第24話 マルダレス山 広場

 灯り取りの窓を開けると、まだ昇りきっていない朝日が室内に差し込み、恐怖との戦いの痕跡をうっすらと照らし出す。


 粗末な椅子や箱が乱雑に入り口近くに置かれている。

 どうにか扉を守ろうと、バリケードを作ったんだろう。


 床についた染みは、部屋の中央と、それより三歩くらい扉近く。

 まだ、完全に乾いているようには見えない。


 レイブラッド卿が寄生されていなかったことも考えると、襲撃があったのは今日になってから…だな。

 昼行性と聞いているクバンダ・チャタカラの生態を考えれば、夜明けから早朝にかけてか。


 朝、目が覚めて窓を開けた時、結構寒かった記憶がよみがえる。


 麓の村、家の中であの気温なら、この辺りはもっと気温が低かったはず。

 規模は小さいけど盆地みたいなものだし、冷気も熱気も籠る。


 南方の密林に暮らすクバンダ・チャタカラにとっては、もう「冬眠」してもおかしくない気温だ。


 それでも、狩りに出かけたということは、食料が枯渇してきているんじゃないかな。


 つまり、今現在、幼虫に巣食われている犠牲者はいないか、いてもごく少数。

 それは良い事なのと同時に、未帰還者の生存の可能性が少なくなるということだ。


 でも、もしかしたら、聖女神殿跡地にいる神官たちは、村から食料をせびり取っていくような連中らしいが…まともな神官なのかもだし。

 クバンダ・チャタカラに襲われて逃げてきた冒険者や巡礼を匿いつつ、救助を待っているのかもしれない。


 クバンダ・チャタカラをこの山に持ち込んだ『誰か』と聖女神殿跡地の神官は、まだ同一の存在と決まったわけじゃない。


 なにしろ、聖女候補たちが襲撃されたのだから。


 『誰か』が聖女神殿跡地の神官であるなら、襲撃させることはない…はずだ。

 コントロールを外れているにしても、事前に女王の臭いをつけさせて防ぐことができる。


 それをしなかったってことは、クバンダ・チャタカラの存在を知らなかった可能性が…


 「ないか」


 我ながら強引な仮説だ。

 むしろ、絶対に神官たちはクバンダ・チャタカラのことを把握していたはずだ。


 あの日、大神殿で嗅いだ、臭い。

 甘く、生物的な臭い。


 同じ臭いが、クバンダ・チャタカラからしていた。


 おそらく、儀式に使う香油として、女王のフェロモンは聖女候補たちに与えられたはずだ。


 問題は、誰がどこまで、それを知っているのか。

 ドノヴァン大司祭にまで、及ぶのか、ということだ。


 ただ、ドノヴァン大司祭が知っていれば、流石に聖女拝命の儀は実行しようとしないだろう。


 何度も言うが、悪事とは露見しない事が一番大事だ。


 聖女拝命の儀が行われると知って『誰か』は相当焦ったに違いない。

 ムームーの木が殺虫されたのは神託が下る前だから、その頃すでにコントロールは失われていたとみていいだろう。


 それでも、女王のフェロモンと言う襲撃を防ぐ術はあったのだから、儀式の間だけでも誤魔化すことにしたのか。


 でも、一度でもクバンダ・チャタカラを目撃されてしまえば、どうしようもない。


 となれば、考えられることは二つ。


 一つは、儀式の前にクバンダ・チャタカラを全滅させるつもりだったという事。


 巣がどこにあるのか知っていれば、全滅はたやすい。

 俺がやろうとしているように、除虫菊でも燃やして燻せばいい。


 だが、何らかの理由でそれが出来なかった。


 二つ目の仮説、というか、その理由になるけれど。


 『誰か』は既に全滅している。

 その為、正確な情報が大神殿の共犯者に伝わっていない。


 クバンダ・チャタカラが野放しになっているなんて、誰も把握していないという仮説。


 うん。やっぱり、一つ目二つ目と言うか、二つで一つの仮説だな。


 『誰か』はクバンダ・チャタカラを全滅させようとしたが、失敗した。

 失敗した挙句、全滅したか、逃亡した。


 大神殿の共犯者は山頂の様子もわからず、手をこまねいているうちに儀式が決定してしまった。


 大司祭や聖女候補が襲撃される事だけは避けようと、女王のフェロモンを使って防ごうとした。


 だが、襲撃は起こった。起こってしまった。


 彼女たちからは、あの甘い臭いはしなかったように思える。

 臭いがしていれば、ユーシンが気付いただろうし。


 なんでまた、一番必要なときに着けていないのか。


 それに、一緒に行ったはずの神官戦士たちはどうしたんだろう。

 共犯者なら、存在は知っていたはずだ。

 襲撃があるかもと言われれば、備えておけばいい。


 クバンダ・チャタカラ自体は、決して強い魔獣ではないんだから。


 現地では、出没すると村人が総がかりで巣を潰しに行くのだという。

 逆に言えば、村人に倒せる程度の魔獣だ。

 もっとも、野生のクバンダ・チャタカラは現在ほぼいないが。


 「おい、床見つめて何やってんだ。若い娘の小便観察している変態みたいだからやめろ」

 「…ひどすぎないか?それ」


 顔を顰めて振り返ると、あきれ果てた顔のクロムが入り口に立っていた。

 ちょっと引いた顔でヤクモもこっちを見ている。


 いや、誤解だからな?


 「良いから、ちょっと出て来い」

 「あ、待ってくれ。お湯を沸かす道具を探したいんだ」

 「ヤクモ、やっとけ」


 返答はにべもない。「ええ~?」と言いながらも、素直にヤクモが小屋に入ってくる。

 ほんの少し眉を寄せたが、何についてそうしたのかは言わなかった。


 「そこの戸棚の中だと思うんだけど」

 「分ってるなら出せばいいのにぃ。あ、ほんとだ。あったあった」


 ヤクモが質素な飾り気のない戸棚を開けると、中にいくつかのカップと、焜炉こんろ、それに小さな鍋があった。


 休憩に立ち寄る小屋なら、茶を淹れるための道具はあるかと思っていたけれど、当たったようだ。

 本物のお茶はそこそこの値段がするといっても、ハーブティーなら栽培すれば簡単に手に入る。

 急な雨に降られてこの小屋に逃げ込んだなら、温かい飲み物の一杯も欲しくなるだろう。


 「これ、外に持ってく?」

 「ああ。ちょっと休憩にしよう。クロムも手伝ってくれ」


 「面倒くさいから断わる」

 うん。スレンは守護者であって、小間使いじゃないしな。

 けどさあ、もうちょっと体裁を整えて断わってくれよ…なんだその直球な断り方。


 「クロムだしねぃ」

 あーあと言う顔をしながら、ヤクモは鍋を手に取った。

 使い古されているがきれいだ。これならちょっと拭けば使えるだろう。


 「ポットとか、深皿とかはないかな」

 「あ、そっちのそれ、ポットっぽくない?」


 素焼きのカップの群れの奥に、ポットと言うより水差しがある。

 だけど、使用目的には十分だ。


 一緒に入っていた木製のトレイにカップを移し、鍋と焜炉をヤクモに持たせて小屋の外に出る。


 まだ倒れたままのレイブラッド卿の隣で、ユーシンがぼんやりと空を見ていた。


 「向こうの山の頭が、雲に隠れた。雨が降るかもしれん」


 指さす方を見てみれば、確かに遠くの山が雲の笠をかぶっていた。

 「雨か…降ってくれれば、彼女たちが安全に下山できるな。まあ、危ないっちゃ危ないんだけど」


 雨なら魔獣は襲ってこないと言い聞かせれば、少しは安心して下山できるだろう。

 腐葉土が積もっていた様子からして、この山は斜面が流れに洗われるほどには酷い状態にならない。

 生い茂る楢の葉も、雨粒から守ってくれる。濡れて冷えても、低体温になるほど村まで遠いわけでもない。

 それでも遭難の危険があるのが山だけど、そこはもう、信じるしかない。


 「この男、どうするんだ?」

 「うーん、だいぶん麻痺治しが効いてきたみたいだから、もうちょい様子を見てみよう」


 自分のマントを丸めて枕にしているレイブラッド卿は、さっきよりさらに回復してきているように見えた。

 口は閉じているし、唾液も舌も出ていない。呼吸も安定している。


 あとは、目を覚ましてくれればいいんだけど…


 「んとさ、麻痺治す御業とかないのぅ?」

 「あー、そうだな。解毒の御業を使える子、いるかもしれない」

 「解毒でいいの?解毒薬と麻痺治しって別物じゃない?」

 焜炉を地面に置きながら、ヤクモが首を傾げる。


 「俺も御業には詳しくないから、絶対大丈夫とは言わんけど理屈の上ではいけるはずだ」

 「お前の理屈…?」

 はいそこ、心底疑わしい目でこっちを見ない。


 「魔法薬が解毒剤と麻痺治しに分かれているのは、それぞれ違う薬効をもっているからだな」


 「そりゃ、そーでしょ。毒を消すのと、麻痺を治すの、でしょ?」

 「厳密に言えば、麻痺毒も毒だ。毒には大まかに分けて二種類あってだな。体そのものを壊すのと、神経の伝達を阻害するのに別れる」


 「うん。わかった。とにかく、御業はどっちも大丈夫なんだね!」

 今ので何が分かったんだか言ってみなさい。


 とにかく、解毒薬と麻痺治しは効果を発揮する毒が違うから互換性はない。

 けれど、御業の解毒は文字通りどんな毒でも、それが対象者の「毒」となるものだと判断されれば効果を発揮する、はず。


 あれ?そうすると、兄貴が兄貴の守護者オドンナルガ・スレンが酒飲むたびに解毒薬飲ませているの、全然効果がないんじゃあ?

 アルコールは、神経に作用するから、麻痺治しを飲ませるのが正しいよなあ… 


 まあ、いいか。どっちかって言うと、アルコールを取ると苦い薬を飲まされるって言うのを刷り込ませているみたいだし。

 それでも飲むあの人もあの人だ。

 しみじみ語ったことによると、「酒が好きで飲んでるんじゃないの。正気でいたくないから飲んでるの」だそうだけど。

 この一年で、正気の時間が恐怖の対象でなくなっていればいいなあ。


 「小娘ども、御業が使えると思うか?」

 「…解毒の御業を授かっていたとしても、行使は難しいかもな」


 御業は神の力を借りるという事。

 恐怖に激しく動揺している今じゃ、嘆願に失敗するかもしれない。


 それに、御業は精神と体力を削る行為だ。

 薬でどうにかなるなら、敢えて何もしてもらわず、下山に備えてもらった方が良いかもな。


 レイブラッド卿が動けるようになれば、下山の危険性は減る…と思う。

 少なくとも、彼はクバンダ・チャタカラを前にして、主と少女たちを逃がすという行動をとれた。だからこそ、彼女たちは無事だったんだろう。


 助けてくれた騎士が同行してくれるというのは、十分な支えになる。

 山道で一番怖いのは、恐怖に駆られてめちゃくちゃに動くことだ。


 ちゃんと道をたどって、慎重にいけば遭難するような行程じゃない。

 それができれば、無事に麓の村まで帰れる。


 そう考えると、使えるなら御業で一気に回復させた方が良いのかな。

 まず、大前提として解毒の御業が使えるかどうかってのもあるけど。


 そこの確認してからだな。リソースの配分を考えるのは。


 ひとまず思考を置いといて、鍋を手に取る。

 「クロム、俺の鞄から、例の箱だしてくれ」

 「ほらよ」


 お、一応投げずに渡してくれた。偉いぞ、クロム。


 蓋を開けて、中身が入っている小瓶と、蓋の裏側に収納している羽ペンを取り出す。

 この瓶の中身は、さっきレイブラッド卿に突っ込んだ金属棒を消毒した奴じゃない。


 ただの水だけれど、別の用途に使うためのものだ。


 蓋を開けて羽ペンの先を浸し、呼吸を整える。

 軽く吸って、深く吐く。


 自分の中の、普段使っていないものを引き出すために。


 ペン先を鍋の底に当てて、文字と図形を組み合わせた『陣』を描く。


 魔導は、基本的に三つのステップに分けられる。

 

 起動。展開。発動。


 俺の今描いた『陣』でいえば、一番上部にある記号が『起動』。

 その下に、「何を起動させるか」を書きこむ。今回起動させるのは、『召喚』。

 その『起動』のしるしの右下に、『展開』の記号。


 同じように、記号の下に書き記すのは「何を展開させるか」。


 ここに何を書くか同じ召喚の陣でも全く違うものになる。今書き記したのは、「この水を召喚」。


 陣を書いているのに使う水は、大都の水源、ダヒ・デルウィユの水だ。

 この泉は、「終わりがない」という意味を持つ。

 泉自体はそれほど大きくはない。泉だしね。

 ただ、水深がとんでもなく深く、泉として見えている部分の下に、巨大な地底湖が存在する。


 大都の北、尽きぬ山ヘルムジの雪解け水がこの地底湖に流れ込み、泉を溢れさせる。

 その水を水路を使って大都まで引っ張り、水源の一つとしたのは二代大王のシャナだ。


 彼はその他にも東のソリル内海と大都を運河で結び、船を使った輸送を可能にした。

 これにより、大都と内海、東海が船で行き来できるようになり、メルハ亜大陸やカーラン皇国、ヒタカミ諸島との交易が始まった。


 二代大王は、交易国アスランを確立させた名君と言えるだろう。

 歴代大王の中で俺が一番尊敬している人でもある。

 大図書館や大学の原型を作ったのも彼だしね。ほんと、感謝してもしきれない。


 さて、『陣』に話を戻すと、『展開』の横、『起動』の左下に最後の記号を書いて完了になる。


 『発動』。つまり、「この水」を「召喚」する魔導を発動させるというわけだ。


 記号の下に、「どこに」と指定するために書き込みを入れる。鍋の中に出てきてほしいから、場所は当然「ここ」。

 ただ、俺のしょぼい魔力では、一度発動しただけではこの鍋の底が埋まる程度の水しか出ない。


 とりあえず、10回繰り返せばなんとかいっぱいになるだろう。


 なので、三つの記号を矢印で結んでいく。

 矢印の数は、10。

 指定の回数繰り返せって言う記号もあるんだけど…10回程度なら、矢印をその分書いた方が負担が少ない。

 かなり複雑な記号だし、間違うととんでもないことになる。


 完成したこれが、アスラン独特の魔導、『陣』だ。


 記号を結ぶことで繰り返したり、強化したりする。

 予め何かに書いておいても良いし、その場で書いても発動できる。

 まあ、俺みたいな魔力だと、空中に指で陣を書いて発動なんて真似はできないけれど。


 完成した陣の『起動』の部分を指さし、さっきからかき集めていた魔力を放出する。

 ぼんやりと記号が光り出し、残る二つの印もわずかな時間差を伴って燐光を放出した。


 こぽり、と小さく音を立て、鍋底から水が湧き出る。

 あとは放っておけば満水になる。


 落ち着かせるのにお茶は効果的だろう。

 持ってきた水だけじゃ、人数分のお茶には足りない。

 それに、お茶を淹れるとき、デルウィユの水の方がおいしくできるんだよね。

 水質が違うからだけど、アスランの茶は、やっぱりアスランの水が一番合う。


 そう言えば、池の水飲まないようにって言ってなかったけど、飲んでないよなあ?


 「ユーシン、俺の水袋を、あの子たちに当てないように投げ渡してくれ」

 「心得た!」


 俺の背嚢から水袋を取り出し、ユーシンは無造作に池に向かって投げた。

 ぽちゃん、と水音がしたから、池に着水したみたいだ。

 見ればいいんだけど、俺が見ると色々見えちゃうからなあ。


 「その水を飲め!」

 ユーシンが声を張り上げる。さすがに良く通る声だ。


 「うむ。水袋を拾い上げたぞ」

 「そうか。それはよかった」


 下山する彼女らに水も持たせないのは酷だろう。

 俺とヤクモの水袋は貸しておこう。

 水の召喚は最低もう二回必要だな。まあ、ほとんど魔力も消費しないし、問題はない。


 「あの子たちの服とか、どーすんのう?濡れたまま?」

 「しばらく火の側で干しとけば生乾きでもなんとか乾くだろ。着心地は我慢してもらうしかないな」


 そのための火も熾さなきゃな。


 「ヤクモ、火を熾してくれ。さっきユーシンがクバンダ・チャタカラを燃やした場所からは少し離して。やれるな?」

 「まっかせてぇ!」

 ふんすと鼻息荒くヤクモは請負い、さっそく自分の荷物を掴んで歩き出した。


 ユーシンがさりげなく付いていく。アイツもなんだかんだでお兄ちゃんだよなあ。

 やっぱり、元々ユーシンの方が長男なんじゃないだろうか。


 「あの小娘どもから情報を得るのは、必要だろうな。で、どうすんだ。やっぱり大本叩きに行くのか?」

 「ああ」


 ある意味、目的は達したともいえる。

 エルディーンさんらは助けられた。このまま一緒に下山して、クバンダ・チャタカラの情報を伝え、体勢を整えた方がいいだろう。


 でも…


 「このまま引き返すのは、拙いと思う。最低でも、聖女神殿跡地の状況を確認するまでは下山しない」

 「根拠は?」


 「…特にないけど…まあ、勘?」


 あきれられるかと思ったが、クロムは黙って腕を組み、山の上を見上げた。

 おそらく、聖女神殿跡地があるだろう周辺。


 「まだ生きている奴がいると思うか?」

 「難しいな…可能性は限りなく低い、と思う。けど、なくはない以上、確認はしたい」


 「あのいかれた爺さんもどうなったかわからんしな。だが、俺はあの爺さんをお前ほど信用してないからな。はっきり言えば、敵だと思っている」


 「ものっすごく警戒してたもんなあ。俺も、無関係とは思っていないよ。

 ユーシンが大神殿でくさいくさいって騒いでたろ?あれと同じ臭いがクバンダ・チャタカラからした。襲われないためのカモフラージュだ」


 「なら、確定じゃないか」

 「関わっているが、どの程度関わっているかはわからない。巻き込まれているだけって可能性もあるし」

 とにかく、結論を出すには早い。まずは彼女たちの話を聞いてからだろう。


 話して、吐き出すことで楽になるものもあるだろうし、な。

 

***


 「襲撃は、夜が開けてすぐでした」

 湯気を立てるカップを両手で抱えながら、エルディーンさんは微かに震えていた。

 

 上着は汚れていなかったのでそのまま、下半身にはレイブラッド卿の枕だったマントを巻いている。


 聖女候補の少女たちも、幸いと言うか、長衣じゃなくツーピースの神官服だったし、ショールも羽織っていた。

 それを巻き付けてスカート代わりにして、その他に俺たちの毛布を足にかぶせている。

 二人で一つの毛布に包まれていると、小さい。まだ子供だなあと改めて思った。


 彼女がぽつぽつと語ってくれたことによると、一行は全部で十五人。馬車二台に分乗していたらしい。


 一人が隠れていた馬車には、大司祭と司祭に助祭が一人ずつ。

 聖女候補たちは荷台しかない幌馬車に乗って、エルディーンさんもそこに。

 レイブラッド卿と護衛の神官戦士たちは徒歩や御者台に乗って、旅をしてきたそうだ。


 「昨日の夜は、山道に入る前に宿舎があって、そこに泊まりました。夜が明ける前に登り始めて…大司祭様たちは馬車に、私たちは徒歩で…幌馬車はその宿舎に置いて」


 「宿舎についたのは?」

 「一昨日の昼過ぎだったと思います」


 「一昨日?昨日から登らなかったのか」

 「なんでも、他の町からいらっしゃる司祭様と落ち合う予定だったのだと…ただ、その方がみえられなくて…」


 なるほど。それで一日潰してたのか。


 んー、そうなると昨日もう少し近くまで行ってれば、エルディーンさんとコンタクトが採れたかもしれなかったのか。

 まあ、昨日の時点じゃクバンダ・チャタカラに辿り着けなかったから、気を付けてねくらいしか言えなかったけれど。


 「護衛がいたんだろう。そいつらはどうした」

 「アレが襲ってきたとき、たぶん…」


 きゅっと、カップを握る手に力がこもる。


 「逃げた、と思います」


 「じゃあ、大司祭も?」

 「おそらく…」

 「御業でばーんってできなかったのかなあ?」

 不思議そうにヤクモが首を傾げる。


 少女と自分に配慮して、後ろ向きだ。

 何度も「この火、ぼくが熾したからね!服、すぐ乾くから!」と後ろ向きのままアピールはしていたけれど。


 俺からすると小さいなあ、子供だなあって思う少女だけど、ヤクモからすればほんの少し年下なだけだもんな。

 俺とヤクモの年齢差より、ヤクモと少女の方が小さいわけだし…


 「どうだろうなあ。治癒系の御業が使えても、防御や攻撃はできない可能性はあるし。アニスさんたちもそうだろ?アニスさんとシャーリーさんは治癒、ロットさんたちは聖壁がそれぞれ得意って言ってたし」

 「護衛なら、使えてもおかしくはないと思うがな」

 エルディーンさんを見ると、小さく首を振られた。


 「わかりません。護衛の方は大剣や槌を振り回して見せてくださいましたが、御業が行使できるとは、聞いていません」


 「分りやすい雑魚だな」

 クロムが吐き捨てる。

 うん。御業は使えなかったと考えた方がよさそうだな。


 「…大司祭様は…」

 消え入りそうな小さな声で、聖女候補の一人が口を開いた。


 「大司祭様は、お逃げになっていらっしゃらないと…」


 「どういうことだ」

 クロムの硬い声にびくりと身体を振るわせ、俯く。

 目にジワリと、涙が浮かんだ。


 それを見て、クロムが舌打ちを漏らす。

 ますます彼女は縮こまり、いまにも涙は頬を伝いそうな様子だ。


 「あー、クロム、怖がらせたでしょう~?」

 「うるさい。前向いてから口を挟め」


 いつものやり取りなんだけれど、少女はますます縮こまった。


 このくらいの子にとって、近くに知らない男がいるだけでもプレッシャーだろう。

 それに、大神殿でエルディーンさんを論破したり詰め寄っているのも見ていたのかもしれない。


 一回でも柔らかく笑えば「素敵な人」に格上げするかもだけれど、今はただの「怖い人」だろうなあ。


 ちなみにユーシンは、「あの蜂のバケモノを見張っている!」と宣言して、小屋の屋根に陣取っている。

 礫用の石も拾い集めていたし、よほどの大編成でない限りは、ユーシン一人に任せて大丈夫だろう。

 開けた見晴らしの良いこの広場は、動きの鈍いクバンダ・チャタカラにとっては不利になる。


 縮こまる少女の恐怖が伝播したのか、聖女候補の少女たちはキュッと寄り添って俯いてしまった。

 エルディーンさんも困ったように眉を下げる。


 うーん…どうしたものか…


 あ、そうだ。

 ふと思いつき、自分の背嚢を手繰り寄せる。

 内側のポケットに収納してある懐紙を取り出して、トレイの上に広げた。


 少女たちは怯えながらも、何をしているのだろうという顔で見ている。

 少し、気がまぎれたかな。


 次に取り出したのは、真鍮の蓋が嵌ったガラス瓶。

 俺の調査採集キットに入れている瓶よりずっと大きい。

 今、お茶を淹れて飲んでいるマグカップくらいはある。


 中に入っているのは、色とりどりの飴玉だ。


 蓋に「うちの氷室の冷気を召喚し続ける」陣が書かれているので、ひんやりと冷たい。

 もちろん、俺の施したものではない。兄貴が書いて支援物資の一つとして送ってくれたものだ。


 「薄紅色がサクランボ、白いのが桃、緑がミントで、赤紫が葡萄。

 好きなのをどうぞ」


 瓶を傾けると、コロコロと飴玉が懐紙の上に転がり出る。

 薄茶色の懐紙が、途端に賑やかになった。


 「ぼく、サクランボがいい!」

 「ほいよ」

 薄紅色の飴玉を摘まみ、後ろ向きのまま手を出すヤクモの掌に落とす。


 「おーいしーい!」

 すぐに口に放り込んだヤクモが喜びの声を上げる。


 この店の飴、果物のシロップをお茶に溶いて、それを飴玉にしているから甘すぎなくて美味いんだよな。お茶も果物に合わせて変えてあるし。


 「俺は桃がいいぞ!」

 屋根の上から、ユーシンが顔を出す。

 なんかしかめっ面しているのは、どれにするか熟考の結果なんだろう。


 「ユーシン、何と何で悩んでた?」

 「桃と葡萄だ!」

 「なら、両方食っとけ」


 白と赤紫の飴玉を放ると、両方とも口でキャッチして、ユーシンはにっかりと笑った。


 「一緒に食うとなお美味い!」

 「咽喉に詰まらせるなよ?あと、一気に噛み砕くなよ?」


 「承知!」

 承知の知を言い終わると同時に、何かを噛み砕く音がしたけど、気のせいと思おう。


 ひょいと手が伸びて、懐紙の上の緑の飴玉を摘まんでいく。


 「クロムはやっぱりミントか」

 「あの店のだろ?ミントが一番美味い」


 売っている飴は季節で変わるけれど、ミントは通年並ぶ人気商品だ。

 何種類かのミントをブレンドして作られているミントシロップに合わせるお茶は、カーラン皇国産の白茶。

 爽やかで癖のない香りと幽かな甘みが、ミントの風味を損ねることなく包んでいる。


 「俺もミントにしようかな」


 呟きながら手元のトレイを見ていると、再び手が伸びた。

 灯の紋章を象った刺青が、一瞬トレイの上で止まり、意を決したように緑の飴玉を掴んでいく。


 指に摘まんだ飴を、エルディーンさんはほんの僅か凝視し、それから目をぎゅっと瞑って口に放り込んだ。


 「…!」

 閉じられた瞼が、ぱっちりと開く。


 「美味しい!」


 「思ったより辛くないでしょ?」

 こくこく、と頷く。

 まあ、ミントだと思って口に入れると、寧ろ甘いもんだからちょっとびっくりするかもしれない。


 これとは別に、ものっすごいミント味の刺激的なやつもあるんだけど、それは別の瓶にいれてある。

 気付けになるくらいの強烈な味と言えば、想像つくだろうか。


 エルディーンさんの様子に、少女たちの視線が行き交う。

 たべる?どうしよう…でも、美味しそう…そんな内心の声が聴こえてきそうだ。


 「どうぞ。好きなのを食べてね。味を組み合わせてもおいしいけど、最初は一個ずつの方が良いと思うよ」


 最初に手を伸ばしたのは、一番小柄で、まだ本当に子どもに見える子だった。

 手は伸びたけれど、飴の上で止まってしまう。


 食べるのを躊躇っているというより、どれにしようか悩んでいる様子だ。


 視線を何度か彷徨わせた後、少女は白い飴玉を摘まみ、おずおずと口に入れた。

 次の瞬間、ぱあっと広がる笑顔。

 その様子に、他の少女たちも手を伸ばす。


 そういや、こっちの方じゃあまり飴って売ってるの見かけないなあ。

 ナナイの店に置いてあるけれど、専門店ってあるんだろうか。


 「アステリアには飴屋ってないのかな?」

 「…私も、恥ずかしながら王都には最近出てきたの詳しくは知らないですが…故郷でも王都でも、飴は薬屋で売っているものだと」

 「そうなんだ。この飴は大都の飴屋さんで売っているんだけど、洗面器みたいなでっかい皿に入れられててね。量り売りしているんだよ」


 エルディーンさんに続いて手を伸ばした少女が、躊躇いがちに話しかけてきた。


 「…あの、みんな、こんなに綺麗で美味しいんですか?」

 「常に十種類以上あってね。見ているだけでも楽しいよ」

 「すてき…」

 その光景を想像しているんだろうか。うっとりと呟く。


 彼女の横で葡萄の飴を大事そうに口の中で転がしている少女が、俺の前に置かれた瓶をじっと見ている。

 より正確に言えば、貼られているラベルか。

 良く見えるように持ち上げると、視線も同じように動いた。


 「ねこ…」


 ラベルには、猫の顔が描かれている。

 その下にタタル語で『トール・ティム・タム』と書かれているのが、店の名前だ。


 「トール・ティム・タム。

 意味は、こっちの言葉に治すと、『トールのだいじなもの』って感じかな。

 子供の拾ってきた綺麗な石とか、押し花とか、そういう大事なものってニュアンスなんだけど」

 少女たちの視線が、ラベルに描かれた猫の顔に集まる。

 「この猫ちゃんが、トールちゃんって言うんですか?」

 「猫の名前って言うか、種類だね。タタル高原北東部の、標高がちょっと高いところに生息する野生の猫。

 雷公猫トールって言うんだ」


 ラベルに描かれた猫は、とてもあどけない顔立ちをしている。

 大きな耳と目。耳は少し横についていて、顔も何だか平べったい。


 「雷公猫は、余り背丈の高くない草が生える草原に、穴を掘って巣を作るんだ。

 だから身を隠せるようにか、あまり大きくならないし、手足も短いし、全体的に平べったい。

 大きさは…このトレイに余裕で乗れるくらいかな。大人でも」

 「可愛いねぃ!見てみたいなあ」


 後ろ向きのまま、ヤクモが会話に加わってくる。

 少女たちもそれを拒まず、お互いの顔を見合わせてうんうんと顔を綻ばせながら頷いた。


 「近付くなら咽喉を隠しながら近寄れよ。雷公猫の巣穴には狼の群れですら近寄らんくらい凶暴だからな」

 「…アスランの動物って、可愛いの見た目だけなのが決まりなのぅ?!」

 「もともと野生の獣だしなあ。馬も巣穴が近くにあると落ち着かなくなるし、犬を連れていたら露骨に避けるからすぐにわかるんだけど」


 「近付くと、どうなるのぅ?」

 何故かいやそうにヤクモが問う。


 「仔がいれば、親は飛び出して襲ってくる。馬に乗った人間の首にでも一気に飛びついて喰いついてくるぞ」

 「怖いよ!」

 まあ、雷公…雷帝配下の戦神達の名を冠する猫だからね?


 「ただ、巣離れしたばかりの若い雷公猫は、何故か人間を気に入ってついてくることがあるんだ。その相手以外には懐かないし、家族でも下手に触ろうとすると指くらい噛みちぎるけどな。

 俺達ヤルクト氏族は、雷公猫に気に入られることを非常に名誉なこととして喜ぶ。

 大クロウハも雷公猫に懐かれてて、彼の肖像画の肩には、必ず雷公猫が座っているくらいいつでも一緒にいたらしい」


 その雷公猫…ベンケと言う名も残っている…は、大クロウハが戦死した際、彼の右耳を食いちぎって開祖の元に運び、息絶えたそうだ。


 その小さな体には三本の矢が突き刺さり、爪と牙は折れていたという。

 相棒の為に小さな戦士は死闘を繰り広げ、共に帰宅したんだ。


 大クロウハの遺体は馬で引き摺られた上に川に投げ捨てられ、ついに家族のもとに戻らなかった。


 なので、右耳を遺体として葬儀が行われた。

 アスラン王国が開国した後に造られた、アスラン王廟の大クロウハの棺には、その右耳と、ベンケと、武勇に感服して投降した敵将が持ってきた左腕だけが収められている、らしい。


 そんな逸話もあるし、元々雷公猫は雷帝の眷属とされていることもあって、アスランでは非常に手厚く保護されている。


 本来はカーラン北西部にも生息していたんだけれど、毛皮目的や放牧の邪魔になるってんで狩られ、ほぼ全滅してるみたいだ。

 少なくとも3年前の調査では痕跡も発見できなかった。


 もし、アスランで密猟したことが判明すれば、生きたまま、その毛皮と同じ面積の生皮を剥ぐ刑と国法で決まっている。


 定めたのが開祖クロウハ・カガンなんで、アスラン王国がある限り変わらないだろう。

 ちなみに毛皮を購入した場合も同じ刑に処される。


 実際、開祖は自分の第五夫人をその罪により処した。


 彼女の上半身を覆う大きさのマントだったから、首から腰までの皮を剥がれて第五夫人は絶命したと史書には記載されている。


 痛みと絶望のあまり、己の父に殺してくれと懇願したという話が残っているくらい、凄絶な死にざまだったようだ。


 勿論、夫人の父をはじめとする一族からは、猫の為に妻を殺すのかと抗議が上がった。

 開祖は「あの女の命などベンケの髭一本にも及ばない」と返したそうだ。記録にもある。


 それは本当にそう思っていたのか。それとも、法を浸透させるのに一番手っ取り早いやり方…本来なら法が及ばないはずの特権階級に対して執行してみせる、という方法をとったのかは、わからない。


 彼の行動や思考から想像するに、本当にそう思っていた可能性は高いけど。


 その後、直ぐに抗議を引っ込め「まことその通り!」と雷公猫の供養にと、立派な石塔を建てた夫人の弟一家以外は、謀反の企みありとして処刑された。


 法の浸透と、口出しをしてくる外戚の排除と、逆らった時の見せしめを同時に行ったあたり、本当に切れ者ではあるんだけど。

 …この辺が、俺が開祖を好きになれないとこなんだよな。やることに容赦がなさすぎる。

 そうするしかないのはわかるんだけど…もっとこう、他にやり方はなかったのかと。


 「あれ?そーいえば、ファンのお兄さん、トールさんって言うんだよね?猫ちゃんって意味なの?」


 「アスランじゃトールは珍しい名前じゃないよ。

 雷公猫のように勇敢な男になれって意味で良く名付けられるんだ。

 雷公猫はちょうど俺らの髪みたいな色合いの毛に、黒い斑点が入っているんだけど、生まれたての兄貴はもう髪の毛が生えてて、なんか似てたらしい」


 ちなみに兄貴も雷公猫に懐かれてるんで、トールが雷公猫トールに見込まれたと、親族で集まると必ず親戚のおっちゃんの一人は言う鉄板のネタになっている。

 それでウケるのはおっちゃんたちだけなんだけどね。

 おっちゃんの笑いのツボって謎だよなあ。


 「あの、ファン殿は…どのような意味があるのですか?」

 躊躇いがちにエルディーンさんが問う。


 うん、雑談に興味が出てきたのはいい傾向だ。それだけ、余裕が出てきたってことだしな。

 まあ、お茶と甘いものを飲み食いしながら、怖がったり怒ったりできる人間はそういない。

 クロムだって、飴玉を転がしながら上機嫌だ。


 「俺の名は、カーラン語由来だね。地上に近い星を意味するんだ。

 母がカーラン人でね。兄は父が名付けて、俺は母が名付けたんで、俺の名前もカーラン風になったんだ」


 そういう星は、人間の暮らしに興味津々で見に来ているのだと考えられているそうだ。星の化身が人助けをする話も多い。

 そこから、優しい親切な人になってほしいとの願いを込めたらしい。


 その想いに応えられているかは別として、興味を持ったことに没頭するのは名前の通りになったな。

 たまに母さんが「違う名前にすればよかった…」って呟くのは気になるけど。


 「飴、一人につきあと三つあげるから、山を降りる時用に一つは残しておいてね」


 少女たちは顔を見合わせ、そして嬉しそうに笑った。

 うん、もう大丈夫そうだな。


 「で、また嫌なことを聞くけれど、ドノヴァン大司祭が逃げていないって言うのは?」

 さっき、そう言った子は、馬車に一人で隠れていた子だ。


 俺の視線を受けて、少女の笑顔が消える。

 だけど、先ほどとは違い、きゅっと拳を握って俺の目を見つめ返してきた。


 「わたし、見たんです。あのバケモノが襲ってきて…」

 顔が青ざめる。

 両隣の少女が、彼女の肩と手を握った。


 それに励まされ、再び口が開かれる。

 「司祭様と護衛の人たちは、来た道の方へ走っていきました。大司祭様は逆に、あっちの道へ歩いていくのを見ました」


 震える指がさすのは、さらに上へと登る道。


 「大司祭様をおひとりで行かせたら駄目だって思ったんですけど、動けなくて…」


 「うん」

 それは彼女の失敗じゃない。

 あんなもんが急に出てきたら、そうなって当然だ。


 むしろ、即座に逃げるという判断を下した連中の行動が気になる。


 やっぱり、存在自体は知っていたんじゃないか?

 だからこそ、即座に逃亡に移ったんじゃないだろうか。


 「そしたら、騎士様が、わたしを抱えて、馬車の方へ走ってくれたんです」


 目に涙が浮かぶ。

 だけれど、彼女は言葉を止めなかった。

 化け物を相手に、「守る」という騎士の行動理念を失わなかったレイブラッド卿への感謝の表れなのかもしれない。


 かの騎士が、どれだけ勇敢に行動したか。

 それは、彼を讃える騎士道物語ロマンスだ。


 「騎士様の後ろにあのバケモノがやってきて…何かを吐いて…それが私にもかかる前に、騎士様はわたしを、前に投げて、馬車に入って扉を閉めてって叫んで…」


 「貴方は、レイブラッドの言うとおりにしてくれたんですね」

 エルディーンさんが、涙をこぼす少女の前ににじり寄った。


 彼女も青い顔をしていたけれど、それでも口許を微笑む形に変えて、頷く。


 「おかげで、彼は報われました。まだ、眠っているレイブラッドに変わってお礼を言います。ありがとう」


 「まだ、騎士様は…」

 「その事なんだけど。君たちの中に解毒の御業を授かっている子はいるかな?」


 少女たちは申し訳なさそうに首を振った。誰も授かってないらしい。


 「わたしたちが授かっているのは、治癒だけなんです…」

 「全員?」

 こくん、と今度は五人の頷きが帰ってくる。


 うーん、まだ若いし、こんなもんなのかなあ。


 聖女候補の基準って、そう言えば聞いていなかったな。

 左方が選定したらしいから、バレルノ大司祭も知らなかったのかもしれない。


 ただ、この子たちが意図的に選ばれたのだとすれば。


 治癒しか使えない、見目麗しい少女。

 ちらりとクロムが視線を向けてくる。多分、同じことを考えている。


 クロムの母上、スーリヤさんもあまり彼女たちと年が変わらないどころか、もっと幼いころに聖女になった。


 それでも、彼女はいくつもの御業を行使できた。

 俺のハトコもまだ十代だけれど、治癒、解毒、快癒は授かっている。


 左方に人材がいなくて、若い女性神官は治癒を使うのが精いっぱいだというなら仕方ない。


 けれど、それなら流石に右方にも話が行くよなあ。


 聖女候補は聖女じゃない。

 女神が認めなければ、せっかくの聖女拝命の儀は失敗だ。


 それなら、少しでも可能性が高くなるよう、多くの御業を授かった、いわば才能のある子を送り出すんじゃないだろうか。


 クバンダの蜜は、性的な興奮を高める。


 強制的に摂取させることを愉しむ…というのを、好む輩はいる。

 考えるだけで不快だし、間違いなく悪趣味で卑劣な行為だ。


 だけど、それを売り物にする売春行為は、後を絶たない。


 だが、今ここでそれを彼女たちに言うのは酷だろう。

 俺は真実を求めるけれど、真実がいつも正しいとは限らない。


 叩きのめすだけの真実なら、追及しない方が良いこともある。 

 言ってやったとドヤる為に真実はあるわけじゃない。


 「そうか。なら、麻痺治しが完全に効くのを待つしかないな」

 「…ごめんなさい」

 「謝るような事じゃないよ。ダメもとで聞いただけなんだし、全員治癒が使えるのは心強いね」


 ただ、そうなると、いつ回復するかわからないレイブラッド卿を待つか、彼女たちだけで下山させるか選択しなきゃならないな。


 どうしようか。


 あの様子を見ている限り、回復はしてきている。

 だけど、すぐ動けるようになるか、と言えばわからない。

 俺は医学者ではないし、毒は専門外だ。


 小屋にでも退避してもらって、クバンダ・チャタカラの活動が止まる夕方以降に下山してもらうのも一つの手だ。

 それでレイブラッド卿が回復すれば、なお良いわけだし。


 けれど、夜の山道を馴れない彼女たちが下るのは、危険だ。


 それに、逃げた護衛。

 そいつらが、本当はとんでもない連中だったら。

 彼女たちを「商品」と見做すような奴らだったら。


 様子を見に戻ってこられたら、走れば逃げられるクバンダ・チャタカラよりも危険だ。


 「エルディーンさん」

 「は、はい!」

 びしり、と彼女は背筋をただした。


 「もう少ししたら、君が彼女たちを守って、下山するんだ。俺達が通ってきた道なら、危険は少ない。これからの下山なら昼前には麓の村につける」


 「一緒に来てくださらないんですか?!」

 悲鳴のような声を上げたのは、エルディーンさんじゃなく、一番幼い聖女候補の少女だ。


 「俺たちは、大司祭を捜しに行く」


 大司祭、と言う言葉に、聖女候補たちはびくりと身体を強張らせた。

 自分たちは助かるのだと喜んでしまった罪悪感が浮かんだのかも知れない。 


 「申し訳ないけど、君たちを同行させるわけにはいかない。

 だから、君たちは君たちで退避するんだ」

 せめてその罪悪感が少しでも減るよう、俺の指示で退避するんだと思えるように付け足す。


 あとで彼女たちが何で逃げたといわれたら、救出に来た冒険者に付いてくるなと言われたと申し開きができるしな。


 エルディーンさんは取り乱さなかった。

 膝に掛けたマントをギュッと握りしめ、問う。


 「レイブラッドは…どうするのですか?」

 「馬に括り付けて一緒に下山してもらう」


 小屋で寝かせておくことも考えたけど。

 クバンダ・チャタカラは扉を開けられなくても、ならず者は入って来るからなあ。


 「いいかい?さっきも、馬たちが一番最初にクバンダ・チャタカラに気付いた。

 もし、途中で馬が逃げようとしたら、君たちも走るんだ。

 あいつらは走る人間よりずっと遅いし、長時間飛行することもできない。


 必ず逃げ切れる」


 斜面を利用して回り込まれたりすれば万事休すではあるけれど、そもそもあの道に入ってこないと信じよう。


 「…わかりました」

 エルディーンさんの右手が、剣の柄にかかる。


 「私、必ず守り通します」


 「うん」

 「ジョーンズ司祭にも、言われていました。全員無事で帰ることが、私の任務だと」


 ぎゅっと柄を握りしめる右手の、灯の刺青を、彼女は左手で撫でた。

 「この、わたしの灯に誓って。必ず」


 まだ顔色も悪いし、自信満々の宣言には遠い。

 だけれど。


 『ここに戦士の誓いがなされた。

 雷帝よ、紅鴉よ、照覧在れ。

 ファン・ナランハルの名をもって、この誓いを認めよう』


 「え?」

 「俺の国の言葉で、いい仕事ができますようにって」


 ぎこちないものではなく、しっかりと笑って、エルディーンさんは頷いた。


 戦おうとするものは戦士だ。その戦士に敬意を払わないアスラン人はいない。


 「じゃあ、あの騎士様を馬に括るか」

 それはもちろん、不愛想な顔のままのクロムもそうだ。


 「まあ、雑魚にしてはアイツはよくやった。主を守りきったんだからな」


 「あ、クロムが人を誉めた。めっずらしい~。これ、ほんとに雨降るかもっ」

 ヤクモの最後の言葉は、ごっちんというクロムの拳骨の音でかき消される。


 「痛いってば!照れ隠しに叩くのやめてようぅ!」

 「ならそのクソ程の価値もない戯言をほざくな」


 「あー、クロム君。女性の前なんだから、すこしは上品にお話ししなさい」


 「やる気もおきん小娘の前で取り繕ってなんになる」

 さらに最低なことを言い放って、クロムはスタスタと歩き出した。

 もう、こっちを振り向く気もないだろう。


 「ああ見えて、アイツ、本当にレイブラッド卿を誉めているし、照れてるんだ」

 「なんとなく、わかります」

 笑みをひっこめないまま頷いて、エルディーンさんも立ち上がった。


 「服が乾いているか、皆さん、見に行きましょう」

 彼女の言葉に、少女たちも立ち上がる。

 脚は震え、お互いに縋るようにではあったけれど。


 彼女たちは、前を向いた。きっともう、大丈夫だ。


 ふと、視界がかげる。


 ギクリとして空を見上げると、そこにはクバンダ・チャタカラの姿はなく、ただ、雲が日差しを遮っていた。

 曇り空と言うほどではない。けど、確かに朝よりも雲が出てきている。


 「雨が降るまではいかなさそうだな…」


 「降った方が良いのぅ?降らない方が良いのぅ?」

 「んー、どっちもどっちなんだよなあ」


 雨は体温を下げ、体力を奪う。

 だがそれは、よりクバンダ・チャタカラの方が悪影響を受け、俺たちに有利になる。


 「そかあ」

 俺に向きなおったヤクモは、への字口で不安げに眉根を寄せていた。


 「ぼく、がんばるねぃ」

 雨を心配しているわけじゃなさそうだ。

 さっきの戦闘で、一匹も倒していない事が気になっているんだろう。うまく動いていたけどなあ。


 「さっきさ、俺の弓持ってくることを優先したろ?あれ、すごく良かったぞ」


 への字口のまま、ヤクモは俺を見上げた。


 「全体の戦況を見て、最適解を選んでたからな」


 「…そうかな?」


 「俺が弓を持つことで、こちら側の攻撃が一手増えた。前にさ、集団戦闘じゃ自分の攻撃を当てることより、全体の攻撃回数を増やす方を優先しろって言ったの、ちゃんと覚えてたんだなあって思ったよ」


 地上から空中への攻撃は当てにくい。

 一番間合いの広いユーシンでさえ、槍じゃなく礫を用いたくらいだ。


 クロムも、小屋の側だったから攻撃を当てられたけれど、池の近くだったら剣を投げる…絶対にしないだろうけど…くらいしか手はない。


 と言うか、あの状態で剣で攻撃できるのはクロムくらいだ。


 クロムが習得している剣術は、大祖が伝えたとされる由緒正しい剣術で、切り結ぶより懐に飛び込んだり、空間を広く利用して相手の死角を突くように動く。

 足場さえあれば、跳躍して敵の頭上からだって攻撃する。


 だけど、それをヤクモができるかと言えば、当然ながら無理だ。


 「あの時、俺が弓を持てなければ、攻撃手段はユーシンの礫だけになってた。

 一気に全滅させられたのは、ヤクモがちゃんと立ち回ってくれたおかげだよ。よくやった」


 ポン、と頭に手を置くと、ふへ、と口許が締まりなく緩んだ。

 「ほんと?ぼく、役に立てた?」

 「ああ」


 慰めじゃなく、本心からだ。

 半年前なら、ヤクモは何とか攻撃を当てようとウロウロして、クロムをイラつかせていたと思う。


 本当、十代の成長は早い。


 俺も向いてないってあきらめないで特訓でもしていれば、もう少しマシになっていたかもしれないなあ。

 今更だし、武器を振るより本を読んだことを後悔してはいないけど。


 「うん!ぼく、がんばるねぃ!」

 「おう」


 ふへへ、と笑って、ヤクモは拳を天に突きあげた。

 うん、不安は解消されたかな。


 「あ、そだ。さっきさ、ファン、ナランハルって二回言ったよね。ぼく、聞き取れたよ!」

 「お、その意気でタタル語習得してみるか?教えるぞ。大陸交易の公用語だし、覚えておいて損はないぜ?」

 「そーだねぃ。三人でぼくにわかんない話されると嫌だし、コルムもたまにこっちの言葉でなんていうのか分かんなくて混ざったりするし。教えてくれる?」 

 「じゃあ、この仕事終わったらタタル語教室だな。さっさと終わらせて帰ろう」


 終わらせる。

 それが、何がどうなったら「終わり」なのか、俺にも今はまだよくわからない。


 クバンダ・チャタカラの女王を墜とす。これははっきりした目的だ。


 それ以外。たとえば。


 ドノヴァン大司祭が、はっきりと『敵』だった時。

 どうしたらよいのか。


 ただ、やっぱり、あの人が麻薬密造にかかわっているとか、それによって荒稼ぎをしているようには思えない。


 だから、ドノヴァン大司祭が『敵』となる状況がいまいちピンとこない。


 何故、彼は山頂へ向かった?


 女神は、俺に矢を託して何をどうさせたいんだ?


 その答えは、真実は、あの道の先にある。


 視線の先の山頂への道は、途中草に覆われて途切れ、まるで横たわる白骨のように見えた。


 いつの間にか握りしめていた右手を開き、山頂を指さす。


 「さあ、出発の準備だ」

 大丈夫。俺には心強い仲間がいる。


 あの先へ。終わりへ。


 いつもの日常へ帰るために、冒険を始めよう。

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