?信じらんなーい、よ?」


 味方か。この人は、味方なのか。

 茫然と見上げるエルディーンに、青年はへらりと笑って見せた。


 瞳も鈍い鉄の色だ。

 褐色の肌と淡い色の髪などは、彼がクトラかキリクの民であることを示しているが、エルディーンの知識に両国人の特徴はない。

 ただ、異国の人だとそれだけは分かった。


 「殺せ!相手は一人だぞ!」

 助祭が叫ぶ。だが、男たちの動きは鈍い。



 「一人、ですか。自分らが挟撃される可能性は考えていなかったようですね」



 その鈍った動きを、凛と響いた女性の声が完全に止める。


 エルディーンは弾かれたように、青年から声の主へと視線を向けた。


 銀色の髪が、木漏れ日にきらめく。

 黒いローブはアステリアの魔導士が良く纏うものだが、彼女もおそらく異国人だ。


 葡萄色の双眸が、エルディーンの視線を捉え、柔らかく微笑む。


 年のころは二十代後半か、そのあたりだろう。


 まるで、森の奥に住まう白鹿の化身のようだと、エルディーンは吟遊詩人の歌う恋物語を思い出していた。

 白鹿の化身である姫君が、悪い貴族に追われた王子を援けるが、正体を知られて森の奥へ駆け去ってしまう。そんな悲恋の物語。


 それはローブの女性の大きく、黒目がちの双眸からの連想であり、ローブの上からでもわかる華奢な体格のせいでもあった。


 ただ、儚い外見とは違い、女性の表情は自信に満ち、力強い。


 彼女の後ろに続く兵団を、彼女が率いているのだと一目でわかるほどに。


 『捕えよ!』


 女性の号令に、兵士たちは速やかに動いた。


 見れば、兵士たちもアステリア人ではない。

 兵士たちは揃いの兵装を纏っているが、それはアステリア軍のものではなかった。

 袷の毛織物と革鎧で構成された装備は、エルディーンが見たことのないものだ。


 「くそ!」


 一番近くにいた男が、固まっていた小柄な聖女候補に駆け寄る。


 人質にしようとしているのだと、意図には気付いたが手足はもう動いてくれない。

 先ほどまでの動きの反動のように、手足は鉛になったように重い。


 (いけない!)


 助けなければと焦る。しかし、手足が重いだけではなく、先ほどまで人質となっていた少女がしがみついて離れない。


 男の手が、固まる少女へ延ばされる。


 だが、少女に三歩近付いたところで、男は派手に転倒した。


 見れば、男の足を泥が手の形をとって掴んでいる。

 男は恐慌し、泥の手を蹴りつけるが、崩れる様子はない。


 (捕縛の魔導ホールド…!)

 確か、大地の精霊の力を借りた魔導だ。


 「やれやれ、なんとか面目は保てたな」

 「アンタ、何もしてないけどねぇ…」


 ざ、と音がして、楢の幹の後ろから人が現れた。中年の男二人だ。

 一人は杖を掲げている。おそらく、捕縛の魔導を使ったのは彼だろう。


 もう一人の男の首に、女神アスターの聖印が揺れている。

 この人もまさか、と身を竦めるエルディーンは、すぐ傍らに誰かが立った気配を感じた。弾けるように見上げる。


 見上げた視界に映るのは、穏やかに微笑む神官服をまとった女性。

 白く濁る右目さえ、優しい光を湛えている。


 「もう、大丈夫ですよ。よく頑張りましたね」


 す、と膝を追って屈み込み、エルディーンと少女に腕を回す。

 新しくはないが清潔そのものの神官服が汚れることも厭わず、彼女は二人を抱き寄せた。


 「あ、なた、たちは?」

 「わたくしは、マーサと申します。すぐそこの神殿の神官ですよ。あなたたちは、困難を乗り越えたのです。女神アスターもお褒めになっておられますよ」


 「たすかり、ますか?彼女たちは、もう、だいじょうぶ、ですか?」


 自分は、依頼を完遂できたのだろうか。

 護衛をやり遂げたのだろうか。


 「ええ。彼女たちも、あなたも。もう、何の心配もいりません」 

 「あ、あああ…」


 言葉にならない声が、勝手に咽喉から迸る。

 あとはもう、嗚咽だけがあふれ出た。


 「本当に、頑張りましたね。同じ女神の使徒として、感謝いたします」


 残る四人の聖女候補たちの元にも、アニスとシャーリーが駆け寄っていく。

 少女たちも、右方左方で異なるとはいえ、特徴ある大神官の顔を見たことがあったのかもしれない。

 わあわあと双方で叫びながら飛びついていた。


 「まあ、こういうのは、おっさんじゃいかんよなあ」

 アスターの聖印を摘まみながら、エディはぼやいた。


 女性神官たちの動向を渋った彼だが、明らかに何もしていない自分より役に立っている。


 「タイショー、コのにーサン、ちょっト変だゾ」

 「あん?」


 コルムが馬の手綱を引いてくる。

 その馬に縛り付けられている男に、エディは注意を向けた。


 捕虜を搬送しているような縛り付け方ではない。

 だが、腹帯でしっかりと固定されている。

 鞍の上で、もどかしそうに藻掻いているのは、束縛の為だけではなさそうだ。


 「あー、こりゃあ、なんか麻痺っぽいな」

 レイブラッドの様子を見て、マクロイがそう診断する。

 鼻を打つ悪臭も、麻痺が齎すものだ。自分自身も垂れ流したことがある。


 「無理に動きなさんな。毒が原因なら、更に回るかもしれん」

 「毒なら、なんとかなるな。いっちょやってみっか」


 聖印を握りなおし、エディは天へと、そこにおられる女神へと意識を向ける。


 『闇祓う夜明けの光よ。このものを蝕む毒を、消し去り給え』


 聖印が緩やかに熱を持つ。

 その熱を掌で受け止め、エディは掌をレイブラッドの頭に置いた。


 そこが、クバンダ・チャタカラの毒を注入された場所だという事は、むろん知るよしもない。


 だが、毒を消し去る女神の御業は、確かにもっとも毒が濃く残る場所に注がれた。


 「どうだい?無理に動かんでいいが、少しはましになったか?」


 「…ありがとう、ございま…」

 言いかけて、激しくレイブラッドは噎せた。慌ててエディがその背を摩る。


 「いわんこっちゃない。頷くか首振るぐらいでいんだよ。麻痺ると、治ったからってすぐ動けるわけじゃねぇし」


 「その方からお話を聞くのは、やはり難しいですか?」

 女性の声に、エディは首を振った。


 「もう少し、時間が入用でしょうな。あのお嬢ちゃんたちからは?」

 「まだ幼い少女ですし、あまり無理をさせたくはないんです…ですが、一番良く知っているのも彼女たちか…」


 なんと答えるものかと考えあぐねるエディに、マーサが歩み寄る。

 「エディ、彼女が、これをあなたにと」


 マーサが差し出したのは、二枚の紙だ。

 きっちりと畳まれ、多少皺は寄っているが読むのに支障はない。


 「どれどれ…んあ、こりゃ、ファンからの伝言か!」

 「見せてください」


 女性の声に、エディは紙を低い位置で広げてみせた。

 端正な文字は、今、この山で何が跋扈しているのかを教え、その対処方法について説明している。


 「もう、遭遇しているようですね」


 もう一枚の紙の内容は、クバンダ・チャタカラの食性とクバンダの蜜についてだった。

 大神殿左方の神官がその密造に関わっている可能性が高い事。

 そして、この麻薬は最悪魔族の器を作る可能性があり、ドノヴァン大司祭が耽溺しているなら、彼がその器となる可能性があることも記されていた。


 「おいおいおい、そこまで予想してて、なんで引き返さねぇんだよ!」

 「あの子らしいですね…」


 ふう、と女性は溜息をつき、マーサに視線を戻した。

 「あの、冒険者の少女と話は出来ますか?」


 「ええ。強い子です。泣きながらも、これを渡してくれましたし、平静を取り戻しつつあります。ただ、精神はおそらく限界が近いと思います。あまり、問い詰めませんよう…」


 「気を付けますね」


 マーサに続いてエルディーンへと歩み寄ると、彼女はまだ肩を震わせていたものの、泣き止んでいた。

 すぐ隣に、泣きそうな顔をしてその背を撫でる神官見習いらしき青年がついている。

 顔に押し当てている手巾は、少女が持つにしては地味でややくたびれていた。彼の持ち物なのかもしれない。


 「ごめんなさい、少し、お話を出来ますか?」 


 「…はい!だいじょぶ、です」

 「無理はしないでくださいね?」


 ふるふるとエルディーンは首を振った。


 まだ目は真っ赤だが、新たな涙は出ていない。

 手巾を顔から外し、握りしめながら、彼女はまっすぐに視線を向けた。


 「あの、あなたたちは…」


 「彼らは、バレルノ大司祭が依頼した冒険者です。そして私は、ウルガ、と申します」

 にっこりと女性は笑い、膝を追って視線の高さをエルディーンに合わせる。

 「一応、アステリア軍参謀と言う役職にいます。まあ、最近名ばかりですけどね」


 「う、ウルガ様!?」


 その名をアステリアで知らないものは、ほとんどいない。

 20年前の内乱の折、バルト王子を支え、勝利へと導いた優秀な魔導士であり、参謀。


 軍学者の父から教えを受けたという戦略は常に兵数差を挽回し、勝利を掴み続けた。「ウルガがいなければ、俺は正面から突撃を繰り返していただけだったろうな」と、のちに聖王が語ったほどだ。


 その武名と同時に、彼女はもう一つその名を知られる要因がある。


 バルト王子との悲恋だ。

 二人は相思相愛の仲であり、誰もが勝利を掴んだ後には、二人がアステリア聖王国の聖王とその王妃になるのだと思っていたのだという。


 だが、彼女の身分や出自から、それはかなわなかった。


 大貴族であった現宰相が、協力の見返りとして娘を娶れと迫ったのだとも囁かれている。


 戦後、ウルガの姿はアステリア王宮にはなかった。

 彼女の姿が再びアステリアに戻ったのは、終戦から五年後。


 父王の逝去により聖王となったバルトは、参謀と言う新しい職位を軍に設けることを宣言し、その初代として招聘されたのがウルガだった。


 少数精鋭のアステリア軍がなんとかやってきているのは、彼女が腕を振るった成果だ。

 ただ、最近は滅多に宮廷にも顔を出さず、執務室から出てこないと宮廷雀たちが囀っていたのを思い出す。


 アステリアの宮廷が、宰相派と参謀派に分かれているのは有名な話だ。

 貴族政治からの脱却を図る参謀派には平民や下級貴族出身の若者が多く、宰相派はその逆。

 聖王は当然に参謀派ではあるが、宰相の権勢は強く、ウルガの失脚は近いのではと噂されている。


 その、生きる物語の主人公のような女性が目の前にいる。


 驚きと喜びが、エルディーンの心を補強し、折れそうだった精神の柱が力を取り戻していた。


 「お名前は?」

 「え、エルディーン・アルテ、と申します!」


 「そう、エルディーン。まず、あなたの武勲に感謝します。よく、持ちこたえてくれました」

 「いえ!あの!なんだか、すごく、身体が動いて!ほんとうに、なんだか、すごく、動いたんです!」


 エルディーンの主張に、ウルガは形の良い眉を寄せた。

 彼女があのウルガなら、年は既に三十後半のはずであるが、とてもそうは見えない。目の下にうっすらとついた隈が僅かに年齢を感じさせるが、それくらいだ。美貌に陰りはない。


 正直に言ったことでがっかりさせてしまっただろうか。


 けれど、あれが自分の実力だと思われたら困る。

 そんなにすごい剣士ではないのだ。自分は。


 ほんの少し前まで、偶然にも悪漢に襲われる彼女や聖王を助け、武技の冴えを称賛される妄想を良くしていたが、今考えると顔から火が出る思いだ。


 「たとえ偶然でも、あなたは戦おうとし、戦った。その結果です。胸を張りなさい」

 「…はい!」

 ふ、とウルガの表情が柔らぐ。


 「ごめんなさいね、本当は、すぐに休ませてあげたいんだけど…一番聞きたいことを聞きます。

 ファンは、更に山頂へ向かった、のですね?」


 エルディーンは反射的に頷いてから、目を瞬かせた。


 ウルガは、はっきりとファンの名を呼んだ。

 バレルノ大司祭に雇われた冒険者、などではなく、ファンと。


 知り合い、なのだろうか。

 冒険者と参謀が知り合うようなことがあるのだろうか。


 「ファンさんとお知り合いなんですか?」

 エルディーンの疑問を読み取ったわけではないだろうが、その背を撫でる神官見習いが聞きたかったことを口に出す。


 「ファンは、あの子が赤ちゃんの頃から知っているんですよ」


 ウィルの質問に、ウルガは表情を緩めて答えた。

 「あの子の御父上は、私の兄のような方なので…20年前も、一緒に戦ってくれましたしね」


 あの子、と言う表現と、立派な体格の大男を結びつけるのは困難だが、ウルガにとっては甥のようなものなのだろう。

 語る表情は柔らかく、好意を感じさせる。


 「もう一度、確認します。あの子は、更に山頂を目指しているんですね?」


 「はい…!ドノヴァン大司祭を救出に行くと仰っていましたが、たぶん、違う…のではないかと、思います。きっと、あの魔物を倒しにいかれたのではと…」


 「…ええ、そうですね。まったく…もう少し周りを見なさい、とお説教したいところですが、さすがに予測できるわけがない、か」


 ぽん、とエルディーンの肩を叩き、ウルガは立ち上がった。

 「いろいろ、聞きたい、知りたいことはあるかと思います。少し休んで回復したら説明させますから、今は心と体を休めてください」


 僅かに白い歯を見せた微笑みは、木漏れ日のようだ。

 聖王はこの笑顔を愛したのだろうなと、エルディーンはぼんやりと思う。


 「私たちも、山頂へ向かいます」


 ローブのフードを被り、ウルガは視線をエルディーン達が下ってきた道の先へと向ける。


 「魔導士は、いた方がよいでしょうからね」


 「ほんじゃあ、この連中はどうしたらいいですかね?」

 すっかり司祭たちを取り押さえ、縛り上げた兵たちへ、ウルガは異国語で指示を出す。その声に応え、数人の兵士が村の方へと走っていった。


 その様子を見ながら、エディは首を傾げた。さすがにそろそろ、一介の冒険者の手に余る事態になってきている。


*** 


 ウルガたちが村へやってきたのは、ほんの少し前。

 日も高く上り、朝が終わり、昼が始まる頃合いだった。


 外の畑で収穫の手伝いをしていたコルムが、息せき切って駆け込んでくるなり、「やべーヨ!」と叫ぶ。


 何がヤバいのかは分からなかったが、武器と引っ掴んでエディたちは、村の門へと急いだ。


 そしてその目に見たのは、騎馬の集団。

 いや、それはもう、軍と呼んで差し支えない。


 先頭の騎馬兵が掲げる旗は、二種。


 一つは、右を向いて立ち上がり山に手を掛ける豹を象ったもの。

 その横で翻るのは、黒い鷲が翼を広げている三角形の軍旗。


 「クトラ傭兵団ダよ!」

 あわあわとコルムが告げる。

 コルムの父はクトラ傭兵だ。当然。その軍旗や兵装には詳しい。


 「クトラ傭兵団…マジか?」


 それでもエディはそう呟いた。

 クトラ傭兵は確かに傭兵ではあるが、通常の傭兵ギルドで雇えるような兵ではない。


 傭兵は、基本的には一人単位で雇うものだ。

 傭兵団を組織している者も勿論いるが、それでも大規模な傭兵団でも十人以上にはならない。

 それだけの組織だった兵団が金で動くことに、統治者はいい顔をしないからだ。

 そこまでの規模になればなんだかんだと理由をつけて取り込むか、討伐対称になる。


 だが、クトラ傭兵団はそうではない。


 彼らはクトラ王国軍そのものであり、規模は万を越える。


 雇うにしても一人二人では雇用できず、最低でも五十人単位で、指揮官も必ず込みでなければならない。

 兵だけ雇って好きなように動かすことはできないのだ。


 雇用するためには、アスラン国内にあるクトラ自治区に赴き、交渉するしかない。


 どれだけ金を積まれても、クトラ王国軍の誇りを穢すような仕事は決して受けず、例え仕事の途中であっても報復する。

 偽って雇い、山賊のまねごとをさせられたときには、雇い主側の将の首を刈り取り投げつけたという逸話があるほどだ。


 その、クトラ傭兵団が、アステリアにいるはずがない。

 アステリア人が、雇えるはずがない。


 アステリアは、クトラの仇だ。彼らの祖国を奪った、憎むべき相手だ。


 どれだけの大義名分があろうとも、アステリア人の利になることをクトラ傭兵団が良しとするわけがない。


 そうなると、彼らは敵だ。

 誰かが、「アステリアを攻撃すること」を目的として雇った兵だ。


 勇猛精強無双の精兵と謳われるクトラ傭兵団、しかも騎馬兵を迎え撃つ。

 何の備えもない、戦えるのは自分たちパーティと村の猟師数人で。


 勝てるわけがない。

 だから、コルムの間違えであってほしかった。


 「マジ。あノ旗は、黒鷲隊だヨ。いっちばン、強いトコ。元クトラ近衛軍」

 コルムの顔は固い。


 「オレ、交渉しテ見ル。クトラ傭兵団ハ、戦えナい民をぶっ殺シて喜ぶようナ外道じゃナい。ナンとかなルかも」

 「…頼む。俺も行くから」


 交渉できるとすれば、クトラ人であるコルムだけだ。

 だが、コルムは基本前には出ない斥候であり、何よりまだ子供だ。


 子供を、相手の目的次第では問答無用で殺される交渉へ向かわせる。


 そう考えただけで、エディは女神にすら悪態を吐きたくなった。


 そんなエディの内心など気にも留めず…当然ではあるが…、クトラ傭兵団は門前に迫った。


 揃いの軍装に身を固め、全員が騎乗している。

 騎兵は歩兵三人分の戦力に匹敵するというが、何より恐ろしいのは集団になった時だ。

 ただ、馬に乗った集団が走り回るだけで、弱兵は薙ぎ払われる。

 村人など、ひとたまりもない。


 唯一の好条件は、村は山と森に囲まれていることだ。

 森に逃げ込めば、騎兵の追跡を振り切ることは出来る。


 ただ、その馬に乗っているのが、山岳戦を何よりも得意とするクトラ兵なのだが…


 「…攻撃してこねぇな?」


 後ろから、マクロイが訝しんだ声を上げた。

 騎兵は隊列をつくり、こちらを見ているが、武器を構える様子もない。


 並んでいるのは十人が三列。三十人。


 「足りねぇな…まさか、挟撃?」


 もし、ファンたちが向かった山道から残る半数が襲ってくれば。


 もう、今から急いで向かっても間に合わないだろう。


 背中を冷たい汗が伝う。だが、こんな小さな村を何故?疑問と恐怖と怒りがぐるぐると頭と腹を駆けまわり、エディの思考を阻害する。


 「あなた方は、バレルノ大司祭から依頼を受けた冒険者ですか?」


 「へ?」


 そのぐちゃぐちゃとした思考の粘着きを、凛とした声が突き抜けた。


 整列した兵の中から、一人、黒いローブを纏った人物が進み出る。


 「私は、アステリア聖王軍参謀、ウルガ。まだ、こちらの村は無事なのですね?」

 「ウルガ…ってあの、神軍師!?」

 「そんな大げさなものではありませんが…」


 苦笑交じりの声がエディの問いに応え、顔を隠していたフードが後ろに跳ねあげられる。


 もちろん、エディはウルガの名を知っている。

 アステリア人なのだし、20年前の内乱にも駆り出された。


 ジョーンズ司祭に保護され、彼女の部隊に身を置けば、バルト王子を支える「とびきりの美少女」だという軍師の噂は耳に入ってくる。


 遠目から、同様に軍に身を置いていた少年兵たちと彼女を見た見た時、噂よりも輝くその美貌に、溜息をついたことすら鮮烈に覚えていた。


 フードの下から現れた顔は、当然あの頃よりも年齢を重ねている。

 だが、一目でわかった。


 (そりゃあ、美少女が年取ったら美女になるわな…)


 感心しながら納得しつつ、エディは眉を寄せた。

 (…誰かに、似ているような?)

 同じ系統の顔を、確かに見た気がする。当然、若いころの彼女ではない。


 その誰かをエディが思い出すよりも早く、ウルガは再び口を開いた。

 「開門を願います。私は聖王陛下の密命を受けて参りました」


 「せ、聖王陛下の?」

 いつの間にか隣に来ていた村長が、滝のような汗を流しながら鸚鵡返しに呟いた。


 彼の許容量はもう破裂寸前だろう。

 平和な村に突然降ってわいた一連の騒動がようやく片付くかと思った矢先に、謎の騎馬兵と聖王の密命を携えた軍師。パニックにならない方がおかしい。


 「あのひとは、間違いなくウルガ軍師ですよ。俺ァ、ガキの時分に聖王軍にいましてね。お顔を拝見したことがあります」

 「で、では、聖王陛下の命、というのは…」

 「本当でしょうな」


 ウルガはおそらく、聖王バルトがこの世で最も信頼している人間だ。


 その彼女が、密命を与えられるのはあり得ない事ではない。

 むしろ、公にではなく事を為そうとすれば、そうする。

 それほど、聖王は彼女を信頼している。


 「け、けれど、あの、あの兵士たちは…アステリアの騎士様では、ないです、よね?」

 「クトラ傭兵団ですな。けど、ウルガ軍師なら…」


 クトラ傭兵がアステリアに雇われることは絶対にない。

 だが、ウルガ個人にならば、ないことは、ない。


 その美貌と共に囁かれた、彼女の出自。


 アステリア聖女王が滅ぼした、クトラ王国の王族の生き残りだという噂。

 彼女が本当にクトラ王族なら、クトラ傭兵団は金を払わなくてもその足元に跪くだろう。

 そうでなくても、同胞の依頼ならば受けても不思議はない。


 「開門、していただけますか?」

 「はいっ!ただいま!」


 大急ぎで閉めた門が、再び大急ぎで開けられる。


 「驚かせて申し訳ございません、あなたが村長ですか?」

 馬から身軽に降りつつ、ウルガは村長へ視線を向けた。


 「そ、そうです!」


 カチコチに固まる村長から、美貌の軍師は視線をエディに送る。

 その意図を読み取って、エディは頷いた。


 「すいやせんが、話は俺が聞いてもようがすかね?村長さん、村の衆を落ち着かせねぇと」

 「そうですね…村長殿、よろしいですか?」

 「だいじょうぶです!」


 ガクガクと頷いて、村長は踵を返して村の中へと駆け去った。

 今にも足がもつれて転びそうだ。


 「コルム、神殿のおねーさま方にもご出馬願え。なんとかしてくれんだろ」

 「合点!」

 こちらは風のように身軽に、コルムは神殿に向けて走り抜けていく。


 「そんで、どういうこと、なんです?」

 二人が十分に離れたのを見てから、エディはウルガに問いかけた。


 葡萄色の双眸が、じっとエディを見つめる。

 信頼できるかどうか推し量っているのだろう。

 なるべく真面目な顔を作って、エディはその視線に耐えた。


 真面目な顔が功を奏したのかはわからないが、ウルガは形の良い唇を開く。


 薄く、肉感的とは言えないが、芸術家が魂を掛けて形作ったような造形だ。

 触れたいと欲を駆り立てるのではなく、ただただ鑑賞し、守りたくなるような仄かに色付いた唇。


 バルト陛下は、これ、奪っちゃったんかなあ。


 そう思うと、何だかむず痒い。

 羨ましいというより、よくできたなと感心してしまう。


 真面目な顔の後ろでそんなことを考えているとは、流石にウルガも見抜けないようだ。

 紡ぐ言葉は、エディの顔に劣らず真面目で、遊びはない。


 「アスラン王国で違法とされている薬物が、このマルダレス山の廃神殿で精製され、アスランにもアステリアにも流通しているという情報が入りました」


 「違法な、薬物?」

 「あれか、チビの言ってた、なんたらの蜜、ってやつけ?」


 マクロイの質問に、ウルガは頷いた。


 「はい。クバンダの蜜です。そしてそれを用いた売春も行われていると」

 く、とウルガの眉根が寄る。


 そんな顔をしていても美人だなと、エディは感心した。

 話が突飛すぎて付いていけないというのもある。


 「そしてそれに、大神殿の司祭も関わっている、と」


 「あんだって!?」

 だが、流石に続く言葉は流せなかった。


 「どこの誰が!?」

 「左方の司祭ですが…」


 ウルガの声が、低く、小さくなる。


 「ドノヴァン大司祭も、常習者のようです」


 「信じられん…」

 「そうけぇ?左方の連中ならやりかねないんじゃないのか?」

 「ドノヴァン大司祭だけは別よ。あの方が、そんな…」


 違法な薬物、と言っているが、要は麻薬だろう。

 手っ取り早く快楽を味わえる手段の一つ。


 快楽とは、悦楽とは、女神へ祈り、その愛に触れることだと説き、その通りに振舞う大司祭に、いわゆる肉欲があったことすら信じられない。


 バレルノ大司祭は若かりし頃…どころか、初老とか言われる年になるまで、一人寝する夜はほとんどなかったと豪語しているし、今でも猥談に乗ってくるような人だ。

 聖職者、神への奉仕者、などと言えば聞こえはいいが、地方の貴族出身でどこぞかの神殿の司祭ともなれば、酒と女は向こうからやってくるものだ。


 だが、ドノヴァン大司祭はいまだに童貞だと言われても、エディは信じる。

 清らかで慈悲深く、信仰へ全てを捧げている御方だと、それがエディのドノヴァン大司祭評だ。


 かといって、その下についていきたいかと言われれば否だが。


 生臭いが血の通うバレルノ大司祭のほうがいい。

 ジョーンズ司祭が姉のような存在なら、バレルノ大司祭は祖父のよう人だ。


 時に年寄り扱いして揶揄い、怒られ、笑い合えるひとだ。

 最近、本当にめっきり老齢を感じさせるようになったのが、哀しく、恐ろしい。

 一日でも長く、この人を地上へとどめておいてください、と女神に祈ってしまう。


 しかし、ドノヴァン大司祭が息を引き取ったと聞いても、そりゃあいろいろと大変だな、としか思わないだろう。


 むしろ、今生きているのが不思議なくらいなのだ。


 生きていれば、美味いものも食いたくなるし、欲だって発散したくなる。

 それがないのは、死んでいたって変わらないじゃないか、とさえ思う。


 そのドノヴァン大司祭が、麻薬に手を出している。

 さらに、売春…女を買うなんて、そんなことをしている?


 「ありえん…」


 「残念ながら、すでに自供があるのです。下手人の一団を取り押さえていまして、彼らの言う…宴、には、ドノヴァン大司祭が参加していたと」


 「その麻薬、無理やりやらせることはできるんですかい?」

 「目薬ですからね。簡単にできます。私も、彼が進んで手を染めたとは思っていないんですが…」


 だが、関わっていることは、事実。


 「月に一回、鎮魂の為に跡地に行ってる、だっけか」


 彼らは、確かにこの山に向かっていた。

 だが、行っていたのは、鎮魂の儀式ではなかったって言うわけだ。


 「アステリア国内の有力貴族だけではなく、近隣諸国の貴族や有力者、大商人を招き入れ、宴を催していたようです。

 むろん、大神殿が主催したわけではありません。彼らもまた、利用されただけでしょう」

 「そんな能は奴らにゃねぇわな」


 薬の威力か、薬が産む金の魔力か。

 どちらかか、どちらもか。

 それにやられて、場所を提供したのか。


 「ただ、それを主催した連中、ただの闇商人ではないようなのです」

 ウルガに声に、硬いものが混じる。


 「…でしょうな」

 ただ、麻薬を使って女遊びをしているだけなら、聖王の密命まで出るわけがない。


 正規軍をおくって、闇商人を殲滅し、ついでに大司祭も始末する。

 「偶然にも」聖女拝命の儀式のために赴いていた大司祭たちが巻き込まれ、悪辣な闇商人により殺されたという事にすればいい。


 どいつかは知らないが、どっぷり関わっている司祭も、左方なら貴族出身だろう。

 アレな薬に手を出した挙句討伐されたより、不幸にも巻き込まれたという筋書きの方が実家も喜ぶ。誰も損をしない。


 「…魔族顕現の、実験をしている可能性があります」

 「…!」


 エディは息を飲み込み、マクロイは口をぽかんと開けた。


 「私も詳しいことは解かりませんが、今回使われている麻薬は、魔獣が原材料です。長く摂取することで、魔へ近づく可能性があるのだと…それを知って、実験している魔導士がいるのです」


 「そりゃあ、魔族崇拝者ってわけじゃなくて、ですかい?」

 「ええ」


 実験。実験とは。


 魔族が現れれば、必ず惨事が起きる。

 もし、聖女神殿跡地で魔族が顕現すれば、この村は間違いなく滅ぶ。


 アステリア自体、どうなるかわからない。


 それを、実験でやろうというのか。


 「何故…そんなことをやろうかと思ったのか、それは取り押さえた下手人にも理解できなかったそうです。もっとも、成功する確率はとてつもなく低いようですが…」


 「それで、ドノヴァン大司祭に?」

 「おそらく。高位の神官は神の器となりえる。ならば、魔の器にも、と思ったのではないでしょうか」


 それならば、あの無欲なひとは被害者だ。

 女神に全てを捧げた人が、その敵対者たる魔族の器となる。


 なんという悪辣な実験だろう。


 失敗したとしても、彼はもう麻薬に蝕まれ、元には戻らないかもしれない。

 同じ大司祭である、バレルノ大司祭の『解毒』なら、あるいは消し去ってしまえるのだろうか。


 「ですが、私は…」

 エディから視線を逸らし、ウルガは葡萄色の双眸を俯かせた。


 「あの方が…皆さんが言われている通りの方だとは、思えませんが」


 「へ?」


 「…本当に愛し、信じていれば、それを声高に宣言しなくてもいいのですから」


 声は小さく、低い。

 彼女が、聖王のことをどう思っているか、聖王が彼女にどんな想いをいだいているか、聞いたものは少ない。


 そんな話を、エディは思い出していた。


 「何かを声高に言立てるとき、ひとは」

 吐息のように、彼女は呟いた。

 「もっと別の、見せたくない、知られたくない何かを、隠しているのです」


***

 

 その後、エディとウルガは情報を交換した。


 調査に赴いているパーティのリーダーの名がファンであると聞いた彼女は、大きな目を更に見開いて見せた。


 すぐに救援に行くことを前提として斥候を先行させたところ、すぐに斥候兵が戻り、エルディーンらの危機を知らせてきたのである。


 もうあと少し、ウルガたちがやって来るのが遅ければ、少女たちは生きて戻れなかっただろう。

 そしてエルディーンとレイブラッドの抵抗が僅かに稼いだ時間が、救援を間に合わせた。


 これもきっと、女神の思し召し。祝福だなとエディは頷く。

 我らの女神は、諦めないものにはきちんと救いの手を差し伸べてくださるのだ。


 「あとのことは…」


 「任されましたとも!」


 言葉尻を奪った声に、ウルガは眉を顰め、エディは露骨に顔を歪めた。


 兵たちの間をすいすいと抜けてきたのは、一言で言えば胡散臭い中年男だった。


 ひょろりと長い体躯に、鼻の下からこれまたひょろりと鯰のような髭が伸びている。顎髭も細長く整えられ、それをしきりに手でこすっていた。

 纏うのは、兵装ではない。袖も裾も長い袷の服は、カーラン風だ。


 「末将それがしに、万事お任せあれぃ!」

 大袈裟で大仰な身振りで、髭をいじったまま一礼する。


 「ふぬっふふふ!可愛らしい娘々おじょうさん!もはや何の心配もいりませぬぞ!」

 ねっとりと流し目で視線を送られ、エルディーンは固まった。ぞぞぞ、と背筋が粟立つ。


 「いやー、せんせーのせーで、余計心配になっちゃうよねえ」


 その視線を、さりげなく灰色の青年が遮る。

 護衛の男を縛り付けていた『糸』はもう彼の両手にはないようで、暢気に手は頭の後ろで組まれていた。


 「それにそれ、もうあのおねぇさんが言ったしさ」


 これまたさりげなくエルディーンと聖女候補の少女を庇う位置のマーサに、胡散臭い男はにんまりと笑みを向けた。


 笑みを向けられても、まったく好意を抱けない。むしろ、敵意が煽られる。


 「あいや!しかし、美しい女性にならば先陣を譲るのもまた、男子の本懐ゆえ、なに、末将、いささかも気にしておりませんぞ?」

 「いや、せんせーが気にしても、気にしなくても、あんまし関係ないんじゃない?」


 「あ、あの…あなた方は…」


 ウィルの手を借りながら立ち上がり、エルディーンはおずおずと口を挟んだ。

 かなりうさん臭くても、彼かが命の恩人であることは変わりない。


 あとから出てきた男には、何もしてもらっていない気もするが…


 「あー、この人らは、アスランからの協力者だよ」

 返答は、エディからだった。

 嫌そうなのは、この胡散臭い男の洗礼を、エルディーンより前から受けているからだろうか。


 「アスランの?」

 その名を口にすることに、もう嫌悪はない。

 しかし、何故、アスランが協力してくれるのか、という疑問は残る。


 「この罰当たりども、アスランの禁制品をアステリアとアスランで売ってたみたいでな」

 ちらりと、エディの視線が縛られて転がされた司祭達へ向かう。


 いやに静かにしていると思えば、全員口には猿轡を嵌められていた。

 人質を取って脅した男とエルディーンが切りつけた男は、傷から血を流したまま地に伏している。


 ほんのわずかな差で、彼女自身がああして地面に伏し、涙と血を流していた可能性もあるのだ。

 それに気付いて、今更ながらに震えが走る。


 「大丈夫。あなたは、勝ったのですよ」


 その震える手を、そっとマーサが握った。

 包み込む掌の温かさに、恐怖が薄らいでいく。

 大丈夫です、と言う意志を込めてエルディーンはなんとか笑うことができた。


 「そうですとも!末将がおりますかぎり、敗北の二文字は無いのです!」

 「うっせーすわ…」


 「きゃ!」


 急に近くで聞こえた新たな声に、エルディーンはマーサにしがみ付いた。


 「あ、こりゃすんません。驚かすつもりはなかったっす」

 驚いたせいで涙が滲む目で見れば、声の主は同い年くらいの少年だった。


 濃い緑を基調とし、濃淡入り混じった灰緑の斑紋が散る服は、茂みの前に立つとまったく目立たない。もしかしたら、結構前からそこにいたのかもしれない。

 

 髪も同じ模様の布で覆われ、ただ柘榴色の瞳だけが違う色彩を持っていた。


 「こいつらで全部っす。誰もいなかったっすわ」


 「さっすがー、しろちゃんすてき~。出来るおとこ~」

 灰色の青年の賛辞(?)に、少年は露骨に顔を顰めた。


 「はー、なんで俺がこのクソを小便で煮染めたようなおっさんどもと一緒に仕事しなきゃんなんないんすかね?これもう、特別報酬の他に慰謝料貰わなきゃ…」


 「うーん、やっぱり、俺達みたいなダメ人間だけで行かせるの、不安だったんじゃなーい?」


 「わかってるっす!ただの愚痴っす!」

 少年は吐き捨て、ウルガへ向き直った。


 「報告は以上っす。お気をつけて」

 「はい。ありがとうございます」

 彼女の返答に、馬蹄の響きが被さる。


 村へと戻っていった兵士は、馬を連れに行っていたようだ。

 引き出された馬にウルガは淀みなく跨る。


 「では、私たちも向かいます。もう残党の攻撃はないとは思いますが…むしろ」

 「あなた方も還らなかった、その場合、ですな」

 こくり、とウルガは頷いた。


 「その際には、星竜君わがきみにご出陣願うしかありますまい」

 男の目が、すぅと細まる。


 「何、世界の危機とあらば、雷帝斧を振るう事に躊躇われませぬよ。まして、弟君の仇とあらば。ですが」


 両手を袖口にしまい、顔の高さで合わせ、男は腰を折った。

 今までの不快感を煽るだけの仕草と違い、厳かさすら覚える。


 「必ずや、皆様揃ってご帰還を。黄昏に呑まれませぬよう」

 何を言っているのか、エルディーンには解からない。わからないが、見上げるのは、山頂。


 彼女の恩人たちが、向かっている場所。


 (あなたたちは、負けませんよね?)


 ぎゅっと、熱を貰った手を握りしめる。

 私たちは、もう大丈夫、だから。


 (帰ってきて、くださいね?)

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