第21話 マルダレス山 麓の村4

 ああ、これは夢だな、とクロムは思った。

 そう思いながら、目の前に広がる白い景色を見ていた。


 見えるのは、風に舞う雪と、雪の積もった大地だけ。


 あの頂を越えれば、あの岩場を抜ければ、そこには町があるはずだった。

 少なくとも、道があるはずだった。そう聞いていた。


 アーナプルナ山地に寄り添うようにいくつかある、アスラン王国の町。


 山地の北側には、雪解け水が小さな無数の川となって潤す豊かな草原が広がっている。

 草原は数多の獣と鳥と、そして遊牧民を養っていた。


 そんな遊牧民が、小麦や茶を手に入れるために立ち寄る町。それが、アーナプルナ山の裳裾に沿って点在している。

 そのうちの一つに、辿り着くはずだった。


 父の手が、力を込めて母とクロムを抱きしめる。

 もう、とっくに父の背丈は抜いたはずなのに、見上げる場所に父の顔があった。


 いつも穏やかに微笑み、激しい感情を見せない父。

 その顔が、歪んでいる。


 泣かないで、と言おうとしたが、声は出ない。

 夢だから、ではない。

 クロムの記憶では、この時乾ききった咽喉は何の声も生み出せなかった、はずだ。


 小さなクロムはぼんやりと、飼っていた毛長牛ヤクのことを思い出す。


 医者である父と、その手伝いをする母は忙しい。

 六歳だったクロムの主な仕事は、毛長牛の世話だった。


 草を食べされるために綱を引いて町の外に出て、帰りはその背中に乗って帰ってきたこと。

 長い毛は獣臭かったけれど、とても暖かかったこと。


 今思えば、世話をされていたのはクロムの方だったかもしれない。


 一人で世話をしていいと任された時には、とてもとても誇らしくて、嬉しくて、いっぱしの大人になったような気がして、随分と友人たちに自慢したものだ。


 うちの毛長牛ヤクがいたら、父さんも泣かなくていいのに。

 きっとあの長い毛で、父さんと母さんと俺を暖めてくれるのに。

 暖かくなれば、父さんも泣き止むかも。


 だけど、毛長牛はここにはいなくて、寒い。


 町を出るときに、取り上げられてしまった。

 ボウボウと泣くように吠えていた声を思い出す。


 クロムも泣きたかったが、泣けなかった。

 あまりにも、両親が辛そうな顔をして泣きそうで、クロムまで泣いたら、父も母も壊れてしまいそうだったから、我慢した。

 父が無言で頭を撫でてくれたのは、その我慢を誉めてくれたのだと思う。

 

 夢だと自覚している大人のクロムは、追い出されたあの町が、もうないことを知っている。


 魔獣の群れに蹂躙されたのだ。


 救出に向かったクトラ傭兵団が連れ帰ってきたのは、ほんの数人だけだった。


 一緒に遊んだ友達も、星の飾りの花冠の作り方を教えてくれた牛飼いも、近所の人たちもその数人に含まれていなかった。

 両手の指に満たない数の生存者は、クロムの知らない顔ばかりだった。


 クトラ北西部のその町のあった地域は、もともとあまりクトラ王国への帰属意識のない一帯だ。


 王家に下ってはいるが、忠誠心はない豪族により統治された地域である。

 アステリアの侵攻のルートからも外れ、クトラ滅亡後も変わりなく…むしろ堂々と自分たちの土地であるとクトラの国旗を捨てた町だった。


 魔獣の群れの襲撃は、最初は外壁の向こうで起きた。


 畑に出ていた住人が瞬く間に殺され、兵が出たが返り討ちにあった。

 その惨状を見た豪族の長は、籠城を決めた。

 もともと、真冬になれば人は町に、家に閉じこもる。

 収穫はあらかた終わっていたし、吹雪の絶えない日々はもうすぐそこだ。


 そうなれば、魔獣も諦めて退散する。そう考えたのだ。


 父は、その考えに反対した。

 町唯一の医者として会議に収集され、ただ一人だけ異を唱えた。


 外壁など、魔獣相手にどれだけ機能するかはわからない。雪が降る前に救援を呼ぶべきだ。


 その意見に対する返答は、親子の追放だった。


 ならばお前が救援の使者になれ、と、僅かな食料と衣服だけを持ち出すことを許して、親子三人は町の外に放り出されたのだ。


 山を下っていけば、タタルの平原にでる。

 しかし、真っすぐ下ることはできない。

 細い山道、獣道を伝い、なんとか北を目指すしかない。


 道は険しく、遅々として一家の歩みは捗らなかった。


 もともと、父も母も健脚ではない。クロムもまだ幼い。

 出発した日の夕方には、足は震えて豆ができ、それが潰れて血が滲み痛みを覚えた。 


 それでも、親子は歩き続けた。励まし合い、慰め合い、前に進んだ。

 だが。


 眼前に広がるのは、白い景色。

 町も、道も隠し、命も覆い尽くす、白。

 

 その圧倒的な白の前で、一家は座り込んだ。

 足の痛みも、飢えも乾きも消えていく。苦痛すら白によって覆われていく。


 それは、間違いなく死の白さであったけれど。


 「ごめん、スーリヤ、クロム…」


 ぽたり、と父の目からあふれるぬくもりが、頬を濡らす。

 一瞬だけ、熱い、と思ったが、すぐにそれは氷の冷たさに変わった。


 「だいじょうぶ…泣かないで?あなた」


 母の、ひび割れた手が、父の涙をぬぐう。

 爪は割れ、指先には血が滲んでいる。

 それでも、母の手は柔らかく、綺麗だと思った。


 「三人一緒なんだもの…だから、怖くも悲しくもないわ」

 「スーリヤ…」

 「クロムだけでも…ううん、一緒のほうが、いいよね?クロム…」

 何と答えたか、覚えていない。だけれど、頷いたような気はする。


 そうか、死ぬのか。


 六歳でも、クロムは死を理解していた。

 幼いころから一緒に過ごした友人たちのうち、何人かはもういない。

 病や怪我は容赦なくその命を奪っていったし、何日もでてこない家の戸を破ってみたら、一家全員凍っていたのを見たこともある。


 死は、何時でもすぐ近くにいた。縁遠いものではなかった。

 その死が、自分たちの上に被さってきただけだ。


 (父さんと、母さんも一緒なら…)


 眠い。


 じくじくと痛かった足も、ギリギリと空腹を訴えていた胃も、もう何も感じない。

 感じるのは、圧倒的なだるさと眠さだ。


 母が抱きしめてくれている。その匂いは心地よくて、眠りに身をゆだねることに何の不安もない。


 うん、そうだ。眠ってしまおう。

 次に目を覚ますのは、きっとこの世ではないけれど。


 父さんも、母さんも一緒なら、いい。

 もう、歩かなくていいんだ。


 むしろ、幸せな気持ちで目を閉じたクロムの耳に聞こえてきたのは、父の嘆きでも母の慰めでもなく、バサリという聞いたことのない音だった。


***


 バサッバサバサッ…バタタタタタタッ

 「コッケコッコー!」「ケッケッケッコッコー!」「ケェーッコッー!」


 「…うるさい」


 バサバサと言う羽音に続き、高らかに朝を告げる雄鶏の鳴き声がする。

 どうやら、部屋の前で鳴いているようだ。


 目を開けて視線を巡らせる。部屋は薄暗い。

 鎧戸の隙間から差し込む朝日も、まだそれほど強くない。


 日が昇って間もないようだ。


 昨日の夕食を食べた後から頭にかかっていた靄はきれいさっぱり消えている。

 動こうと思えば、すぐに全力疾走できそうだ。

 全身に体力が満ちているのを感じる。


 つまり、睡眠不足は解消済。


 右手の硬い感触に視線を向けると、剣があった。

 剣はシーツの上に転がっていて、当然自分も、ベッドの上。


 (やられた…)


 確か、もらった茶を飲んだら一気に意識が落ちた気がする。

 睡眠効果のあるものだったのだろう。ドアの前で座って寝るつもりだったのに。


 万が一襲撃されたらどうするんだあの暢気者め!とは思うが、あっけなく熟睡して一度も目覚めなかったことを思うと、自分もかなり疲労がたまっていたようだ。

 その状態で半分覚醒しつつ寝ては、今日の行動に支障をきたした可能性がある。

 まあ、あくまで可能性で、そんな無様をさらす気はない。

 一切ないが。だが、主の策略に敢えてハマってやるのも、臣下の務めという奴ではないだろうか。

 たまには自信をつけさせてやるのも悪くはない。うん。だから、これは失敗とかではない。


 悶々と自分に言い聞かせていると、部屋の反対側の寝台で、もぞり、と影が動いた。


 「くぁ…」

 欠伸と共に伸びをして、ゆっくり影は起き上がる。


 ぺたぺたと足音がするのは、裸足で歩いているからだろう。


 アスラン人は…と言うより、ヤルクト氏族は家の中では靴を脱いで裸足になりたがる。大祖クロウハ・カガンが広めた習慣だそうだ。


 カタカタと鎧戸を開ける音がして、部屋の中に光と雄鶏の雄叫びが溢れた。まぶしくてうるさい。


 夢の中の白い静寂とは対極の、命にあふれる煩さ。


 「おーい、クロム、起きれるか?」

 その中から投げられる、ファンの声。


 むっくりと起き上がると、にっこりと笑われた。

 してやったり、という笑みなら罵倒のひとつも投げたいところだが、特に何もない、いつもの顔だ。


 「おはよう」

 「…おはよう」


 朝日を浴びて、ファンの髪が淡く輝いている。まだ結い上げていない髪は、いつもより少し長く見えた。


 この淡い金色を、アスランでは朝日の色と呼ぶ。

 地平のはるか先から、夜を切り裂き閃く光の色だ。


 満月の色をした瞳と並んで、黄金の血アルタン・ウルクと呼ばれる血統の証。


 まあ、髪色の方はわりと同じ色の持ち主は多く、少ないが、珍しいというほどでもない。

 月の瞳の方は、クロムが知る限り、ファンの家族や親戚以外では見たことがない。ファンに言わせると、ヤルクト氏族全体で見れば、わりといるそうだ。

 朝日の髪と月の瞳を揃えているのは、流石に身内しかいないようだが。


 「さすがに早朝は少し寒いなあ。山の側って言うこともあると思うけど…ちょっと雲が出てるな」

 寝間着を脱ぎ、ふるりと身震いする。


 その剥き出しの左肩…もう少し下がれば左胸と言うべき位置だ…には、大きな傷痕がある。

 それが、どうやってついたかクロムは知っている。剣を突きこまれ、抉られたのだ。


 渾身の一撃をいなされ、体勢を崩した時、自分の死は覚悟した。


 だが、その絶好の機会を、あいつは、あのクソ野郎は。

 眼前を走り抜ける、完全にクロムを眼中から外した男。

 咄嗟にクロムに駆け寄ろうと身を乗り出した主に突き出される白刃。

 そして、飛び散る赤。


 「どした?まだ眠いのか?」

 「いや」


 明らかに心臓を狙った一撃を外させたのは、ファンにしては会心の出来だったと言わざるを得ない。

 その後に続いた一手もまた、これ以上ない妙手だった。


 「お前って、弱いのか強いのかよくわからないよな」

 「なんだいきなり…弱いと思うけど、基準を誰にするかでは結構やる方になるんじゃないか?」


 ベッドに戻り、足元に置いてあった籠を手に取る。

 昨日神殿に行くときに着ていた服…つまり、今日着る服が畳まれて入っているようだ。


 「じゃあ、トール」

 「兄貴に比べたら、大抵の生物は弱いだろうが。もう少し下を基準にしてくれ。アヒルとか」

 「アヒルよりかは強いって、逆に悲しくならないか?」

 「悲しくはないが虚しいな」


 肌着を手に取ってから、ふとその手を止め、籠を探って小瓶を取り出した。

 ナナイの店の商品と示すラベルが張ってある。


 「虫除け。お前も塗っておけよ。昨日ヤクモに持たせたから、ちゃんと二人とも塗ってると思うんだけど」


 言いながらファンは蓋を開けて中身を出し、首筋中心にぺたぺたと塗っていく。

 すこしつんとした、しかし清涼感のある匂いが部屋に広がった。


 「隣からは馬鹿の鼾未満のうるさい寝息しか聞こえんな。まだ寝てるぞ」

 「こっちの支度が終わったら起こすか」


 苦笑交じりにファンが差し出した小瓶を受け取り、クロムも服を脱いだ。


 そのまま寝ていたせいか、皺がひどい。

 まあ、胴当てやら何やらを着れば、目立つこともない。

 どのみち、乾いた服はもうないのだ。


 昨日朝から夕方まで来ていた服は、村長の妻に持っていかれてしまった。

 ファンは随分遠慮したが、一緒に洗ってしまいますから、と笑顔で押し切られれば断り切れない。


 元々、好意を断るのが大層苦手な男だ。


 なんとか下着は自分たちで洗うので!と死守できただけ上出来だろう。

 洗ってくれるなら任せればいいのに、とは思うが、ファンには耐えがたいらしい。

 母親に自分の事は自分で!と躾けられたせいで、自分で出来ることを人にやって貰うと罪悪感に襲われるのと、小さい子供扱いされているようで恥ずかしいのだそうだ。


 それは本来いるべき場所を思えば、寧ろ欠点になりかねないのだが、ふんぞり返って人をこき使うファンと言うのはどうにも想像がつかない。


 まあ、父も兄も、祖父ですら元々腰が軽く、ひょいひょいと自分で何事もやってしまう一家なので、肝心な時にその習性が出なければ大丈夫だろう。

 そう思うことにする。


 小瓶を傾けて掌に垂らすと、少しだけ緑がかった液体が溜まった。

 匂いで何となくひんやりしたイメージを持っていたが、寧ろ温い。

 ファンに習って、体に塗り付ける。


 「首筋や手首、足首、あと耳な。あ、腰回りも」

 「香水じゃあるまいし」


 「剥き出しになる場所や、服の継ぎ目になるところだ。袖は布を巻きつけて、なるべく隙間を作らないように」


 「顔はいいのか?」

 「これから顔洗うだろ。洗ってからな」


 頭にも刷り込みつつ、ファンは天井を指さす。

 視線は上がらないから、今天井に何かあるわけではないと判断して、クロムは続きを待った。


 「樹の上から降ってくるダニや、地面からくる蛭が厄介だ。頭は帽子か布で守って、腕や脚にも布を巻くんだぞ」


 「籠手もするし、ブーツはいてるだろ?」

 「念のためだよ。ここらに蛭がいるかはわからないけど、対策をするにこしたことはないからな」


 面倒だし動きにくいと思わないでもないが、蛭を葡萄のようにぶら下げるのは確かに御免こうむる。大人しく指示に従うことにした。


 麻布を肘から先と、膝から下に巻き付ける。

 さらにその上から服を着て、袖口にもう一枚麻布を巻いた。

 出立する際には籠手とグローブも身に着けるのだし、流石に蛭も潜り込めないだろう。ダニは絶対とは言えないが。


 「アイツら起こさなきゃなあ」

 飾り紐を髪に編み込みつつ、ファンは隣の部屋に視線を向けた。


 「ドアを蹴破ってやれ」

 「鍵かけてないんじゃないかな。何かあればすぐ来てくれるって、ユーシン言ってたから」


 ち、と内心舌打ちした。

 あの残念な脳みそを持つ又従兄弟に借りを作るのは、心底腹正しい。


 「ちゃんと足にも虫除けぬるんだぞー」


 ファンがドアを開けると、カロンと鈴の鳴る音がした。

 同時に、隣の部屋で何かが一気に動く音と気配がする。


 「うわっ!ユーシン、おはよう」

 「…敵ではないのか」


 廊下で声がする。ドアが開いた音はしなかったから、鍵はおろか扉も閉めていなかったらしい。


 まあ、アイツは馬鹿だが信じられるからな。何もなかったんだから、借りも作っていないし。


 自分を納得させつつ、クロムは又従兄弟を評価した。


 ユーシンに対して裏切りを疑うくらいなら、雨が毒ではないか疑った方がまだ建設的だ。

 行為としての裏切りもそうだが、期待を裏切らない、と言う意味でもユーシンは信じられる。


 守る、と宣言したからには、何が何でもやりぬくだろう。


 空腹に目を回して倒れているのを発見したときには、親戚だということを全力で否定したくなったものだが。


 なんでお前までこっちにいるんだと聞いたら、ハルが西へ飛んだ!きっとお前らはこの道に現れると思った!と自信満々に答えられたのを思い出す。


 紅鴉の導きかはわからないが、無条件で信じられる仲間が加わったのは有難かった。

 キリク王国は大騒ぎになっているだろうが、それはクロムには関係のない話だ。

 ちゃんとあの馬鹿を返すので、締め上げるなり何なりすればいい。


 その時、いてくれて助かった、とは証言してやってもいいとは思っている。


 隣の部屋からはヤクモの寝ぼけた声も聞こえてきていた。

 それ以外にも、家のあちこち、村のそこいらから今日が始まる音がする。

 雄鶏はもう時を告げていないが、コケコケと呟きながらうろついているようだ。

 山の側だからだろうが、他の鳥の声も姦しい。


 牛の食事を催促する声、村人たちの挨拶、風の音。


 生きている音が、夢の中の白い静寂を追い払っていく。

 あの時も多分風の音はしていたと思うのだが、思い出せるのは両親の声。

 それ以外は、恐ろしい静寂だけだ。


 うるさいのは好きではないが、白い死の静寂よりは、ずっといい。


 「さて、と」

 立ち上がり、剣をベルトに吊るす。


 紅鴉の守護者ナランハル・スレンとして認められたときに賜った、剣。


 見た目は何の装飾もない、古びた剣だ。

 刃は西方のものより短い。

 通常アスランでは、剣は馬を降りて白兵戦になった時か建物の中で振るうか、もしくは鞍から相手に飛びついて突き立てる物なので、それほどの長さを必要としない。


 幅広く短めの刃は、アスラン馬に似ているともいえる。

 見た目など二の次。必要なのは実用性。そう無言で主張しているような造り。


 ほんのわずかに重心が右に傾いていて、それが攻撃の速度に差を産む。

 そのわずかな差が相手のリズムを崩し、最速の一撃への対応を遅らせるのだが、最初はその癖に対応しきれず随分とイライラしたものだ。

 今では十分に手に馴染み、速度の差を剣捌きに取り入れることができている。


 その剣の他に、腰の後ろに小剣を装備する。


 柄も含めた全体から見れば中ほど、刃の付け根側で内側に湾曲した小剣…ククリは、クトラとキリクの男が成人したときに父親から渡されるものだ。ユーシンも持っている。


 クロムのククリはクトラ王家伝来のものなどではない。

 父は自分のククリを持ち出すことができなかった。

 士官学校に入学できたときに、大都で誂えてくれたものだ。


 分厚い刃は木や草を払うのにも使えるし、もちろん敵の首も刈れる。

 紛失の危険性があるからやりたくはないが、投擲もできる。


 さらに、ククリの鞘の左側に、大麦を炒って作ったはったい粉ツァンパの入った袋と、バター油シャルトスが入った真鍮製の小瓶をポーチに入れて装着する。

 もし荷物を喪っても、これがあればひとまず餓死はしない。

 味は二の次三の次だが、これを食うことになった時には、そんなことを構っていられないだろう。

 使う機会がなく、馬のおやつにできることを祈る。


 もう一つ、治癒、解毒、強壮の三種セット魔法薬を入れたポーチを右側に取り付けておく。


 あとは鎖帷子と胴当てをつけて、盾を持てば完成だが、その前に洗顔と朝食と、そのほか朝に済ませたいもろもろのことが先だろう。


 部屋を出ると、ちょうどファンが踵を返してこちらに向かっているところだった。

 「部屋を出るなら靴を履け」

 「ちょっとだけだから良いかと思って。すぐ履くよ。ちょっと待っててくれ」


 ぺたぺたと足音を鳴らしながら部屋に入り、先ほどのクロムと同じように布を足に巻いていく。

 その上から靴下をはいて、ズボンの裾の上からまた布を巻く。

 隙間がないのを目視してから、ブーツに足を突っ込んだ。


 「顔を洗って朝食をいただいたら、出よう」

 「わかった」


 昨日、クロムが寝てからどんな打ち合わせをしたのか。


 何も言わないところを見ると、多分なにも話し合っていないのだろう。

 まあ、村長夫妻から聞いた話は既に共有している。あとは道々で問題ない。


 「一応、道の情報を整理するな。

 道は、昨日の神殿の前から山に向かって伸びている。マルダレス山中腹にちょっとした広場があって、東西と南からくる道はそこで合流する。その先は一本道で、聖女神殿跡地まで一直線の上り坂」

 「ああ。そんなことを言ってたな」


 夕飯を共にしながら聞いた村長や村の猟師の話では、迷うような道ではないらしい。

 朝から登り始めれば、どんなにゆっくり行っても昼前にはその広場に到着するだろう、と言うことだった。

 冒険者の足なら、まだ朝と呼べる時間には到達出来るようだ。


 「その広場には、避難場所として小さいが小屋があるらしいし、確認しておきたいな。もし天候が崩れたりしたら、避難場所として役立つ」


 「満月花は取りに行くのか?昨日貰った分でとりあえずは足りると思うが」

 「そうだなあ。出来ればもう少し確保しときたいな。とは言え、さすがに正面きって神殿跡地に接近はしたくない。小屋を確認したら、森に入ろう。まあ、山肌の状態にもよるけど。藪をガサガサさせながら近付いたら意味はないしさ」


 「昨日の感じだと、下生えはあまりなさそうだが」


 「村の近くは柴刈りされているだろうけど、どうだろ…主に生えているのはオークみたいだから、根はしっかり張っているよなあ。傾斜からして、あまり土が溜まらずに根が見えているかもしれないな。それなら楽なんだけどさ」


 「それはそれで身を隠しきれないのが不便だが…そう言えば、この辺りは笹が生えないんだな」


 「笹や竹は不思議なことに国境のシムルグ河を超えると生えていないんだよな。持ち込めばあっという間に繁殖しそうなものではあるけど」


 アーナプルナ山にも生える笹はその葉に防腐効果があり、薬にもなる。

 半面、どこにでも生えるし一度生えると根を掘り返しても無駄で、とにかくあまり大きくならないように伐採するしかない。


 竹はアスランでもほとんど自生はしていないが、メルハやカーランでは当たり前にある植物だ。

 ファンの持つシドウの大弓の主原料の一つでもある。

 成長が早く様々なことに役立つので、アスラン南東部では竹林を育てて農作物として竹を売っている。

 生えているのを見たことがなくても、どんなものかは良く知っている植物だ。


 「一説には、こっちじゃ豚を飼うだろ?豚は笹も根を掘り返して食べるから、それで絶滅したんじゃないかって」

 「カーランやメルハにも豚はいるだろ?」

 「西方じゃ豚は放牧して、夜に厩舎に戻す飼い方をするけど、カーランは豚小屋から出さないからな」

 「ああ、豚小屋の上が便所になってるっていう」

 「そうそう。まあ、流石に全滅はできないだろうから、別の要素があるんだとは思うけど…」


 なんにせよ、笹の藪をかき分けながら進まなくていいのは有難いことだ。

 馴れている自分たちはいいが、ヤクモあたりが泣き言を漏らすに違いない。


 「おはよー、クロム」

 泣き言ではなく欠伸を漏らしながら、ヤクモが部屋から出てきた。

 よく言われたのだろう。袖口は布で巻かれている。


 「ああ、おはよう」

 「よく眠れた?」

 「…まあな」


 「それは何よりだ。昨日より顔色も良い!足手纏いを引き摺って行くのは御免だからな!」


 「誰が足手纏いだ」

 ユーシンは袷の肌着にズボンを履いただけだ。

 それも寝ているときに着ていたものらしく、皺が寄り帯は曲がっている。寝ぐせも酷い。


 「昨日のままならそうなっていた。わかってはいるだろう?」

 「…」

 思わず黙ったクロムを見て、にかっとユーシンは笑った。


 「俺もヤクモも、もっと頼れ。クロム。何より、まずはファンを信じろ。いきなり殺されるほどは弱くない」


 「ま、あな」

 とん、とクロムの胸を叩き、ユーシンはさらに顔全体で笑う。

 子供のころから変わらない顔だ。


 「さて、飯だ!朝餉だ!腹が減った!」

 「寝ている人もいるんだから、あんまり騒がない」

 「む!それは失礼した!」


 わやわやと小さく騒ぎながら、ヤクモを先頭に台所へ向かう。

 立ったままのクロムを、不思議そうにファンが振り返った。


 「どうした?」

 「いや。腹が減っただけだ」

 「ん、そっか。じゃあ、行こうぜ」

 手招きする主に向けて、クロムは足を踏み出す。


 あの時。白い静寂に包まれて眠ろうとしたとき。


 耳に届いた音は、遊牧民が狩りに使う鷲の羽音だった。

 その羽音を伴って、白い空間から現れたのは、満月の色をした瞳の少年。


 ダメだ、そっちに行くな!起きるんだ!


 朦朧とした意識の中聞こえた声に、クロムは反射的に手を伸ばした。

 実際に、体が動いていたかどうかはわからない。


 ただ、その伸ばした手は、温かい手に掴まれて、そしてクロムはまた、この世界に戻ってきた。


 流民の親子に自分の着ていた服を着せ、下着だけで雪の中を助けを呼びに戻ったせいで、がっつりと風邪をひいて熱を出し、三日も寝込んだというお人好し…いや、脳みそ花畑は今も全く変わっていない。


 それを思い出してみれば、睡眠不足をおして警護しようとした自分も、無茶とか無謀の度合いでは変わらない。


 結局、完璧には程遠いのだから。自分も、主も。


 なら、それを補えるものは、何でも使うべきだろう。


 仲間を信じて背中を預けるとか、そういうクサイことではない。

 使えるものは使うべきだ。


 使えなくなると困るから、危機に陥りやがったら、助けることもやぶさかではない。


 第一、間違いなくあの脳みそお花畑の第一人者が助けに突っ込んでしまうのだし。

 まあ、だから。


 一党パーティであることも、悪くは、ない。


 少なくとも、同じ一党だと理由だけで、助けたり助けられたり…されるつもりはないが!…できるのだし。

 その事でやっぱり仲良しだなーなどと、うざったいことを言われなくても済むのだし。


 そんなことを思いながら仲間に続き、クロムも台所に入った。


 第三者が聞けば、どう考えてもどうでも良いことではあるが、クロムと言う青年にとっては、とてもとても、大事な思考いいわけなのである。


***


 「さて、隊列はクロム先頭、俺とヤクモ、殿ユーシンでいいな」

 「異存はない」


 朝食と身支度を終え、ファンたちは昨日も訪れた山道の入り口に差し掛かっていた。


 夜明けは完全に朝へと変わり、村はさらに活気づいている。


 村人たちは作業の手を止め、手を振って声援を送る。

 がんばれよ、頼んだぞ、気を付けて…と声は様々だが、ネガティブなものはひとつとしてない。

 誰もがファンたちが失踪の原因を突き止め、解決すると信じている様子だ。


 「うん!ぼく、頑張っちゃうよぅ!」

 フンス、とヤクモが気合を入れる。

 こうして声援に送られても出発は、初めての経験だ。

 いつもは精々、ギルド職員がいってらっしゃい~と声をかけてくれる程度である。


 「今から気張りすぎるとばてちゃうぞ?」

 「だいじょぶ!今だけだから!」


 期待はされないよりされる方が気分がいい。

 張り切りすぎるのも困るが、プレッシャーに感じるよりはずっとマシかと、ファンは良い方に考えることにした。


 明るい日差しの中で見る道は、やはり状態がいい。


 一定距離を置いて木材が地面に埋められ、歩行を助けている。

 隊列を作ってはいるが、二人で並んでもまだまだ余裕がある。

 両脇の草や木の枝は刈られ、代わりに植えられたのか、ヒースの花が咲いていた。


 よく見れば、森の木と昨日は思ったものが薔薇の茂みだったり、実がなったり花が咲く植木だった。

 どれも丁寧に手入れをされ、質素で小さな神殿の色鮮やかな飾りとなっている。


 「あ、おはようございます…って、皆さんお揃いですね」


 「おはようございます!もちろん、お見送りさせていただきたくて!」

 その神殿の前に、神官たちが並んでいた。


 アニスとシャーリーはもちろん、ロット達もいる。

 マーサの後ろに控えるのは、この神殿の神官たちだろう。


 「さあ、ウィル。彼らに祝福を」

 そっと、シャーリーが隣に立っていたウィルを前に押し出した。


 「あ、あの、僕、僕じゃなくてですね?」

 「えー、ウィルがいーよ?せっかく仲良くなったんだしさあ」


 きょとんとした顔で、ヤクモがウィルの辞退を拒んだ。

 その言葉に、ウィルは顔を真っ赤にして俯く。


 「そうですね。大神官を差し置いて祝福するのは違反とかでなければ、ウィルさん、お願いできますか?」

 「まあ!もちろんそんなことはなくってよ!」

 「ええ。あたしたちも勿論、皆様の無事をお祈りいたしますけれど、ウィル。貴方が一番、心から祈れるでしょう?」


 シャーリーの声に、ウィルは顔を上げた。


 「心から…祈る…」

 「そうですわ。貴方にとって、彼らは大切な友人なのでしょう?ならその祈りは、誰よりも真摯で、強く、女神様の御許に届きますよ」


 神官見習いであるウィルには、本来祝福を授ける資格はない。

 神官の後ろで一緒に祈ることはあっても、その神官たちを…しかも大神官まで!…従えて祝福するなど、ありえないことだ。


 そんなことをモゴモゴと呟くと、アニスとシャーリーの顔から笑みが消えた。


 「ウィル」

 「は、はい!」


 先ほどの柔らかな声とは違う、ぴしりと鞭うつような声。


 「祝福する資格がないなど、何故そんなことを言うのです」


 「え、あの…」


 大神殿ではそう決められていたはずだ。

 信徒に声を掛けられて、旅の安全を祈った同輩は頬を打たれて食事抜きになった。

 未熟な見習いが適当に祝福モドキを行い、それにより安心した信徒に何かがあった時、女神の聖名を穢すのだぞと、師父から厳しく説教されたこともある。


 「祝福とは、女神の加護を祈る事。女神の愛を願う事」


 両頬を、アニスの柔らかい手が包む。


 「祈り、願う事に、資格などあるはずはないでしょう?」


 「でも…そう教わって…」

 「大切なことは、一心に、純粋に、女神アスターを想う事です」


 包まれている頬が温かい。顔は笑っていなくても、彼女たちはウィルを叱っているわけではないのが判った。


 叱っているのではない。正そうとしているのだ。


 「女神の愛は、夜明けの光のようにすべてに降り注ぐ。その愛を願ってもいいのは神官だけだなど、その方が烏滸がましいのですよ。ウィル」


 「あ…」

 そっと、アニスの手はウィルの顔を上に向かせた。


 見上げる空は明るく青く、全てを光が満たしている。


 その光は惜しげもなく地上に降り注ぎ、分け隔てなく包み込む。


 そこには、好悪もない。善悪も、貴賤も、何の差もない。

 ただ、光は全てに平等に与えられる。


 どこかの王様が見ている空も、ウィルが見ている空も同じだ。注がれる光も同じだ。


 「ああ、これが…女神アスター様の、愛…」


 にっこりと、アニスは笑った。


 「おわかりになりまして?ウィル」

 「はい…」


 それは、理解したという一文とは程遠い。


 言葉にはできない。文字にも表せない。

 だが、ウィルは確かに


 全てのものはもう、女神に愛されている。女神と繋がっている。


 更に祝福を願うのであれば。より真摯に、より強く。

 心の底から、祈るしかない。


 大切な人を、女神がお守りくださいますようにと。


 そのことに資格がいるなど、あり得ない。

 すべての命は女神と繋がっているのだから。

 神官でなくとも、御業が顕れなくても、祈りは、願いは、女神に届く。


 朝が、王侯貴族だろうと乞食だろうと、分け隔てなくやって来るように。


 「さあ、祝福を」


 アニスの手が頬から離れる。

 こくり、と頷いて、ウィルは一歩前に出た。


 つい先日知り合った、冒険者たち。

 ウィルを友人と言ってくれる、大切な人たち。


 「女神アスターよ…」

 祝福の聖句は覚えているはずなのに、頭のどこにもない。


 だが、そのことはウィルを困らせなかった。

 言葉には、もともとできないものをウィルは今、願っている。


 「ヤクモを、クロムさんを、ユーシンさんを…ファンさんを、どうか」


 空を仰ぐ。

 昇り始めた太陽の輝きは目を焼くはずだったが、ウィルは眩しく感じなかった。


 もう、今、目を閉じているのか開いているのかもわからない。


 ただ、祈る。願う。大切な人たちが、恙無くありますようにと。


 誰一人欠けることなく、無事に戻ってきますように。


 「どうか、お守りください」


 あたたかいものに包まれる。光が身体を満たしていく。


 その中で、ウィルは意思を聞いた。

 声ではない。その温もり、光こそが女神の声だと、ウィルは理解した。


 すべての命を慈しみ、愛する女神の意思。祈りに応える声。


 「祝福を…」


 ウィルを満たす光が、あふれ出る。

 それはファンたちをそよ風のように包み、消えた。


 「ありがとう。貴方に、紅鴉の導きがありますように」


 弓を胸につけ、頷くファンが見えたことで、ウィルは今、目を開けているのだと知った。


 「今の、加護の御業ですよね?ウィルさん、御業使えたんですか?」

 「え…?」


 茫然と、ウィルは自分の手を見た。何も変わっていない。


 だが、先ほどの感覚ははっきりと覚えている。

 体に満ちたあたたかさ。とてつもなく大きな、尊いものに触れられたのだという疲労を伴う幸福感。


 「ええ、ウィル。貴方は御業を授かったのですよ」

 「御業…?僕が!?」

 「ああ、今のは確かに加護の御業だ。しばらく彼らは、悪しきものの干渉をうけなくなる」


 頬を紅潮させたロットが、ウィルの肩を叩いた。

 「やったな!君の祈りは、女神アスターに届いたんだ!」


 「僕…」

 御業を授かった、と言う実感はわかない。

 だが、魂の奥底から歓喜が溢れてくるのを感じる。


 女神アスターは、本当に、アスター様だったんだ…!


 自分を満たしたあたたかなもの。意思。

 それは、ウィルが思い描き、日夜祈りを捧げてきた女神そのものだった。


 そのことが、とてつもなく嬉しい。


 師父の教えや左方の聖典では、女神アスターは異教徒には厳しく、時に聖戦を命じるような神として描かれていた。

 それを初めて聞いた時、公正と言っても自分の信徒だけになのか、と少しがっかりしたことを覚えている。


 貴族だから威張り散らしても許される。

 跡取りだからそうでない弟妹に酷い態度を示しても許される。


 そんなのと一緒なんじゃないか。

 公正と言っても、生まれや兄弟順でその「公正」が違ってしまうように、生まれた国や信じる神が違えば、公正に扱うわけがないというのか。


 だが、ウィルの感じた女神は違う。

 女神の愛は、どんな神を奉じるかなど関係ない。


 ただただ、生きとし生けるもの…いや、存在するもの全てに注がれている。


 夜明けの女神。公正を司る女神。


 幼いころに聞いて信じた女神は、まさにそのままの御方だった。


 聖典よりも自分が信じた女神の姿が正しかったことに、ウィルは歓喜した。

 そのことに比べれば、御業を授かったことは大したことではない。

 きっと、あとで足が震えるほど動揺するのだろうなと、わかってはいるけれど。


 「しばらくって、どれくらいだ?」

 「ちょっと、クロム!良く読め空気!」


 「加護は一日持続します。明日の朝日が昇るまでは有効かと」

 ウィルの代わりに応えたのは、マーサだった。


 そうなんですか、と呟きそうになって、ウィルは慌てて口を閉じた。

 行使した自分がそんなことを言っては、不安になってしまうかもしれない。


 「悪しきものの影響を受けんというのは、どのようなものだ?餓鬼プレタに憑りつかれないとかか?」

 「プレタ?」

 「えっと、山などで遭難して餓死した者の霊です。憑りつかれると動けなくなり、やがて自分も餓死するっていう」


 ファンの説明に、マーサは微笑み、頷いた。

 「ええ、そういった亡者を遠ざけ、邪術や呪いを跳ね返します」


 「ふん」

 つまらなさそうに頷き、クロムはウィルの前に立った。


 「…まあ、全員帰って来るから心配するな」

 左拳を胸につけ、肘を上げる。

 それがアスラン式の軍礼だとウィルは当然知らず、クロムも説明するつもりはない。


 だが、なんとなく、ウィルは理解した。

 今、クロムがお礼をしてくれたのだということを。


 相変わらずの無愛想さだが、双眸と口許は少しだけ、緩んでいたから。


 「そうそう!明日の御飯、また一緒に食べよーね~!お昼前には帰って来るからさ!」

 「うん…うん!」


 馬車でたくさんヤクモと話した。

 お互いの生い立ち、好きな食べ物、楽しいと思う事。

 だけれど、まだまだ話したいことはある。聞きたいこともある。


 「うむ!昼飯はたくさん用意しておいてほしい!」

 「僕、ご飯は作れませんけど…いっぱい手伝って、たくさん用意しますから!食材だって、大神殿から持ってきてるのもありますし!」


 彼らはこれから、危険なところへ行く。

 女神の加護があったとしても、それがどれだけ守ってくれるかはわからない。


 だけど、女神はウィルの祈りに応えてくれた。

 そして、彼らも帰ってくると答えた。

 だから、それを信じる。信じて待つ。


 「では、あたし達も無事を祈らせてもらいますね」

 シャーリーの声に、ウィルも指を組み合わせた。

 冒険者たちの帰還を祈る声が唱和する。それは御業の発動を願うものではない。

 ただの祈りの言葉だ。


 だが、それがなんだというのか。


 ウィルの御業より、この祈りの方が劣るなどと言うことは絶対にない。


 祈り、願う。自分ではない人の無事を。

 自分の利益になるかなど全く考えない。そんなものは関係ないのだ。


 だからきっと、この祈りも女神に届く。ウィルはそう、確信しながら祈った。


 女神アスター様。どうか、皆を、お守りください。


***


 「行ってしまったなあ」

 ロットがぽつりと、山道の先を見ながら呟く。


 冒険者たちの背中はもう見えない。

 さすがに歩く速度が速いというか、躊躇いがないというか。


 行ってきます、と宣言した後は、振り向くこともなく歩いて行った。


 背中が見えなくなったところで、ウィルとロット以外は神殿に引き上げた。

 朝のお勤めを終わらせたら、アニスとシャーリーが説法をすることになっている。


 何となく、二人は残っていた。神殿が女性ばかりで入りにくい、と言うのもある。

 ロットの同輩である二人は他の手伝いをするために村長宅へ向かったくらいには、居心地が悪い。


 「女神は、きっとみんなを守ってくださいますよね」

 「ああ、もちろん」

 トン、と肩に手が置かれる。


 「君の御業だってあるんだ。…ところで…いや、わからないか」

 「え?」

 「いや、一昨日、聖壁の御業を行使したとき、なんというか…いつもより良かったんだ」


 ロットの言葉は歯切れが悪い。

 言いにくいことを言っているのではなく、言葉を探しながら話しているようだった。


 「いつもより、良い?」

 「ああ。いつもより強い聖壁が出現したというか…それで、君が御業を願ったときにどうだったか聞こうと思ったんだけど、初めてではわからないよな」


 「そうですね…」

 無我夢中だったのだし、本当に行使できたかもわからない。

 よくできるとかイマイチだったとか、御業にもあるのだろうか。


 ウィルの疑問が顔に出ていたのか、もともと説明するつもりだったのか、ロットは口を開いた。


 「御業は、本来女神アスターの御力。

 その御力を、ほんの少しだけ行使していただく。我々を通してね。

 だから、祈りが途中で途切れれば発動しないこともあるし、ほんの僅かなものになることもある」

 「ええっと、それなら逆に、すごく祈りの声がアスター様に届けば、強力になると言うことですか?」

 「いや、それはないんだ。お借りできる神の力は、決められている。小さな器に滝を流し込めば、器は粉々になってしまうだろう?神は我々の器に応じてお貸しくださる力を加減する」


 ロットの端正な顔が、顰められた。

 「私はあの時、女神の意思が聖壁を強力にしたのだと思った。だけど、それにしては私の負担が少なすぎるんだ」


 「で、でも、ロットさん顔色が悪かったですよ?」

 「あの程度で、済むはずがないんだ。それで、君はどうなのか聞いてみたくてね。試しに御業を使うなんてことは許されないし」

 「すみません…お役に立てなくて」


 己の器がどれほどかも、ウィルにはわからない。

 もしもう一度使ったとしても、先ほどより良くできたか、きっとわからない気がする。


 「いや、こちらこそすまない。君も大神殿に戻ったら、魂位の儀式を受けてみるといい。私もひょっとしたら上がっているのかもしれないな。それなら嬉しいが」

 「魂位?ですか?」

 「左方はそんなことも教えないのか…自分がどれほどの器か、どれだけの神の御力をお借りできるのか、確認する儀式だよ。

 修行を積んだり、試練を乗り越えると上がることがあってね。

 バレルノ大司祭様が強力な御業を行使されるのも、魂位が高いからだ。

 あの方は直接女神の御声を聴くという大試練を乗り越えられたからね」


 そう言えば数日間意識を失っていたと言っていた。

 一歩間違えば命を落としかねないのだから、まさにそれは試練だろう。


 「生まれつきの能力がかなりものをいうから、つまりは魔導で言うところの魔力の多さみたいなものなんだろう。

 ただ、魂位がどれほど高くても、神の声を聞けなければ、御力はお借りできない。

 逆に、声が聴こえても魂位が低ければお貸しいただけない。君が御業を授かったのは、とても稀有で、素晴らしい事なんだよ。自信をもって」


 「は、はい!あ、その、御業について、バレルノ大司祭様も同じことを仰っていました。どれだけ願っても、素質がなければ御業は授かれないと」


 お茶の準備をしながら、聞こえてきた声。

 聞きながら、そうだな、僕には両方ないものな、と思った覚えがある。


 それがたった数日後、御業を授かることになるとは。 


 ウィルの言葉に、ロットは苦笑した。

 親しみの籠った苦笑だ。バレルノ大司祭は、神官たちにやはり好かれているのだろう。なんだか嬉しくなる。


 「あの方は平気でそういうことを言うから。その辺も東方かぶれと言われてしまう要因なんだけど」

 「東方かぶれ?」


 「アスランでは、神を学問として研究するんだ」


 「え?」

 「逸話を集め、その変遷を調べたり、御業の仕組みを研究したりね。

 ある国で信仰されるこの神は、別の国で信仰される神の別名で同じ神だ、とか。

 逆にこの神は本来二柱であったのに纏められているとか。

 私はもう少し大神殿で修業したら、その学問…神学を学びに大都へ赴くつもりなんだ」


 それは、ものすごく罰当たりと言うか、神をも恐れぬ行為と言うか…


 本来、神について学ぶことは、その聖句や高名な司祭の言葉について学ぶ、と言うことであり、神自身について調べるものではない。


 神は神であり、それ以外ではないからだ。


 「例えば、我らの女神アスターも、左方で言われているような御方だろうか」

 「あ…違います!全然違います!」


 「うん。異教徒や他の神を嫌う、なんていうのは、違う。

 だけど、左方だけで学んでいたら、そういう御方なのだ、と思ってしまうよね?

 そして、その姿だけが別の地域や国に伝われば、女神アスターはそういう神としてしか見られないんだ」


 それは、まったく違う神だ。

 万物を愛する女神アスターの御姿ではない。

 ただアスターと言う名で呼ばれるだけの、違う女神だ。


 「あ…」

 「そういうこと。そうやって、同じ神が違う神になることもある。

 すべての神が信徒に声を届けてくださるわけではないけれど、それはその神が本当は全く違う神で、ご自身のことだと気付かず、祈りに気付かないこともあるのではないか、と推測している本が面白かったな」


 異教徒を皆殺しにするのでお力を貸してくださいと祈られても、きっとアスターは耳を傾けないだろう。

 それは女神の意思とはかけ離れている。

 そんな願いを、信徒が祈るはずがないと。


 「神学は、神を暴くのではなくて、より深く知るための学問だと私は思っている。好きな御方のことは、なんでも知りたくなるだろう?」

 「そうですね…僕も、行ってみたいなあ…」


 まだ罰当たりじゃないのかと恐れ多く思う気持ちは消えていないけれど、それよりも女神アスターについてもっと知りたいという欲が芽生えている。


 「それじゃあ、一生懸命勉強しないとね。最低、タタル語は身につけないと」

 「え…でも、僕は、左方で…」

 アスランに学びに行くなど、絶対に許されないだろう。

 「一回破門されて、こっちに入りなおせばいい」

 に、とロットは笑った。


 「右方の師匠たちは、そういう横紙破りに長けた人ばかりでね。かくいう私も、大神殿の門を最初に潜った時は、左側だったんだよ」


 ドクン、と心臓が脈打つ。

 生まれて初めて感じる、激しい希望。


 いや、そうしたい、そうするのだという欲望と言い換えてもいいかもしれない。


 「ファンさんたちが戻るまで、作戦会議だな。

 悪く思う必要はない。

 君が左方に尽くしたいと思えるような言動を行わなかった師父たちの怠慢だ。

 いい気味だ」


 わざとらしく首を竦め、ロットは大仰に手を挙げた。


 「歓迎するよ、同士よ。女神アスターの推せるポイントについて、語り合える日を心待ちにしているよ」

 それはどういうことなんだろうかと思うが、何となく聞いてはいけないような気がして、ウィルは口を噤んだ。


 「もう少し神学を学んでいれば、御業が急に強力になったことに説明を付けられたかもしれないなあ」


 御業が強力になる、か。


 (ん?)

 つい最近、そんな話を聞いた気がする。

 いや、聞くというより、思い出したような…


 記憶を手繰るが、いまいち出てこない。誰と話したのかも定かではない。


 (まあ、いいか。思い出したら、ロットさんに教えてあげよう)


 「さて、ウィル。我々も村長さんに御用聞きに行こうか」

 「はい!」


 掃除や洗濯、薪割に農作業。やれることはたくさんあるだろう。


 御業を使えるようになったと言っても、自分は自分。

 できることに一つだけ追加されただけだ。


 だから、やれることをやって、彼らの帰りを待とう。


 大丈夫。必ず彼らは帰ってくる。


 自分が加護の御業を行使したなんて、いまだに信じられないけれど。


 女神の意思と、それになにより、彼ら自身を信じて。

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