第22話 マルダレス山 登山道

 遠目から見て思った通り、植生はオークを主体とする落葉樹林だ。

 時折、トウヒの群生が混ざっているのは自然発生と言うより植樹した結果かもしれない。


 山肌は木の根や土がむき出しにならず腐葉土が積もり、下生えの青草が葉を風に揺らしている。

 あちこちほじくられたようになっているのは、放牧された豚の食事あとだろう。

 茸でも探していたのかな。


 腐葉土がこれだけ積もっているわけだし、この山の傾斜は緩やかであまり強烈な雨風に晒されることもないのか。


 とは言え、山は荒れれば急激に気温が下がるし、腐葉土が積もった地形は崖や急斜面との境目が分かりにくい。

 道をそれて神殿跡地を目指す時、注意しなきゃな。


 「なんかさあ、ピクニックにでも来たみたいな感じだねぃ」


 うん。なんとか緊張感を保とうとしている時に、今の状況を端的に述べないでくれ。


 わずかに雲が出ているとはいえ、空は晴天。

 気温も気候も、言うことなし。風は爽やかで日差しは優しい。


 道は緩やかに弧を描きながら先へ続き、見えた感じ、何度か折り返して登っていくようだ。

 足元はしっかり固められ、障害物はほとんどない。時々、横の木が枝を伸ばして被さってくる程度だ。


 つまり、なんというか、とても快適。

 街中の狭い空間にいるより、なんなら気が休まるまである。


 「油断しないようになって…難しいな」

 「もっとこぉさぁ、ドロドロ~ってしてほしいよねぃ」

 「元々、巡礼が数人で越えられるような山だしな…」


 基本的に、徒歩で旅をする場合には少人数の旅は危険だ。

 賊や追剥、ゴブリンに野生の獣、場合によっては立ち寄る村ですら旅人の脅威になる。


 隊商にくっついていくか、冒険者や傭兵を護衛に雇うか…少なくとも、街道をそれず、昼間だけ移動するのが鉄則だ。野宿なんてとんでもない。


 それなのに、麓の村やその前に立ち寄った町の話では、巡礼たちは夜明けを中腹の広場で迎えるために、夜にここを越えることもよくあるらしい。


 つまり、それが出来てしまうほど安全な地域なわけだ。


 「最後に未帰還になった新米どもも、さぞかしこの光景を見て笑っただろうな」

 「…そうだな」


 振り向かず、クロムがいつもの皮肉気な声で警告する。


 そう、彼らも油断したはずだ。こんなところで行方不明?ありえない。

 そう笑って警戒も解いて先に進んだのだろう。


 そして、帰ってこなかった。


 「どの辺から危ないんだろうねぃ…」

 「この辺りからヤバいんなら、村に被害が出ているだろうからな。まだ先だろう」


 子供の足でも来れてしまうような場所に『何か』か『誰か』がいるなら、村人に目撃されてもおかしくはない。

 道がしっかりあるということは、最近まで頻繁に人が通っていたって言う事だし。


 だけど、昨日まで安全でも今はそうとも限らない。


 「人の気配はないな!」


 殿のユーシンが断言する。

 人の気配…それもこちらを狙う気配を、クロムとユーシンが見逃すとは思えない。


 二人を欺くほど隠密に長けた『誰か』が敵にいるなら、冒険者を消す羽目になるようなへまはしないだろう。

 犯罪行為は隠しておくのが一番いいんだから。


 「罠とかはあるかもしれない。仕掛け弓に気を付けて行こう」

 「ヤクモ、道にはみ出している枝なんかを適当に触るなよ。矢が飛んで来たら責任取ってお前当たれ」

 「嫌だよ!だいじょうぶ!ぼく、気を付けるよ!」


 とは言ったものの、あまりそういう類の罠がある気はしない。


 罠もそうだけれど、人の痕跡があればそれは必ず違和感となって誰かが気付く。

 日常的に山に入っていた村人が何も気づかないというのはおかしな話だ。


 つまり、この道はおそらく『誰か』からすれば放置している地域なんだろう。

 それを考えると、危険なのは広場から先か。


 俺たちの情報は届いているだろうから、待ち伏せをしている可能性は当然ある。

 まあ、あの襲撃で負傷もなく突破されるとは思っていなかったかもしれないけど。


 俺なら、あの町に斥候を置いて確認する。

 『誰か』も同じように考えているなら、こちらの戦力も伝わっているだろう。


 そうだとすれば、身を隠すところのない広場で、弩弓による斉射はあり得る。

 むしろ、それが最適解だ。

 村から登っていることを知っているのだから、山道から出てくるのを待てばいい。


 と、なると、いつ来るかのタイミングを計るために斥候が出ている可能性は高い。

 そいつをとっ捕まえれば、何が起こっているのかも分かるはずだ。


 そう思うんだけど…なんだかしっくりこないんだよなあ。


 「ふむ。ファン、結局何がいるとお前は思う?」

 ユーシンの声でつらつらと浸っていた思考の沼から引っ張り出された。


 「うーん…なんかしらの後ろめたいことをしている連中がいるのはそうだろうなって思うんだけど」

 しっくりこない。

 この仮説で全部嵌るかと思っても、あてはまらない断片が残ってしまう。


 満月花が枯れた…というか、花が咲かなくなった原因は分かった。


 あと、残された不明な部分は「奥へ踏み込んだ冒険者の未帰還」と「何故か聖女神殿跡地に神官を派遣している」ってことだ。


 これが一本でつながっている、とは思う。

 だけど、繋げようとすると、うまく繋がらない。

 うまく全部繋げたと思って見てみると、使っていない断片がある。


 もっと単純に考えてみよう。


 何故、聖女神殿跡地に神官を派遣しているのか。

 神殿再建のためなら、右方にも情報は届くだろうし、麓の村の協力は欠かせない。

 マーサさんたちにも当然声はかかる。

 何しろ、かつての聖女神殿の生存者なのだから。


 だから、神官を派遣しているのは「聖女神殿の再建」の為ではない。


 では、何の為に?


 ここに、冒険者の失踪は関わってくる。

 見られては拙い物、知られてはいけない事を冒険者たちが見付けてしまったから、拘束…あるいは殺害された、と考えるのが妥当には思える。


 けれど、七人。

 一人、三人、三人。


 三回も、そんな下手を打つか?


 立て続けに山に入ったわけでもなく、二回目以降は備える時間もあっただろう。

 少なくとも、冒険者がここまでくると分れば、カモフラージュくらいはするだろ。常識的に考えて。


 そんなことも思いつかない阿呆なら、毎月の大司祭の訪問で露見している。

 山を横断する巡礼や、近隣の村の猟師にだって見つかっている。


 それが、ここにきて急に?


 それが、どうにも納得できない。思いつかない。

 どうでもいいじゃないか、悪い奴がいたら蹴散らして終わり、それでいいじゃないかって声が自分の中で大きくなってくる。


 でも、考えることを止めたら、追及することを諦めたら、学者は終わりだ。


 俺は軍師じゃなくて学者だ。

 神算鬼謀、万里を見渡す目なんて持っていないけれど、調査して考察する頭と観察する目は持っていると自負したい。


 末端で特に大きな研究成果もなくて、論文だって片手の指で数える程度にしか書いていない。

 それだって、共同研究や調査の結果だ。追及すべきテーマも専門もない。


 けれど、俺は学者だ。


 俺の師匠たちは、俺にわからなかったら適当に済ませて良いなんて教えたか?


 答えは否だ。


 考えろ。観察しろ。わからない事があったらとことんまで、わかるまで調べろと教わったじゃないか。


 満月花を摘んで帰るだけなら、何が起こっているかまで知る必要はなかった。


 危険な生物がいるならその情報だけは持って帰って、提出しようとは思っていたけれど。

 陰謀を暴き、国を救うなんて手に余る。やれることだけをやって帰ればいい。そう思っていたけれど。


 依頼として、守ることを引き受けた。遺語にも誓った。


 なら、解決しなくてはならない。知らなくてはならない。

 ここで今、何が起こっているのかを。


 考えろ。俺は敵をバッタバッタと切り伏せ、難解な事件を一刀両断にできる英雄じゃない。


 事実を、情報を積み上げて、分析して、並べて、そして一歩でも真理に近付くことを目指す学者だ。


 何も考えないで、真っすぐ突っ込んでいい案件か?


 ダメだ。向かってくる敵を全滅させても、きっとそれは違う。


 女神が、聖具を託すような案件だぞ?


 聖女拝命の儀の許可も、女神の意志だとしたら?女神アスターは、何を求めている?


 ドノヴァン大司祭が側近と共に向かっても、それだけでは解決しないと女神は思ったからこそ、マーサさんを通して俺に矢を託したんじゃないのか?


 それが女神の意志なら、まあ、受け入れる。

 やれることはやる。それで、消えてしまう命を守れるなら。


 村の人たちや、エルディーンさんらを助けられるなら、矢ぐらい射ってやる。

 歴史的価値とかを考えると、背骨がガクガク言いそうだけど。


 でも。

 どうして俺なんだ?


 女神アスターの信徒に一人くらい、弓の名手はいるだろう。

 俺程度の射手ならごまんといるはずだ。


 矢を見る限り、特殊な形状じゃない。

 確かに普通の矢よりは長いけれど、長弓なら問題なく射ることができる。


 敬虔なアスターの信徒で弓の名手を指名して、大神殿に招聘すればいい。

 ドノヴァン大司祭の前に直接顕現したなら、その方が手っ取り早いはずだ。


 うん。それで神託を得たドノヴァン大司祭が、その弓の名手を連れて大急ぎで聖女神殿跡地に向かうならわかるんだよ。

 エルディーンさんは実は弓の方が得意だったとか。


 でも、そうならマーサさんをスルーしない。

 例え「だいじない」の意味をドノヴァン大司祭が知らなくても、大司祭が女神の神託だと言えばマーサさんは矢を託したはずだ。


 でも、矢は今、俺の腰の矢筒に収まっている。


 大司祭は、女神の神託を受けていない。

 矢を託せという意志を知らない。


 女神アスターは、ドノヴァン大司祭に何をさせたい?


 言ってもわからなかったから、とりあえず儀式するってことで向かわせた?そんなのあり?

 そこらの神官じゃない。大司祭だぞ?


 なんだろう。どこから俺は間違っているんだろう。


 それとも、考えないようにしてしまっているのか?可能性を見ないようにしているのか?


 これは女神が向かわせる運命ではなく、元々俺の運命ものだってことから目を背けたくて、考察の材料に入れないようにしているのか?

 

 ぐ、と弓を握っていない右の拳を握りしめる。


 事が大きくなりそうというか、大神殿に呼ばれた辺りから、それは頭を過ぎっていた。


 なんとかそれを否定したくて、違う可能性を考え続けた。


 俺達の手に負えない事態なら、まだいい。

 何なら実家や、ナナイの手を借りて、バルト陛下に情報を伝えて解決をお願いするだけだ。


 そうじゃなく、俺にしか、できない事だったら。


 いや。駄目だ。嫌だ。


 そこに辿り着いたら、思考放棄と同じことだ。

 可能性としては残しておく。

 だけど、それしかないと決めつけては何も解決していない。

 仕方ないって諦めて受け入れるだけならタニシにだって出来る。


 考えよう。ぎりぎりまで。


 これが俺の運命だとしても、俺に求められるのは無双の活躍なんかじゃない。


 もう一度、考えよう。根本の土台にまで戻って。


 頭の中に広げている図を一度、真っ白に戻す。


 そこに置くのは三つの丸。


 ひとつ、「冒険者の未帰還」。

 ふたつ、「冒険者を未帰還状態にした『何か』」。

 みっつ、「聖女神殿跡地にいる『誰か』」。


 『何か』と『誰か』は同じものだと思っていた。

 『何か』と特定するにあたって、除外した人間だということになれば、複数の冒険者が未帰還になっている説明になるからだ。


 山賊の類がいるとするなら辻褄はあう。

 けれど、月に一回大司祭が訪れる場所を根城にする賊はいないだろう。

 左方が匿っていて訪問の際には隠しているとしても難しい。


 もう、ここは人間じゃないと仮定しよう。

 そうなると、俺が最初に考えた『何か』の候補が有効になる。


 なんだろう。もう、すごくすぐそこに答えがある気がする。

 ヒントは出そろっているのに、答えがわからない。そんな感じだ。


 今までの情報をもう一度反芻してみる。


 聖女拝命の儀、満月花の激減、冒険者の未帰還、大司祭の動向、亡霊の噂、聖女神殿跡地の整備、感じの悪い神官、女神の意志…


 冒険者の未帰還と聖女拝命の儀は分けて考えて良い。


 聖女拝命の儀が行われるから冒険者が帰ってこなくなったわけじゃない。

 帰ってこなくなったのは、満月花が採取できなくなって、山奥へ踏み込んだからだ。

 それは、巡礼がクロオビシロスカシバを殺虫したから、麓で採取できなくなったわけで…


 まて。なんでそもそも、そんなことをした。


 クロムはその場のノリだろう的なことを言っていたが、本当にそうか?


 虫が嫌いなら、近寄らなければいい。

 煙でいぶしたりしたら、ボトボト落ちてくるんだし。見たくないだろう。


 「あ…」


 そうだ。そもそもだ。

 その巡礼とやらが殺そうとしたのは、クロオビシロスカシバなのか?


 人間を襲うでもなく、むしろ毒の実を見分けることができる益虫を殺す必要がどこにもないなら。


 別のものを殺そうとしたんじゃないのか?

 スカシバが死んだのはその副次的なもので、もっと違うものを狙ったのだとしたら。


 煙でいぶして殺せる、もしくは弱らすことができるもの。


 獣や鳥なら、木をいぶしたところで逃げられて終わる。

 それに、炊いた煙でスカシバの幼虫が死んだのなら、殺虫効果のある草を燻した可能性が高い。


 なら、狙ったのは同じ虫だ。


 獣や鳥がムームーの木に止まることは少ない。

 他になんの木もなければともかくこの山にはたくさんの楢が生え、神殿近くには果実がなる木があった。本能的に毒のある木は避ける。


 そうしないのは、毒を恐れない…毒の効かない生物だ。


 ムームーの毒に耐性があるのは、クロオビシロスカシバと、その幼虫を狙う蜂や蜘蛛。

 だが、両種とも機動性が高い。煙でいぶしてもすぐ逃げる。


 逃げられない理由があるとすれば、巣にいるか寝ていた場合だろう。


 夜のうちに行われてしまったとマーサさんは言っていた。

 それなら、寝ている時を狙った可能性が高い。昼行性の虫と仮定する。


 殺虫を行ったのはただの巡礼ではなく、『誰か』で、殺そうとしたのが『何か』なら。


 最初に予想した、『何か』の正体。


 群生で、複数の対象を攻撃し、全滅するまで止めない攻撃性。

 そして、夜寝ているところを狙って殺虫したとするなら、昼行性。

 手が届かない木に止まったことを考えると、飛行能力を持つか、運動能力が高い。


 それなら、対象はただ一つ。


 「蜂だ」


 「え?どこどこ!?刺す?刺すヤツ?」

 「ミツバチなら紐をつけて巣を捜そう!」


 「あ、そうじゃなくて、冒険者を未帰還にした『何か』は、蜂なんじゃないかってこと」


 全員、止まった。

 クロムでさえ足を止めて、振り返って俺を見ている。


 「なんでそう思う?上で何やらやらかしている阿呆どもとは無関係だってことか?」


 「いや…おそらく、無関係じゃない。ただ、跡地で何が行われていても、それをやっている『誰か』は、冒険者を襲うことは考えていなかったと思うんだ。

 悪事の一番大事なことは見つからない事なんだから。七人も未帰還者を出せば、偶然じゃすまなくなる。遅かれ早かれ調査が入っただろう」


 村でも有志が捜索に行く寸前だったと言っていた。 

 そこをやり過ごしたとしても、満月花の高騰が続く限り、冒険者はやって来る。


 薬草取りは儲からないから駆け出しが行うけれど、高騰すればそこそこ経験を重ねた一党だって訪れる。

 その時、ついでに未帰還者の捜索をギルドから受ける可能性は高い。


 「未帰還者が出ていなければ、バレルノ大司祭も動かなかっただろうしな。

 だけど、それが起きている以上、『誰か』にとっても不都合な事態になっていると、思う。

 その最初の不都合が、麓のムームーの木の殺虫だったと仮定する」


 「満月花取れなくなっちゃったんで、冒険者が奥まで来ちゃうから?」

ヤクモの問いに頷く。それがきっと、次の不都合だ。


 「スカシバとムームーの木、満月花の関係はあまり知られてない。

 カーランの昔話を聞いていればセットだってことは思いつくかもしれないけど、糞と開花の関連性は知らないだろ。

 その殺虫は、スカシバの幼虫じゃなくて、コントロールを外れた『何か』が狙いだったんじゃないかって思うんだよ」


 「それで蜂か。なんで蜂なのかは長くなりそうだから聞かんが、で、蜂を使って連中は何してると思うんだ?蜂蜜でも集めているのか?」


 「何してるかって、そりゃあ…」


 いや。


 「ファン?」


 血の気が引くのが、わかった。

 うん、これは可能性だ。確定じゃない。違う。そうだと思いたい。


 でも、でも。


 呪いかと、思ったんです。山道で発見された巡礼らしき人の遺体。病をうかがわせる症状。ふくらみのある腕、飛び出た、目…


 「おい!大丈夫か!」

 クロムが腕を掴んで揺する。なんとか頷いた。


 「クバンダ・チャタカラだ」


 「あ?」

 「クバンダの蜜の原液を採集している可能性が、ある」

 「なにそれぇ?」

 首をかしげるヤクモに、一通り説明をした。


 強い快感と催淫効果をもたらす麻薬で、虫の幼虫の分泌する液が原料であること。最近、アステリアで粗悪品が出回っている事。


 「なるほどな。つまり、メルハから完成品が回ってきているわけじゃなく、材料があるってことか」

 「育つものなのか?メルハとこちらは気候も全く違うが…毛長牛ヤクもここらでは育たぬ、暑さで死ぬと聞いたことがあるぞ?」


 「越冬できないから、翌年に持ち越すことはできないけれど、飼育することだけなら可能だよ。カーラン皇国北部で飼育と麻薬の生成を行っていた記録がある」


 「それが、蜂なの?」

 「より正確に言えば、蜂に酷似した姿と生態を持つ魔獣だ。ベースは蜂なんだと思う」


 魔獣は、この世ならざる法則で生きる魔族と同じく、あり得ない能力を持つ。


 例えば、天馬。

 馬の体に翼を付けたところで、飛べるわけがない。

 馬体の重さを支える翼は、身体の何倍もの大きさになるし、それを持ち上げて動かすための筋肉はとんでもない形状になる。


 それでも飛べるのは、魔力によって風の精霊を使うからだ。

 この世界の法則ではなく、風の精霊界の法則に従っているわけだな。


 魔獣は、創造神と他の神々との戦いの際、いくつも開いてしまった異界の境目で生まれたと言われている。

 その異界の生物…と言っていいんだろうか?…が、こちらの生物と混じって誕生したのだと。


 クバンダ・チャタカラも同じだ。

 その世界の生物と、こちらの蜂が混ざった魔獣。


 「魔獣と言っても虫に近い。

 寿命も半月程度で、女王蜂だけは三年ほど生きる。

 越冬を女王蜂だけで行い、春に少数産んだ卵が孵化して成虫になり産卵床を作ると、女王蜂は安定して卵を産みはじめて群を作る。

 最後に産んだ卵の中から次世代の女王蜂が出現して、世代交代が行われるっていうサイクルだ」


 ただ、このあたりの気温では女王蜂が越冬できずに死ぬから、女王蜂の寿命も一年持たない。


 「そいつが逃げちまったから殺しに来たってわけか?」

 「ああ。放っておけば、必ず大騒ぎになるからな」

 「そんな刺されると痛かったりするの?」


 「いや。そうじゃない。強力な麻痺毒を持っているし、見た目もいかにもヤバいが、それだけじゃないんだ」


 「見た目ヤバい?嫌な予感しかしないな」


 「大きさがな。俺の腕くらいはあるかな。標本でしか見たことがないから、もう少し大きいかもしれないけど」


 ひゅっ…とヤクモが息をのんだ。視線が、俺の肩から指先までを辿る。


 「本来、そんな巨大な虫が飛べるわけがない。このくらいになる虫はいるけれど、ムカデなどの節足動物だけだ。そこがまず、魔獣である証明だな」


 「普通にそんなでかいムカデも嫌だよ!ぼく泣くよ、そんなんいたら!」

 「ファンの腕ほどもある蜂も十分に嫌だと思うがな!そいつは殺せるのか?」


 「種族としては弱い。体も脆いし、殺虫効果のある薬剤やなんかにも弱い。除虫菊で燻したら死ぬ。

 問題は、クバンダ・チャタカラの生態として、人間を積極的に襲う性質だ。クバンダ・チャタカラの主食は、人間だから」


 人間を主食とするから、人間に効く麻薬成分を分泌するようになったのか、主食としているうちに身に着けたのかはわからない。


 けど、確かなのはクバンダ・チャタカラは獲物である人間を見つけると麻痺毒を打ち込んで昏倒させた後、もう一つの毒を注入し、生きた食糧庫にする。


 「や、やだやだやだ!そんなんいるの!?このへん!?」


 泣きそうな顔でヤクモは周囲を見回す。

 あたりは先ほどと同じく、穏やかで鳥の囀りと木の葉が風に揺れる音しかしない。


 なのに、人を食う虫が潜んでいると言うだけで、ひどく木陰や茂みが恐ろしい場所に見える。


 「クバンダ・チャタカラの縄張りは狭いから、飼育している場所が聖女神殿跡地なら、このあたりは安全地帯だろう。おそらく、麓に行ったのは、山道で倒れていたっていう人を追いかけたんだ」


 「ずいぶん執念深いな」

 言うべきか。何故追いかけたのかを。

 言えば、必要以上の恐怖を煽らないだろうか。


 「おい、見当ついているなら言え。その蜂ともし御対面したときに役立つかもしれん」

 「…わかった。ただ、かなり気持ちの悪い話だ。それは覚悟してくれ」


 俺も初めて聞いた時には、標本から思わず離れた。

 死んでいる事、その標本は働き蜂のもので、卵を産む女王蜂ではないことがわかっていたけれど。


 「クバンダ・チャタカラの主食は、人間だ。けれど、直接食うわけじゃない。


 …クバンダ・チャタカラは、麻痺した人間に卵を産み付ける。


 卵から孵った幼虫は皮膚を溶かし、体内に侵入する。そして筋肉や脂肪を食いながら成長し、皮膚の下で蛹になって羽化し、成虫になる。

 成虫は消化器官を持たない。幼虫が分泌する蜜を摂取することで生きる。

 その、倒れていた人を追いかけたのは、幼虫が体内にいたからだ。成虫からすれば、食堂が逃げたようなものだからな」


 食糧庫がすぐに死なないように、内臓などには手を付けないらしい。

 今まで発見されたクバンダ・チャタカラの被害者は、皆上半身…特に腕や背中に寄生されていた、と資料には書いてあった。


 マーサさんたちが見付けた遺体の腕の膨らみは、病から出る発疹じゃなく、クバンダ・チャタカラの蛹だ。

 腕の筋肉をほとんど食われて、骨と皮だけになった場所で羽化を待つ蛹。大体、腕一本で二匹蛹になるらしい。


 「つまり、なにか?この先に、虫けらに人間を食わせている奴がいるわけか?」

 「仮説が正しければ」


 マーサさんたちが、遺体を布で包んで深く埋めたことは間違いなく正しい。

 それで、犠牲者の体に寄生していた幼虫や蛹は全滅しただろう。

 土を押しのけて地上に出るような頑健さはあの虫にはない。


 「…その人、痛かったよねぃ…可哀相…」

 大きな目を潤ませて、ヤクモが呟く。


 「いや、痛みを感じるどころか、まともな思考能力はもうなかったと、思う」

 「なんで?」


 「クバンダ・チャタカラの毒は二種。成虫の麻痺毒と、幼虫の分泌する麻薬だ。

 最初に産み付けられた卵はすぐに孵化し、目の奥にもぐりこむ。そして視神経に麻薬成分を注入するんだ。

 その麻薬成分を注入されたら、もうまともな思考を保つことはできない。

 強烈な性衝動に襲われて異性を求めてうろつくだけの生き物になる。ちょうどそのころ、麻痺毒が消えて動き回るようになるんだ」


 何故、そうなるのか。


 それは、はっきりとはわかっていない。

 ただ、推測されている理由としては、そうなれば獲物が勝手に獲物の群れに向かっていくからだ、と言われている。

 対象に組み付いていれば、動きも封じられて狩りもしやすい。


 「麻薬のクバンダ・チャタカラの蜜とは、この状態の人間の涙を精製したもの。

 おそらく、その犠牲者が逃げた…というか、いなくなったのが発端だったんじゃないかな。男性なら、向かう先は女性のいるところ。村の神殿にあたりをつけて見に行ったら、クバンダ・チャタカラの成虫を見つけてしまったんで、慌てて殺した、と」


 「…そいつから孵っちまったって可能性はないのか」

 「たぶん、それはないだろう。皮だけになっている部分があれば印象に残るからな」


 「え、でもさ、でもさ、そんなのいたら、皆死んじゃうよね?人を見分けるとかできるの?」

 「女王蜂から抽出できる臭いがあって、その臭いをつけていると同じ群れと認識するんだ」


 麻薬の製造者たちはそうやって身を守っているはず。

 切れた瞬間襲われるし、恐らく今は、この山のどこにどれだけクバンダ・チャタカラがいるか把握はできていないだろうけど。


 「冒険者を襲ったのがクバンダ・チャタカラだとすれば、奴らはこの山に放たれている。匂いの届く範囲でしか基本的には活動しないから聖女神殿跡地で飼育していたとすれば、広場辺りまでが活動範囲だと思われる」


 「…」

 クロムの双眸が細くなる。あ、これは、引き返すって言われるかな。


 実際、その方が安全だ。冬になれば死に絶える虫なのだから。


 だけど、そうしたら。

 エルディーンさんたちは、確実に死ぬ。


 それも虫の餌と言う最悪の死に方で。

 もちろん、もう間に合わない可能性もあるけれど、クバンダ・チャタカラの数がそれほど多くなければ切り抜けているかもしれない。

 神官があれだけいれば、交代交代で聖壁を出現させれば時間を稼げるだろう。

 馬車なら、その隙に逃げればいい。


 けれど、その先、引き返さずに山頂へ向かっていたら。


 首謀者たちはコントロールを失っている。もう、逃げた可能性も高い。


 彼女たちも、未帰還の冒険者たちも、建物の中に避難できれば、奴らは壁や扉を破って入って来るなんてことはできないから、持ちこたえることもできる。

 最悪、馬車の客車の中だって籠城できるんだ。食料と水が持つ限り。


 「…助けに、行きたい」

 可能性が、僅かでも残されている限り。


 「行って、どうにかなるのか」

 クロムの声は冷たく、硬い。


 「どうにか、する」


 食糧が完全になくなったら、女王蜂が動く可能性もある。

 そうなったら、麓の村だって無事とは言い切れない。

 その動くタイミングは、明日かも、いや、今まさに動き出しているのかもしれないんだから。


 「具体的には?」

 「女王蜂を駆除する。女王を墜とせば、繁殖ができなくなる。幼虫がいなければ成虫は三日と持たずに餓死する」


 今、卵から孵ったばかりの蜂が成虫になるまで、約五日。

 つまり、女王を墜としてから八日間凌ぎ切れば、ここにいる群は全滅する。


 「…もう、虫に食われている人間を見つけたらどうする」


 「殺す」

 「それが、あの小娘でもか?」

 「ああ」


 楽にする、と言いたいけれど、それはきっと欺瞞だ。

 命を奪うことには変わりない。

 丁寧に幼虫と卵を取り払えば、あるいは生還できるかもしれない。


 ただ、致死量僅か数滴の強力な麻薬物質を、数日にわたり神経に直接打ち込まれた人間が、また人に戻れるかと言えば、否だ。


 連れて帰って、助けましたよ、どうでしょうと胸を張ることはできる。


 だけど、変わり果てたその人を誰かに…この場合なら麓の村や大神殿に押し付けて、あとはよろしくなんて言うのは、駄目だ。


 それは結局、自分がやりたくないことを誰かにやらせているだけだ。


 「生存者の救出は、可能な限り行う。けど、一番大事なのは、これ以上被害を出さない事だ」


 クバンダ・チャタカラを、この山から出してはいけない。


 冬を越すために女王蜂が動く時には、すべてのクバンダ・チャタカラを率いるらしい。

 そんな群に襲われれば、犠牲者がどれくらいになるか…想像もしたくない。


 成虫をいくら駆除しても、わずか五日で卵は成虫になるんだ。

 本当、埋葬の際に羽化しなくてよかった。それこそ女神の加護なのかもしれない。


 「見りゃわかんのか。女王蜂って」

 「女王は常に卵を抱えているから、腹部が異常に膨張しているし、体長も他の蜂より大きいらしい。見分けは容易だろう」


 「…ったく」

 はあー、とクロムは溜息をついた。


 「本音で言うならな、お前の腹に一撃入れて、有無を言わさず下山したい。お前を蜂の餌なんぞにできないからな」


 うん。下山するのはわかるけど、なんで腹に一撃?動けなくするため?


 「だが、たかが虫けら如きに背を向けて逃げたと言われるのは腹立たしい」


 がちゃり、と剣の柄に手を掛け、鍔を鳴らす。

 そして、口角を不敵に釣り上げた。


 「だから、俺はお前の前に立つ。虫けら如き、全て斬ればいいだけだ。蜂なんぞ、鴉の餌だろ。

 紅鴉が負ける道理がない。ましてその守護者がビビって逃げるなんてありえん」


 「素直じゃないねぃ。クロムは」

 いしししっとヤクモが笑って、クロムに頬を握りつぶされた。あーあ…


 「まあ、素直なクロムなど気持ちが悪いからな!で、ファン。戦う時にはどうすればいい?」

 「攻撃手段は尻の毒針と口から麻痺毒の噴射。それになにより飛んでくるから、四方八方からの攻撃に注意だな。ただ、無理に身体を大きくしているせいで動きは鈍い、らしい。人間が走れば振り切れるくらいの速度だって書いてあった」


 あくまで書物で得た知識だから、確実にとは言えないけれど。


 こっそり大図書館に泊まり込んで読んだ『南方の生物大全』の記述と、標本を見せてもらったときに聞いた生態が正しいことを信じるしかない。


 「ふむ。女王蜂を見つけた時、まわりにたくさん蜂がいたらどうしたらよい?」

 「雨に濡れると溺死するから、建物の中に女王はいるはずだ。ムームーの木が植えられているなら、おそらく薬草園もある。そこに除虫菊があれば、採取して燻す。うまくいけばそれだけですむ」


 蜂は、と言うか昆虫は腹の横にある穴で呼吸をする。

 腹部が大きく、卵で膨らんでいる女王蜂は水滴を腹を振って落とすことができない。多少の雨でも溺死する、らしい。


 除虫菊は春咲きと秋咲きの二種あり、ともに花が一番薬効が高いけれど、葉にも成分は含まれている。春咲きのやつしかなくても、なんとかなるだろう。

 それに、いわゆる雑草の一種だから、手入れされていなくても生い茂っている可能性は高い。

 もちろん、植えられていたらば、なんだけど。


 「なかったらあ?」

 「突っ込んでいって斬りゃあいいだろ」

 「それは流石に危ないけど、その時は火矢で打ち抜くさ」

 さすがに女神の矢を使うような事態じゃない、と思うけど。


 「…町からここに向かった巡礼の中で、反対側に抜けたのは何人くらいだったんだろうな」

 ぽつりとクロムが呟いた。

 「大半はそうだったと信じたいけどな」


 寄生された人間は、食事や睡眠をとれなくなる。

 無理やり水を飲ませ、薬で眠らせたとしても、十日持たないだろう。


 クバンダ・チャタカラは生きている人間にしか寄生しない。

 いつからこんなことをしているのかは分からないが、二年前、神官が跡地に陣取ったころからだとしたら。


 「巡礼と見せかけて人間エサを運んでいたってわけか」

 「だろうな。ただ、アステリア国内で行えばそれなりに足がつく。南フェリニスからの巡礼も多かったって、言ってたから…北フェリニスから仲介屋が運んできて、生きて北フェリニスへ帰ろうと思ったら、アステリア領内を抜けるしかない」


 南フェリニスから北フェリニスへ帰るためには、季節労働者の証明書が必要になる。仲介屋を通してやってきた人々が持ち合わせていないものだ。


 「そこを巡礼のふりをして抜けさせると釣ると。控えめに言って反吐が出るな。クソのクソだ」


 本当に。本当に、そうだ。


 酷い鉱山奴隷の生活から逃れて、故郷に帰ろうとする人たちはアステリアに入って安心しただろう。


 この山を越えれば、家族に会えると。懐かしい我が家へ帰れると。


 その希望を、想いを踏みにじり、最低のやり方で穢した。


 「戻ったら、この件は徹底的に追究しよう。大神殿だけじゃ動きにくいなら、ファン・ナランハルとして協力する。俺が見た事が何より強力な証拠になるからな。

 もっとも、これも仮説だ。真実はただの山賊かもしれない」


 むしろ、そうだと良い。そうであってほしい。

 こんな非道が行われているなんて、あっていいはずがない。 


 「お化けの声は、その人たちがお化けになっちゃったのかなあ」

 「…亡霊なんぞ、早々出てくるものか。女を連れてきて、蜂にくれてやる前に楽しんだだけだろ」

 「そう、なんだろうな。冒険者が賊の痕跡を捜しに行っても、神官が住んでいる建物周辺は調べない。知らない、聞いてないと答えられればそれまでだし、亡霊が出るので私たちはこの地に赴いて祈りを捧げているのですって言われれば、そうですかで引き下がるしかない」


 神殿跡地がどれくらいの廃墟なのかはわからないけれど、神官たちが住んでいるのは神殿の建物じゃないだろう。


 火を掛けられて30年以上放置された廃墟はいつ倒壊しても不思議じゃない。


 当然山賊も潜めないから、調査は周辺の木々が生い茂る斜面や、広場中心になったんじゃないだろうか。


 クバンダ・チャタカラを飼育していたとすれば、どこだろう。


 飼育には、屋根と壁が必要だ。

 クバンダ・チャタカラも人間も、閉じ込めておかなくてはならないんだから。


 それだけの広い空間を持つ建物を、密かに建てるのは不可能だ。冒険者たちが真新しい大きな建物を見逃すとは思えない。


 30年前の聖女神殿の戦いを記録した報告書の中から、見取り図を思い出す。


 確か、一番奥に泉が湧く聖堂があって、その前に礼拝堂。

 両脇に神官たちが寝泊まりする宿舎と食堂や書庫、そのほか生活に必要な作業を行う棟があって、門の外に巡礼たちが寝泊まりする宿坊が建てられていたはず。


 そのうち、貧しい巡礼たちが雑魚寝するだけの大きな宿坊はアスラン軍の本営として使われた。百人以上収容できたというから、かなりの規模だ。


 おそらく、飼育場はここだ。火をかけられることもなく、退去後はそのまま打ち捨てられていたはず。


 火を掛けられていなくても、30年間放置された建物なら相当傷んでいただろうし、壁か何かが崩れて、そこから人やクバンダ・チャタカラが出てしまったのかもしれない。


 「その神官どもは偽物じゃなく、本物の大神殿から派遣された神官なわけだしな。嗅ぎまわって大神殿を敵に回す冒険者はいないか」

 「ふつーは神官さんがそーいったら疑わないよぅ。クロムなら疑うだろーけど」

  「なんにせよ、亡霊が相手でなくて良かったな!クロム!また夜に布団からでられなくなるところだったな!」

 「…っ!な、あほう!ガキの頃の話だろうが!それは!」

 「え?なになに?何があったのぅ?」


 「昔あった話を聞いたのだ。合流した部隊が朝になるといなくなっていて、他の隊からの報告で全滅していたことが解ったのだと。そしてその晩、野営をしていると、焚火の灯りが届かない暗がりにその兵たちが佇んで…」


 「やめろ!そんな与太話を吹き込んでどうする!」

 あー、懐かしいなあ。親父の話してた本当にあった怖い気がする話か。


 「それでその話を聞いたクロムは部屋の端がこわ…」

 「黙れと言っている」


 がっしりとユーシンの口を塞ぎ、クロムが凄む。

 けど、耳が真っ赤だからいまいち迫力はない。


 これでヤクモが揶揄うと長引きそうなんで、ヤクモにちらりと目配せをする。

 若干邪悪な笑みを浮かべつつ、一応頷いてくれた。


 「ほら、じゃれ合うのはそこまでだ。気合を入れなおすぞ」

 ただ、良い感じに全員の緊張がほぐれた。一番ほぐれたのは、俺かもしれない。


 「クバンダ・チャタカラは悍ましい存在だ。数が多ければ当然脅威にもなる。だけど、存在を知って警戒していけば、どうにもできない相手じゃない」


 「最も気を付けることは?」

 ユーシンの顔から手を離しつつ、まだ微妙に頬と耳を染めたまま、クロムがぶっきらぼうに尋ねる。


 「空中からの攻撃だな。囲まれて麻痺毒を噴射されると厄介だ。正面には立たないことを心掛けてくれ。噴射と言っても広範囲には撒けないし、毒液を飛ばす感じらしい。飛距離は頭上からなら馬一頭分はあるって書いてあった」


 「蜂の首は結構曲がるが、横はいいのか?」


 「クバンダ・チャタカラは構造上、ほとんど頭の可動域がない。麻痺毒を噴射するための器官が首の両脇にあって、それが首を固定しているんだ。いろいろと不自然な生き物だからな。加えて、この気温だともう奴らには寒い。動きも鈍くなっている可能性が高い」


 本来、クバンダ・チャタカラが生息するメルハ大陸の熱帯雨林は、真冬…って季節はないけど…が今より少し寒い程度の気温だ。本来なら越冬に入る気温なんだ。


 それでも越冬準備に入らないのは、日照時間が長いからだ。

 本来なら致命的なまでに気温が下がっても、奴らには気温を感じる器官はない。

 奴らに越冬準備を促すのは、日の出ている長さ。

 より正確に言えば、秋分を過ぎて昼より夜が長くなることで、冬が来ることを知る。


 考えてみれば、クバンダ・チャタカラ達にとっても今の状態は不本意だろう。


 繁殖はできても、次世代の女王は育てられない。


 二度の越冬が女王蜂に特別な卵を与えるからだ。

 長く眠る間に、女王の体内で次期女王の卵は形成されるらしい。


 越冬できず凍死するということは、命を繋げることのできない、無駄死にを意味する。


 寒さを感じる器官はなくても、温度調節のできない体は鈍り、動かなくなっていく。恐らく、夜を越すごとに凍死している個体もいるはずだ。


 クバンダ・チャタカラの生態に悪意や、人間に対する敵意などない。


 俺達人間だって、家畜から見れば似たようなものかもしれない。

 悍ましいのは、クバンダ・チャタカラじゃない。それを利用し、同族を食わせてまで利用する人間だ。


 「クバンダ・チャタカラの、チャタカラっていうのはさ」


 「その話、長くなるか?」

 「小さな暗黒って意味なんだよ」

 「無視して話し続けやがったな」


 うるせえ!たまには最後まで語らせろ!


 「150年程前、メルハ亜大陸を統一したガルダ帝国のヴァラーヤ大帝はクバンダの蜜の撲滅を命じたんだ。その生産のための誘拐や奴隷売買が蔓延りすぎたのと、麻薬の汚染が深刻だとして。

 クバンダ・チャタカラの飼育場は軍によって襲撃され、生息地だった密林は切り開かれて駆除された。大帝が亡くなる前に全滅が宣言されたくらいには、徹底した殲滅が行われたんだ」


 「じゃあなんで今いるのぅ?」


 「元々は、ある地域の独自の宗教儀式でクバンダの蜜は使われてて、その寺院で飼われていたんだ。生贄として人間を与えられながら。

 大抵の駆除殲滅作戦のさなかも、寺院はクバンダ・チャタカラをこっそり飼育し続けた。宗教儀式に使うだけなら、数はいらないし、女王蜂を生かす程度の群れを細々と維持していたんだろう」


 「その蜂を逃がしたというのか?」

 「違う」


 それまで、クバンダ・チャタカラはクバンダ・アバタラと呼ばれていた。

 伝説の中に現れる夢魔の化身と、そう呼ばれていたんだ。


 「大帝の甥であり、大帝の二代後の皇帝であるヴリトラ帝がクバンダの蜜に着目したんだ。この世から消し去るのは惜しい、と」


 元々、寺院がクバンダ・チャタカラの飼育を続けていられたのは、ヴリトラ帝が保護したからだとも言われている。

 彼は蜜を投与した相手と性行為を行うのを大変に好み、死因は病死と言うことになっているが、間違いなく彼自身も中毒者だったのだろう。


 「小さな暗黒とは、人の心の中の欲望だ。危険な魔獣と麻薬を消滅させるより、自分が虫の餌になるわけじゃないなら残しておいて使う方が良いと、他者を踏みにじっても自分の欲望を優先させる身勝手さだ。

 大帝の百年の計も、甥の欲望に負けた。

 あっという間にクバンダ・チャタカラの飼育は再び全域に広がり、麻薬は国外にまで広がった。アスラン王国の台頭で大陸交易路が整備されたからな。東西の端に到達するのに、10年もかからなかったらしい」


 麻薬の輸出はガルダ帝国に莫大な富をもたらし、アスラン五代大王をブチ切れさせ、両国の間で何度も戦が起こった。

 ついにはアスラン軍がガルダ帝国首都に迫り、その勢いに恐れをなした皇族がブリトラ帝を退位させて蟄居させ、新皇帝はクバンダの蜜の取り締まりを約束して両国間の敵対はひとまず落ち着くことになる。


 それでも、クバンダの蜜はこの世から消滅しなかった。

 ひそかに作られ、密輸され、今もまだ存在している。


 そのエピソードとともに、夢魔の潜む闇クバンダ・チャタカラと呼ばれ出したんだ。子供が部屋の暗がりを怖がるように、人の心の闇を恐れて。


 「麻薬の生む富と快楽、それが小さな暗黒を心に巣食わせる。魔獣が貪るのは、人肉よりもその欲望なのかもしれないな…」


 「なるほど。興味深い話だ」

 うんうん、とクロムが頷く。

 おお、なんかクロムにこの手の話で褒められたの初めてかも!?


 「で?それが今この事態に何の役に立つんだ?」

 「…ナンニモナイデス」

 「そう言うのは全部解決してから喜んで聞きそうな奴に語ってくれ。大司祭の爺さんとかなら聞いてくれるんじゃないか?」

 バッサリと音がしそうなくらい切って捨てられた…


 「そんなことより、さっさと行くぞ。虫まみれの小娘を発見したくはないだろう」

 「そうだよ!いそご!」

 あー、うん。間違いなくその通りだな。


 「よし、行軍速度を速める。けど、警戒は怠らないでくれ!頭上や横の空間にも注意だ。ユーシンも頼んだ…ユーシン?」


 天色の瞳は瞼に閉ざされ、すぅすぅと安らかな寝息が聞こえる。


 「立ったまま寝ないの!おきて!」

 ヤクモがバンバンと胴当てを叩くと、ぱっちりと目が開いた。


 「ふむ!寝ていたということはファンの長話があったということだな!終わったならいい!さあ、行こう!」


 長かったか?今のそんな長かったか!?

 まあ、その辺の感想はともかく。


 「行くぞ!」


 できれば、予想も仮説も外れてほしい。


 取り越し苦労で、『誰か』も別に何か意味があって派遣されているわけじゃなくて、ただの左遷とかで。


 冒険者の未帰還も、何か事情があって依頼をこなさず逃げただけで。


 ただこの後、聖女拝命の儀式が厳かに行われて、30年ぶりの聖女が誕生して。


 きっと、そうではないことは、わかっているけど。


 右手を握りしめ、僅かな望みを縋るように願いつつ、ただ山道を駆け上った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る