第20話 マルダレス山 麓の村3

 景色が、飛ぶ。


 まだ夏の名残りを宿す木々の蒼が、草の緑が、視界の端を流れていく。

 体にあたっては弾ける風。その匂いも一瞬で変わっていく。


 随分と久しぶりの、感覚だった。


 太陽は中天を通り過ぎ、そろそろ傾き始めている。

 もう少ししたら、空は茜色に色付き始めるだろう。

 夏の盛りは待ち遠しかった日暮れが、なんとなく寂しさを感じてしまう季節だ。


 その沈む日を背に受けながら、疾走する流星鹿毛ヘールハルザンの鞍に尻を降ろした。


 馬の脚が徐々に緩やかな駆け足に変わっていく。


 アスラン式の乗り方では、疾走させるときは鐙に足を乗せて立ち、歩かせるときは鞍に尻を降ろす。

 唄で慣らせたこともだけど、やっぱりこの馬たちはアスランである程度調教をされてるみたいだ。手綱を使わなくてもちゃんとこちらの意志が伝わっている。

 

 しかし、西方式の鞍で立ち乗りは、やっぱり変なとこの筋肉を使うなあ。少々腿が痛い。


 駆け足から早足へ、そして並足へと変化しているが、馬は上機嫌そうだ。

 きちんと世話はされていたみたいだけれど、こうして全力疾走する機会はあまりなかったんだろう。

 俺の乗る流星鹿毛の後ろから、黒鹿毛と粕毛が同じように足を緩めて従っていた。


 さらにその後ろに、クロムが葦毛に跨って付いてきている。


 この葦毛だけが牝馬で、他の三頭は去勢馬だ。

 皆、まだ若い。たぶん、五歳くらいだろう。

 元気が有り余っている年頃だ。息は荒いが、疲れを見せた様子はない。


 どれだけ走れるのか、走行に癖はないかの確認で、山裾に沿ってちょっと走らせてきた。

 目的はもう一つある。旧参道とやらを見るためだ。


 とは言っても、本当に遠くから眺めただけで、近付いてはいない。

 馬車の轍の跡なんかがないか確認したいところだけど、『何か』の正体が人間なら、間違いなく監視しているだろう。

 下手に近付いて警戒されることは避けたかった。


 向こうも、冒険者が雇われて向かっていることは知っているはずだから、明日の進行ルートにも待ち伏せがある可能性は高い。

 気を付けないとな。


 遠くから眺める旧参道は、なだらかに折り返しながら登っていく道だった。

 遠くからでも道として確認できたということは、それなりに広い道だ。


 ただ、参拝のために整備したにしては、広すぎるとも言える。


 それはあの仮説の正しさを消滅する一つの証拠にもなりえるけれど。

 だけどやっぱり…なんかしっくりこないんだ。


 「まだうだうだ考えてるのか?もう明日登ればはっきりするだろ」

 「そうなんだけどさ」

 クロムが隣に馬を進める。


 牝馬は牡馬に比べて可愛い顔立ちをしている。この子は性質も穏やかで素直だ。

 ヤクモが乗るのはこの子に決定だな。


 「相手が人間の破落戸なら、一番話は早い。何がそんなに気にくわない?昨日の連中も、その兵隊集めの伝手で雇ったんじゃないか」

 「うん。そう考えるのが妥当なんだけど…強引にもっていきすぎな気はするんだよ」

 「どこがだ?」

 「人を集めたい。けど、おおっぴらに集められないし、傭兵ギルドの目もあるから、まともな傭兵は雇えないだろう。と、するとどこから連れてくる?」

 「どこの町の安酒場や路地裏にでもわいてるだろ」


 ネズミや虫じゃないんだから…。

 まあ、集めてくるなら、その辺だろう。俺達の定宿周辺にもたくさんいる、あと一歩で転がり落ちる人たち。


 「それなら、昨日の連中と大差ないレベルだろうな。

 でさ、そんな連中を何の娯楽もない山の中に連れてきて、見張る目もそうは用意できない。忠誠心で仕えているわけじゃないから、監視がなければ規律は最低限の維持も難しいだろう」


 古今東西、軍を率いるうえで一番難しいともいえる問題。

 軍の士気と、規律の維持だ。


 これは密接にかかわっていて、士気が高い軍は規律も守られる。

 士気と言うのはヒャッハー具合ではない。軍隊の意志と言うか、どれほど率いる将の号令が行き届くか、そういうことだ。


 例えば、山賊はヒャッハー具合は高くとも、士気は低いと言える。

 お頭が命令しても、反撃があれば子分は逃げ散るし、なんならお頭も子分を置いて逃げる。

 誰だって自分の命が惜しく、嫌なこと、痛いことはしたくない。

 上からの命令でそんなことをするのはまっぴらだ、となれば逃げるし裏切る。


 それを防ぐのが軍の規律…軍律だ。


 上官の命令には基本的に絶対服従。違反すれば厳しい罰則。

 その厳しい軍律が守られている部隊ほど士気は高く、強い。

 行軍が整然としている部隊には手を出すな、と言われるくらいだ。


 山の上にいるのが聖王バルト陛下とその近衛騎士団なら、何もない山砦でも脱走兵もなく留まれるだろう。


 だけど、いるとすれば大神殿の関係者か、どこかの反王家の貴族だ。

 しかも、率いているのは破落戸を雇っただけの限りなく山賊に近い連中。


 「村に被害がないのはおかしい、か。しかし、最近やってきたのかもしれんぞ」

 「冒険者の未帰還時期を考えると、最短でも一月前。十日でも大人しくしているとは思えない」


 「おもちゃを与えた可能性は?二組目の未帰還者は、全員女だったんだろう?」


 「まあな…ただ、人数を揃えたら、いくらなんでも噂なり形跡なりが見付かると思うんだ。左方にそれを隠し通してやれる人物がいれば、バレルノ大司祭が目をつけそうだし」


 貴族は、金を使うことはできても、うまく使える人間は少ない。


 左方や繋がりのある貴族が破落戸を集めていれば、バレルノ大司祭あのひとの目に止まりそうな気がする。

 自分の目を隅々まで光らせていなくても、目を雇うことはできるからだ。万が一に備えて腹心を大都に送るような人が、その程度やっていないわけがない。


 「ほう、それなら、お前は何だと思う?」

 「…人間が関わっているのは間違いないけれど、まだ兵を集めるまではいってないんじゃないかな。もしくは、反乱じゃないけどなんかしらやっているか」


 ただ、それなら冒険者を襲って口封じする意味はない。

 むしろ、目立たないようにした方が得策だろう。


 実際、こうして警戒されて右方が動いたのだし。


 そう思いながら首を捻ると、クロムは大きく目を見開いた。

 そんな顔をしていると、まだ十代なんだなあと実感する。言うと怒るけど。


 「反乱…までは行っていないって、お前、反乱軍が組織されてると思っていたのか?」


 「え…?クロムもそう思ってるんじゃないの?」


 はあーっとこれ見よがしにクロムは息を吐きだした。

 「あのな…ここはアスランじゃない。破落戸を集めているがすぐ反乱に結び付くわけじゃないんだぞ」


 「え?だって、じゃあ、なんだと思うんだよ?」


 答えは、更に盛大な溜息だった。

 「そりゃわからん。

 わからんが、普通になんかしら悪事を働いてるだけじゃないのか?今、この国に王家に剣を向けるような気合のあるやつがいるとは思えんぞ」


 反乱とは、もう間違いなく重罪で、企てるだけで死罪になる。

 それを免れるためには、勝つしかない。


 けど、負けることを承知で起こす反乱と言うのもある。

 俺達は異議を唱えるぞ、こんなに憤っているのだぞ、と知らしめるための反乱だ。


 アスランは何しろ百年前に急膨張したもんだから、その時に征服された国の末裔や貴族が、独立を叫んで反乱することが多い。


 もしくは、半ば自治を認めていたら、いつのまにか税を釣り上げ、アスランの定めた法の倍の…一番ひどいところで五倍ってのもあった…税を搾り取り、民がついに爆発した場合だ。


 そうしたときは、まさに死ぬことで怒りを示す乱だ。

 粗末な農具や、守備兵から奪い取った装備で武装した、痩せた男たちの集団は…恐ろしい。


 こんなことをさせたのはお前たちだと、その全てが訴え、叫ぶ。


 「左方と不満を持ってる貴族が、自爆覚悟で反乱を起こそうとしているってのが、お前の考えた仮定だろ?何度も言うが、ここはアスランじゃない。

 死を賭しての訴えなんぞあるわけない。アイツらの不満って言うのは、もっと金寄越せ、好き放題させろ、このクソのような俺様をもっと讃えて跪け、程度だ」


 「あー…うん」


 「と、言うわけでやり直し。反乱以外で何やってるか考えろ」


 見事にダメ出しを食らう。んー、しかし、そうだな。うん。

 反乱準備にしては不自然だと思ったところは健在だけれど、そうか…反乱自体が不自然か…。


 指摘されてみれば、確かに。

 やっぱり俺は、軍師とかには向いてないなあ。まあ、博物学者だし、仕方ないとして、切り替えて行こう。


 「反乱以外で、設備と人数を必要とする悪事か…密売とか?」

 「まあ、その辺だろうな。人身売買や禁制の商品の取引。王都からほど近く、人の行き来があることが不自然じゃあない。うってつけなんじゃないか?」

 人身売買、のあたりでクロムの目が硬い光を帯びた。


 すぐに人を売り飛ばすだのと言うけれど、クロム自身、人身売買にはトラウマがある。

 だから絶対に人身売買には反対だ、人が人を売るなんて非道すぎる!とはならないで、嫌な目にあったから思い出すと不快になるけれど、行為自体は肯定しているっていうのがクロムらしいというか、何と言うか。


 要は自分が売る立場なら構わんって言うスタンスだからなあ…。

 子供を売る事は、絶対に許さないけれど。


 「ご禁制の品…あ」

 ちかり、と思考の隅で何かが光った。


 禁制品は、高値で取引される。

 取引が禁止されているのに、需要があるから闇で売買するわけで、当然需要に対して供給は少なく、危険を冒す分手間賃も高い。


 その中でも人気なのは、小さく持ち運びが容易なものだ。


 代表的なのは、毒や薬だろう。

 エリクサー病の語源となる万能薬エリクサーも、基本的には禁制品だ。

 個人間での売買は禁止され、アステリアなら冒険者ギルドの仲介が必要となる。

 材料である霊水が、異世界との境目…『迷宮』などでしか手に入らないから、そうそう出回る物でもないけど。


 「コルムが言ってたな。クバンダの蜜が出回っているって」


 「…なるほど。おあつらえ向きだ。

 ただ、メルハからキリク、そしてアスランを通ってアステリアにって言うのは、いくらなんでも遠すぎるし、見つかりそうなものだがな」

 「そこなんだよなあ」


 クトラ国内が通過できるなら、メルハからクトラを抜けてアステリアに届く。

 けれど、ただの麻薬の密売人が抜けてこられるような魔境ではないし、そんなに迂回するなら途中のアスランで売りさばいた方が経費が安く済む。


 「どっぷりハマった奴が、わざわざ取り寄せているんじゃないか?」

 「それなら市中に出回らないだろ。粗悪品を横流ししている可能性は否定できないけどさ」


 ちゃんと調合された完成品を薄めると粗悪品になる、と言うならありえない話じゃない。

 けど、あの麻薬に関しては、むしろ完成品の方が薄い。

 強力すぎて使えば必ず死ぬ毒を、様々な薬を混ぜて安全に…と言っても即死しないだけで一年持たないが…楽しめるようにしたものだ。


 完成品と粗悪品を抱き合わせで売ることも考えにくい。

 ちゃんとした品が作れるなら、わざわざ粗悪品を作る必要はないからだ。

 1本の完成品と9本の粗悪品を売るのなら、10本の完成品を売った方が金にもなるし、材料も少なくて済む。


 「となると、違うかなあ」

 「なんにせよ、相手が人間なら話は楽だ。さっきも言ったが、素人相手なら作戦すらいらん」

 「ただ集会しているだけかもしれないんだから、いきなり仕掛けるのは無しな?」

 「絶対ないと思うがな…」


 もしかしたら、大女装大会とかして盛り上がっているのかもしれないし。


 うん、実際に大都であったんだよ。

 大商人や貴族…アスランの貴族は征服された国の元王族だ…がコソコソと何度も集まっているから、密偵が探りに潜入したら、おっさんたちがそれはそれは妖艶な姿でキャッキャしていたという事が…。


 ちなみにその会合は、浮気だとかいかがわしい事をやっているんじゃないかと、疑念を抱いた誰かの奥さんが乗り込んだことで明るみに出た。


 趣味はあまり隠してはいけないという教訓だな。


 「ま、人間がやってるならあの小娘と雑魚も無事なんじゃないか?よかったな」

 「そうだな…ただ、この件、どれだけドノヴァン司祭が関わっているんだろう…」

 「あのいかれた爺さんなら、何やってても女神への祈りですって言えば誤魔化せそうだ。神殿に用があるのは、一緒に行く連中なのかもしれんぞ」

 「あ、それはありえるな」


 まあ、何かしら、後ろめたいことをしているとして。


 何度も聖女神殿跡地に行けば、目立つ。

 言い訳として鎮魂の儀式をしているのだ、と申し出れば、あの大司祭なら自分も行くと言い出しそうだ。


 大神殿の庭園で、えらく疲れていたお付きの司祭を思い出す。

 多分、決めたら即実行の大司祭に振り回されているんだろう。そういう苦労がにじみ出ていた。


 だけど、大司祭も伴えば、目くらましとしては効果的だ。


 誰も、あの清廉潔白で知られるドノヴァン大司祭が、良からぬことに関わるとは思わない。

 大司祭が来られるから、巡礼や近隣の神官もやってきたのだと言えば、人数が集まっても不自然じゃない。

 右方が掴んでいないのも、ドノヴァン大司祭が定期的に通っているところで犯罪行為を行っているとは思わず、監視対象から外したのかもしれない。


 実際に鎮魂の儀式を行うドノヴァン大司祭の後ろで、禁制品の売買をやっている…なんてことはありえそうだ。

 実際にはあまり知られたくないことだから、麓の村や聖女神殿分所には何も教えず、遠ざける。


 うん。そう考えれば穴はないように思える。


 けど…それなら、冒険者に対して口封じを行うだろうか。

 神官が出てきて、ここは聖女神殿の敷地だからと追い払えばいいだけだ。

 もし、見られてはいけないものを見られたのだとしても、三度も見つかるようなヘマをするなら、もっと前から見付かっているよな。


 「…なんか、相手にとっても思わぬことが起きている気が済んだよなあ」


 「思わぬこと?」

 「うん。起こるはずのない事故とか、とにかくコントロールを失うような事が」

 「仲間割れとかか?」

 「こればっかりはなあ…わかんないな。だから、人間相手だって油断するなよ」


 ふふん、とクロムは口の端をあげた。なんでいきなりドヤった?


 「俺がするか。それはアイツらに言え」

 クロムの視線の先に、ユーシンとヤクモがいる。


 村へと入る門の前、ちょっと道が広くなっているところで、どうやらヤクモの稽古をつけているらしい。

 とは言っても、ユーシンに「言葉で教える」ということは向いていない。


 僅かに赤みを帯びた陽光を受けて、槍の穂先が同じ色の軌跡を描く。


 叩き付け、薙ぎ払い、突き出す。


 突き詰めれば、その三種の動作だ。

 だがそれが、一瞬の切れ間もなく、組み合わせを無限に変えながら繰り出される。


 それをひたすら、ヤクモが避ける。


 大きく距離を取らず、半身だけを反らせて避ける。

 いつものフニャンとした気配は微塵もなく、蘇芳色の双眸を見開き、視線を動かすことなく槍の動きを捉えている。


 剣は握っていない。

 剣を使っての受け流しは、ユーシン相手にはまだ早いからだ。

 とは言え、こうして避け続けているだけでも凄い。

 俺なら十回以内の攻撃で死ぬ自信がある。


 もちろん、ユーシンも手加減はしている。

 けど、ユーシンの手加減は「急所は狙わない」程度だからなあ…


 す、と槍が止まった。とたんにヤクモがペタンと腰を下ろす。


 「は、はあああああ…」


 肩で大きく息をしているのは、避け続けている間は呼吸も最低限の浅い呼吸しかしていなかったからだろう。

 ぶわりと噴き出た汗が、ヤクモの顔に滝を作っている。


 「うむ!良い動きだったぞ!ヤクモ!」


 ユーシンの方は息も乱していない。

 汗が頬を伝っているが、激しい動きの後だとは思えないくらいだ。


 返事をする余裕がヤクモにはないようで、ただ、喘ぐ口の端と、拳を握った右手を上げる。


 「頑張ってるなー」

 馬を降りると、ユーシンが駆け寄ってきた。元気だなあ。


 「おお、戻ったか。ファン、クロム…!」

 「言っとくが俺はやらんぞ」

 クロムの先制攻撃に、ユーシンは露骨にしょんぼりした。


 「あー、このあと、神殿行かなきゃだしな?とりあえず、一度着替えよう。俺達は馬の汗を拭いてるから、二人はまず汗を流してこい」


 「ぅ…ン…わかったぁ…」

 ぜーぜーと肩で息をしながら、ヤクモが声を絞り出す。

 そのくらい時間を使っても、日が落ちきる前には訪問できるだろう。

 さすがに汗まみれ埃まみれでお邪魔するのは失礼だし。


 渡したいものってなんだろう。マルダレス山の地図とかなら嬉しいんだけどな。


***


 「本当に近いな…」

 神殿は、村からほんのわずか先だった。少しだけ上り坂なくらいで、山に入ったという気もしない。


 日は、つい先ほど山の向こうに沈んだ。

 だけど、まだ夜の闇と言うには明るい青が空気を満たしている。満月も明日だし、灯りはいらないくらいだ。


 石造りの建物は、大きくはない。

 高さから言って二階建てだろう。尖塔はない。

 周りには花壇があり、生け垣の向こうにはささやかな畑がある。


 よく手入れされた、平穏な村の神殿に相応しい佇まいだ。


 「ごめんくださーい」


 装飾のないノッカーを使ってコンコンと扉を叩くと、屋内で鐘が鳴る音が聞こえた。どうやらノッカーと連動しているらしい。


 ノッカーを離して、一歩下がる。

 間もなく、扉が開いて光が零れ出た。夕闇になれた目には少々眩しい。


 「ようこそいらっしゃいました。マーサ様がお待ちですよ」


 マーサさんと同じ、袖は短く裾は長い神官服を纏った女性がにっこりと微笑む。

 年は俺と同じくらいか。

 健康そのものに日焼けした肌は、彼女が様々な屋外の作業を厭わずにこなしている証のようで何だか微笑ましい。


 彼女は大きく扉を開けると、くるりと踵を返した。


 「…よかった…またおばちゃんかなって…」

 「女神アスターの使徒には年齢制限でもあるのかと思ったな」


 はい、お前ら。口を閉じておきなさい。


 中に入ると、すぐに礼拝堂になっていた。

 女神アスターの神像が奥に鎮座し、ベンチが左右に三つずつ、合計六台置かれている。

 村の衆が全員やってきたら、入り切れずに外に出るか、ベンチを片付けてぎゅうぎゅうに詰まるかになるくらいの広さだ。


 マーサさんは、一番前のベンチに座っていた。

 横に置かれている袋が、渡したいものだろうか。


 「ご足労ありがとうございます」

 すっくと立ちあがり、マーサさんは頭を下げた。


 俺達を中に入れてくれた彼女もその横で一礼し、そのまま礼拝堂右手のドアから出ていく。


 クロムが音もなく、入り口を閉めた。そのまま扉に凭れ掛る。

 出入り口の確保はしなくていいと思うんだけど、まあ、性分だから仕方ない。


 「遅くなってすみません。お食事とか大丈夫ですか?」


 「はい。もういただきました。

 宴の御馳走のおすそ分けがありましたから。皆には今日はお酒も許可しましたの。明日、大神官様をお招きしてお話をいただきますから、飲みすぎないように、とは申し伝えました」


 少し悪戯っぽく、少女のように笑う。

 アニスさんとシャーリーさんが宿日酔になっていないことを祈ろう。


 「で、満月花は?」

 「はい、こちらに」


 クロムのいささかどころではなく失礼な言い方にも気を悪くした風はなく、マーサさんはベンチに置かれていた袋を手に取った。


 ゆっくりと歩いてくる彼女の目と瞼は、少し赤い。


 ただ、すっきりとしているように見えるのは、たぶん気のせいでも思い込みでもないだろう。


 「この程度しかございませんが…」

 「いえ、むしろ予想よりずっと多いです。いいんですか?」

 「この三倍は貯蔵していますから、お気遣いなく。本当に、ここから少し奥へ行ったところでいくらでも摘めましたのよ」

 「急にとれなくなっちゃったんですか?」


 袋を受け取りながら、ヤクモが首をかしげる。

 袋はヤクモが両手で抱えるくらいの大きさだ。


 乾燥していることを考えれば、かなりの量が入っている。

 それをポンとくれるんだから、本当にたくさん採れたんだろう。


 「ええ。満月の度にその袋が三つ分くらいは取れていたんですが…」

 「ふむ。なんで枯れたのだ?」

 「それが、解らないんです。二つ前の満月の時に、あまり生えていないと思っていたのですが…前の満月の時には、ひとつの花も咲かなくて…」


 満月花は宿根草で、春先にまずぐんぐんと茎が伸びて子供の背丈ほどになると、一回の開花で十ほどの花を咲かせる。秋に茎や葉が枯れるまで五、六回は花が収穫できる。


 その花が、咲かない…?


 「もしかして、なんですけど、二月ほど前に殺虫とか行いました?ムームーの木…継母の林檎を」


 「はい。わたくし共ではないのですが、巡礼に参られた方が虫がたくさんたかっていると仰られて、継母の林檎の木を煙で燻してしまわれました。

 神殿の敷地内ですし、無意味な殺生はおやめくださいとお止めしたのですが…夜のうちに強行されてしまいまして」


 あー…

 思わず顔を片手で覆って天を仰ぐ。多分そうだろうとは思ったけれど…


 「満月花…オオマツヨイベニバナの開花には、絶対に必要なものがあるんです」


 「その話長くなる…?クロムがイーってし始めたし、ユーシンが寝そうなんだけど…」

 「イーってしても寝ててもいいよ…もう…

 ん、とですね。継母の林檎には、よく白い芋虫がつくでしょう?」


 「ええ。良く実を齧っていますね。わたくしは昔、あの芋虫が食べるのは継母の林檎だから、知らない林檎の木を見つけたら、白い芋虫がいないかよく見てから食べなさいと教わりました」


 そう、見た目は林檎そのものであるムームーの木の実と、不味かろうとも無害な林檎を見分けるのは難しい。匂いやなんかも酷似している。


 ただ、ムームーの木には必ずと言っていいほど、ある虫が生息している。

 親は花の蜜を吸って受粉を手伝い、実がなるとそこに卵を産みつける。

 動物や他の虫にさえ猛毒になるその実だけを食べて幼虫は成長し、羽化して冬を樹皮に隠れてやり過ごす。ムームーの木と共に生きる虫だ。


 「その芋虫…クロオビシロスカシバの幼虫の糞…それが、満月花の開花に必要不可欠なんです」


 「え、なんかばっちいね」


 「生物の糞は植物の成長に必要不可欠だけどな。どんなもんでも。

 このスカシバは、継母の林檎の花の蜜を吸うけど、夏の初めには花は散ってしまう。その後は、満月花の蜜を好んで吸うんだ。これにより、受粉が行われる。マツヨイベニバナの仲間が喇叭型の花を咲かせるのは、長い口吻を持つスカシバを媒介者にするためだけど、クロオビシロスカシバは口吻が短い。だから、大きく花弁を開いた花を咲かせるんだな。夕方、月が昇る頃に咲くのも、夕行性のスカシバの活動時間だからだ」


 ユーシンが目を閉じているのは気にしないことにしよう。

 クロムもちょっと苛ついてるけど投げるもの持ってないから、大丈夫だろう。うん。


 「このクロオビシロスカシバの幼虫の体液には、継母の林檎の毒を無効化する成分が含まれている。その体液と毒を含んだ糞を養分に育つことで、満月花は麻痺治しの薬効を持つんだ」


 「えええ、じゃあ、麻痺治すのって虫のうんこのおかげなの!?なんかやだな!」


 「何を言う。クロオビシロスカシバの幼虫の糞は、そのまま飲んでも麻痺の速度を遅らせるくらい効果があるんだぞ」


 「やだ。ぼく飲まない」

 ぶんぶんとヤクモは首を振り、固く口を閉ざした。


 まあ、糞そのものより満月花の方が効くから、よほどのことがない限り糞飲ませることはないけど。

 薬はないけど糞はあるってことは、近くに咲いてるわけだし。


 「その…芋虫がいないと、花が咲きませんの?なぜ薬効があるのかは分かったのですが…」


 「花を咲かせるって言うのは、植物にとって大変なことなんです。糞がないということは幼虫がいない、となると花粉を受粉してくれる親もいない。さらに、この虫糞は、実は継母の林檎と満月花以外の植物にとっては毒になり、糞がばらまかれている間は別の植物も生えません。しかし、無くなれば栄養を奪いあう他の草も生える。それなら、再び自分たちにとって都合のいい状況になるまで根に栄養を蓄えて耐え忍ぶ…そういう戦略を持つ草なんです」


 なんで満月の夜に一番大きく花開くのか、その時に採取した花が一番薬効が高いのかはまだ分かっていない。

 おそらく、クロオビシロスカシバの生態が大きく関わっているんだろうけれど。


 なんで不明なのかと言えば、満月の夜に薬効が高いことが解ってるなら、その日に摘めばいいんだし、理由はいらなくない?ということで、研究されていないからだ。誰か専門的に調べれば、あっさりと解明されそうな気もする。


 「…月の霊力が麻痺を治す、と聞いていましたが…」


 「それなら、満月に当てるだけで治りますね。少なくとも、満月草が麻痺治しの薬効を持つのは、クロオビシロスカシバの幼虫の糞のおかげです」


 成虫の体液には同じ成分は含まれておらず、幼虫の糞だけがその効果をもたらす。

 虫って面白いよなあ。芋虫から蛾や蝶になるだけでも不思議なのに、食べるものに応じて不要な能力も消えるんだから。


 「木を燻したと言っても、木の下で殺虫効果のある煙を出すくらいなら、成虫は逃げられたし、幼虫も全滅はしてはいないでしょう。生き残ったスカシバが卵を産めば、来年には満月花が咲きますよ」


 「安心しました。その、スカシバと言うのは白い大きな羽根を持つ蛾ですか?」


 「そうです。スカシバの仲間は蜂に似た姿をしているんですが、クロオビシロスカシバは翅が大きく、他のスカシバよりも鱗粉が多い。スカシバ、という名前に反して、翅もあまり透けていませんしね」


 翅が三角で高速飛行すること、鱗粉の少なさ、芋虫の形態からスカシバの一種としてみなされているけれど、独立した種だと主張する学者もいる。


 「その蛾なら、確かによく見かけます。この神殿の花壇にもよく来ています」


 満月花やムームーの蜜を好むけれど、他の花の蜜を吸わないわけじゃない。

 スカシバの仲間の特徴は繁殖力の強さもある。

 葡萄や芋類について大繁殖しちゃうと多大な食害を齎すけれど、今回はその繁殖力が頼もしい。


 むしろ、この数の激減で、これを餌とする天敵の蜂や蜘蛛…こいつらもムームーの毒が効かない…が全滅し、来年以降数のバランスが崩れる方が心配だ。そうなると大繁殖して餌の不足で繁殖時期がずれ、数年間影響が出るかもしれない。


 スカシバの幼虫だけ食っているわけじゃないし、大丈夫だとは思うけれど。


 「この虫には、伝説があるんです。

 昔、カーラン皇国で子供を連れた女性が再婚しました。しかし、姑は連れ子が気に食わず、ある日、継母の林檎を食べさせて殺してしまう。それを知った女性は嘆き悲しみ、ついに喪服のまま自殺してしまいました。

 夫は母の罪を知り、妻子の死を悔やみ、二人の菩提を弔うために出家しました。その夫の夢に妻が現れてこう言ったそうです。

 私は天の神に願い、あの毒の実を食い尽くす虫に転じました。

 私が転じた証に、貴方の好きな黄色い花を咲かせます。この花は、あの毒を和らげます。どうかこのことを万人に知らしめてください、と告げたところで夫は目覚め、慌てて夜の闇の中、継母の林檎の元に走ります」


 もちろん、後付けの話だろう。だけど、なんでクロオビシロスカシバの幼虫が毒を無効化する体液を持つのかはわかっていない。

 それなら、この話が真実である可能性だってないわけじゃない。


 「夫が見たのは、満月のような色の花と、毒の林檎を齧る白い芋虫でした。

 芋虫の胴には黒い帯のような部分があり、それはカーラン皇国の喪服…白い無地の服に黒い帯と同じだったんです。

 夫はこれこそ亡き妻が転じた虫と涙を流し、師匠や同輩にこのことを告げて妻の後を追います。師匠たちが木を見に行くと、虫が二匹に増えていた…と」


 「まあ、それでは、あの白い蛾はそのご夫婦の子孫なのですか?」


 「虫の糞で麻痺が治るのは変わりませんが、そのもとになるのは月の霊力ではなく親の愛、という伝説ですね」


 「うんこに歴史ありだねぃ」

 しみじみと頷き、「でもぼく絶対飲まない」とヤクモは付け加えた。


 「って、わけで、どうして満月花が咲かなくなったかは分かった。でも、どうしてそんなことをしたんだろうな…」

 「お前と違って虫が嫌いだからじゃないか?」

 「嫌いなら近付かないだろ」

 「んーっと、ファンみたく虫大好きで、それを知っててやったとか?

 ほら、今、満月花って値上がりしてるんでしょ?自分たちは他に咲いてるところ知ってたら、大儲けだよねぃ」


 まあ、確かに。値上がりを企んでっていうのはあり得るか?でも、それなら満月花を根ごと抜いた方が手っ取り早い。


 「一時の感情で愚行を犯すものは何時でもおりますから…」

 「それだろうな。ファンは自分が納得しないと何もしないから理屈と理由を求めるが、世の中の馬鹿の大半はその場のノリで生きているんだぞ」


 うーん。そんなもんだろうか。

 まあ、自分が理屈っぽいというか、まず頭で考える方なのは自覚しているけど。


 「その、スカシバ、が増えるためにわたくし共で行うべきことはありますか?」


 「ないです。むしろ、何もせずにそっと様子を見てください。もし、その木のスカシバが全滅してても、マルダレス山にまだ木があるなら、必ずそこからやってきます。以前のように収穫できるようになるまでは数年かかるかもしれませんが」


 こくり、とマーサさんは頷いた。ホッとした様子だ。

 満月花の採集と出荷は、この神殿の貴重な現金収入源なのかもしれない。それなら、この袋を貰うのは気が引ける。


 だけど、返却するのも好意を無にしてしまうしなあ。


 「それは、ちゃんと受け取ってくださいませ」

 迷う内心を見透かされて、マーサさんから釘を刺された。


 「そしてもうひとつ、お渡ししたいものがございます」

 神官衣の裾を翻し、マーサさんは奥の祭壇に向けて足を運ぶ。


 女神の神像が安置された祭壇は、華美な装飾はない。

 台座に女神の聖句が彫られ、両脇に燭台や捧げものを置くためのスペースがある程度だ。


 その台座の前にマーサさんは跪いた。


 「夜明けの女神よ、偉大なるアスターよ…その腕で、混迷の闇を払い給え…」

 祈りを捧げると、そっとマーサさんは台座に彫られた聖句に指を滑らせた。

 すべてではなく、一文字ずつ飛び飛びだ。順番も前後しているように見える。これは、もしかして…


 一番最後の文字に触れた瞬間、台座の一番上、女神アスターと文字が彫られた部分が、前にせり出した。やっぱり隠し棚だ!


 「これは、女神アスターが祝福したもののひとつと、伝えられています」

 立ち上がり、せり出した隠し棚の中から、マーサさんは恭しく何かを取り出す。


 振り向いた彼女が手に持っているのは、長細い箱だった。

 この神殿全体の様子に似つかわしくない、豪華な装幀だ。

 青く塗られた箱を金細工が覆っている。この箱だけでも結構なお宝だろう。


 俺の前に立ち、丁寧にマーサさんは蓋を開けた。


 「矢…?」


 青い天鵞絨に包まれていたのは、一本の矢だった。


 箱の装飾とは裏腹に、何の変哲もない矢だ。

 長さは通常の矢よりも長い。シドウの大弓用の矢と同じくらいだろう。

 矢柄シャフトと矢羽根は白い。白鳥の羽根を使っているのかな。

 全体的に白い矢だ。ただ、鏃だけが銀色に鋭く輝いている。


 「聖女神殿が開かれた際、女神アスターが祝福した銀で鏃が作られたと伝えられています。聖女神殿が受け継いできた至宝の…最後に残ったひとつです」


 「ちょ、ちょっとまってください!」

 それ、ものすごいお宝じゃないか!


 「受け取れませんて!俺たち、誰もアスターの信徒でもないし!ここになきゃ駄目なものでしょう!」

 「何なら箱だけもらうのはどうだ?好意に応えて」

 「もっとダメだろ!」


 慌てて後退る俺に、マーサさんはにっこりと微笑んだ。白く濁る右目さえ、優しい笑みを湛えている。


 「でしたら、明日一日、お貸しいたします。返してくださるとお約束いただいても?」

 「いやいやいやいや、お借りもできませんよ!もし壊したら…」


 金貨一枚どころじゃない。もう土下座しても取り返しがつかないだろう。

間違って射っちゃって失くしました!なんて事態になったらと思うだけで冷や汗が出る。


 「いえ、これは、女神の意志なのです」

 けれど、マーサさんは引かない。


 「さきほど、わたくしが隠し棚を開けるのをご覧になりましたね?」


 「ええ。正解の文字をなぞることでせり出す仕組みですか?」

 「そうです。偶然には開きません。また、魔法で封印もされていますから、限られたものしか開けることはかないません。

 しかし、今朝、わたくしが祈りのために参りますと、僅かに開いていたのです」


 え、それはもしかして、この神殿にこの宝物を狙う奴がいるってこと?

 それで心配だから俺たちに預ける、とか?いや、それならアニスさんたちに預けた方が安全安心だよなあ。


 「わずかに開いた隙間に、朝日が差し込んでおりました。その時は不思議に思うばかりでしたが…村であなた様方とお会いし、お話をお伺いすることで、わたくしは女神の意志を悟ったのです。

 この矢を託せ、と」


 す、とマーサさんは両手で箱を捧げ持ち、俺に差し出す。


 「何が聖女神殿で行われているのか…わたくしにはわかりません。ですが、きっと良からぬことでしょう。女神さまがお怒りになるような…」


 彼女の目は俺をじっと見ているけれど、その向こうの…30年前の辛い記憶も見ているようだ。


 そのころ、彼女はおそらく十代前半だ。

 平穏な日常が突然地獄と化した瞬間。

 それをもたらしたのは、同じ女神アスターに仕える神官だったという理不尽。


 「お守りください」

 小さな、吐息に近い声。


 「この神殿にも、村にも若い娘はおります。子供もおります。どうか…」


 彼女が見ているのは、俺ではなく、彼女を救ったアスラン騎士なのかもしれない。


 だけど、彼はもうこの世にいない。生まれ変わってちょうど俺らくらいの年になっているかもしれないけれど、俺ではない。


 うん、だけど。


 ものすごい心臓がバクバク言っている。

 壊した時のことを考えると、冷や汗は止まらない。


 けど。


 「謹んで、お借りします」

 緊張で白くなった指先で、慎重に矢を掴む。


 女神の意志だから、受け取るんじゃない。


 これは、冒険者である俺達への依頼だ。

 ギルドを通しての依頼ではないけれど。


 守ってほしい、と依頼された。満月花と言う依頼料も前払いされた。


 なら、受けない理由は、ない。


 「必ず、この矢をお返しに、また、来ます。…だいじない」


 マーサさんは束の間目を見開き、そして、微笑んだ。

 「はい」


 振り向いて仲間たちを見る。


 ユーシンはちゃんと目を開いて俺を見ていた。

 ヤクモはどっちかって言うと矢に注目している。

 そしてクロムは、凭れていた扉から身を起こした。


 「良いんだな?」

 「ああ」

 クロウハの遺語は、必ず実行すること。それは決して覆せない実行の宣言。


 生還するのは元々そのつもりだったわけだし、それにただ、「よからぬことから村や神殿を守る」っていう目標が追加されただけだ。


 『大クロウハよ、天よ、地よ、清聴あれ。クロウハの遺語の宣言を。

 ファン・ナランハルの名にかけて成就を誓わん』

 クロムの声が朗々と、この一言はただの気休めではないと宣言する。


 「久しぶりに守護者スレンらしい仕事をしたな。まったく。

 せっかくなったんだから、もう少しそれらしい仕事をさせろ。そして俸禄を上げろ」

 「実家帰ったら、来年の俸禄について話し合うか」


 ふふンと笑うクロムは上機嫌だ。

 まあ、余計な目標を追加して、と怒るよりいいよな。


 「ねー、もっと良く見せて~!で、なんてさっきクロムが言ったのか教えてね」

 「壊したらわかってるだろうな?」

 「見るだけ!見るだけだから!」

 「俺もみたい!」


 一気にわちゃわちゃしだしたなあ。

 クロムに矢を渡し、マーサさんに向き直る。


 「お気をつけて。この矢を女神が託すということは、必要になる危機が起きるということやもしれません。その時は、ためらわずお使いください」 

 「はい。でもまあ、その時は、ケチって他の矢を放とうとしたら、このアスターの矢を掴んでいた、なんてことになっていそうですけどね。女神の奇跡で」

 「ふふ…そうですね。けれど、女神さまの奇跡にすがらず、ご自身の意志で用いるとき、おそらくその矢は、真の力を発揮することでしょう」


 こいつヘタレやがった、しゃーねーなっていう女神様のお情けにすがると、幻滅される分威力が落ちるのか。


 むしろ、値段とか価値を越えて、一つの武器として選ぶ意志こそ、この矢に掛けられた封印を解く鍵なのかもしれない。


 弱いとはいえ、俺にも一応魔力はあるし、心底しょぼいけれど魔導も使える。


 今、あの矢には強い魔力は感じられない。ないんじゃなくて、身を潜めているというか、眠っているような感触だった。


 女神アスターの祝福を受けているなら、夜の眷属に対して絶大な効果があるはずだ。

 万が一本当に亡霊が出てきても、追い払うことができるだろう。

 よかったな。クロム。


 「貴方様には、感謝してもしきれません。わたくしの不安を二つも取り除いてくれましたから…本当に、ご無事でお戻りくださいね」


 「はい、もちろん」

 「満月花については、皆にも伝えておきます。良かった…呪いではなかったのですね」

 「呪い?」

 呪いって、神殿の亡霊だろうか。ずいぶんピンポイントなところ付いてくる呪いだなあ。


 「木が燻されてからしばらくたって、参道で巡礼の方が息絶えているのを見つけたのです。

 村長さんにもお話して、村の方の手をお借りしてこの神殿の巡礼墓地に埋葬したのですが、その墓地が継母の林檎の側にあるのです」


 巡礼として聖地を回る人の中には、最低限の金銭と装備だけっていう人もいる。

 当然、行き倒れてそのまま…な人もいるわけだ。


 この村は昔から巡礼の拠点だったみたいだし、当然そうした身元不明者の墓地もあるんだろう。

 ムームーの木の側ってことは、道からかなり外れたところだな。


 「その人の呪いですか?」


 「ええ。その、腕に大きな膨らみがいくつもできていて…片目も少し飛び出していましたし。危険な病と判断して、すぐに触らないように布で包み、深く掘った穴に埋葬したのです。

 ですので、手厚く葬った…とは申せません。村や神殿を守るために最適なことをしたという自負はございますが、葬られた方にとっては恨めしいやもしれませんから」


 「ええ。判断は正しいですよ。火葬にするのが最善だとは思いますが、施設がなければ難しいですしね」

 神官の中には、『快癒』の御業を授かった人もいるかもしれない。

 だけど、その人が感染して倒れたら終わりだ。

 伝染力の強い疫病なら村が全滅する可能性もある。

 症状を聞いた程度じゃ何の病気かは分からないけれど、疱瘡とかなら危険すぎる。


 「巡礼をするような敬虔な信徒が、死体の処遇でガタガタ言ったりしないでしょう。きっとその人も、誰にも移らなかったことにホッとしていますよ」

 「それならよいのですが…」


 まあ、クロオビシロスカシバと満月花の関係を知らなきゃ、原因として考えられるのは呪いだ祟りだってなるよなあ。

 この関係が発見されたのは確か十年くらい前の話だし。

 俺もこのことを発見した学者と調査団で一緒にならなければ、知らなかったと思う。

 スン教授、ありがとうございます。やはり知識は身を助ける。無駄な知識などないという教えは本当ですね。


 「では、そろそろお暇します。皆さんもお気をつけて。念のため、戸締りは厳重にしてください」

 「はい。鎧戸も閉めるようにしますね」

 「ええ、そうしてください。おーい、お前ら、帰るぞ」

 三人でしげしげと矢を見ている仲間たちに声をかける。

 天鵞絨で矢を包み、クロムがその包みを差し出してきた。


 「お前が持つでいいよな」

 「ああ。戻ったら矢筒に収納する」


 荷物の奥深くに入れた方が安全だけれど、いざと言う時に取れないんじゃ困る。

 …どうか、壊れたりしませんように。


 「本当に、お気をつけて…!女神アスターよ、どうぞ彼らの行く先を、闇祓う夜明けの光にてお照らし下さい…女神の加護が、あらんことを」

 「ありがとうございます。貴女にも、夜を守る月虎サルンバルの導きがあらんことを」


 彼女が今晩、安心して安らかな眠りにつけるといいな。


 そう思いつつ一礼して、クロムが開けてくれていた扉から外に出る。


 さすがにすっかり日は暮れて、夜の帳が降りていた。

 多少雲が出ているが、月はやっぱり明るい。

 村の灯りも見えるし、ランタンや松明はいらないな。元々持ってきてもいないけど。


 この、温かさすら感じる灯を、きっと彼女は守りたいんだろう。


 灯のひとつごとに、誰かの暮らしがある。

 幸せか不幸せかはわからないけれど、それはかけがえのないもので、明日も明後日も、続いていけなくてはならない「当たり前」だ。


 「行こう」

 まずはその灯のひとつ。俺達の今日の寝床に、帰ろう。


***


 大体どこの村でも、村長さんの家と言うのは宿屋も兼ねている。

 この村でもそうで、明日、朝が早いからと言う理由で、一階の勝手口に近い二部屋を俺たちは借りていた。

 朝食は台所に、今日テーブルに並んでいた、腸詰を挟んだパンを置いておいてくれるらしい。ご厚意に感謝だな。


 昼食が豪華すぎたので、夕食は村長さんち自家製のハムとチーズをパンで挟んだものとトマトのスープ。台所を借りて食い終わった。

 残り物で~と恐縮されたけれど、十分に量もあったし美味かった。


 部屋割りは俺とクロム、ユーシンとヤクモ。

 ただ、今は作戦会議と言うことで、俺達の部屋に集まっている。


 「密売かあ~。なんか、冒険者っぽくない?ぼくら!悪い奴らの悪事を暴いて村の平和を守ります!って!」

 「冒険者っぽいかどうかはわからないけど、まあ、トカゲ退治よりかは?」


 張り切るヤクモに苦笑しつつ、クロムを伺う。


 ベッドに腰かけて、剣を抱いているけれど、あきらかに朦朧としている。

 目は開いているけれど、半分以上寝ているな。


 「クロム」

 声をかけると、ぴくり、と動いた。視線があがり、こっちを見る。


 「眠いなら寝てていいぞ」

 「眠くない。だるいだけだ」


 「んー、そうか?じゃあ、お茶飲むか?すっきりするぞ」

 差し出したお茶は、ぬるい。

 作ってからだいぶんたっているしな。受け取った薄い緑色の茶を、グイ、とクロムは一息に呷った。


 それから、しばらく。


 完全に、クロムの頭が下を向く。


 「さっきのお茶って…」

 「すっきりと眠れる薬草を入れたお茶だ」


 起こさないように慎重に、クロムをベッドに転がす。

 剣は離させるといきなり目をかっぴらきそうなので、そのまま握らせておこう。


 「珍しーねぃ。クロムがこんなにコテンって寝るって」

 「昨日、多分まともに寝てないからな」


 昼間襲撃があったからだろう。

 登り始めた朝日に目を開けると、クロムが入り口のドアにもたれて座って寝ていた。


 ベッドに叩き込みたいところだったけれど、残念ながらもう朝だ。

 それなら今日はさっさと寝かそうと、実はその時から計画を立てていた。


 いくらクロムとは言え、全力疾走を繰り返す遠乗りに付き合わせて、せめてこれくらいと足をお湯につけて温めてやれば、そりゃ眠気は襲ってくる。満腹ならなおさらだ。


 最後の仕上げに安眠のハーブ入りのお茶。これで朝までぐっすりだろう。


 「こいつは、自分で思っているよりも間抜けだからな!」


 よく見れば隈が浮いているクロムの顔をじっと見て、ユーシンがふふ、と笑った。

 近くに女性がいれば黄色い声が上がりそうな顔だったが、いるのは俺達だけなので、何が楽しいのかと首を傾げるばかりだ。


 「クロム。今宵は死ぬ寸前まで深く寝ろ。案ずるな。又従兄弟の誼で俺が今夜はファンを守る。

 まあ、俺は寝るがな!何かあれば起きればよいだけだ!」


 わはは、といつものように快活に笑う声に、クロムが顔を顰める。

 けれど、起きる様子はない。


 「と、言うわけだ。ヤクモ!今晩はお前がこの部屋で寝ろ!」


 「それはいいけど…え?又従兄弟?」

 ヤクモの視線がユーシンとクロムの顔を往復する。あれ?知らなかったっけ?


 「うむ。俺の母上とクロムの父上が従兄妹だからな。そもそも、キリクとクトラは婚姻を繰り返しているから、多分もっといろんな親戚でもある!」


 「ええええ!初めて聞いたよ!全然似てないね!」


 「クロムはお母さんそっくりだからなあ」

 「むー、なんかズルいなあ。ファンも親戚だったりしないよね?」

 「多分血の繋がりはないなあ。婚姻関係はあるけど」

 って言うかうか、ズルいか?何がズルいんだ?


 「あーでもさあ、明日クロムが起きたら、真っ先に文句言われるのぼくじゃない?」

 「それは、大いにあるな」

 下手をしたら、朝早くからいきなりクロムがブチ切れる。


 「ユーシン、やっぱり俺はこのまま寝るよ。第一、襲撃はないだろ」


 「わかった。何かあれば扉を蹴破る」

 「…鍵かけないでおくから、やめといてくれ。お前らが部屋から出たら、簡単な鳴子を仕掛けておくよ」

 朝すっかり忘れて鳴らさないようにしないとな。他の人まで起こしてしまう。


 「又従兄弟、かあ~。んー、でも、顔は似てないけど、クロムとユーシンってやっぱり似てるかもー」


 「む?そうか?俺はクロムほど下種ではないつもりなのだが」

 まあ、こういう人物評が出るのも、親戚ならでは、だよな。


 ちなみに、ユーシンの両親をはじめとした親戚一同はクロムのことを知らない。

 内緒にしておいてね、という先生…クロムの父上からのお願いを守っている。


 「強いことにこだわる事とかさー」

 「俺の方がもっと高みを目指している」


 ぷう、と頬を膨らませ、ユーシンは抗議を続けた。

 「クロムは、守護者スレンとしての職務を果たすだけ強くなりたいだけだ。俺は、天下一強くなりたいと思っている!」


 子供のころは、無邪気に語っていて、今はもっと切実に手を伸ばしている夢。

 ユーシンにとって、強くなるとは、そう言う事だ。


 「なんでそんなに?ユーシン、今でも十分強いじゃん」


 「駄目だ。俺はもっともっと強くなる。強くならなくてはならない。ユーナンの為に」


 「ゆーなん?」

 「俺の片割れだ」

 「ユーシンの双子の弟だよ」

 「ふたご!これもういっこいるの!?」


 扱いがひどいけれど、確かにユーシンがもう一人いたら、なかなか大変そうだ。


 「顔はそっくりだけど、ユーナンは大人しくて本を読んだりするのが好きなんだ」

 「そして、体が弱い。走るとすぐに息ができなくなる。生まれつき、肺が片方悪いらしい」


 双子で顔はそっくりだけれど、ユーシンとユーナンは見た目ですぐにわかる。

 ユーナンは体が小さく、細い。細いというより華奢で、年に何度も寝込む。

 表情も、ユーシンのようにきっぱりとしていない。ただ、とても優しい良い子だ。


 「だが、本当はユーナンがユーシンなのだ」

 「…?どゆこと?」


 「キリクは最初に生まれた男子が王位を継承する。俺達は双子だ。幼いころは、本当にそっくりだった。


 取り替えても、わからないくらいに」


 「え…?」


 「長男はユーシン、次男はユーナンと名付けられた。

 キリクとクトラは双子を尊ぶ。まったく同じ俺たちは、とても喜ばれた、らしい。だが、大きくなり、立って歩けるようになると、俺達は差が出た」


 ユーシンの目は、まっすぐ前を見ている。


 俺でもヤクモでもなく、ただ、まっすぐに前を。


 その瞳は強い生気を湛えながらも、どこか虚ろだ。


 「王となるのに、弱い子は困る。

 そう、誰かが言い出し、俺達は取り替えられた。

 俺の最初の記憶は、俺をユーナンと呼ぶ母上の声だ。その時まで、俺はユーナンだったのだ」


 困ったようにヤクモが俺を見る。


 けれど、俺も真相は知らない。

 俺が初めてこいつら双子と会ったとき、ユーシンはユーシンで、その背中にしがみ付いていたのがユーナンだった。


 「本来なら、キリクの王位はユーナンのものだ。俺がそれを、丈夫だというだけで名と共に奪ったのだ」


 「そんなの、ユーシンのせいじゃないじゃん!」


 「ユーナンも、そう言う。だが、奪ったことに変わりはない。

 だから、俺は強くなる。誰よりも強くなって、ユーナンを王にするという俺の意志に誰も逆らえないほど強くなって、ユーナンに王位を返す。

 名前は既に馴染んでしまったし、成人の儀でウルカとヘルカに伝えてしまったから、戻せないがな」


 ユーナンは、もちろんユーシンのこの決意に大反対をしていて、俺も説得を頼まれていたりする。


 だけど、どうしても自分で諦めなきゃならない夢って、あるんだよ。


 客観的に言えば、ユーシンは王としても適性は低いと言える。

 恐怖を感じないという欠点が、ユーシンの王の器を大きく傷付けている。


 王は恐れに敏感でなければいけない。民の恐れ、臣下の恐れ、己の恐れ。

 特に、己の行動に対する恐れを、常に抱かなくてはならないと、俺は思う。


 それを補えるのが怖がりなユーナンなのだし、ユーシンが王位を継いでユーナンが副王として補佐するのが一番理想的だと思うんだけどね。


 ただ、誰にそう言われても、納得しないだろう。


 強くなるだけじゃ、それだけじゃダメなんだと、ユーシンが納得しない限り、果てはない。


 その果てに辿り着くための手段が強くなる、と言うことなら、俺はコイツの兄貴分として付き合うだけだ。

 ホント、行き倒れてるの拾えてよかったよ。

 やっぱり、ユーシンにはウルカの加護があるんだろうなあ。

 母性溢れる女神からすれば、間違いなく放っておけない子供だ。


 「どこまで行けば俺が求める強さになれるのかはわからん。だが…」


 いつものように、顔全体でユーシンは笑った。


 「今、俺はとても楽しい。

 お前らとこうして過ごし、槍を振るい、知らないものを見て、食ったことのない美味いものを食い、それが明日も続くのだと思うと、とても楽しい。

 ユーナンも連れてきてやれば良かった」


 強くなると、我武者羅に槍を振って戦いに飛び込み、血塗れで還ってきていたあの頃のユーシンより、きっと今のユーシンの方が強い。


 それは、強さだけではない大事なものに、ユーシンが気付き始めているからだと思う。


 一人で強くて、誰もが言う事を聞くほど強くても、それはきっと、つまらないよ。ユーシン。


 「春になったら、ユーナンを誘ってトカゲ退治に行くか。離れて見ててもらえばいい」

 「そうだな!トカゲの肝を食わせてやろう!あれは美味い!」


 高地のキリク王国ではすぐに上がる息も、平野で気候の穏やかなアステリアならそこまでひどくはならないだろう。

 トカゲ狩りが無茶なら、イシリスの町を観光するだけでもいいさ。


 きっと喜ぶだろう。

 その前にユーナンに、ユーシンと俺がしこたま怒られそうだけど。


 「ぼくもきっと、仲良くなれるね。ユーシンの愚痴をいっぱい聞いてもらおう!」


 「む?俺はお前に愚痴を言われるようなことをしているか?クロムの間違いではないのか?」

 「ユーシンがなんかしたら大体フォローしてるのぼくでしょぉ!迷子になる度に誰が迎えに行ってるのさ!」

 「迷子になったことはない!目的地が解らなくなっただけだ!」

 「それを迷子って言うの!」


 盛り上がる二人の肩を叩き、視線でクロムを示す。


 すっかり寝入って、規則的に胸が上下している。

 ヤクモが慌てて自分とユーシンの口を抑えた。


 「大丈夫、良く寝ているから、あまり騒がなけりゃ起きないよ」


 クロムもなあ。

 万に一つの可能性に備えるより、明日に備えてほしいんだけど。

 やっぱり、コイツの目の届かないところで、ちょっと死にかけたのがまずかったんだろうか。


 「さって、俺達も寝よう」

 うん、と腕と背中を伸ばす。

 この中で一番疲労が取れるのが遅いのも俺だ。山登りの途中でばてたら洒落にならない。


 「うん、おやすみぃ」

 「何かあれば遠慮なく壁を蹴れ。突き破る」


 「…破るなっつうの…」


 二人が部屋を出たのを確認して、ドアノブに獣避けにと、音が鳴らないようにもってきた鈴を飾り紐で括りつけた。

 ドアが開けば、鈴が鳴って教えてくれるだろう。


 ベッドにもぐりこみ、ランタンの火を消す。

 部屋の中は、ふんわりと暗闇に包まれた。


 この夜の中で、いろんな人が眠っている。

 その誰もが、安らかな時を過ごしているといい。


 瞼の裏によぎるのは、一年会っていない家族の顔。きっと、俺のことを心配しているだろう。

 俺がみんなの安らぎを願っているように。


 だいじない。必ず帰るよ。


 夢の境目で呟いた言葉は、誓いとして有効なんだろうか。

 その答えが出ないまま、意識は曖昧になり、眠りに溶けて消えた。

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