百合香と母の元カノの話

それぞれの人生

 仕事を終えて帰宅する。彼女が働き始めて二年以上が経ち、ただいまという私の声に返事がないことにももうすっかり慣れてしまった。

 手洗いうがいをして、まず最初に引き出しを開ける。そこに入っているのは日記帳。彼女が、なかなか話せないから代わりにと提案してくれた交換日記。これを読むのが帰宅した後の毎日の楽しみになっている。ページをめくっていき、最新のページに辿り着く。彼女の字で他愛もない日常が綴られており、最後にこう締め括られていた。『誕生日おめでとう。ご飯食べたら店に来てくれないかな。プレゼントを用意して待ってるよ』と。今日は六月二十五日。私の誕生日だ。今の今まですっかり忘れていた。

 日記の返事を書いてから、軽く夕食を食べて、化粧を直して、戸締りをして家を出る。店の前まで来ると、賑やかな声が聞こえてきた。扉を開けると、常連客達が「よっ、本日の主役」と私を茶化す。そして「待ってたよ」と彼女が微笑み、空いている席に座るようにうながす。座ると、冷蔵庫からショートケーキを出して、グラスにスパークリングワインを注いでくれた。


「良いなぁー。私の分は?」


「ワインだけならありますよ」


「えーケーキもつけてよー」


「すみません。あれは誕生日の特別メニューなので」


 常連客と海菜のそんなやり取りに少し気まずさを覚えながら、ケーキにフォークを落とし、切れたスポンジをフォークに乗せて口に運ぶ。生クリームがたっぷりと塗られていた割に口当たりは軽く、甘いスポンジといちごの甘酸っぱさがよく合う。それにさらに合わせるのはスパークリングワイン。見慣れない組み合わせだが、プロのバーテンダーが出すものだ。ハズレはないだろうと信じてグラスに口をつける。「美味しい」と思わず溢すと「合うでしょ」と海菜が得意気に笑う。それに対して「ワイン選んだの僕だから」と、海さんが呆れたように補足した。


「ありがとうございます」


「どういたしまして。お代は海菜から貰うから好きなだけ飲んでいって」


「とはいえ、飲みすぎないようにね」


 そう言って彼女は他の客の注文を取りに行く。ケーキとワインを交互にちびちびと口に運びながら、仕事をする彼女に視線を向ける。誕生日なのにという気持ちが一切ないわけではないが、ここは家ではなく店だ。今の私はあくまでも客の一人。流石に店員を独占するわけにはいかない。それに、働いている彼女を見ているのは嫌いではない。むしろ好きだ。私以外の女性からちやほやされているところを見せられても、なんとかお釣りがくるくらい。


「……君、ほんとあの子のこと好きだよね」


 そう話しかけてきたのは常連客の姉川あねかわ萌音もねさん。彼女は母の元カノらしい。


「どうやって小百合を説得したの?」


「ほとんど海菜のおかげです。あの子じゃなかったら、私は今頃、母の選んだ人と結婚してたと思います」


「小百合の選んだ男ねぇ……優人さんみたいな人ならまぁ、そこまで不幸にはならないかもね」


 そう言う彼女の声に曇りはない。父のことは相当信頼しているようだ。


「そうですね。そこそこ良い人生を送れるかもしれません。でも……そこにあの子との日々に勝る幸せなんてあるわけない。それだけは確信してます」


「……すげぇな海菜ちゃんは。私が今、昔の小百合に会ったってそこまで言わせられる自信ないや。結局、あのまま付き合ってても別の人に掻っ攫われてたんだろうなぁ……」


「……でも小百合さんが私達に理解を示してくれたのは、萌音さんとの交際があったからだと思います」


 そう口を挟んだのは海菜だ。それはなんだか、萌音さんの人生を踏み台にしているような言い方になってしまわないだろうかと一瞬ハラハラしたが、萌音さんはふっと笑って「そうかもね」と頷いた。しかし、笑顔のまま、少し苛立ちのこもった声でこう続ける。「でも、荒れてた頃の私が海菜ちゃんの今の発言聞いてたらカクテルぶちまけてただろうね」と。それに対して海菜はヘラヘラ笑いながら「すみません」と謝った。逆に、今の彼女になら言っても許されると確信していたのだろう。実際、全く謝る気のない態度に対しても萌音さんは怒ることはなく「全く君は……」と苦笑するだけだった。彼女のその異様な勘の鋭さに何度も救われてきたことを思い出す。言葉にしなくとも、彼女は全て察してくれる。だけど、それに甘えずにこれだけは言葉にして伝え続けたい。


「……好きよ。海菜」


「ふふ。何急に。私も好きだよ」


「うん。知ってる。それでも言いたいし、あなたの声で聞きたいの」


「なにそれ。君が望むならいくらでも言うよ。愛してるよ百合香」


 彼女とそんなやりとりをした後、他の客からひゅーひゅーと茶化されて、ここが家ではないことを思い出して恥ずかしくなる。少し酔っているようだ。グラスに水を注いでもらって少しずつ流し込む。


「……可愛いなぁ」


 萌音さんの方からぼそっとそんな声が聞こえて、思わず彼女の方を見る。目が合うと彼女はハッとして、隣で冷たい視線を向ける自身の恋人と、真顔のまま固まっている海菜に平謝りする。


「萌音さん、まだ元カノに未練が?」


「あるわけないでしょうが。大体、向こうは既婚者だぞ。それも別に世間体のための愛のない結婚じゃないことも分かってるし。今のあの子に対して好意はあるけど……それは恋愛感情とは違うものだよ。今の私は、あの子が結果的に幸せな人生を歩んでいることを素直に祝福出来る。そんな余裕を持てるようになったのは、君のおかげだよ。美月みづき


 と、恋人に対して優しい声で語る萌音さんだが、昔は母との一件で恋愛に対して臆病になっていて、誰かと付き合うことはせずに色んな女性の元をふらふらと渡り歩いていたらしい。その話を娘の私にできるまでには吹っ切れているのも、恋人との出会いがあったからなのだと、彼女は聞いてもいないのに語り出した。

 かつて母が愛し、傷つけた女性から惚気話を聞かされる日が来るとは思わなかったなと苦笑しながら水の入ったグラスを傾ける。あのまま母が萌音さんと付き合い続けていたら、私の魂はどこに行っていたのだろう。そんなことを思いながら、海菜を見る。私の視線に気付くと「なぁに」と優しい顔をして寄ってきた。


「母が萌音さんと結ばれていたら、私の魂はどこに行っていたのかなって」


 私がそう言うと、海菜は「それ、私も昔考えたことある」と自身の母をちらっと見て、視線を私に戻して笑って言った。「でも今は想像しようと思っても出来ないな。君以外の誰かと生きる私じゃない私の人生なんて」と。それに同意すると、萌音さんが呟くように言う。「私、例え差別のない時代に生まれていても、優人さんには勝てなかったと思う」と。それに対して彼女の恋人は「良いんじゃないですか負けても。あなたは私と居る方が幸せですよ」と頬杖をついて萌音さんの顎をごろごろと撫でながら「ね? そうでしょう?」と、圧をかけるように言う。「はい……」と、彼女から目を逸らしながらしおらしく返事をする萌音さん。萌音さんの恋人は大人しそうな人に見えたが、恋愛の主導権を握っているのは向こうなのだなと察した。母は萌音さんのことを『カッコいい』『王子様みたいな人』と言っていたが、本当は案外可愛い人なのかもしれない。私の恋人王子様みたいに。

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海菜と百合香の話 三郎 @sabu_saburou

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