第25話 マルダレス山 広場2
「道はしっかりしているから、迷うことはないよ。大丈夫」
「…はい!」
馬の手綱をファンから受け取り、エルディーンはなるべく力強く見えるように頷いた。
受け取った手綱をつけられた馬に、もう一頭の手綱が結ばれている。
ファンが手綱を引いていた時には、大人しく縦列で歩いていた。御せる自信はないが、大人しい馬であるのは間違いないようだ。
貴族として生まれたからには、彼女も馬術の心得がある。
曳く馬の背に乗せられたレイブラッドなら、心得どころか人に教えられるレベルだけれど、彼はまだ目を覚まさない。
幸い、馬車には簡素な鞍と腹帯が積まれていた。
一頭の馬に鞍を乗せ、その鞍に騎士を腹帯で固定する。
二頭分の腹帯がなければ、小屋に置かれていた荒縄がその役目を担うことになっただろう。
「それと、これを。麓の村にいる、エディさんって言う神官戦士に渡してくれるかな」
渡されたのは、丁寧で端正な字が綴られた紙片だった。
「あの魔獣、クバンダ・チャタカラについて書いてある。万が一出没したときに対応できるようにね」
あの蜂のバケモノは、クバンダ・チャタカラというのか…
そう思いながらちらりと読むと、箇条書きに習性や攻撃方法、対処方法が記されている。まるで図鑑の記述のようだ。
「こっちも、同じくエディさんに」
もう一枚渡されたの紙片は、折りたたまれて中身が見えないようになっている。
私信の類だろうかと思いつつ、上着のポケットにしまった。
彼女のポケットに収まった私信は、クバンダ・チャタカラの食性や、クバンダの蜜について書かれたメモだ。
彼女たちが知る必要はない…少なくとも、今は…とファンが判断した内容である。
「もうちょっと、頑張って。大丈夫。本当に、あとちょっとだから」
穏やかな笑みに、聖女候補たちも精一杯笑顔を浮かべて頷いた。
顔色は救出直後と比べると段違いに良くなっている。
年相応の赤みが戻った頬は、もう涙の痕を残していない。
帰るのだ。帰れるのだ。
一度は完全に諦めた望みが彼女たちの心に灯り、生きる気力を奮い立たせている。
服はまだ完全に乾いたとは言い難く、恥ずかしいがやや臭う。
けれど、あの小屋の暗闇の中で魂まで凍えた恐怖に比べたら、そんな羞恥など耐えられる、と思う。
「この道、細い山道に見えるけどちゃんと整備もされているからね。馬を連れていても大丈夫。通れるよ」
ファンが示した道は、登ってきた道よりも細く、暗い。いかにも山道に見えた。
けれど、今は開けた場所の方が怖い。
空に浮かぶ異形の影を忘れられる日が来るのは、当分先だろう。
エルディーンは、ファンに視線を戻した。
その穏やかな笑みの向こうに見える、更に上る道。
先にあるのは、あのバケモノの巣であるかもしれない。
なのに、彼らは先に進むという。
一緒に戻れば、聖女候補を救った英雄として迎えられるというのに。
「…本当に、先に進まれるのですか?」
ついてきてほしいわけではない。
それはもちろん、一緒に来てくれればとても心強いけれど、それが一番の理由ではない。
もし、彼らが戻らなかったら。
それを考えるのが、怖い。
「んー、まあ、気になるしね。
学者にとって、気になるって言うのは如何ともしがたい理由なんだよ」
少しおどけたように答えてへらりと笑っているが、それはきっと、本心ではないだろう。
あの魔獣がなんなのか、ちらりとファンのメモを見た程度ではわからないけれど、間違いなく自然にこの辺りにいるものではない。
『誰か』が連れてきたものだ。
彼女は確かに視野は狭い。しかし、愚鈍なわけでもない。
あれがどんなものなのかは解からなくても、良からぬ目的があって連れてこられたものであることは解かる。
聖女拝命の儀を邪魔するために放たれたのか。もっと深い理由があるのか。
二日間、行程を共にした神官たちを思い出してみる。
ねばつくような視線。
居丈高な態度。
彼女の「実家」の名を聞いた途端浮かんだ、媚び諂う笑み。
彼らは、聖女候補たちにも同じような視線を向けていた。
卑猥なことをこそこそと話し合っていた。
それは、これから何十年ぶりかに誕生するかもしれない、聖女に向けるものではなかった。
「あの…」
「ん?」
「あまり、関係ないかもしれないのですが…」
それを口にしたのは、その不愉快な男たちについて、言いつけたかっただけなのかもしれない。
あきらかに、彼女は味方であり、尊敬の対象だったはずの神官たちより、ファンを頼りにしていた。
ほんの数日前、切り殺そうとまでした相手をこんなに信頼しているのは、きっとおかしなことなのだろう。
単純と嘲笑うならそうすればいい。
けれど、その信頼は間違っていないと、言い切れる。
「あの、神官…様たちは、バケモノが現れて逃げるときに、何故だって叫んでいたんです」
そう言えば、逃げるときにも躊躇いはなかった。
聖女候補が近くにいても、手を引いて一緒に逃げようともしなかった。
「なんだ、じゃなくて、何故だって」
あれは何だ、と叫ぶならわかる。
エルディーンもレイブラッドも、同じことを思った。
だが、神官の口から放たれた言葉は、「何故だ」だった。
エルディーンの言いつけに、ファンの顔から笑みが消え、眉根が寄る。
「…そうか…」
呟いて、ファンはちらりと視線を聖女候補たちへ走らせた。
「あ…」
思わずエルディーンは口許を抑えた。
エルディーンは言外に問いかけたのだ。
神官たちは、あのバケモノを知っていたのではないか。
良からぬことを企んでいるのは、神官たちじゃないのか、と。
ファンの視線は、その肯定だ。
同時に、大神殿に属する少女たちへの配慮を求める仕草だ。
エルディーンにとっては「嫌な奴ら」でも、少女たちにとっては同じ神殿、同じ派閥に属する同輩。
その同輩が、自分たちを見捨てて逃げただけでもショックであろう。
そこに、さらに衝撃を与えるべきではない。
まだ、彼女らの心を折るわけにはいかないのだ。
糾弾は安全な場所に避難してからでいい。
エルディーンはなるべく力強く見えるように頷いた。
つまり、一緒にやってきた神官たちに会っても油断しませんと内心に宣言したことが伝わるように。
きっとそれは、伝わったのだろう。
その証拠に、ファンも小さくではあったが頷いたのだから。
「今はただ、麓の村につくこと、それだけを考えるんだよ。本当に、もうすぐそこだから」
顔に笑みを戻し、ファンは右手の
彼のそれは一般的なものと異なり、親指と人差し指、中指が何か硬いもので部分的に補強されている。
なんでだろうと、むき出しの手よりもそちらをつい視線が追いかける
エルディーンの視線に気付いたのか、ファンは補強された部分を触りながら口を開いた。
「弓を引く右手はね、補強しとかないと弦ですぐにダメになるから。大角羊の角で補強してあるんだよ」
オオツノヒツジ、という動物の角であるらしい補強部分から指を離し、ファンは右手を差し出した。
「お互い、武運を。また、会おう」
「…はい!」
慌てて自分の手袋を外し、差し出された手を握る。
暖かい。
大きな掌のぬくもりは、先ほど貰った飴を思い出させた。
なんだか、体の内側から、自分も暖かくなるような、そんな熱。
ぎゅっと握りしめ、離す。
貰った熱が消えないように、急いで手袋を装着した。
「必ず、また!」
「うん」
同じく手袋をはめなおしながら、ファンも頷く。
何度も失態を見せたのに、まだ彼は私を見限っていない。それが嬉しかった。
もちろん、今、曲がりなりにも剣を振るえるのが自分しかいないからと言う消去法的な期待なのもわかってはいる。
けれど、どんな期待であれ、裏切りたくない。
頑張ったね、よくやったねと、言ってもらいたい。
「さあ、皆さん!まいりましょう!」
だから、声を出して、胸を張って。
自分は冒険者なのだ。
守られるだけの貴族令嬢であることは止めたのだ。
少なくとも、今は。
もう振り返らない。行くべき道に視線を据えて、歩き出さなくてはならない。
その最初の一歩が、酷く重たかった。
冒険者になる、英雄となってアスランを打倒するのだと家を飛び出した時には、足に羽が生えているようだったのに。
今なら、あれはただ浮かれていただけで、決意と言うものではなかったとわかる。
この一歩。
この一歩を踏み出せば、全ての責任は自分の背にある。
敵が現れたら戦わなくてはいけない。
誰かが道を踏み外してしまったら、救出に向かわなければいけない。
でも、その隙になにかがあったら?どちらを優先する?何を最善とする?
それは全て、自分が決めなくてはならないのだ。
怖い。
決断をするという事は、こんなにも重く、怖いものなのか。
それでも。
歩みを止めたくは、ない!
「…!」
トン、と、踏み出した足の裏が、土の感触を伝える。
動いてくれた。意思の通り、足は前に進んでくれた。
大丈夫だ。歩ける。前へ進める。覚悟も決意も、まだなくても。
きっと、彼は私たちが見えなくなるまで見守っていてくれる。
少し前までなら、その視線を重圧に感じていたかもしれない。
女だからと侮られてたまるか、と虚勢を張っていたかもしれない。
今はただ、彼の視線の意味を、心配と励ましと素直に取れる。
無理やり、エルディーンは口角を上げた。
不敵に笑っているように見えればいい。
私は、英雄にはなれなかった。
けれど、護衛の依頼を受けた冒険者なのだ。
だから、もう振り返らない。助けて、付いてきてなんて泣き言は言わない。
全員帰還する。
そして彼らを、笑顔でおかえりなさいと迎えよう。
必ず。
***
少女たちの背中は、楢の枝の向こうへと遠ざかっていく。
全員に帽子なり布なりを頭から被せ、裾は手足ともに包帯を巻いて隙間をなくした。
完璧な防御とは言えないが、ここに来るまでに蛭の襲撃はなかったから、この辺りにはいないのだろうと思うしかない。
「一緒に戻らなかったか」
「俺たちは聖女神殿跡地を目指すぞって言ったじゃないか」
少し離れたところで警戒していたクロムが、いつの間にか後ろにいた。
振り向くと、少し、いや、だいぶん残念そうだ。舌打ちでもしそうな様子である。
「土壇場であの小娘どもが心配になって、やっぱり下山まで付き合うと言い出すかと思ったんだがな」
「そりゃあ、心配だけどさ…この後、彼女たちが襲撃される可能性は低いじゃないか」
彼女たちの退却路に選んだ、登山道での待ち伏せの可能性は、ほぼない。
いくら急いで駆け登ってきたとはいえ、誰かが潜んでいれば気付くし、一本道だ。逃げた護衛の先回りもない。
他に道がなければ、だが。それはもう、祈るしかない。
「子供を初めてのお遣いに出す父親みたいな顔してるけどな。お前」
「絶対は、あり得ないからな。どんなことでも。けど、一緒に引き返して、それからまた登るのは致命的な遅れになるかもしれない」
今晩は、満月だ。
聖女拝命の儀は、今晩までに終わらせなければいけない。
それは完全に失敗に終わった。
候補の少女たちをもう一度登山させることは無理だろう。
クバンダ・チャタカラの駆除が終わったと宣言しても、染みついた恐怖は消えない。
無理やり連れてきたとしても、恐慌状態の少女が刻印を授けられるかと言われれば否だろう。
女神アスターは信徒へむやみに試練を与えるような神ではない。
刻印の授受は、どんな方式であっても魂へ負担をかける。
まともな精神状態ではないところに負荷を掛ければ、魂が崩壊する可能性もある。
それを望むような女神ではない。
女神が望んでいるのは、きっと違う事。
女神が、矢を託させた。
その意味するところは、聖女拝命の儀を助けることではなかったのだろう。
ファンは右手を握りしめた。手袋をしていなければ、爪が右掌に食い込むほどの強さで。
「月は、繋げるものだ。月光が天と地を繋げるように、満月は異空とこの世界を繋げる。
神の住まうらしい天界も、原始の創造神が追放された魔界も満月の夜が一番繋がりやすくなる…って、そういや今夜は、
アスランでは、今夜は満月を祝う宴がある。
一年十二十二回の満月のうち、今夜の満月が一番美しいとされ、その月を見ながら賑やかに過ごすのだ。
天界の神々へご馳走をお供えし、共に食べて加護を祈る。
今夜は子供が夜更かししても怒られない。
薄の穂を手に持って、歌いながら満月で出来た影を踏む遊びをする。
道で子供に影を踏まれた大人は、その子にお菓子をあげなくてはいけない決まりなので、アスランの菓子屋は今が一年で一番忙しい。
黄金の月の夜が終われば、アスランはもう冬の始まりだ。
遊牧民たちは夏と秋を過ごした地域から、冬の寒さを少しでも凌げる地域に移動し、年寄りや女性、小さな子供は冬を過ごす町へと移住する。
男たちは氏族で集まり、厳しい冬を乗り越えるための準備を始める。
乏しい草を求めて、ほぼ毎日住居を移動させる過酷な生活だ。
去年は、ちょうど今頃、アステリアへ向けて逃避行の最中だった。
影踏みの歌を口ずさんでいたらユーシンが影を踏んできたので、クロムが応戦し、結局三人でへとへとになるまで影踏みをして遊んだ。
男三人で野原に寝転んで、なんだかおかしくなって爆笑して。
あの時、なんだか一つ、吹っ切れた気がする。
ただ、
家族と一生会えなくなるわけでもなければ、家に戻る事もできないわけじゃない。
冬至から新年まで、独身の男だけで家畜番をするみたいなものだ。
少しだけ羽目を外すことも許される、辛いけれど楽しい時間。
「七歳の黄金の月の夜はさ、興奮して寝られなかったな」
「なんかあったのか?」
「七歳になれば、冬に町に行かず、
まあ、まだ大したことをさせてもらえるワケじゃないけど、『大人の話』にも混ぜてもらえるし、髪も伸ばせるようになる。子供が終わる夜ってとこでさ。
なんだか、自分がすっかり大人になった気がしたもんだ」
他の氏族では逆に、七歳の黄金の月の夜まで髪を切らない習慣もあるそうだが、ヤルクト氏族は子供は潔く坊主頭と決まっている。
男の子も女の子も、その日までは髪を伸ばすことは許されない。
ファンも当然、その日までは見事に坊主頭だった。
兄の金の髪を見ながら、早く自分も結えるくらいになりたいと切望したものだ。
今はすっかり伸びて肩から落ちかかる髪を摘まむと、その時のことを思い出してくすぐったくなる。
「ああ、あるな、そう言うの」
クロムが思い出しているのは、毛長牛の大きな背中だ。
守られるだけの子供じゃなく、仕事を任せられる一端の戦力と認められたのだという誇らしさ。
思い出せばこそばゆい、だけれど暖かい記憶。
「あの小娘も今、そんな気持ちなんじゃないか」
「そうかな…」
「たぶんな。残念ながら惚れた男の気を惹きたいっつう女の顔じゃなくて、親に褒められたいガキの顔だったが」
「あのなあ…」
思わず脱力したファンに向けて、クロムは首を傾げてみせた。
「まあ、俺もあの小娘をお前の嫁にって言うのは納得できんがな。釣り合うところがない」
「なんでそういう話になる…」
「で、だ。お前の嫁の話は今はどうでもいい」
「お前から振って来たんだろうが!」
主の抗議を重く受け止めたわけでは当然ないが、クロムは表情を改めた。
硬い光を帯びた双眸が、ファンの目を真っすぐに見つめる。
「前にも聞いたような気はするがな。この先、何がいるとお前は思う?」
「そうだな…」
クバンダ・チャタカラがいるのは当然として。
司祭と護衛の神官戦士たちは、「何故」と言って逃げた。
それは、二つの前提がある。
ひとつは、クバンダ・チャタカラの存在を知っていること。
そしてもうひとつは、その襲撃が「あり得ない」と思っていたこと。
その想定が正しければ、神官たちの認識は「クバンダ・チャタカラはいない」だったのだろう。
全滅した、と言う認識だったのか、広場には来ないという油断だったのか。
とにかく、いないはずの魔獣を見て、「何故だ」と言う言葉が口から出たのだ。
そして防衛手段を持っていなかったから、一目散に逃げた。人間を餌にする、危険な魔獣から。
「やっぱり、事態はクバンダ・チャタカラの飼育者の手から離れていると思う」
その目的が、単純にクバンダの蜜の密造と販売だったなら、特に。
「…ただ、それとは違う思惑が、あるように思える」
「どんなだ?」
「聖女候補たちは、聖女になれたと思うか?」
少しばかりの沈黙が流れた。
もちろん、ファンもクロムも聖女の条件を詳しく知っているわけではない。
多くの御業を使えるよりも、生まれた月とか身体的な特徴が必要なのかもしれない。
けれど、それなら大神殿で話を聞いた時、「条件に合う娘は左方にしかいなかった」と言う話が出ただろう。
バレルノ大司祭は、「いつの間にか左方で決めていた」と話していた。
彼女たちがクロムの母、サフィル公女のように、強い精神と慈悲を持っている…とも思えない。脅威に怯える普通の少女たちだった。
「逆に聞く。あの小娘ども、実家はそこそこの貴族だと思うか?」
「…思わない。貴族令嬢は見慣れているけれど、違うな」
「俺もそう思う。勘ではあるがな」
再び、沈黙がわだかまる。
「結論は、まだ出せない。けれど、仮定としてだが。
俺はやはり、聖女拝命の儀に関する神託は、なかったんだと、思う」
「なら、あのいかれた爺さんが聞いたって言う女神の言葉は?」
「虚言だ」
苦しそうに、ファンは言い切った。
「女神が神託を下すとしたら、聖女拝命の儀を行えなんてもんじゃなく、跡地とは言え自分の神殿で行われている悪事を止めろと言うだろう。
そうでないと、女神の矢が託された事と矛盾する」
「拝命の儀をってのが建前で、ただ戦力引き連れて向かったって可能性は?」
「それなら、最初の襲撃で護衛は逃げないだろう。
大司祭が魔獣を討てと命じれば、喜んで剣を振るうさ。女神アスターは魔を断つ聖剣を掲げる女神でもあるんだから」
まして、左方では特にその面を強調されている。
忌まわしい魔獣が神殿跡地に巣食い、女神がその駆逐を命じたのならば、拒む理由はない。
単純に女神の為、正義の為だけでなく、大神殿の地位の向上にも繋がる。
跡地を放置していたからこんなことになったと言えば、聖女神殿再建に文句を言う輩はいないだろう。
「何故、聖女拝命の儀をせよって言う最初の女の子のウソに乗っかったのかはわからない。
ただ言えることは、準備をした左方の神官…まあ、司祭だろうけど、そいつは大司祭が神託を受けていないことをわかっていたんだと思う」
「そいつが黒幕ってことか?」
「世の中、一人の人間だけが悪事を企んでるわけじゃないからなあ」
ファンは苦笑の欠片を頬に張り付かせ、口許を歪めた。
「おそらく、逃げた連中はドノヴァン大司祭の直弟子や信奉者じゃない。それなら、まっさきに大司祭を助けに行くだろう」
「まあ、そうだな」
「だが、見捨てて逃げた。彼らにとって、大司祭はそれほど重要ではないからだ。だけど、ここでもうひとつ、俺が気になることがある」
主の言葉に、クロムは肩を竦めてみせた。
「三つ四つにしとけ。どうせ増えるんだろ」
「増えねーよ!そのひとつは、何故ドノヴァン大司祭は襲われていないってことだ」
いつものやり取りに、苦し気だったファンの表情は少し和らいだ。
その事に内心を撫で下ろしつつ、クロムは今度は真面目に問う。
「なんで襲われてないって言えるんだ?」
「クバンダ・チャタカラの狩りは、まず相手を麻痺させる。
襲われたなら目視できる範囲に倒れているだろう。レイブラッド卿を真っ先に襲ったとは言え、すぐ傍にまだ襲える獲物がいるのに無視する理由がない。
御業やなんかで退けたなら、クバンダ・チャタカラの死体が転がっているはず。それもない」
「『盾』の御業みたいなもんで身を守った可能性は?」
「基本的に御業は発動時間が短い。『加護』は例外的に長いけれど、あれは物理攻撃には無意味だし。
御業を使うなら全員守って小屋に退避するだろ。それをせずにさっさと先に進んだってことは、自分は攻撃を受けないとわかってるってことだ。
つまり、ドノヴァン大司祭はフェロモンを使用していた可能性が高い。そこから仮定すると…」
ぎゅっと、口許が歪む。
「ドノヴァン大司祭は、クバンダ・チャタカラが飼育者のコントロールを外れていることを知ってる」
「さらに、同行の連中にはフェロモンを使わせてないってことは、蜂の餌になっても構わんと思ってたってことだな。あの小娘どもも含めて」
微かに、ファンは頷いた。
ファンは、ドノヴァン大司祭についてはほとんど知らない。
だが、所謂悪人、悪党の類ではないと判じていた。
少なくとも、金や権力に酔うような人ではない。
その見立てが間違っていたとは、今でも思わない。
だが、逆に。
麻薬の生む金が目当てではないとしたら。麻薬そのものに耽溺しているならまだいい。だが。
「彼もまた、コントロールを外れているのかも、知れないな…」
「あの爺さんが?誰もコントロールできないんじゃないか?もとから」
「なんていうかさ、彼は彼なりの思惑で動いていると思うんだ」
ファンは、良く知っている。
もっとも手におえない人種と言うのは、私利私欲に走り、人を人とも思わない悪人ではない。
悪人は、自分の損になると知れば退く。
それは、寄生虫と宿主の関係に似ている。
宿主を殺すことは、寄生虫としても本意ではない。なるべく肥え、長生きし、己を養ってほしいからだ。
だが。
脳裏によみがえるのは、友と呼んだ男の、哀しみに満ちた眼差し。
彼は、ファンが死ぬことを、心の底から嘆いていた。
嘆きながら、殺そうとしていた。
己の信じる、「正しい事」のために。
そう、彼ら彼女ら、「正しい人」は、いかなる犠牲…その中に自分も含まれる…も厭わない。
そしてたいていの場合、視野は極端に狭く、己の「正しさ」を疑わない。
今、自分が殺そうとしている相手にも、なにかしら「正しさ」があることを認めない。知ろうともしない。
その狭さが、とんでもない愚行を冒させる。
「考えてみたら、左方が、特に大司祭がアスランの許可を必要とするって前提がおかしいんだ」
聖女候補は全て左方から選ばれた。
馬車を仕立てるのも何もかも、別に右方の財力は必要とされていない。
アスラン王国を「敵」と見做す左方が、わざわざ許可を求めるだろうか。
いくらバレルノ大司祭が迅速に動き、止めるように申し出たとしても、無視してしまえばそれまでだ。
「護衛をどうするかだなんだで出発が遅くなったってジョーンズ司祭は言ってたけど、いくら大神殿が冒険者を見下しているからって、相場の一割で雇えるとは思わないだろう。
それについては、自分とこの神官戦士を連れて行くけれど、武装神官がいることを見咎められないように、護衛を雇おうとしたが見つからなかったので仕方なくって状態にしたかったんだと、思ってた」
「今は違うのか」
「ああ」
喘ぐ息を抑えるように、これから話すことに耐えようとするように、ファンは握りしめた拳を胸に当てた。
視線は地に落ち、彷徨う。
言おうとしていることは、ファンにとって言いたくない仮説だ。
望ましい結果が出なくても、事実は事実。真実は真実。真実が美しい物語であっても、美しい物語だから真実という事はない。
どんなに醜悪で、読後に吐き気しか残さないような事であっても、それが真実ならば追及するのが学者だ。
どうしても希望的観測を混ぜてしまい、師の一人から説教されたことを思い出す。
そこに真実の欠片があるのなら。
目を背けることは許されない。
だから、ぐちゃぐちゃに頭の中で積みあがっている情報を整理するためにも、ファンは再度口を開いた。
「仮定にも仮説にもならない思い付きだ。だけど、可能性の一つとして、彼は元々、今日聖女神殿跡地へ行きたかったんじゃないだろうか。
だから、時間を稼ぐ必要があった」
現れなかったという別の町の司祭。
彼らは、本当に現れなかったのか。
元々、いなかったのではないのか。
時を稼ぐために、ありもしない待ち合わせを装ったのではないか。
「今日は、満月だ。
満月は、神界にも魔界にもつながっている門だと言われる。
そして、聖女神殿跡地は、大神殿よりも、女神アスターを降臨させやすい場所なんじゃないかと思うんだ。
刻印をこの地で授けるってことは、必ず神が降臨するってことだし」
刻印は神が人間に授けるもの。そのとき必ず、神は地上へ降り立つ。
「聖女拝命の儀をすりゃ降りてくるんだろ?」
「ああ。だけど、今夜ここで降りるのは、女神だと思うか?」
人肉を主食とする魔獣。クバンダの蜜を愉しむために使われ、そして餌にされた数多の人々。
それを欲望のままに行った、外道ども。
どう考えても、女神が降りるような場所ではない。クロムは首を振った。
「罰を当てに降りてくるならわかるが、神様ってのはそれはしないんだったな」
「出来るなら、クトラの悲劇の際に降臨していただろうからな」
総本山であるアスター大神殿に属する神官から悉く御業を取り上げるほど深く怒り、嘆いた女神だ。
できるなら惨劇のなかに降臨し、自らの手で止めただろう。
だが、悲劇は人の手で行われ、人によって止められた。
神はよほどのことがない限り人間世界に直接干渉はしない。
一国が滅ぶほどの事でも、手を出せないのだ。
クトラ王国の守護神であるヘルカとウルカも、姿を見せることも警告を発することもなかった。
「人の呼び掛けに応じるのは、神々ばかりじゃない。魔もそうだ」
「おい、なんでそこまで話が飛ぶ?お前また暴走してないか?」
さすがに目を丸くしたクロムに、ファンは首を振ってみせた。
反乱軍がいると思った時とは違う。
あの時は、そうかなと思う証拠を捜して組み立てた。
だが今は逆に否定する材料を集めて、探して、見つからないと途方に暮れている。
むしろ、肯定する因子ばかり目についてしまう。
「クバンダ・チャタカラの女王を、どういうルートで手に入れたか。他にもっと作りやすい麻薬はたくさんある。植物性のものとかな。芥子を育てたっていいんだ。何故、クバンダの蜜なのか」
「まあ、確かに。神官が麻薬を売りさばくのは珍しくはないが…」
司法の目が届きにくく、植物を育て薬を精製しても怪しまれない神殿は、しばしば麻薬の製造と密売の舞台になる。
神殿によっては儀式のために麻薬を作ることもあるのだ。
それを横流しすることも、残念ながら往々にしてある。
「クバンダの蜜は、元々メルハの地方寺院で行われる儀式のために造られたものだ」
しかし、遠く離れ、気候も違い、国交もない国の麻薬を作ろうと、何故思い立ったのか。
確実に、手引きをしたものがいる。クバンダ・チャタカラをこの地に運んだ『誰か』が。
「アイツら、他所の神様は大嫌いなんじゃなかったか?」
「ああ。だけど、ドノヴァン大司祭は異国人を嫌ってるって感じじゃなかった。
それに、まずクバンダの蜜に手を出したのは、大司祭じゃないだろう。
もっと快楽と金に弱い司祭の誰かだ。それに、知らずとは言え一度でも使われたら、それは大きな弱みになる」
ばらされたくなければ手を貸せ、何、貴方にも損な話じゃない。
莫大な金を儲けることができるし、また、愉しむこともできる。
それと、貴方の味方を増えしてしまえばいい。
この薬は使いすぎなければ大したことはないから、愉しみを教えてあげるだけ。
親切ですよ。
聖者と名高いあの高慢な男が、犬のように腰を振っている姿を見て、同じ所へ堕ちたと嗤ってやりたくはありませんか?
アスランの地方都市にある神殿で起きた薬物汚染は、こうして麻薬商人に引き込まれた司祭から始まった。
そう書かれた報告書の記述を、ファンは思い出していた。
麻薬に溺れていることが知られれば、必ず罰を受ける。
政敵に知られれば、罪は何十倍にも膨れ上がるだろう。
実際にはやっていない罪もでっちあげられ、死罪まではいかなくても二度と表舞台には出られないようになるか…累を恐れた親族によって、病死か事故死と墓標に刻まれることになるかもしれない。
それを防ぐには、徹底的に隠すか、もしくは知られたくない相手にも同じ罪を共有させるかだ。
そうして伸びた黒い手は、大司祭を捕えた。
おそらく彼はもう、クバンダの蜜を服用しているだろう。
あの異様な痩せ方、老け方は、麻薬の摂取によるものとみれば、納得する。
幻覚などの症状は出なくても、心身に負担はかかる。
食欲の異常な減退や肥大は、麻薬中毒の典型的な症状だ。
「神でも魔でも、降ろせるのはよほど魂位が高い者だけだ。大司祭とかな。
それに、神が降臨しやすい場所ってことは、門が開きやすく、魔を呼び寄せやすい場所でもある。
本来なら神の力が強ければ、魔族は近寄ることもできない。
けれど、元々、穢された神殿の跡地で、さらにそこへ汚泥を掛けるような真似をする。
加えて、今夜は満月だ」
「それでも弱いな。他に根拠は?」
首を振りながらも、クロムは納得していることを自覚していた。
根拠はない。けれど、これは真実に近いか、そのものだ。
それを本能が感じている。
危険だ逃げろと警告する。
「もともとクバンダの蜜を造っていた神殿で祀るのは、夕闇で鬼火を持つ女神チュレル。クバンダの蜜による極度の興奮状態に陥った巫女に、かの女神は神託を授けると言われている。
クバンダの蜜自体が、神降ろしの為に造られた品なんだ。だが、記録では、降りてきたのは神だけじゃあなかった。
そしてチュレルは、黄昏の君の妻の一人だ」
「…黄昏の君、だと?」
「ああ。始源の創造神の弟にして、魔界からこちらを伺うもの。
紅鴉の敵対者。惑いと混乱を好む神」
その神は、この世界に生きる者なら誰でも知っている。
だが、その名は誰も知らない。
英雄神マースによって異界に追放された際に封じられたのだとも、自ら隠したのだとも言われている。
かつて、己が創造した世界を壊し、次の世界を作ろうとした創造神。
その弟は、英雄神マースに協力すると見せかけて裏切り続け、最期は創造神を封じる枷の一つとして、共に異界に封じられた。
だが、意識自体を深く深く封じられた創造神と違い、彼は百八つの目を常に見開き、月の向こうからこちらを伺っている。
隙があれば眷属を送り込み、世界を滅ぼそうと企む。
黄昏の君、もう一つの名を、万魔王。
かつて、五回。
世界はその攻撃を受け、退けた。
マース神の加護を受けた、灯の英雄によって彼の企みは潰えてきた。
だが、それで終わりではないことは誰もが知っている。
黄昏の君は、この世界を憎んでいる。
己を追放した神々を、その神々の愛し子であるこの世界を滅ぼさんと企みを巡らせている。
「チュレルは魔神じゃないが、恩恵をもたらす神でもない。災いを起こさないように祀るのが基本で、クバンダの蜜を使う儀式をするような神殿では、その力で敵に災いを齎し、自分たちにだけ富がやってくるようにと祈られるような女神だ。
…そして、夫を常に呼んでいるとも言われている」
「その信徒どもは、魔族を召喚したがってるってことか」
「仮説どころじゃない。仮定にも行っていない。最低最悪のパターンの予想だ。大司祭が、聖女候補たちを守るようなら、それはないと思っていた」
「考えてはいたのか?」
「…女神の矢を託されるような事態って言うのは、魔族がらみの可能性が高い。
けど、ろくでもない連中がいて、大司祭らに危険が迫っているから助太刀をしてほしいって意味かもしれないと解釈をしていた。
麻薬密売組織なんて厄介なもんだけど、俺には潰す伝手もあるしさ。それで大司祭やその護衛戦士と力を合わせて悪党どもを蹴散らし、聖女候補たちを泉まで導く…ありそうな話じゃないか。
神具があれば、儀式の成功率も上がるかもしれないしな。そもそも、この矢が聖女拝命の儀に使われていた可能性もあるし」
捲し立てるように希望的観測を述べた後、ファンは口を噤んだ。
だが、それは、ドノヴァン大司祭も神託を受け、聖女拝命の儀が行われることが前提だ。
その可能性が欠片ほども残っていないことを、ファンが一番理解している。
だから、再び口を開いた。
「聖女拝命の儀に一番大切なものは何かって言ったら、そりゃ聖女候補の少女だろ。ドノヴァン大司祭は、完全に彼女たちを無視していた。
儀式があるなら何が何でも守らなきゃならない一番大切なものを顧みもしなかったってことは、彼が聖女拝命の儀はないと考えていることを示唆する」
ファンの手が矢筒に置かれる。
その中に収納されている、女神の矢。
矢は、何をするものか。何のための道具か。
それは、敵を射つ為の武器だ。
女神は、実に単純明確に告げているのではないか。
魔を射て、と。
「女神の矢が、俺の手に渡った。それがもう、根拠になっている…のかもしれない、と思う。あまり認めたくはないけどな。
だが、仮説の一つとしてはっきり言おう。
魔族召喚を試みるつもりなんだ。俺たちの敵は。
それが、ドノヴァン大司祭なのか、別の誰かなのかはわからないけれど、麻薬そのものが目的の一派と、それを手段にする一派がいて、今聖女神殿跡地にいるのは、魔族召喚を最終目的とするほうだ。
…俺たちがここに居るのも、その根拠の一つ、だな」
「ファン…」
「正直、自分の予想が間違えていれば良いと思う。
あの日の自分の選択を悔やんだことはないけれど、来なきゃいいとはいつも思う。今だって、そう思う。
魔族になんか、関わり合いになりたくはないよ」
吹っ切るように笑って、ファンは顔を上げた。
「本当に、悔やんでいないのか?」
「百回繰り返しても、百一回同じ選択をするだろうな」
満月色の瞳は、少女たちの背中も消えた山道から空へ、そして山頂へ続く道へと視線を移す。
「もう一回言うぞ。何百回、何千回、何万回やり直しても、俺は同じ選択をする。
今の俺じゃ想像もつかない辛い未来があって、それを経験した後でも、俺は同じようにする」
「そうか」
それが嘘偽りではないことを、クロムは分かっている。
本当に、何万回繰り返しても、ファンは同じように戦い、死にかけ、またあの選択をするだろう。
ここで死ぬのが君と彼の運命。けれど、それを捻じ曲げるかい?
もとからの運命に従った方が、遥かに安穏な人生であったとしても?
君が選ぶ運命の先に、数多の屍が積み重なり、血が流されたとしても?
それでも君は、諦めないと言うのかな?
何度問われても、きっとファンは「そうだ」と断言する。「決して諦めない」と言い切る。
一瞬も迷わず、手を、運命を差し出す。
その選択を突き付けてきた相手は、ファンを「強欲で傲慢」と評した。
実際、それが彼の本質なのだろう。
流されやすいし、押しにも弱い。
だが、本当に自分がやりたいこと、欲しいものは決して諦めない。
どれほど傷つき血を流そうとも、必ず成し遂げる。
そのやりたいことや欲しいものが大陸統一だとか、世界そのものだとかとわかりやすいモノなら、兄を凌いで後継者となり、万軍の前に立つ主となっていたかもしれない。
だが、
横に飲めるお茶があって、腰を下ろすのに悪くないクッションがあればなおいい。
そして、それが出来る世界を守る。誰にも壊させない。
運命の果てに屍の山が、血の河ができるというのなら、そうはさせない。なんとかする。
今ここで自分が死なないことも、未来で失われる誰かの命も、諦めない。
すべて、守る。
そう、ファンははっきりと応えた。
まったく強欲だ。
そして、自分にはそれが出来ると宣言したのだから、傲慢にもほどがある。
傷付いた腹からは抑えていなければ臓腑が漏れ出すような有様で、武器は不得意で素手の方がましと酷評される剣が一本。
致命傷になりえる腹の裂傷の他にも、全身に細かい傷がいくつも散り、服は出血で赤く染まっていても、なお。
運命に屈することを拒み、己の望みをすべて叶えると言い切る強さは、クロムの魂を震えさせた。
あの時の衝撃を、クロムは忘れたことがない。あの衝撃を上回る感覚を味わったこともない。
異性を好きになる…例えば、ナナイに抱く感情は間違いなく好意であり、愛情ではあるけれど、それとは全く違う。
ナナイには向けた好意と同じくらい好意を返してほしいし、自分を好きでいてほしい。
だが、ファンに自分が向けているのと同じだけの感情を返してほしいとは全く思わない。
極論から言えば、路傍の石のように気に留められない存在でも構わないのだ。
望むのは、すぐ隣で見せてほしい。
その強欲を、傲慢を。
「可哀相だから助ける」「俺が嫌だから諦めない」と、理屈も絶望も蹴り飛ばして歩む生き様を。
人が人に惚れこむ、と言うのはこういう事なのかも知れない。
理屈や言葉で説明できるのようなものではなく、ただ、あの衝撃をもっともっと味わいたい。それだけなのかも知れない。
おそらく、歴代の守護者も、そうして主に惚れこんで全てを捧げたのだろう。
殉死を禁じられていても、それを守れるはずがない。
全てを捧げた相手がいないのに、なぜ生きていける?
全てを捧げてしまったのだから、残るものはただの肉の塊でしかないのに。
たとえ主の下す最後の命令が殉死の禁止であったとしても、守護者なら刃を己の首に当てる。
きっと、自分もそうするだろうし、ファンの祖父や父、兄の守護者たちもそうするだろう。
寿命で安らかな死を迎えるのであっても、それは変わらない。
まして、敵に奪われるなど、あっていいはずがない。
「たとえ、敵がいかれた爺さんだろうが、魔族だろうが、万魔王だろうが、運命だろうが」
その敵がどれほど強大な相手であっても。
自分よりはるかに強い存在であっても。
剣を抜き、盾を構えよう。
主を背中に庇っているのであれば、何にだって立ち向かえる。
「俺はお前を守る。俺は、
この想いは、忠誠心なんて言う綺麗なものではなく、もっと荒々しく、我儘で、ろくでもないものだ。
だが、それを受け入れる主も、強欲で傲慢なのだからちょうどいい。
「うん」
目元と口許を緩ませて、ファンは微笑った。
きっと、ファンはクロムの内側にあるこの感情を、毛の先ほども理解していない。
理解できるはずがない。彼は主なのだから。
だが、そんなことなどどうでもいい。
己の感情や想いなど、自分だけが解っていればいいことだ。
本当に主の身の安全を守るのなら、こんな厄介ごとからは遠ざけるべきだろう。
引き摺ってでも先ほどの小娘どもと一緒に下山して、あとは大神殿に押し付けるべきだ。
けれど、クロムは見てみたい。
この先にあるものに、待ち受けるものに対して、主がどれほど不遜に振舞うのかを。
例えこの先にいるのが万魔の王であっても、ファンは絶望を拒むだろう。
最後の一瞬まで、心臓が最後の鼓動を終えるまで、抗い、倒す手段を探り、生き残る術を探る。
安らかな絶望ではなく、血塗れの希望を掴む姿が見たい。
そうして見せてくれたのなら、必ずその先に、ファンが望んでいる暢気に虫の図鑑でも読んで暮らす未来を守るから。
「ユーシン達は火を消せたかな。二人にも説明しよう。まあ、仮説が外れたらそれはそれでありがたいことだしさ」
これから行く先に魔族がいるのかもしれない。
その可能性に気付きながら、こうして何でもないと笑える人間が、この世界に何人いるだろう。
うちの主はその一人だ。どうだ最高にいかれていて、いかしているだろう。
そう思うと、くつくつと笑いが湧いてくる。
「…?何笑ってるんだ、クロム」
「別に。大したことじゃない。そんなことより、説明は短くわかりやすくな。馬鹿がまた寝るぞ」
「う…努力はします…」
多分、その努力は報われないか、努力したと思っているのは本人だけで冗長に遠回りばかりの話をして、ユーシンは寝るだろう。
まあ、そうしたら今回ばかりは起こしてやればいい。
本当に、この先にいるのが魔族なら。
油断すれば、簡単に死ぬのだから。
***
「出発の前に、最悪の事態が起こっていた場合のことを話しておきたい」
「サイアクの事態かぁ。あの蜂のお化けがいっぱいいるとか?」
「いや、恐らく、クバンダ・チャタカラはほとんどもういないと思う」
土をかぶせて火の始末をしながら、ヤクモは首を傾げた。
「なんでぇ?」
「次の襲撃がなかったからではないか?」
被せる土を掘り起こし(小屋にスコップがあった)、落とし穴と呼べるレベルの穴を穿ったユーシンが答える。
「うん。よくわかったな。ユーシン」
「ここいらは奴らの縄張りなのだろう?ならば、巡回していてるのが当たり前だ。それがないという事は、縄張りを維持できなくなった…つまり、もうあまり数がいないのだと思ってな」
「さすが、野生の獣に近いだけあるな。同類のことは理解できるのか」
「ケンカを売っているのならば買おう!ちょうど貴様の墓穴は掘り終わった!」
「はい、じゃれあわない」
ぱん、とファンが手を打ち、クロムとユーシンはお互いからファンへと視線を移す。
「ユーシンの言うとおりだ。クバンダ・チャタカラが活発に活動するには気温が低すぎる。もう、動ける成虫はあまりいない可能性がある。全滅はしていないとは思うけどな」
「じゃあさ、サイアクってどんなこと?」
すう、とファンは息を吸った。
「聖女神殿跡地で麻薬の蜜層や密売が行われていることは、間違いない。
クバンダの蜜は、魔獣の分泌物から作られる。
それを長期間摂取することは身体に負担をかけ、突然死を招く。
だが、そうならなかった場合、次の段階へ進む。
実例はほとんどない。クバンダ・チャタカラ研究の第一人者であるマーヤー博士も、文献でしか確認できていないと言っていた」
「そんな研究者いるんだ…やっぱり、学者さんって変わってるんだねぃ」
「おい、うちの父さんも医学者だぞ。訂正しろ」
「先生は正確には医学者って言うより、薬草学者だけどな。
とにかく、摂取を続けても死ななかった場合、人ならざる者へと変容していく、らしい」
魔は、元々この世界の摂理から外れるもの。
その一部を取り込み続けて、無事なわけがないのだ。
「元々は巫女に投与して、まあ、その、極限まで高めた性的な刺激を与えることで、神託を受ける、と言う儀式に使われる薬物だけど、最終的な目的は、祭神である女神チュレルを降臨させる器を作る事、なんだそうだ」
「やってるだけでできんのか?」
「マーヤー博士の仮説だと、実は副次的なものなんじゃないかなと。
クバンダの蜜を摂取するとどうしても性的な欲求が高まるし、絶頂の中で神託を受けるって言うのは他の地方神にもみられる。
要は我を忘れる手っ取り早い手段だからな。
本来の目的は、魔獣の分泌物の摂取に耐えられる適合者を捜す手段だったんじゃないかって言うのが、博士の学説だ」
ファンの既に冗長になりつつある説明に、ヤクモは眉を寄せた。
話が長いことにではなく、その説明から予想される地獄絵図を想像した結果だ。
「んー…女の子たちはみんな助けたから、ええ~…おっさんとおじいさんがそう言う事になってるかもってこと?それはサイアクだなあ…」
「え、うん。まあ、それは最悪の光景だけどな。そうじゃない。
女神チュレルがその作られた器に降臨したという記録は、一回だけ。
けれど、チュレル神殿以外の記録を紐解くと、そうして作られた器を使って魔族が顕現し、災害を起こしたという記録がある」
半分寝ていたユーシンですら目を開き、全員ファンを見つめた。
「魔、族…?」
「そうなんだ。クバンダの蜜を長期摂取していくことで、人ならざる者に近付く。魔獣化するって意味じゃなく、神や魔を降ろしやすい器になっていくってわけだ」
「先にそれを言ってよぅ!ヤバいもん想像しちゃったじゃんかあ!」
ヤクモが自分の身体を抱きしめたのは、想像したヤバいもんのせいではない。
魔族の降臨。
それは、たった一体でも多大な被害をもたらす。災厄に等しい。
いつも相手をしているトカゲなど、比べ物にもならない危険な相手だ。
それでも、ヤクモは魔族が怖いとは言わなかった。
それでも抑えきれない恐怖は、冗談に紛らわせた。
怖いものは怖い。けれど、立ち向かえない恐怖ではない。
ちらりと横を見れば、ユーシンは黙って立っている。
だが、その口許は獰猛に吊り上がり、双眸は爛々と闘志を宿していた。
絶対に強い敵と戦う。その予感が、ユーシンを滾らせる。
そんな仲間の側で、怖い怖いと泣きべそをかけるわけがない。
無理やりに、ヤクモもユーシンの真似をして口角を釣り上げた。
「つまり、この先、俺たちの敵は魔族の召喚を試みようとしている可能性がある。あくまで可能性だ。絶対にそうとは言えない。けれど、どんなに相手が弱く見えても気を抜かないでくれ。相手はこちらの常識が通用しない存在なんだから」
「コイツの話を纏めるとだ。
クバンダの蜜っつう麻薬を作って売ったり、キメさせた女を抱かせて商売してた連中と、そいつらの後ろで魔族召喚を企むバカがいるんじゃないかってことだ」
「説明すっごい短くなったよ!?」
すぱんと話を纏め、クロムは「あっているな?」とファンを少々呆れた目で見る。
しょぼん、と肩を竦めながら、ファンは頷いた。
「ふむ。あの老爺は、その器になりえるのか?」
「え、やっぱり、おじーさんにそういうことを…?魔族より嫌なんだけど…」
「だから、性的な興奮は副次的なもので、その、そういうことをして、魔族を召喚させるわけじゃないから!…たぶん」
学説では、両者は切り離せるが、何しろクバンダの蜜を使った儀式には必ず行われるものだ。
魔族を召喚する手段として、そういった行為がないとは言い切れない。
「ふむ。そして、そのそういうこと、というのをやれば、なりえるのか?」
「ドノヴァン大司祭の魂位は相当高いだろう。魂位ってのは異界の力にどれだけ耐えられるかって言う指標みたいなもんだからな。
クバンダの蜜に耐えきる可能性は、高いと思う」
「まあ、薬にラリってるって言われたら納得するな」
「けど、なんで大司祭様が魔族を呼んだりするのぅ?おかしいよ」
「うん…それなんだけどさ」
いくら麻薬に狂ったとしてもドノヴァン大司祭の女神アスターへの信仰は本物だ。
その信徒が女神の敵である魔族召喚に我が身を捧げる理由はない。
だとすれば。
「ドノヴァン大司祭は、女神を降臨させるつもりなんだと思う」
「おじいさんに!?女神様、おばーさんになっちゃわない!?」
「器になるって意味じゃなくて、降臨を願うつもりなんじゃないかな」
そう、大司祭は思い込んでいる。
聖女拝命の為ではなく、自分の為に降臨してくださると。
だから、満月の夜に聖女神殿跡地へ向かった。
おそらくそれは、『誰か』に唆された結果だろう。
だが、クバンダ・チャタカラを持ち込んだ『誰か』の最終的な目的が、魔族召喚にあるのなら。
「穢された神殿、魂位の高い器、そして今晩の満月…準備万端ってとこだな」
「なんで…そんなこと…」
「世の中のバカは大抵その場のノリだけで生きている。大方、うまくいかないのはこの世界が悪いから滅ぼしちまえなんていう、頭の悪い発想だろ」
反吐が出る、と吐き捨てたクロムの肩を叩き、ファンは山頂へ続く道へ視線を動かした。
「俺が今迄見た、魔族や何かを召喚して世界を壊そうとしている輩は、まあ確かにそんなノリだったな。
でも、そんな八つ当たりに俺たちが、世界が付き合ってやる義理はない」
クロムの肩から離れたファンの手が、山頂を示す。
朝よりだいぶん曇ってきたが、明るい陽射しがこの広場と同じく、聖女神殿跡地にも降り注いでいるはずだ。
女神が愛し、女神を愛した信徒たちが暮らしていた地。
大勢の祈りに包まれ、たくさんの幸せが願われた地。
踏みにじられ、壊されたその地を、これ以上穢させるわけにはいかない。
「行こう。月が登る前に決着をつけたい」
視線は再び、仲間たちへと戻る。
「目標は、聖女神殿。クバンダ・チャタカラの殲滅と、魔族、ないしはその召還を試みる大馬鹿野郎の討伐だ」
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