命降る夜【7】

 響いた不愉快な声に耳を貸すことなく、セラは真っ先に兄の姿を探す。崖の端――空に一番近い位置に兄はいた。まさに祈りに入ろうとしたその時だったのだろう。地に膝を突いたまま、茫然とこちらを見つめている。


「よかった。間にあった……」


「小娘、お前は何をしにここに来た」


 セラの口からもれた安堵のため息は、怒気を隠そうともしない男の声に打ち消された。


 その声にセラは覚えがあった。兄を迎えにきたあの男だ。


 声の主を探すように周りに意識を向ければ、いつのまにか四人の兵がセラを取り囲んでいる。その中から一歩前に出てきたのは、セラが予想した通り、兄を迎えに来た男だった。こうして他の兵達と並んで見ると、彼のマントの留め具は銀細工で、この中では高い地位にいることがわかる。その証拠に男がすっと片手を上げると、周囲の兵は一歩後ろに引いた。


 セラの眉間の皺は一層深くなった。兄に星を詠ませないためには、この男を納得させなければならない。


 セラは怒りにも似た感情の高ぶりを懸命に抑えながら、言葉を選び、ゆっくりと口を開く。


「兄に星を詠ませる必要はございません」


「ほう、ならお前が代わりに今から星を詠むとでも?」


 男の様子から、セラの言葉を信じていないのは明白であった。だが、セラはここで引くわけにはいかない。


「いえ、今からではございません。すでに私のもとに、星のお告げがございました」


 セラは恭しく膝を折り、低い位置からじっと男の目を見すえた。


 そこにあるのはただ憤りに任せ喚き散らすだけの少女の姿ではない。その様子に男は思うところがあったのか、セラの言葉に興味を示したようだった。


「では星はお前に何と言ったのだ」


「星の言葉を一字一句違うことなくお伝えします――」


 セラは言葉を区切り、大きく深呼吸をする。流星の言葉がセラの脳裏を過った。それでもセラには決意があった。


「かの星は天の頂に座さず、地に落ちた、と」


 セラがそれを言葉にした瞬間、男と後ろに控えた村長の顔色がさっと変わる。


「まさか……あの方が……」


 村長の呟きに触発されるように、兵達の間に動揺が広がった。男はそれを一喝して、セラを睨んだ。


「小娘、その言葉の意味を理解して言っているのか。嘘であったとしても、到底見過ごせるものではないぞ」


「これは紛うことなき星の言葉。それとも、この事実を受け入れず、私を殺しますか?」


 セラは恐怖を隠すように、気丈に振る舞った。「セラ!」と自分の名を呼ぶ兄は、兵の一人にしっかりと抑えつけられている。村長も男の真意がわかったのだろう、兵を諫めるように口を開く。


「儀式の場を血で汚すことはしてくれるな」


 男はそれを一瞥しただけで、頷きはしない。そして抑揚のない声で、「やれ」と兵達に指示を出した。


 男の言葉に控えていた兵達が、戸惑い気味に腰紐にさげた剣を抜く。キンッと鞘と剣がぶつかり合う音が響き、彼らの持つ剣が一斉にセラへ向いた。だが身を屈めていたセラは、鞘からそれが抜かれた瞬間、彼らの足元へその身を投げた。足の合間の僅かなスペースから包囲の外へと転がり出る。


 土煙が上がり、ぎゅっと目を瞑ったために視界は暗い。口の中で土の味に混じって、血の味が広がった。続いて剣の巻き起こす風がセラを追うはずだった。けれどそれは、一向にセラを襲ってこない。


それどころか、セラの耳をかすめたのは無骨な金属音ではなく、軽やかに地を踏む足音だった。


「何者だ!」


 件の男の大声が耳に届き、セラはゆっくりと目を開けた。セラを守るようにして、兵士との間に淡い光を纏った流星が立っていた。正規の道をやって来た彼は、ちょうどセラと兵の間に躍り出たのだろう。


「大丈夫?」


 流星はくるりと男達に背を向け、セラを助け起こすように手を引く。気遣わしげな表情にセラは泣きたくなった。けれど流星はいたく無防備だ。そうセラが思うくらいだから、兵も黙っていない。


 だがおかしなことに、その合間に攻撃がしかけられることはなかった。


 セラは立ちあがり、兵達の様子を確認した。皆一様に血の気が引いている。先程までの威厳はどこへやら、兵の統率をとっていた男は青褪めた唇から震える声を絞り出した。


「なぜ、ここに……」


 流星はその問いに応えようとはしなかった。彼はただ静かにセラの手をとって、耳元に顔を寄せた。


「行こう」


 セラにだけ聞こえる声で、流星がささやく。セラの心臓はどくんっと跳ねた。だが退路は兵達が押さえている。不安げに流星の顔を見れば、彼は鮮やかに笑った。


「俺を信じて」


 そう言って彼はセラを抱き上げ駆けだした。彼が向かうのは開けた崖の縁だ。


「流星! そっちは崖よ!」


「大丈夫さ」


 セラが悲鳴に似た声で名を呼んでも流星は止まらない。我に返った兵達が、さらに顔を青くしてその後を追った。けれど伸ばされた彼らの腕は流星には届かない。困惑から抜けきっていない彼らでは、流星を止めることはできないだろう。


 そう結論づけた時、セラが感じたのは一瞬の浮遊感だった。ついで重力によって身体の重さが増したような気がした。耳元では、風を裂く音がする。ふと上を向くと、兵を振りきり崖から身を乗り出した兄の顔が見えた。その表情は驚愕に包まれている。


 兄を一人残してしまうことに悲しみを覚えたが、不思議と不安はない。彼女を支えるぬくもりがすぐ側にある。


「流星……」


 セラが彼の名を呼ぶと同時に、セラ達を包むようにまばゆい光が放たれた。その光は、セラを慰めるかのように暖かだ。流星の体温と鼓動の音を感じることができる。


 セラはその鼓動を聞きながら、突き付けられた現実に目の奥が熱くなった。


「流星」


「ああ、ここにいるよ」


「私、もう村へは戻れないのね」


「……うん」


 ガサガサと木の枝に身体が擦れる音がする。あともう少しで地面だ。セラは痛みを覚悟したが、同時にふわりと身体が軽くなり、とんっと軽やかに地に足がつく。


 セラの心中を知ってか知らずか、流星は「でもね」とセラを離さないままそっとその頭を撫でた。


「君はその足でどこへでも行ける」


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