第23話 マルダレス山 登山道2
土を蹴る音。
規則的な息遣い。
装備や荷物の立てる、僅かな擦過音。
それらを纏いつつ、冒険者達は緩やかな山道を駆け登る。
全力疾走ではない。駆け足を少しだけ速めた程度だ。
だが、武器を持ち、防具を纏い、荷物を担いだ状態としては十分に早い。
ちらりとファンは前方に目を向けた。
道が折り返している様子はない。もう間もなく、例の広場だろう。
「風の匂いが変わった」
ユーシンの声が、その予想を裏付ける。
「道をそれる。木に隠れながら前進するぞ。足元に気をつけろよ。腐葉土で根が見えない」
楢は立派な根を張る。
風雨や傾斜がきつい山ならばその根はむき出しになるが、ここでは腐葉土が積もり、末端部分は見えにくい。
「おう」
クロムが短く返答し、すぐ横の木の幹の影に回り込む。
そのまま、幹から幹へと栗鼠が飛び移るように前へ進んでいく。
「ユーシン、ヤクモの先行を」
「心得た」
クロムの後ろに続きつつ、指示を飛ばす。
待ち伏せさせる可能性は低いと今では思っているが、それでも備えることをファンは選んだ。
二手に分かれるほど距離は開けないが、攻撃を集中させることはできない程度には離れる。
こちらはお互いをフォローしあい、相手からすれば攻撃目標が複数になり、動揺を誘える。
(まずは、これで一手…!)
ここで待ち伏せがあれば、先ほど建てた仮説は崩れると言っていい。
相手は、冒険者が向かっていることを諜報によって知り、伏兵を置くような人間だ。
いわば、手慣れた相手だ。
相手が人間なら、打つ手はいくらでもある。
数が揃っているか、よほどの手練れが敵にいない限り、初手で殲滅されたなんてことにはならないだろう。
もちろん、わざと遭遇戦では弱兵を置いて油断を誘ったという可能性はある。
しかし、麓の村まで一行が辿り着いた時点で、計画は失敗しているようなものだ。
ここでファンたちを全滅させれば、確実に事件の追及は行われる。
右方が後方支援にかこつけて乗り出した時点で…いや、聖女拝命の儀式の決行が決まった時点で、一時的に撤退するのが『誰か』にとっては最良の方策なのだ。
以前、冒険者の追及をかわしたように、知らぬ存ぜぬを通し、ほとぼりが冷めるまでは潜む。
そうすれば、新米冒険者が三組未帰還になったというだけで終わる。
村人たちも、聖女拝命の儀が無事行われ、ファンたちも無事帰還すれば原因不明でも安堵して納得する。
彼らが欲しいのは原因の解明ではなく、何事もなかったという安心感だ。
次の春が来る頃には、すっかり忘れられていただろう。
それをせず、堂々と冒険者を返り討ちに出てくるなら、相手は素人だ。
悪党としても、軍の指揮官としても素人だ。
素人相手にそう遅れは取らない。むしろ、ここで待ち伏せなりをしてほしいとすら思う。
そうすれば、まだ事態は人の手でコントロールされている証明になる。
クバンダ・チャタカラなどという存在は、考えすぎの杞憂の産物だったと笑えれいい。
だが。
「待ち伏せはないぞ」
木の幹に身を隠しながら、クロムが視線で前方を示す。
その視線の先には、目的地だった広場がある。
楢の木に囲まれた広場は、秋の朝日を受け、柔らかな静寂に包まれている。
だが、それだけだ。
麓の村がすっぽりはいるくらいの広さで、地面はおそらく山を削って均したのだろう、傾斜はない。
中央には水を湛える池があり、水面が朝日を浴びてキラキラと輝いている。
鷺が二羽、池から飛び出ているものに止まっていた。
たまに嘴を素早く突き込んでいるところを見ると、魚もいるらしい。
よく見れば、鷺が止まっているのは石像の腕だ。
指は欠け、掌も半分ほどになっているが、腕輪らしい装飾まで彫り込まれている。
おそらく、女神アスターかその御使いだったのだろう。
池から少し離れて、聞いていた通りの小屋があった。
小屋と言うより、小さめの家だ。造りもしっかりしており、木造のようだが傷んでいる様子はない。
屋根や、今は板戸の閉められている窓も破れなどはなく、定期的に整備されていることをうかがわせる。
その家の前から池、池の南北には草の生えていない場所が点々と続いていた。
草のない場所は、辛うじて石畳が残っているようだ。
おそらく30年前は全体が石畳に覆われ、そうでない場所も大勢の参拝者や近隣の住民によって草が生える間もなかったのだろう。
今は、僅かに黄色くなりつつある野草に覆い尽くされていた。
その草が時折風と関係なく揺れ、よく見れば兎の耳が草の間に見え隠れする。
捕食者を警戒しているのか、草の生えていない場所には飛び出してこない。
地形をよく知っている…ここに何世代も住んでいることが伺える動きだ。
石畳が残る部分は、池の南側に多い。
そこを辿ると、南はなだらかに弧を描きながら麓へと続く道に繋がっていた。
その部分は、石畳はないが、草も生えておらず、整備された道になっている。
これが旧参道だと推測できた。
遠巻きに見たよりも道幅は広く、整備されている。
その道に対して、聖女神殿跡地へと続くのであろう参道は狭く、曲がらずに真っすぐに登って行っている。
馬車はここで降りて、参道を己の足で登っていくようになっているのだろう。
聖女神殿が健在な頃には、この広場は馬車や人で埋め尽くされ、参拝客を担いで登る駕籠かきなどが常駐していたのかもしれない。
今はただ、人の痕跡が消えゆき、自然に還ろうとする空間だ。
ただ、それだけだ。
『誰か』の気配もない。
悪意も敵意もない。
ただ、さあさあと音を立てて風が渡り、朝露が煌めき、地面に落ちていく。
それは、少し物悲しく、そして穏やかな光景だった。
「…あれ」
だが、その中で動くものがある。
馬だ。二頭いる。
耳は絶えず動き、常に警戒している様子だ。
草を食べている様子はなく、小屋の後ろから長い首だけが見えている。
弱ってはいないが、酷く怯え、困惑しているようだ。
そして時折、足元に首を向けて何かの臭いを嗅いでいる。
「!」
風が、草を掻きわける。
柔らかな緑の隙間に見えたのは、金属の鈍い光だった。
その光を捉えた瞬間、ファンの鷹の目は焦点を合わせる。
曲線を描く金属。繋がる布。
それが、盾と服を着た腕だと認識すると同時に、ファンは手に持っていた大弓を手放した。
「クロム!上方警戒を頼む!」
「おい!」
言うなり、ファンは駆けだした。
クロムが抗議の声を上げ、馬が驚いてこちらを見たが、かまわず足を動かし、距離を詰める。
池の横を駆け抜けた辺りで、それがうつ伏せに横たわる人間であることがはっきりと見えた。
投げ出された左手には盾が乗り、それが光を反射している。
剣は鞘から抜かれてもいないようだ。
近付くにつれ、異臭が鼻を打つ。だが、それもファンの足を止める要因にはならなかった。
むしろその異臭が、さらにファンの懸念を確信へと変えていく。
麻痺による失禁。
かの毒は、より正確に言えば筋肉を弛緩させ運動能力を止める。
意識の混濁も引き起こし、およそ半日は動くことができない。
打たれた場所が心臓に近い場合は、心臓自体止まる可能性もある。
そんな、かつて読んだ書物の説明が頭を滑っていく。
間に合わないか。間に合わないかもしれない。
罠かもしれない。囮なのかもしれない。
だけど、だからと言って、足を止める理由にはならない。
間に合うかもしれないのなら、全力を尽くすべきだ。
罠なら、囮なら、後方の仲間を信じて踏み破るだけだ。
諦めるのは、結果を見てからだって遅くはない!
横たわる人の頭の横に、ファンは勢い良く滑り込んだ。
勢いを殺しつつ、倒れ伏す人の地面についた肩を持ち上げ、顔を上に向けさせる。
見開いた目は激しく動き、生きていることを示している。
力なく開いた口からは唾液が溢れ、顔を汚していたが、それはファンの意識には入らなかった。
ファンが最初から見つけようとし、そして見つけてしまったもの。
それは、右目の下で蠢き、瞼の下に潜り込もうとする、白い、悍ましい、虫。
眼球と同じくらいの大きさのそれを阻むように、目からは涙が溢れ、辛うじて侵入者を拒み続ていた。
右目の目尻は赤く爛れ、幼虫の吐き出す肉を溶かす消化液を浴びていたことを物語る。
そうして隙間をつくり、人体を食料に帰るための尖兵として、この幼虫は目の奥へと潜り込むのだ。
その悍ましいものを躊躇わずファンは摘まみ取り、池に向かって放る。
幽かな水音が、池がそれを飲み込んだことを教えた。
「レイブラッド卿!俺の声は聞こえますか!」
もうその行方には気を止めず、ファンは抱き起した騎士に向かって声をかけた。
弛緩しきった顔は、数日前の端正な面影を残していない。
だが、確かに彼は、エルディーンに付き従う騎士、レイブラッドだった。
頭部には何もつけていないが、首から下は鎧に守られている。
革鎧をベースに、胸や腹部を金属で補強した騎士鎧だ。その上からサーコートを羽織り、マントも身に着けている。
そうなると、とあたりをつけて、ファンはレイブラッドの頭を摩った。
すぐにぷっくりと膨らんだ箇所がグローブ越しに感じられる。後頭部だ。
(数匹に囲まれて、真後ろから毒針を撃たれたか、噴射された麻痺毒で倒れたところを更に注入されたか…)
『何か』が上空からやって来るとは思ってもみなければ、戦闘は一方的なものだっただろう。
剣を抜く暇さえ与えられず、騎士は毒に倒れたのだ。
なるべく早く治療が必要だ。最悪の事態は免れたとはいえ、最初の毒で死なないとは限らない。幸い、麻痺治しは有効だったはずだ。
あまり使わないので、腰にではなく鞄の中の医薬品キットの中に入れてある。
とりあえずそっと頭を降ろし、唾液や吐瀉物をのどに詰まらせないように顔を横向きにしてから、背嚢を降ろした。
その瞬間、甘い臭いが、鼻に届く。
馬たちが悲鳴を上げた。
反射的に見上げた空間。
青い空があるはずのそこを。
翅を広げた、巨大な虫の影が切り取っていた。
クバンダ・チャタカラ。
大顎の代わりに噴射期間を備えた縦長の頭部はどこか馬に似ている。
馬に似ているというか、馬面というべきだろう。
胸部と腹部に分かれた青黒い体と、いっぱいに広げると全長と同じくらいの長さになる肢。
それを浮かばせるのは、六枚の翅。
以前に見た標本よりはるかに大きく見える。
自分の腕くらいだと皆には説明したが、もっと大きい。
細い筒のような腹部の先、尻にあたる部分から、毒液を滴らせる針が姿を現わしてきていた。
…これは、初見だったら動けないな。
奇襲に気がついて、今のように見上げたとしても。
まず、虫がこれだけ大きいことに脳がついていかない。理解を拒む。
そんな感想を思い浮かべ、ふむ、とファンは頷いた。
より正確に言えば、虫の翅は四枚だし、この大きさなら飛べたとしても空中に留まることはできず、風が吹けば飛ばされる。
だから虫であるはずがないのだが、やはりこれは何かと聞かれれば、全員が巨大な蜂と答えるだろう。
羽音はほぼない。翅を震わせて飛んでいるわけではないのだから、当然なのかもしれない。
色が毒をもつ生物としては地味なのも、警戒を促す必要がないからだろう。
この魔獣にとって毒とは、身を守る術ではなく、獲物を狩るための武器でしかない。目立たない方が有利だ。
腹部が異常に細いのは、消化器官をもっていないからだ。
毒を生成する器官をはじめ、主要な神経瘤などは全て胸部にあるという解説を思い出す。
毒針は長く、鋭い。
よく見れば、先端に無数の穴が開き、そこから大量の毒液を流し込む仕組みになっているようだ。
胸部で生成された毒液は腹部に収納された毒針の中にためられ、腹部から針が押し出されると、蓋が無くなってにじみ出る仕組みだと、読んだ書物には書いてあった。
常に毒液がにじみ出てくる様子をみれば、その書物は正しかったのだと頷く。
自分の身に差し迫った危機も意識の外に飛ばして、ファンは夢中で生きているクバンダ・チャタカラを観察していた。
「阿呆!それはあとでやれ!」
クロムの鋭い声が、肢の形状を観察しようとしていた意識を引き戻す。
まだ地面についていた手まで使って、ファンはその場から飛び離れた。
わずかな間をおいて、クバンダ・チャタカラの口から毒液が噴射され、草を濡らす。
幸い、レイブラッドの頭に直撃はせず、彼の頭から少し離れた場所に飛び散っていた。
だが、座った状態のファンなら顔に直撃していただろう。
人間を捕食する魔獣は、人間の構造を理解している。
それが本能なのか、女王からの知識の伝達なのかはわからないが、明らかに口や目を狙っての発射だ。
すぐ近くにいる…馬車に繋がれたままで動きが制限されている…馬達には目もくれていない。
あくまで狙うのは、餌である人間だけであることも、はっきりと人とそれ以外の生物を区別していることを示唆していた。
確かに、恐るべき魔獣だ。
だが、それは、ここが見通しの悪い密林で、襲撃者が『何か』もわからず、不意打ちが成功していたら、の話で。
クバンダ・チャタカラから目を離さず立ち上がるファンの、その背後を、足音さえ置き去りにクロムが駆け抜ける。
タン!
駆け抜ける勢いを殺さないまま、クロムは地面を蹴った。
その先にあるのは、小屋の壁。
空中で体を捻り、小屋の壁を蹴り、さらに高く、跳ぶ。
「虫けらが」
空中のクバンダ・チャタカラの背面を取り、クロムは吐き捨てた。
体の構造上、クバンダ・チャタカラは振り向くことができない。
その巨大な複眼には恐ろしい速度で動く人間の姿が一瞬映るが、それが何をもたらすかまでは、彼女が知ることはなかった。
ぐしゃり、と音がした。
家の壁を蹴ると同時に抜かれたクロムの剣が、クバンダ・チャタカラの身体を切り裂き、地面に叩き落とす。
体液と斬られた身体が地面に叩きつけられる音と共にクロムは猫のように着地し、すぐさまファンの隣に移動する。
剣を一閃してわずかについた体液を払い、正眼に構えた。
「ファン!クロム!うしろ!まだいる!」
ヤクモの声に、二人は火花のように視線を散らした。
同時に散開し、「うしろ」をだった場所に向きなおる。
小屋の屋根に止まっていたのだろう。
ブオン、と言う羽音と主に浮き上がったのは、三匹。
うち一匹は腹部が他の二匹より大きい。
「なんであれだけ腹がでかいんだ?」
「おそらく、卵を女王から預かっている。つまりまだ、産みつけられていないってことだ!」
弓を持って走ってくるヤクモに手を伸ばしながら、ファンは叫んだ。
それは、少しだけではあるが、明るい材料だった。
産み付けられた卵はその日のうちに孵化する。
だが、産み付けられていないのなら、最悪の事態は回避できたということだ。
視神経に麻薬を打ち込む役目の幼虫も、潜り込む前に駆除することができた。
教わった生態が正しければ、卵の産みつけは犠牲者に麻薬成分を注入してからのはずだ。
あの膨らんでいる腹は、その知識に裏付けになる。
間に合った。
クバンダ・チャタカラがいるかもしれないという仮説。
急いで、走った、そのわずかに稼いだ時。
この魔獣がいるという可能性に気付いていなければ、倒れたレイブラッドに近付くのももっと警戒していただろうし、何がどうなっているのかと首を捻っている間に成虫に奇襲されていたかもしれない。
だが、まだ戦闘は終わっていない。
クバンダ・チャタカラからすれば獲物が飛び込んできたようなものだ。
大人しく撤退してくれるはずもない。
「ファン、弓!」
「ああ、ありがとな!」
弓を受け取るファンに向けて、三匹が取り囲むような位置につく。
やはり、人間を狩り馴れている。
慄然としながら、ファンはその包囲網から外れるべく、大きく飛び退いた。ヤクモも反対側に駆け抜ける。
それでもやはり、空中にいる、飛んでいるというのは機動性が段違いに高い。
明らかにファンを狙っているのは、一番目立つからなのか、それとも『弓』と言う飛んでいる自分たちに届く武器を持っている相手を最初に狙う知力があるのか。
書物で読んだ知識や、標本を見せてくれた学者の話では、女性より男性、子供より大人を狙う傾向にあるということだから、一番体格の大きなファンを良い獲物と見ているのかもしれない。
食糧庫兼苗床にするためには、丈夫で長持ちする若い男が最適なのだろう。
二匹がすかさず飛び退いたファンの両脇に移動し、毒針を出現させる。
弓を番える暇を与える気はないらしい。
だが。
ファンはにやりと笑った。
その意味を、当然クバンダ・チャタカラは理解しない。
仲間がいるのは、複数で相対するのは、冒険者側も同じだということを。
理解しないまま、右側に陣取る一匹の頭が、消えた。
「まず、ひとつ!」
それを成し遂げたのは、ユーシンが投擲した礫だ。
礫。それは、なんの変哲もない石ころだ。
だが、
高山地帯に暮らすキリクやクトラでは、矢の材料になる木材が不足するため、印字撃ちの技術が発達していた。
毛長牛や山羊の放牧中に襲ってくる獣や山賊を撃退するためにも有効な手段だからだ。
習熟者ともなれば、投げる瞬間を捉えることも難しく、簡素な盾ならば破壊し、一撃で頭蓋骨を砕くこともできる。
そして無論、ユーシンは印字撃ちにおいて、達人と言えるレベルにあった。
通常の生き物ならば、仲間が突然死ねば狼狽え、怯む。
しかし、クバンダ・チャタカラは、怯むという感情を持ち合わせない。
仲間が…姉妹が死んだことを理解しているのかもわからない。
感情はなく、群の存続を、
それは、この世界の蜂と融合したことで取得した性質なのか、もともとそういう存在だったのか。
ただ、冒険者側にとっては、その執拗な動きはむしろ有利だ。
ひたすらに獲物と定めたファンを追うクバンダ・チャタカラの動きは素早くもなく、補足も容易い。
そしていまだに、ファン以外の人間の存在を彼女らは無視している。
「ふたつ!」
ユーシンの放った二つ目の礫が膨らんだ胴をぶち抜く。
ばらばらと飛び散る卵に、クバンダ・チャタカラは動揺したかのように激しく翅を震わせ、落ちていく卵を追って地面に降りた。
「胴は死なんのか。まあ、トンボも胴を抜いて麦わらつけても生きてるしな」
前足で卵をかき集めようとするクバンダ・チャタカラの頭を、クロムの剣が両断した。
それでも肢はせかせかと動き、卵を集めようとしているようだった。
その、悍ましくも憐れを感じさせる動作に僅かにファンは眉を寄せ、しかし、出した指示はその憐れみを、切り捨てたものだった。
「狙うなら、胸の部分だ!そこに神経系統が集まっているはず!」
残る一匹も卵の救援に向かおうとしていたのだろう。
だが、その胸部をファンの放った矢が貫いた。
矢の勢いに弾かれて落ちたクバンダ・チャタカラは数回足と翅を動かし、そして止まる。
「もう、死んでるぅ?」
「多分な。一応潰しておくか?卵」
「そうだな…」
地面に落ちた卵は、鶏の玉子よりやや小さい程度の大きさで、丸い。
時折中で幼虫が動いているのだろう。もぞりと波打つ。
それを嫌そうに見ながら、クロムは足を踏み下ろした。
ぐちゃり、と不快な感覚が靴底を貫通して伝わり、さらに顔が歪む。
「…あとはヤクモがやれ。お前なにもしてないんだし」
「うえええ~」
盛大に顔を顰めながらも、ヤクモは言われた通り卵を潰す作業を引き受けた。
一つ潰すごとに「ヒェッ」とか「うひい」とか「も、やだあ」と泣き言を漏らしつつも、こなしていく。
「これが、お前の言っていた、蜂か」
「クバンダ・チャタカラ、な」
ようやく動きを止めた、腹の膨らんだ一匹にファンは歩み寄った。
腰のベルトから手斧を抜き、その先端で膨らんでいた腹を突いてみる。
本来の細長い胴の上から、スカートのように伸縮性のある外皮が被さっていた。
その部分をめくってみれば、まだ潰れていない卵が見える。
「…産み付けられなければ危険はないと思うが、燃やそう」
「他の蜂もか?」
「ああ。雀蜂の仲間は、死ぬと独特の匂いを出して敵がいることを教えて仲間を呼ぶ。クバンダ・チャタカラにそんな習性があるとは書いてなかったけど、そうなっても困るし。旧参道の土の上なら、火も燃え移らないだろう」
「うむ、わかった。それは俺がやっておこう。お前はそこの男をどうにかするのだろう?」
「ありがと。頼んだぞ、ユーシン。クロムとヤクモは警戒を」
「先に靴洗ってきていい?」
幼虫の体液で汚れた靴を見て、ヤクモは泣きそうな顔で池を指さす。
そろそろ底が薄くなってきたブーツは、潰れる感触もしっかりと足裏に伝えていたし、このままでは体液までお届けになりそうである。
「むしろ、しっかり洗え。幼虫の消化液は肉を溶かすから、革製品はあぶないかも」
「先に言ってよおお!クロムのばかー!」
「なんで俺だ」
池に向かって走るヤクモには視線も向けず、クロムはどこを見るでもなく四方八方に意識を向けた。
不審な音、気配がないか、全神経を研ぎ澄ます。
剣は鞘へ戻した。どうしても握っていると、剣の方へ意識が向く。
剣を己の腕の先と思える域には、まだ遠い。
ユーシンなら構えたままでいられるだろう。それが少々、腹立たしくはある。
だが、それを今考えても仕方がない。やれることをやるだけだ。
クトラ人は耳がいいと言われるが、クロムにはファンの鷹の目のような能力はない。
あれは魔導士であるファンの兄曰くわく、感覚強化の魔導を無意識に使っているのだという。
その証拠にか、長時間行使すれば目の血管が切れ、白目の部分が赤く染まり、最終的には血の涙が出る。
そうなったのは岩場に住む鼠と兎と足して割ったような生き物を一日中観察し続けた時だったが。
だが、そんな能力がなくても、感覚を鍛え、気配を探ることは別に難しくはない。
少なくとも、クバンダ・チャタカラの気配はない。
どこかにじっと身を潜めているのか、近くにいないのかなら、近くにいない可能性の方が高そうだと、クロムは判断した。
それより気になるのは、小屋の中と馬車の客室の中だ。
なにか、いる。
いや、誰か、いる。
「おい、ファン」
「ん?」
荷物の奥から麻痺治しを引っ張り出し、騎士を抱き起している主が、視線を向ける。
騎士の首の後ろに腕を当て、完全に仰向けさせてから、少し止まった。何かを悩んでいるようだ。
「どうした?」
「口から入れて飲むかなあって」
「口移しとかするなよ。そんなことを主にさせるくらいなら、俺がそいつを介錯する」
「俺がやるって言わないあたり、クロムだなあ」
ファンもその気はないようで、いったん騎士の頭を膝に降ろし、更に荷物から何かを引っ張り出す。
皮で作られた箱だ。蓋を開けると、細長い金属の棒と、コルクの蓋が嵌ったガラスの小瓶やピンセット、薄いガラスの板が収まっていた。
それが、ファンが…ファンにとっては…興味深いものを採集するときに使う、冒険に関係のない完全に趣味の道具だと、クロムはもちろん知っている。
「それ、持ってきてたのかよ…」
「いや、ほら、何か役に立つかもだし?実際役に立つじゃないか」
「この蜂モドキでも詰めるのか?」
「毒液は採集しといてもいいかもな。まあ、今は違うけど」
ガラスの小瓶の一つには、なにか透明な液体が入っていた。
その小瓶のコルク栓を、ファンは歯を使って抜き取った。
栓を口にくわえたまま、箱から取り出した金属の棒に小瓶の中身の液体をかける。
つんとした匂いが、その液体が強い酒だということを教えた。
ぴっぴと棒を振り残った酒を飛ばしながら、膝を上げる。
その動きに騎士の頭が反り、半開きの口から喉の奥が見えた。
だらりと垂れる舌に、ファンは金属棒を押し当てた。よく見れば先端は丸く膨らんでいる。
その部分で舌を押し、へこませると、酒の入った小瓶を置き、地面に置いていた麻痺治しを再び手に取る。
ゆっくりと、棒に向かって麻痺治しの瓶を傾けると、滑らかな表面を伝って薬は騎士の舌へ、さらにその奥の喉へと流れて行った。
「とりあえず…経口摂取はできた、かな。皮下へ注入した方がいいんだろうけど…」
一定量の麻痺直治しが騎士の喉奥へ消えて行ったのを確認し、ファンは頷き、クロムを見上げた。
「クロム、何か気付いたのか?」
「小屋と馬車の中。誰かいるぞ」
「そか。ユーシンが戻ってきてから呼びかけてみよう」
レイブラッドと同じように麻痺しているかもしれないが、格闘の心得のない人間でも、全力で殴れば殺せる程度にはクバンダ・チャタカラは脆い。
卵の産みつけは完全に動けなくなってから行う。ドアを閉めるまで動けているなら、逃げ切れた可能性が高い。
ただ、問題は、小屋や馬車にいるのが、ファンたちににとって友好的な相手とは限らない、と言うことだ。
それなら、こちらも戦力を整えてからにするべきだろう。
「レイブラッド卿も出来れば小屋の中に寝かせたいし、馬車があるならそのまま避難させることもできるな」
「馬車の方から開けてみるか?おそらくあっちは一人だ」
「そうしよう」
騎士を地面に横たえ、ファンは立ち上がって馬車に視線を向けた。
馬車に繋がれたままの馬は、こちらをじっと見ている。
アスラン馬ではないから、慣らしの唄は使えない。
しかし、そうであっても、馬と共に育つ遊牧民が馬の扱いに困る事などはない。
ゆっくりと横側から近付き、ファンは馬車から馬たちを解放した。
首を優しく叩き、何事かを囁いている。
轅から解放され、動いている人間が近くにいることで、馬たちはだいぶん落ち着きを取り戻したようだ。
首を巡らせてファンの匂いを嗅ぎ、すり寄る。
「よしよし…水飲みに行こうな。喉、乾いたろ」
池に向けて歩き出したファンに、馬たちは着いていく。
主が十分に離れたのを見て取ってから、クロムは再び剣を抜いた。
たとえ、中に入っているのが、左方の神官戦士や雇われた破落戸であっても、今この時に戦意がなければ、ファンはどうにかして助けようとするだろう。
だが、背中を見せた瞬間、何をしてくるかわからないような手合いを助けたいとは、クロムは思わない。
僅かでも主に危険をもたらす可能性があるのなら、排除すべきだ。
ちらりと視線を投げると、ユーシンが目を合わせてくる。
生木の枝をかぶせることで、火の勢いを抑え、風に火の粉が飛ばないようにしているようだ。
燃え広がる心配はないと判断したらしく、槍の鞘を外して歩み寄ってくる。
「お前が開けろ。俺がやる」
「わかった」
短いやり取りだが、意図は伝わっていた。そういう意味でも、クロムはユーシンを信頼している。
無造作に、ユーシンの手が馬車の扉にかかる。
軽く引くが、動かない。ただ、内部で何かが動く音と気配はあった。
「開けるぞ」
がっしりと取っ手を握り、力任せに引く。
身長より長い金属槍を軽々と振り回す膂力に、簡素な閂は耐えられなかったようだ。
バキリ、と音がして、扉は開いた。否、引きちぎられた。
とたんに二人の鼻を打つ、生物的な悪臭。
その発生源は、客車の隅で見てわかるほど震える、神官服の少女だった。
どうする?と問う視線がユーシンからクロムに走る。
「聖女候補の娘か」
内心舌打ちしつつ、クロムは呟いた。
その声に、少女は辛うじて首を縦に動かした。
ぜいぜいと喘ぐ呼吸の合間に、たすけて、という声が混ざる。
(面倒なもん見付けちまったな)
斬ってしまってから、錯乱して攻撃してきたからつい、と誤魔化す方が面倒が少なかったなとは思うが、流石にそれは主の責任になる気もする。
一応、救出対象…ではあるだろう。
「クロム?ユーシン?」
なにより、先ほどの音でファンがヤクモと共に近寄ってきていた。顔が少し怒っている。
「気になったから開けた!」
「まったく…可能性は低いが、中にクバンダ・チャタカラがいたかもしれないんだぞ?」
はあ、と溜息をついたファンは、恐らくクロムが何をしようとしていたかわかっているだろう。
「もう、しちゃ駄目だからな。めんどくさそうとか、そういうのは禁止だ」
「わかった!」
別に面倒だからだけが理由ではないが、その言葉の裏に込められた意味を読み取れないほど、クロムは愚鈍でもない。
勝手に先回って殺すなと釘を刺されたのは、良くわかっている。
だが、それでも。たとえ相手が年下の少女であっても、主に危害を加えるなら躊躇なく殺す。
主にいくら怒られても、嘆かれても、主の亡骸を見るよりずっといい。
そんな内心が漏れていたのか、はあ、とファンはもう一つ溜息をついた。
「クロム」
とん、と左胸を叩かれる。
「気負いすぎは、無警戒と同じだ。大丈夫。剣を収めてくれ」
「…御意」
剣を鞘に戻すと、にっこりとファンは笑った。
そんなことを命じるなら、もっとお前は警戒心を高めろと言いたいが、飲み込んでおく。
それよりも、今はこの聖女候補の方だ。
「誰か、俺の背嚢とってくれ」
「はーい」
地面に置かれたファンの背嚢を、一番近いヤクモが持ち上げて手渡す。
ファンが取り出したのは、野営用の毛布だった。
「もう、大丈夫ですよ」
穏やかに笑いながら、その毛布を差し出す。
「良く、頑張りましたね。俺達はバレルノ大司祭に依頼を受けた冒険者です」
「あ…」
少女の見開かれた目から、新たに涙が膨れ上がる。
だがそれは、今までの恐怖からのものではなく、安堵の涙だ。
「動けますか?」
差し出されたファンの右手に、少女は飛びつくように縋った。
そのまま、わあわあと泣き出す。嗚咽の合間に、こわかった、たすけて、おかあさん、めがみさま、と言う単語が混ざっていた。
「怖かったね。でも、もう大丈夫」
取り出した毛布を少女にかぶせ、ファンは空いた手で少女の背中を優しく叩いた。
その動きは先ほど馬にしていたのと大差がないな、とクロムは思う。
馬を女性のように優しく扱うと褒めるところか、女と馬を同じ目で見ているからモテないんだと怒るべきか。
しかしまあ、この少女に必要なのはあわよくばと言う欲を伴った慰めではなく、動物や子供にするような、保護者の振る舞いなのだから、今は最適な行動なのだろう。
「動けるかな?」
ファンの問いかけに、少女は頷いた。膝をついたまま、前へ進む。
少女の半身が扉から外に出たところで、ファンは「ちょっと失礼」と声を掛けながら、少女を抱えて馬車から降ろした。
降り注ぐ朝の陽ざしが、更に少女を安堵させたのだろう。
より一層大きな声で、少女は泣き始めた。
「水、飲める?」
ヤクモがそろっと、水袋を差し出す。
受け取って、しゃっくりあげながら少女は吸い口を唇にはさんだ。
最初は、嗚咽の合間に何とかすすり上げていたが、一口二口が喉を通ると、勢いよく少女は水袋を傾け、貪る。
おそらく、襲撃があってから初めて口にする水だろう。
少女が避難していた馬車は客車しかなかった。
右方で手配された馬車には、後部に荷物を積み込む為のスペースがあったが、それもない。荷物は違う馬車か人力で運ばれていたのだろう。
見渡しても荷物は散乱していない。であれば、別の馬車があり、そちらは逃げおおせた、と考えるのが妥当か。
そうであってほしいと、ファンは幽かに眉を寄せた。
「だいじょーぶ?」
ヤクモの声に、こくり、と少女は頷き、そしてはっとしたように後退る。
「え?ぼく、なにもしないよ?」
あわあわと慌てるヤクモに、少女は俯いて首を振った。
ぎゅっと水袋を握りしめたまま、更に離れる。
「あっちに池がある。馬の側で洗って来い」
その様子に、面倒くさそうにクロムは池を指さした。
「馬が騒ぎ出したら、池に飛び込め。水の中までは追ってこない。そうだな、ファン」
「あ、うん。あっと、毛布はそのまま持って行っていいから。何かあればすぐ駆けつけるんで…」
「…ありがとう、ございます…」
少女は俯いたまま頭を下げ、よたよたと池に向かって歩き出した。
本当は走りたいのだろうが、長時間縮こまっていた脚は疾走を許さない。
だが、それ以外に手足が萎えているような様子はない。
毒を打ち込まれていないようだと判断して、ファンは胸を撫で下ろす。
「ぼく、なんか嫌われるような事、した?あ、水袋で間接ちゅうを疑われたとか?」
「阿呆。糞小便漏らしたのを男に知られて喜ぶ女は、かなり上級の変態だけだ」
あ、と呟いて、ヤクモは顔を赤くした。
「わるいことしちゃったかなあ…」
「漏らしたことを恥じれるだけマシだ。死体は何も感じないからな」
「死ねば糞小便は垂れ流すものだしな」
ふむ、とユーシンも頷き、そして視線を小屋に向けた。
「で、あちらはどうする?」
「開けよう」
躊躇わず、ファンは答えた。
「あちらも生存者がいる可能性が高い。出てこないってことは、警戒されているか、それが出来ない状態ってことだ。どちらにせよ、放ってはおけない」
「心得た」
ずかずかと小屋に歩み寄り、ユーシンは扉に手を掛け、引く。
やはり、ガツンと抵抗が示され、鍵なり閂なりが中にいるであろう生存者を守っていることを示す。
見たところ、扉の取っ手に鍵穴はない。
狩人や木こりが休憩するための小屋なので、中には簡素な椅子と湯を沸かす道具にカップ程度しかないと村長は言っていた。
鍵をかけて守るようなものもなく、ならず者が棲みつくような場所でもない。元々、鍵は内側にしかないのだろう。
「どうする?開けるか?」
「いや、まずは呼び掛けてみる」
先ほどの少女が落ち着けば、彼女に声をかけてもらうのが最善だ。
だが、いろんな意味で彼女が立ち直るのはまだ時間がかかる。
もし、レイブラッドと同じく毒を打ち込まれたものがいれば、少しでも早く治療をする必要もある。
「扉は外開きか…呼びかけたらすぐ離れろよ」
「いきなり襲い掛かられる可能性はないと思うけどな」
苦笑しつつも、ファンは頷いた。
まあ確かに、暗殺の常套手段だ。扉を勢いよく引き開けて、体勢を崩した相手の腹に刃物を飲み込ませる、と言うのは。
それは分かっているし、もしそれで本当に自分が死んだら大変なことになる。
大人しく言う事を聞くつもりで、ファンは扉の前に立った。
「動ける人はいますか?バレルノ大司祭の依頼を受けた冒険者です」
扉を叩きながら、声をかける。
「大丈夫で…っうわ!」
勢いよく、扉が開いた。
反射的に飛び退くファンの前に、クロムが飛び込む。
左手に括り付けた盾を前に突き出し、右手を剣の柄にかけて、開け放たれた扉の中を見据えた。
「ファン…どの…っ!」
そこに立っていたのは、涙で顔をぐしゃぐしゃに濡らした少女。
「エルディーンさん!無事だったんですね!」
カラン、と音がして、エルディーンが握りしめていた剣が落ちた。
「レイ、は…っ!レイ、どこっ…!」
「レイブラッド卿も生きていますよ。大丈夫」
クロムの肩を叩き、一歩下がらせて、ファンはエルディーンに歩みよった。
朝日を浴びながら、少女は震えている。
だが、崩れそうな膝を踏ん張り、きちんと両足で立っていた。
それはきっと、彼女の意地と意志のなせる業だ。
おそらく、この小屋に逃げ込んでからずっと、彼女は剣を握り、泣きながらも戦う意志を保ち続けたのだ。
それは、十分称賛に値する。
「頑張ったね」
右手のグローブを外し、ぽん、と彼女の頭に置く。
「依頼を全うした。ちゃんと、護衛対象を守ったね。よくやった」
ファンの目は、小屋の真ん中でこちらを見つめる少女たちを見つけていた。
ぎゅっと抱きしめ合い、震えている。
壁に近付くのも怖かったのだろう。それでも何かに触れていないと安心できない。
だから寄り添い、励ましあって、彼女たちは耐え抜いたのだ。
小屋の中は、馬車と同じ臭いが立ち込めていた。それは、目の前の少女からも漂っている。
無理もない。彼女たちはおそらく生まれて初めて、魔獣に遭遇し、命に危機に晒された。
士官候補として訓練を受け、兵役に赴いた騎士見習いでも、初陣の後は大抵同じ臭いを発している。
それほど、死というものは恐ろしいのだ。
彼女たちは、その恐怖に耐えた。
特に、馬車に隠れていた少女は一人で耐えきったのだから、一番肝が据わっているのかもしれない。
さらにエルディーンはその恐怖との戦いに加え、いざとなれば剣を振るう覚悟で長い時を過ごしたのだ。疲労は筆舌に尽くしがたいだろう。
「でも、もう少し、頑張れる?彼女たちも一緒に、外の池へ行けるかな?」
「…はい!」
だが、彼女の気合を、安堵で断ち切ってはいけない。
もう一つ仕事がある。あと少し、彼女には踏ん張ってもらわなくてはならない。
聖女たちを連れて、麓の村まで下山してもらわなくてはならないのだ。
今、確かにこの周辺にはクバンダ・チャタカラはいないように思える。
だが、それはあくまで、今だけだ。
次の部隊がいつ来るのかは予測すら立てられない。
確かなのは、「今は」いないということだけだ。
それに、元凶と思われる『誰か』がどこにいるかもわからない。
もし、それが男で、既に目の中に幼虫が潜り込んでいたら、女性である彼女たちに襲い掛かる可能性が高い。
その前に、麓の村まで、クバンダ・チャタカラの情報と共に避難してもらわなくてはいけない。
ファンたちが登ってきた道は、恐らく安全だ。
あれだけ楢が枝を伸ばす空間では、クバンダ・チャタカラの巨体は邪魔になる。
毒液の噴射も張り出した枝が防いでくれる。
あの魔獣の最大の弱点は体の脆さだ。
それはクバンダ・チャタカラ自身もよくわかっている。
下手に飛んで硬い楢の枝で切り裂かれるような真似はしないだろう。
なにより、あの魔獣にとって、餌は基本的に狩るものではなく、与えられるもの。
自分たちに不利な場所に赴いてまで、獲物を探すことはしないはずだ。
もちろん、一番安全確実なのは、自分たちが一緒に下山することではある。
だが。
(ドノヴァン大司祭たちがいない…)
逃げたと思われる馬車に乗っていたならいい。
だが、さらに上へ、跡地へと向かっていたら。
(あの、臭い…いや、まだだ。まだ、早い)
思い浮かぶ仮説を今は押し止め、ファンはエルディーンから離れた。
少女は涙を無造作に拭い、無理やり笑みを浮かべて振り返る。
酷く歪なものであったけれど、確かに彼女は笑って見せた。
「皆さん、助けが来ました。もう、だいじょうぶ、です…!」
声の後半に滲んだ震えは、助かったという実感が湧いたのだろう。
暗闇で、待ち望んだもの。助けに来てくれる誰か。
それが、今目の前にいる。
自分たちは、助かったのだ。
「白馬に乗った王子様じゃなくて申し訳ないけどね。馬ならすぐ傍にいるけど、栗毛だし」
「しかも馬車馬だな」
ファンの下手糞な冗談に、エルディーンは力いっぱい首を振った。
待っていた。望んでいた。どうかどうかと祈り、願った。
その期待が、希望が、彼女を立たせていたと言っても過言ではない。
必ず、彼らは来てくれる。
そう願って、信じて、本当に助けに来てくれた。
白馬に乗った王子様などより、ずっといい。
よろよろと助け合いながら、少女たちも立ちあがる。
神官衣は汚れ皺になり、顔は涙で荒れているが、それでもすぐにわかるような怪我はなく、麻痺の様子もない。
「みんな、毛布を出してくれ」
「…俺のもか」
「逆に何でクロムのはださなくていーっておもったのさ!?」
ぷんすかと怒りながら、ヤクモは自分の背嚢から毛布を引っ張り出した。
少女たちは全員で六人、冒険者は四人だから足りないが、それは何とか融通してもらうしかないだろう。
しぶしぶ差し出されたクロムの毛布と、縛ったまま投げ渡されたユーシンの毛布も抱えて、ヤクモは小屋の入り口まで出てこれた少女たちに差し出した。
「洗ってから詰めて使ってないから、きれいだよ!」
少々、男臭いのは我慢してもらうしかないだろう。特にユーシンのそれは犬みたいな匂いがするが。
濡れた犬ではなく、日にあたった犬の耳の後ろの匂いだなあとヤクモは首を捻った。人間が使う物からしていい匂いなの?それ…
少女たちは、朝日の眩しさに目を細める。
小屋には明り取り用の小窓はあるようだが、開ける気にならなかったのだろう。
エルディーンを先頭に、少女たちは小屋の外に足を進めた。
怯えたように周囲を見渡してしまうのは、当然だろう。
鳥の影にすらびくりと震える。
彼女たちは間違いなく、クバンダ・チャタカラの襲撃を受けている。
そうでなければ、草むらよりも空中を視線がうろつかないだろう。
エルディーンも同じように周囲を見渡し、そして彼を見つけた。
「レイブラッド!」
悲鳴のように名を呼んで、エルディーンは倒れ伏す彼女の騎士へ駆け寄った。
主の呼び掛けにも、騎士は反応しない。
ただ、先ほどより明らかに顔つきが違う。
緩み切った顔ではなく、少しだらしなく口を開けて眠っているだけのように見えた。瞼もちゃんと閉じているし、眼球の不規則な動きもない。
その頭を抱きかかえるエルディーンの横に、ファンも膝をつく。
投げ出された騎士の手をとり、グローブ越しではあるが、掌を軽くもむ。
その刺激に反応して、騎士の指が微かに曲げられた。
「良かった…麻痺治しの効果が出ている」
「彼は、レイブラッドは、助かりますか!?」
「まだ…断言はできないかな。俺は医者じゃないし…」
刺されたのは、後頭部。
麻痺直しで筋肉の麻痺は治せても、脳がダメージを負っている可能性はある。
それがどんな後遺症を齎すか、ファンにも解らなかった。
「でも、君も君の騎士を信じてあげて」
「信じる…」
レイブラッドの顔から視線を上げ、エルディーンはファンを見上げる。
ついこないだまで悪魔の化身と思っていたアスラン人を見つめた。
満月の色の双眸が、穏やかな、けれど強い意志を宿して彼女を見つめ返す。
「俺が君と同じ立場だったとしたらさ。俺は信じるから。俺の
スレン、と言うのが何なのか、エルディーンは知らない。
しかしそれは、きっと彼の騎士の事なのだと、直感的に理解した。
あの、硬質な瞳を持つ剣士。
主を傷つけようとしたことを、何よりも怒った人。
「だからさ、不安なのはすごくわかるけど、信じよう」
「…はい!」
ぐい、と再びエルディーンは頬を乱暴に拭った。
涙と泥がまじりあって酷い顔になっているだろう。
だが、そんなことを気にしている場合ではない。
彼女の騎士は、彼女を、聖女候補たちを守り切った。
あの、恐ろしい虫が現れた時。
誰もが、動くことすらできなかった。
エルディーンは己の見ているものが何かさえ、理解できなかった。
剣を抜いて応戦するどころか、逃げるという選択肢さえ浮かんでこない。
ただ、理解を超えたそれを、見ていた。
その永遠のような時間を打ち破ったのは、レイブラッドの声だ。「小屋へ!」という指示に、エルディーンの手足は忠実に従った。
咄嗟に、すぐ隣にいた聖女候補の少女の腕ををひっつかみ、小屋へ向かって走る。
彼女を開いていた扉から中へ放り込み、絶叫しながら走って逃げてきたもう一人の手を掴んで引き寄せ、更にもう一人の手を取って小屋の中に飛び込む。
それとほぼ同時に、レイブラッドがもう一人の少女を小屋へと放り込んできた。
その少女をエルディーンが受け止めたのを確認すると、騎士は主を見て、微笑んだ。
名を、呼んだと思う。はやくこっちにと、叫んだと思う。
だが、彼女の騎士は、微笑んだまま扉を閉めた。
もう一人の聖女候補を助けに行ったのだと、わかっていた。
だが、彼女の意識を、思考を占拠したのは、自分も助けに行こうとか、ここを守らなければならないという意志ではなく。
ただ、子供のように、思った。
いかないで、ここにいて、と。
主の自分がそんなありさまだというのに、彼女の騎士は役目を全うした。きっと、もう一人の少女も助けたのだろう。
それなら。
そっと騎士の頭を地面に降ろし、エルディーンは震える膝を叱咤する。
守らねば、ならない。
それが彼女と、レイブラッドが冒険者として受けた
レイブラッドは仕事を、任務を途中で投げ出すような人間ではない。
必ず起き上がって、自分の横に立ってくれる。
それを、信じる。
向けた視線の先にあるのは、先ほど取り落とした剣。
体に力が入らないのに、指だけはかたくなに剣の柄を握りしめて離さなかった。
もう、指の感覚はない。動きも酷くぎこちない。
けれど、その指を無理やりに動かし、エルディーンは剣を拾った。
なかなか思うようにできなかったけれど、何度目かの失敗の後、剣は鞘に収まってくれた。
剣を落としたままでは、自分も守られる側の人間だ。
私は、守る側だ。だから、剣を帯びる。
贋物の灯であっても、この身に刻んだのだから。
「さあ、皆さん、池に、行きましょう。身体を清めなくては…」
少女たちを促し、自らも歩き出す。
馬がゆっくりと水を飲み、草をはむ場所で、もう一人の聖女候補の少女が水に足をつけていた。
エルディーン達に気付くと、くしゃりと顔が歪む。
半ば転びながらも聖女候補の少女たちは駆け寄った。
五人で抱き合いながら声をあげて泣きだす。
一歩離れてそれを見ていたエルディーンだったが、一人の少女がぐいと抱き寄せ、巻き込まれた。
彼女が涙を堪えられたのも、僅かな間だけで。
少女たちは一塊になって泣いた。
その涙と嗚咽で、恐怖と不安を洗い流すように。
今生きている喜びを、叫ぶ代わりに。
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