幸せな日々はきっとこれからも(前編)
一月の第二月曜日。今日は成人式。彼女は自前のスーツで出席するらしいが、私は振袖の着付けがあるから早朝から準備を始めなければいけない。早朝四時前に彼女を起こさないようにベッドを抜け出し、朝食と着替えを済ませて玄関で靴を履き替えていると、足音が聞こえてきた。足音は私の背後で止まり「おはよう」と彼女の声。
「おはよう。まだ寝ててもいいのに」
「しばらく会えなくなるから。充電」
そう言いながら彼女を後ろから抱きついてきた。
「重いから離れて」
「……首に痕つけて「良いわけないでしょ。やめて」
と、肘で突き放して家を出ようとしたものの、背後から感じる寂しそうなオーラにたえきれず、戻って彼女を抱きしめる。
「成人式参加するのやめない? どうせ君、小中と友達いないでしょ」
「失礼ね。……まぁ、否定は出来ないけど。でも、人生に一度しかないもの。せっかくだから参加したい。それに……お母さんもお父さんも楽しみにしてるし。振袖予約しちゃったし。今更ドタキャンなんて出来ないわ」
正直、小中の同級生に会いたいという気持ちは無い。だけど、参加しなかったらしなかったでそれはそれで後悔する気がする。振袖を着る機会なんてこの日くらいしかないし。
「はー……お酒飲んで色気振りまかないでね」
「終わったらはるちゃん達と会う約束してるから、小中の同級生とは飲まないわ」
「はるちゃんと、なっちゃんと、あと森くんと福田くん辺り?」
「ええ。いつもの五人。あなたも来る?」
「とりあえず小中の同窓会行くと思う。夕方だよね?」
「ええ」
「なら、二次会は参加せずにそっち合流するよ」
「……そう」
「なに。どうしたの」
「浮気しちゃ駄目よ」
「するわけないじゃない。恋人は君一人だよ」
「当たり前でしょう。私以外にもいるとか言ったら怒るわよ」
「めちゃくちゃにしていいよ」
「しない」
「君はされる方が好きだも——」
いつものようにしつこく揶揄ってくる彼女の唇を塞ぎ、黙らせる。黙らせるだけのつもりだったが、一度したらもっとしたくなってしまって繰り返し唇を重ねていると、彼女の方から顔を近づけてきた。まずい。スイッチが入ってしまう。ハッとして顔を背け、腕を伸ばして彼女の身体を押し返し「行ってきまーす」となんでもないように装って逃げるように家を出た。ドキドキとはしゃぐ心臓を扉の前で落ち着かせてから、母に連絡を入れる。近くのパーキングに車を停めていると連絡が来た。向かうと、車の運転席から手を振る母が見えた。助手席に乗り込む。
「楽しみだわ。ゆりちゃんの振袖姿」
「前撮りで見たでしょ」
「見たけど、写真だけだもの。後で写真撮らせてね。ところで、スーツじゃなくて良かったの?」
「スーツはいつでも着れるもの」
高校を卒業したあと、私はそのまま就職した。入社式ではパンツスーツを着て行った。そのことに対して、昔の母ならきっと、浮くからスカートにしなさいと言っていただろう。今だって「スーツじゃなくて良かったの?」なんて、絶対に聞いてこなかった。母は変わった。私はこのままずっと母の言いなりになって生きていくのだと、海菜に出会うまでずっとそう思っていた。あのままならきっと、振袖も複雑な気持ちで着ていただろう。
「お母さん。着付け終わった」
「お疲れ様。この後はどうするの? 帰る?」
「実家で待機する。……家に戻ったら時間無くなりそうだもの」
「海菜ちゃんには見せなくて良いの?」
「どうせ写真送るでしょう。お父さんが」
着付けを終えて、母に実家まで送ってもらう。玄関を開けると「オカエリ」とリビングの方からカタコトで甲高い声が聞こえてくる。リビングの方へ行くと、鳥籠の中でうきうきと上下に揺れていたヨウムのヨウくんが私を見て固まり「ダレデスカ」とシュッと細くなる。
「私よ私。百合香よ。久しぶりねヨウくん。元気にしてた?」
声を聞いて私だと気づいたのか、ヨウくんは元に戻り、またご機嫌に上下に揺れながら横歩きで近づいてきて「ヨシヨシ」と言いながら籠の隙間に頭を押し付けた。振袖を汚さないようにたくしあげて、かごの隙間からヨウくんの頭を掻く。パシャリというシャッター音に思わず手を止め音の方を向くと、父が私にスマホを向けていた。
「ちょっとお父さん」
「ごめんごめん」
「もー……」
両親はずっと別居していた。また一緒に暮らし始めたのは私と兄が家を出た後だ。ヨウくんは元々父の家に居た。人見知りだが、私が初めて会ったときはすでに母には慣れていた。別居した後も定期的に父の家に行っていた証拠だ。
「百合香、朝ご飯食べた?」
「一応。けど、行く前に軽く食べてから行く。仮眠取るから七時くらいには起こして」
クッションを取りに行こうと振り返ると、すでに母がソファにクッションを敷き詰めていた。それを見た父が「毛布もいるよね」とリビングを出て行く。別にそこまでしてくれなくてもと思いながら、素直に甘えてソファに座り、クッションを抱く。そこから眠りに落ちるまでは一瞬で、次に目が覚めた時にはテーブルの上にクッキーが置いてあった。まだ温かい。
「あ、おはよう。コーヒー飲む?」
そう言って父が持ってきてくれたマグカップにはストローが刺さっていた。こぼして振袖を汚してしまわないようにという配慮だろうか。マグカップを両手で持ち、ストローを吸うと、若干ぬるめのコーヒーが喉を通っていく。
「成人式終わったら向こう帰るの?」
「ええ」
「じゃあ、行く前にみんなで写真撮ろう。葵」
父が呼ぶと、キッチンからスーツ姿の兄が出て来る。写真を撮るためだけにわざわざスーツを着て来てくれたらしい。
外に出て玄関前で兄と並んで撮影をしていると、たまたま家の前を通りかかった兄の恋人が乱入してきた。そのまま三人で撮ることに。
「成人式とか懐かしーあんまりはめ外しすぎないようにねー。行ってらっしゃい」
「はい。行ってきます」
家族と別れ、歩いて会場へ。海菜のいう通り、小中学校に友人と呼べる人は居ない。私のことを友達だと思ってくれているかもしれない人は何人かいるが、あの頃の私は異性に好かれるために猫を被っていて、誰にも心を開けなかった。だから、友人と呼んで良いかは分からない。海菜はきっと、充実した学生生活を送ってきたのだろう。今頃同級生達と思い出話に花を咲かせているのだろうかなんて思いながら会場で一人寂しく待機していると「小桜さん」と声をかけられた。声をかけてきたのは中学生の頃部活で一緒だった
「久しぶり。……元気してた?」
「……ええ」
気まずい空気が流れる。彼女とは小学生の頃はあまり関わりはなかったが、中学に入って同じ部活になってからは、よく私の自主練に付き合ってくれていた。それは覚えているけれど、どう接していたかは思い出せない。
「……小桜さん、成人式来ないかと思ってた」
「……そうね。私も正直、行く必要ないとは思ってた。でも、出席しなかったら、それはそれで後悔する気がしたから。こんな機会は人生に一度きりだもの。それに……恋人も今日成人式だし。家で一人寂しく待ってても不安になっちゃいそうだし」
結局、最後の理由が一番大きい。彼女は成人式が終わった後は小中の同窓会に参加すると言っていた。成人式に参加しなかったら半日近くは家に一人だ。絶対余計なことばかり考えてしまう。
「……恋人……か……」
大木さんが意味ありげに呟き、気まずそうに目を逸らす。先ほどからすれ違う同級生達も私をちらちらと見ながらひそひそと話している。なんだか嫌な空気だ。恐らく、私が同性と付き合っていることは噂で広まっているのだろう。
「……あの、さ、噂で聞いたんだけどさ……」
「恋人のこと?」
「……う、うん。えっと……その……」
「……別に、女性と付き合ってるからって女性なら誰でも良いわけじゃないわ。そんなに怯えないで」
「ち、ちが……そんなんじゃなくて……!」
「じゃあなに?」
大木さんは私を見ると、また気まずそうに目を逸らした。そして俯き、震える声で言った。「今度は、ちゃんと味方になりたいんだ」と。そして彼女は俯いたまま独り言のように続ける。
「小桜さんが周りから悪く言われてる時、私、一緒になって悪口言ってたから。そうしないと、居場所がなくなる気がして。でも……小桜さんはいつも私の愚痴を聞いてくれて……」
そのことでずっと罪悪感があったのだと、彼女は懺悔するように語る。私はそんなこと全く気にしていないというのに。そもそも、あの頃の私は人に関心がなかった。それは大木さんに対しても例外ではない。愚痴を聞いていたのは善意ではない。ただ単に、彼女が話すことに適当に相槌を打っていただけだ。そこには同情も共感も何もなかった。母が思う女の子ならどうするだろうと、あの頃の私は常に、母の理想の娘としての正解を求めて行動していた。自我なんてほとんどなかったし、他人への関心もなかった。だから別に、誰に何を言われたって気にならなかった。そんなことを気にしている余裕なんてなかった。だから、あの頃味方になってあげられなくてごめんなんて、そんなことを言ってくれる人がいるなんて思いもしなかった。
「大木さん」
「? スマホ?」
「……この人が私の恋人」
大木さんに海菜と写る写真を見せる。彼女は目を丸くして、スマホと私を交互に見た。
「えっ、おん、女の子……!?」
「ええ。女性よ」
「……ほえー……カッコよ……」
「あら。惚れちゃ駄目よ。私の恋人なんだから」
「いやいやいや、私は異性が好き……だと思う……」
「だと思う?」
「う……こんなイケメンだったら女でもありかもしれんとか思いましたすみません」
「ふ……ふふふ。あなたって……ほんとに正直なのね……」
思わず笑うと、大木さんは目を丸くした。そして釣られて笑う。友達なんて居ないし、行ってもどうせひそひそされるだけだと思っていた。けれど、嫌われていた当時の私をずっと気にかけてくれていた優しい人がいたということを知れただけでも、今日来た価値はあったのかもしれない。
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