そのスピードで明日へ行けますか?

池田標準

そのスピードで明日へ行けますか?

 幸せな思い出を夢に見て目が覚める。大田敦子(おおた・あつこ)は涼やかな気分の朝を迎えた。だが昨日、会社の先輩に切り出された別れ話を思い出した。気分が暗転し涙が溢れた。

 敦子は目尻に浮かんだ雫を人差し指で拭った。次々へと湧きでてくる。間に合わない。どうして自分はこんなにも涙腺が弱いのか。泣きながら頭を抱えた。

 鼻水も零れた。ベッド脇に置いてあるテッシュに手を伸ばして鼻を噛む。死ぬほど惨めな気分だった。

 枕元においてあるフレームなしの眼鏡をかける。スマートフォンのホーム画面を確認する。午前六時六分。隣に表示されているカレンダーは金曜だった。

 会社に行かないと駄目なのか。幻滅しパイプベッドから下りて憂鬱な溜息を吐いた。

 七時半には出社しなければいけない。会社に行くというのは、大田敦子には昨日別れた先輩と顔を会わせなければいけないということでもあった。

 テレビをつけて画面右上に表示されている時刻を時計代わりにする。キッチンに足を運ぶとパンをトースターに入れて薬缶に水を注いで火にかけた。

 化粧台の鏡に自分の姿が映る。ちょっと考えられないくらいに酷い姿だった。

 無駄に身長が高い。野暮ったい。

 重たい黒髪は背中まで伸びている。

 最悪さは掛け値なしの別格だった。幼い頃から散々に酷評された。自分でも変えてみようと一度ならず決意した。その度に先輩から敦子はそのままがいいよと言われ、決心を覆した。 

 先輩を思い出し敦子は胸の奥がえぐられるような感覚に陥った。また目に涙が滲んだ。先輩は敦子のそのままを愛してくれた。

 だから敦子も先輩を愛した。仕事仲間の批評から敦子を守ってくれる先輩を愛していた。その日の仕事帰りに美容院に寄ろうとしていた敦子を抱きしめてくれた先輩を愛していた。美容院の隣にあるカフェに敦子を誘い自分がそのままであることがいかに素晴らしいことであるか敦子に説いてくれた先輩を愛していた。食前酒を飲んだだけで耳まで紅くなる先輩を愛していた。パンをちぎって口に運ぶ先輩の姿を愛していた。スープを口につけ、これちょっと熱くない? とおどける先輩を愛していた。食事を済ませ料金を払って店を後にする先輩を敦子は愛していた。タクシーを拾って部屋に敦子を送ろうとしてくれた先輩を愛していた。タクシーに同乗した敦子の肩に頭をのせ眠り込んでしまう先輩を愛していた。敦子の部屋に運びこまれベッドに寝かせた時に浮かべていた先輩の優しい寝顔を愛していた。目を覚まし敦子を抱擁してくれた先輩を愛していた。そのまま二人は口付けを交わし、信じられないくらいに愛しあった。盾守先輩は敦子と同じレズビアンだったのだ。

 敦子は先輩の全てを愛していた。こぼれる涙を止めようと努めた。

 これで背も低く愛矯もあるのなら、泣いた姿も幾分かましなのだろう。だが敦子の身長は百八十センチあった。自分の身長を呪った。

 薬缶からマグカップに湯を注ぎインスタントコーヒーを淹れる。泥みたいだった。

 トイレに入ると用を足す。夜に漏れでたものを洗う。敦子は量が多い。不便な体だと幻滅した。そのことが妙に恨めしく、さらに涙を誘った。

 嗚咽を漏らしながら部屋に戻るとテレビは今日の運勢ベストを映していた。敦子は山羊座だ。山羊座は最下位だった。

 不穏な音楽が流れる。ついで今日の悪運ワースト一位は、残念、やぎ座のあなたです、とナレーションが気の毒そうに言う。

 でもご安心ください、やぎ座のあなた、赤いものを持ち歩くと運勢が逆転します!

 玄関のチャイムが鳴った。

 こんな忙しい時間帯に誰だろう。玄関ドアまで駆け寄る。もしかしたら先輩かもしれない。昨日の話を撤回にきたのかもしれない。淡い期待を寄せながらカメラ映像に   目を遣る。

 白いシャツと青いジーパン姿のショートヘアで利発そうな女の子が笑って玄関前に立っていた。右手にタブレットを持っている。

 女の子の白いシャツには真っ赤な血が大量に付着していた。

慌てて顔を引っ込める。忍び足で居間まで戻った。玄関のチャイムは鳴り続けている。どうすればいいのか分からない。普通は警察に電話するのだろうが、足がすくんで動けない。

 昔から敦子はそうだった。

 小学校の授業中、トイレに行きたくなった時もトイレにいっていいですか、が言えなかった。結局、授業終了後にトイレに行く途上の廊下で漏らした。

中学校のテスト中、お腹が猛烈に痛くなっても保健室に行っていいですか、が言えなかった。全テスト終了後にお腹が痛いんです、と訴えて保健室に連れて行かれた。それがただの腹痛ではなく、盲腸炎だったと判明した時は搬送先の病院の先生によく今まで我慢したね、君、普通、死んでるよ、と随分と驚かれた。

 敦子が涙を浮かべながら震えていると、チャイムは鳴った時と同様に唐突に鳴り止んだ。

 息を殺しつつ玄関まで戻る。モニターを覗くと誰も居ない。

 子供の悪戯だったのか。鼻を啜った。トースターから焼きあがったパンをつまみ出し、目を拭いながらテレビの前で朝食を摂った。

 テレビのニュースは昨夜二十一時過ぎにアメリカで発生したテロのテロリストグループが全員捕まったという旨を報じていた。政府機関の研究所に潜入。爆薬を持ち込んで立てこもっていた。政府の武装した警官隊が突入。全員拘束されたそうだ。

 昨夜の二十一時、と聞いて先輩とレストランで別れ話をした記憶が蘇った。昨夜の二十一時に別れ話を切りだされた。涙が堪えきれない。

 すすり泣きながら洗顔する。ドライヤーで髪のセットをする。軽いメイクを済ませる。敦子はあまり化粧をしない。高身長で野暮な女が化粧をしても惨めさが増すだけだ。

 下着を替えて新調したパンストを穿き、着てゆくスーツを選ぶ。白のシャツに紺のスーツとスカートという地味な服を選んだ。美人ではない女が目立つ服を着ても余計に無様な姿を強調するだけだ。

 眼鏡の曇りを拭きとる。目尻をぬぐう。よし、今日も頑張ろう、と背筋を伸ばす。


 朝の通勤電車は混んでいた。乗客の熱気でたちまち眼鏡は曇ってしまった。

 人波に押され、敦子は一番奥の閉じられたドアの前に張り付く。

 バッグに入れてある気に入っている本でも読んで気を紛らわそうと思っていたのに読書どころではない。

 仕方なく遠方に見えるビル群を眺めながら駅までドアに身を摺り寄せていた。太股の内側と尻に、背後に立っている男性の手が当たって仕方がない。

 身を少し捻っても、その手は敦子の動きにあわせてついてくる。抵抗しないでいると手の動きはさらに厚かましくなった。

 痴漢だった。

 身体が硬直した。死ぬほどの嫌悪感に耐える。早く駅についてください、と願う。また涙が出てきた。

 肩で嗚咽をしていると、敦子が興奮したと勘違いした男は生暖かいものを太股の間に差し入れてきた。

 敦子は何も考えられない。大声で叫びたいが咽が麻痺している。

「痴漢です! この人を誰か助けてください!」

 甲高い声に敦子の周囲に人垣が築かれた。敦子と痴漢に視線が集中する。敦子のストッキングには白くぬらつくものがこびりついている。男はいちもつを紺のスラックスに仕舞うところだった。

 敦子はその場でしゃがみ込む。堪えきれず泣きだした。

 周囲の騒ぎが錯綜して聞こえる。怒鳴り声、罵声、弁明、そして甲高い抗議。

「なに言い訳してんだテメエ、偉そうにしやがって。ぶっ殺すぞ!」

電車が駅に到着する。紺のスラックスの男がサラリーマンの中年二人に連行されていくのが足の隙間から窺えた。

 甲高い抗議。そういえば先程の「痴漢です! 誰か助けて!」は誰が叫んでくれたのだろう。あんな高い声は女でもそうはでない。

「酷い目にあったね」

 甲高い声の主が敦子の手を引く。小さな温かい掌だった。

「ともかく、立って。それでさ、あたしの後について来て欲しいんだけど……」

 男性の声が響く。この子の服には血が付いてる! 君、どうしたんだ!

「やば。敦子さん。ごめん。後で」

 敦子の手を握っていた掌が声と共に消える。

 力強い女性の声。

「大丈夫ですか? 鉄道警察の者です。安心して。男は捕まりました。立てます? ごめんなさい、みなさん、道をあけてください」

 敦子は柔らかい腕に抱かれる。促されて立ち上がった。

 新調したストッキングは使い物にならなくなっていた。



 出社した敦子に会社の仲間は目もくれなかった。

 先輩の姿がないか目で探す。先輩の姿はない。

 隣の席の同僚に訊ねる。

「あの、ごめんなさい、盾守(たてもり)さんは……」

「盾守さん? 盾守さんは今日は有給。今日、なんだか有給多いんだよね。悪い病気でも流行ってんのかな。え? ちょっと、敦子さん、どうしたの?」

 有給と聞いた途端にまた涙が溢れた。安堵の涙か、悲しみの涙か区別がつかない。

 自分は避けられている。立っていられない。限界だ。室長に早退を申しでる。


 部屋の前に戻ると郵便受けに封筒があった。

 抜きだす。送り主欄に大手出版社の名前。慌てて封筒の封を破る。申し訳程度の紙が一枚差し込まれていた。


『お送り頂いた小説、拝見しました。あなた独特の文体で書かれ……(中略)……しかし人物が生きたものとして、描き切れておらず……(中略)……お考えなら自費出版をお勧めします。しかし、それも……(中略)……デビューには時間がかかるものだということを念頭に置いて、頑張ってください。

追記・新作が出来ましたら、今度は持ち込みではなく、私の名前宛てで結構ですから、弊社の行っている○○大賞に応募してください』


「はー、辛いですね。また外れですか。でもほら、書く行為と、評価っていうのは違うって言うじゃありませんか。継続することに意味があるんですよ。気落ちしないで下さい」

 顔を上げる。今朝の血塗れの少女の姿があった。

 敦子は封筒を後手に隠すとゆっくりとドアノブに手をかける。そこでまだ開錠していないことに気付いた。しまった、と思ったが、既に遅い。鍵を開けるには一度この少女に背を向け、バッグから鍵を取り出さなくてはいけない。

 息が荒くなる。目の前の少女のシャツは血塗れだ。何を起こすか想像もつかない

「あ、警戒ですか。それはちょっと残念です。せっかく、今朝、助けてあげたのに」

今朝、と聞いて目の前の少女を見詰める。今朝。今朝は悪運で、電車で痴漢にあって、先輩は有給で……。

 女の子は声を立てて笑った。

「もう忘れました? あれ結構、あたしでも怖かったんだけどなあ。きもいし」

 甲高い声。

「気付きました?」

 女の子は笑った。

「だった感謝のしるしとしてあたしの話、訊いてくれません?」

 感謝のしるしの話? 何の話か。血塗れの少女の話とは何か。事件か、異常な事態を この子は抱えていて、匿ってくれというのではないのか。敦子は身を引いた。

「世界は滅びに向かっています」

 全身の力が抜ける。安堵の溜息を吐いた

「……今朝は、ありがとう。でもお姉ちゃん忙しいから。お嬢ちゃん、またね」

 敦子は鞄の中に手を突っ込んで鍵を探り当てる。鍵を鞄から引き抜き鍵穴に差込んだ。ドアを少し開きその隙間に身を滑り込ませる。

「敦子さん、待った」

 少女の声音に敦子は思わず体を硬直させる。

「お嬢ちゃん、は素敵な呼び方ですけれど、あたしには名前があるのです」

 少女は己の背中に右手を伸ばす。

「らっか。落ちる花と書いて、らっか」

 落花は右手を突き出した。敦子は目を剥く。落花の手には銃が握られている。

「大田敦子さん、四の五の言わずに部屋にあたしをあげて。お話があります」



「その音を地球の人間がはじめて聞いたのは三年年前でした」

 敦子はベッドに腰掛け涙で瞳をうるませていた。落花は銃を敦子の額に当てたまま喋り続ける。

「はじめに聞いたひとはそれがなんなのかさっぱり分かりませんでした。こんな音です」落花は左手に持っていたタブレットのアイコンをタップする。

 ノイズがタブレットのスピーカーから流れた。きめが粗く、間隔が開いている。

「この音を最初に拾ったのは当時十二歳だった少年。少年はなんでも集める収集癖がありました。この音も、夜空をビデオに収めようとして偶然入ったもの。

 少年は中学の天文学部で部長をしていました。星座をビデオに収めようとしたわけ。写真でもいいけど情報密度が濃いのが少年は好きだから動画にしたんだね。

 ところがある一定方向の夜空にマイクを向けると変なノイズ音が入ることに少年は気付きました。少年は収集癖がありましたが、同時に一つのことが気になりだすと止まらない性格でもありました。

 少年は一定方向の夜空から収録できるノイズが気になって仕様がなくなりました。そこで一晩徹夜をして、音だけを、ノイズだけを、データとしてハードディスクに収録しました。収集癖があるからですね。ところが今度は、収録すると音が気になって眠れません。そこで少年はパソコンを使って音を解析する事にしました。これが解析結果」

 落花はタブレットのアイコンをタップ。

 アイコンが起動して緑色のギザギザの山の線が表示される。

「少年はこの音がオンとオフ、この二つで成立している事実に気付きました。山がオンで下を向いているのがオフね。少年は今度はオンとオフが気になって仕方がありません。そこで学校の友達に相談してみることにしました」

 落花は銃を敦子に向けたまま、ゆっくりと隣に腰を降ろした。落花は歯を見せて笑った。

「するとどんな結果が出たと思う?」

 敦子はオンとオフ、と耳にした時点で零と一を連想していた。これでもセキュリティソフト会社の開発部の主任だ。

「……零と一?」

「正解。流石」

 落花はタブレットのアイコンをタップする。画面を窺う限り、一般に流通しているOSではない。

「そう。零と一。それがこれだけ続いている」

 画面には、零と一が果てしなく画面下まで伸びていた。

「零と一はこの画面の表示桁のさらに八十乗の数があります。少年はこの終りのない数字の羅列が気になってしかたない、は話しましたね。それで、友達に相談することにしました。結果、みんなで手分けしてこの零と一の数字を解析することになったの。少年は天文学部ではその豆な性分が幸いして人望がありましたから。天文学は神経の繊細さが優秀の証です。早速、天文学部総動員で解析にあたりましたが限界があります。

 天文学部はほかの部にも助けを求めました。少年は収集癖があったので収集していた有益情報と交換する代わりに多種多様な技術を使用しての解析を頼みました」

「有益情報……?」


「まあ、データのことだね。それもあらゆるデータ。音楽から映像まで。なんでも」

 少年は神経質そうな目を左右に走らせて周囲に集まった天文学部員に訴える。

「ぼくは、ほら、収集癖がある。みんな、知ってるよね」

「ああ、部長、変なの集めてますよね。インディーバンドの音楽データとか、フィギュアとか。本とか。成人向けの同人誌集め出した時はこりゃ後が怖いなと思いましたよ」

 落花が顔をゆがめて皮肉っぽく笑う。

 少年は照れたように微笑む。

「うん、特に意味はないんだけれど気になってね。手元に置いとくと安心するから。それでね、今、データはこれだけあるんだ」

 少年はディスクが詰った百円ショップブランドのディスクフォルダを部室の机に広げた。ディスクフォルダは全部で三十個あった。

「……これ全部、データですか」

 部員の一人がフォルダを空ける。各ディスクにはマジックペンでタイトルが書かれている。

「うわ、範囲が広そう。しかも、これ、DVDRじゃなくてBDRだし」

「アダルト動画まである。カテゴリ分けも女優別じゃないのかよ。メーカー分けかよ」

「部長、ドガマブランドのやつ、ある? あれ、激しいから結構借りるんだよね」

 女生徒部員が顔をしかめる。

「あんた、汚い。そういう話は止めて欲しいんだけど」

「そういうなよ。これ、なんか流出画像とか書いてある。外人の名前。トム・クルーズ? ブラッド・ピット? うわ、やべえ」

「え、ブラピのなに? ちょっと見せてよ」

「まあ、待ってよ」

 ディスクを奪い合う部員達を部長はなだめた。

「それでさ、提案なんだけれど。みんなで手分けして画像が欲しいひと募って音の解析に協力してくれるように頼んでくれないかな。頼むひとの範囲を限定せずに。そうすればいろんな角度から各々の個性にあった解析方法がとれるだろ?」 


「さて、こうして天文学部員に頼まれて、有益情報と引き換えに、情報機器部、吹奏楽部、文芸部、演劇部、科学部、果てはスポーツ系まで、あらゆるジャンルの人々が各々の得意とする方法で解析を開始しました。

 その中でも秀でていたのは科学部と情報機器部。

 科学部と情報機器部はこの零と一の数字をあるパターンに嵌めて分解、乗せる、割る、足す、引く、素数、関数、虚数、対数、ありとあらゆる数学、物理の法則を最後の桁まで行えば何らかのパターンらしきものが得られるのではないか、と提案しました」

 敦子は銃に手を添えた。下に押すと、銃は敦子の手の力に押されて下を向いた。

 敦子は微笑んでいる血塗れの少女に挑むように切り返す。 

「でも、こんな馬鹿みたいな数字、学校の備品のパソコンのメモリでは処理できないわよ」

「はい。その通り。そこで並列コンピュータを使うことを少年は提案しました」


「並列方式……?」

 落花は少年の自室を見回した。

 四方の壁には天井までラックがひしめきあっており、その中には各種雑多なものが詰め込まれていた。和書、洋書、ディスク、カード、フィギュア、同人誌、アルバム、用途不明の機器、色紙、コイン、パンフ、標本箱、絵画、空瓶、空缶、切手、衣服、靴、鞄……。

「うん。前にさ、海外で拾った文書ファイルにオンライン上で同じオンラインのひとのパソコンをコントロールしてそのパソコンのメモリと処理能力の一部を一時的に共有する方法が書いてあったんだ。グリッド・コンピューティングだね。マルチキャスト方式で並列処理マシンを一時的に構築するんだ」

「……部長、それハックですよ? 危険なんじゃありません?」

「一応承諾は貰うよ? 誰か協力者が僕のパソコンにアクセスしている間は僕のパソコンのハードディスクの情報、全部をシェアするのも認めるっていう承諾。

 僕はパソコンのプログラムの詳細は知らないから、そのプログラムは情報機器部に打ち込んで貰ったんだ。

 見てよ。現時点で既に学校のパソコンの一部を僕は共有してるんだ。学校のパソコンなんてつまらない授業に使う以外、特に必要とされてないだろ? そのくせ、メモリとCPUはごまんとある。有効活用だよ」

「部長、自己中心過ぎ」

「もうネットにサイトは立ち上げたし、あらゆる言語に反応するようあらゆる言語だけをいれたテキストをサイトに表示してある。これでかなりの数が稼げると思う。承諾書も貼り付けた。これが承諾書」

 少年は部屋に並んでいるパソコンのモニターを指差した。

 画面に赤い文字が並んでいる。赤文字は全て英語で書かれていた。それもネットスラングの英語で。

「この情報に携わる方に警告します、シェアされている情報はどう、あなたのパソコンに及ぶ影響はこう」

 正規のソフトウェア会社がアドウェアやポップ表示で催促している必要最小限のソフトウェアの更新情報とも、違法なハッキングの脅威に対する警告文とも、どうにでも翻訳、意訳できる文章が書かれていた。

「ほら、こっちのモニター見て。半日で一万アクセス」


 敦子は唾を飲み込んだ。落花の説明はちょっと信じられない。そんな馬鹿な法螺話は聞くに値しない。自慢ではないが自分はネットにも長けている。そんなサイトなど聞いた覚えもない。

 落花は目を細めて不敵に微笑んだ。

「信じていませんね。いいでしょう。大田敦子。三十二歳。独身。A型。一月七日生まれ。セキュリティソフトウェア会社所属。同性愛志向あり。また小説家志望でもあり、海良奈留江(かいら・なるえ)のペンネームを用い、S社とK社、M社とH社、K社それとB社の小説応募懸賞に次々と投稿するも、次々と一次落ち。昨日、会社の同僚に別れ話をされたばかり」

 敦子はあ然とした。

「どうして、そんな……」

「敦子さん、調べものする時にインターネット使いますよね? 敦子さんがアクセスした検索先URLにはわたし達がばらまいたソースも混じってるんですよ。アダルトに及ばず、医療、軍事、国家機密、芸能情報、あらゆるものが。そのうちのひとつに敦子さんがアクセスした際、あたし達、敦子さんの中身をちらっと見て、ついでにちらっと敦子さんのパソコンの能力も借りました」

「そんな……」

 敦子は怒りで目が滲んだ。涙声で呟く。

「……プライバシーの侵害……」

 落花はまあまあ、イージーに、と、悪びれもせずに手をひらひらと振った。

「でも、あたし達は一応、許可は貰ってるんですよ? こんな画面、見たことあるでしょ」

 落花は画面をタップする。先程の赤い文字が並んだ。確かに指摘されれば、この画面を敦子はネットの何処かで見たかもしれない。しかしこんなものネットではよくある表示方法のひとつだ。

「信じる、信じないは勝手。でも心当たりあるでしょ。どこかで読んだ覚えありますよね? だったら、あたし達が敦子さんのパソコンの一部を共有しますよって敦子さん自身が承諾してるってことなんですよ?」

「ずるい……」

 また涙が滲む。

「まあ、肝要な点はそこではありませんから。信用を得たところではなしの続きを。いいですか? さて、仲間はこうしてあらゆる計算式、方程式によって零と一を解析しました。合計で二年かかりました。お疲れ様です。その結果がこれ」

 黒地の画面に白いフォントの数字が並ぶ。

 七八五・三三三七・九八八九・…………

 四桁毎に区切られている数字が限りなく続いている。

「これ……なに……」

「絶望係数です」

 落花は銃先でこんこん、と表示画面を叩いた。

「……絶望係数……?」

「破滅へのカウントダウンです」

「……破滅……?」



「この数字は発見当時から物凄い勢いで減っている。現在はこれだけだ」

ラックの山で少年の部屋には既に外光が入らなくなっていた。部屋の床にも収集物が積みこまれ、空いているスペースは、パソコンの周囲とベッドの上しかなかった。その枕元にも大量の書籍。

「これだけ?」

 数の減数が異様ではあると落花にもぴんときた。

「この絶望係数、あ、僕が命名したんだけどね。その絶望係数は世界の人々に絶望的状況が発生すると、規則性なく、急激な減数を示す事実を僕は発見したんだ。

馬鹿だと思うか? でも事実だ。僕は毎日、ネットニュースを監視しながら、この数字が実際の地球の出来事と関連があるかと思って観察していたんだ。すると幸先のよくないニュースが発表される、あるいは事態が発生すると数字が激減する事実に気付いた。

 決定的だったのが東京大震災以降の世界動向。特に東京大震災をリアルタイムで見ていた僕は震災の後に数字がぐっと減るのを確認している」



 敦子は落花の口から編まれていくとてつもない虚言を聞くことしかできなかった。圧倒される。

 落花はベッドの上に仰向けに寝転がる。血は乾いているのか、布団に付着はしなかった。

「あれは日本時間では早朝でしたか? 学生が早朝にテレビやネットを監視可能か? 可能です。少年はその頃には、あらゆることが気になりすぎて学校どころではなく登校も進学もしていませんでした。少年は昼夜逆転した生活を送って、起きている時間はパソコンに齧りつき、ネットニュースと数字の減り具合を随時、観察し自分の事実を立証しようと目論んでいました。

 でも少年は別にこれを雑誌とかに発表する気は全然ありませんでした。友人に自分の理論を納得して貰って自分のはなしを聞いてもらえればそれで満足だったのです。

 ともかく成果は実りました。大震災発生後の絶望係数は、とんでもない勢いで数が減っていたんです。

 ただ、少年は別の事実にも気付きました。震災から暫く後、数字の減数が緩慢になったんです。それは復興事業が動きだしてからでした。

 つまり絶望している人間が消えてしまった為に絶望係数の減りが緩和されたのではないのか、そう少年は妄想し気になって仕方がなくなりました。

 少年はまたネットに齧りつき、数字の減り具合を観測しました。結果は少年が妄想した通りでした。大量の人間が死ぬ寸前までは、数字はとんでもない勢いで減ったのに、死んだ後は減りが縮小したんです。

 敦子さん、ここで問題。絶望係数とはどういう状態を表しているのでしょうか」

 敦子は一瞬だけ、落花の提出した問題を真面目に考えた。それも馬鹿馬鹿しいと思って止めた。

 落花は敦子を探るような目つきで眺めていたが、

「あ、考えるのやめましたね。では絶望の減り具合を実際に見て納得して貰いましょう」

 そういって銃の撃鉄を引くと手のひらでリボルバーを回転させた。

「ロシアンルーレットをしましょう。まずは六分の五の生存確率」

 回転が止まったところで撃鉄を押した。すっと銃口を敦子に向ける。

「では、ゲームスタート!」

 落花は引き金を引いた。かちっという音がしてリボルバーが回転する。敦子は目をつむり、頭を抱えて身を縮こませた。

「…………!」

 涙が止まらなくなった。言葉にならない言葉を口の中で呟きながらしゃっくり上げる。

 落花は収まった撃鉄をまた引く。

「数字に注目」

 落花は掌で敦子の顎を強引に持ち上げる。強制的に顔をタブレットの画面に向かせた。

 一七八九・九八九七・九九八六・九七六五・七七六三

「減ってるでしょ。ほら、今も」

 一七八九・九八九七・九九八六・九七六五・七七六一

「これは宇宙からの数字をリアルタイムで観測しながらデータ変換している数字。現実の数字です。数字の最後の桁ですね。減ってますよね。では次」

 落花は撃鉄を引く。

「次の確立は六分の四」

 落花は引き金を引く。かちっ。

 敦子は頭を抱える。

「次。確立は六分の三」

 もう一度引き金を引いた。かちっ。

 敦子は体が無意識に震えているのが分かった.

「次。確立は六分の二」

 落花は平然と引き金を引く。かちっ。

「ひっ?」と敦子は声を漏らすが、それ以上何も出来ない。身体が震え上っている。

「次ラストね。次で敦子さん、確実に死ぬよ。敦子さん、画面に注目。敦子さん、見て見て」

 敦子は頭を両腕で庇う。

「敦子さん、おい、敦子! 見ろつってんだろ! でないと今すぐぶっ殺すぞ!」

 敦子は少女の恫喝に思わず上体を上げて後じさった。拍子に画面が目に入る。

一七八九・九八九七・九九八六・九七六五・七七六×

 最後の桁が物凄い勢いで減っている。

「では最後ね」

 かちっ。しかし銃は発砲しなかった。

 落花が腹を抱えてげらげら笑う。

「敦子さん、吃驚した? 怖くて死ぬ思いだったでしょう。残念、今、この銃には弾は入っていません。安心したところで数字に注目」

 敦子は涙で歪む視界の前に提示された数字を見据える。

 一七八九・九八九七・九九八六・九七六五・七七五八

 数字の減りは緩慢になかった。

「どうよ。これで立証できたでしょ。敦子さんの死ぬ寸前の絶望的心理状況に、絶望係数は反応して、とんでもなく減った訳。でも今は安心しているから減らない」

強引な展開だったが敦子は落花の言葉に僅かばかりの信憑性を覚えた。

 だがしかし、このはなしが嘘だったとしたらどうなのか。今までの説明全てが少女の妄言で、このタブレットの数字もでっちあげたものかもしれない。

大体、敦子が絶望に陥っただけでこの数字の減りようなのに現在残された絶望係数とやらは万桁だ。数が異様に少ない。

「そう。数が少ないでしょ。このスピードで行くと、後、十五時間で数字は全て零になります。これが多分、零になると人類は破滅するのだと少年やその仲間は考えています。つまり絶望係数とは人類破滅へのタイムウォッチなの。敦子さん、またまた画面に注目」

 落花は動画サイトのウィンドウを開いた。無線で繋がっているらしく、ネットニュースが流れていた。英語でテロリストがどうとか。

「今朝、ニュースで某国のテロリストが捕まった、という情報が流れましたよね。政府機関の建物を占拠して。しかし無事解決したと。

 だけれど、それは誤りです。いや、誤りじゃなくて、情報操作かな。真実は恐ろしいものですから。政府は国民が真相を知って、結果、混乱が引き起こされるのを憂慮して情報を書き換えているんです。

 真相の事実。テロリストグループは全員射殺。さらに射殺されたテロリストは死ぬ前に、報復として持っていた爆薬を全て爆破させているんです。ニュースではテロリスト達は政府機関の建物を占拠したって言ってましたよね。

 その建物って生物兵器研究所だったんです。少年は以前、世界が破滅する妄想に捕らわれていてそういう疑いのあるソースを収集していましたから、今回の占拠の事実もよく調べているんです。

 少年の調べでは建物は爆破され、建物内で培養開発されていた細菌兵器が大気中に漏れているのが判明しています。細菌兵器の名前は『エクスターミネータ』。

 漏洩した『エクスターミネータ』は、各国政府の必死の対抗手段もどこ吹く風で、上昇気流にのって、現在、世界のあらゆる場所に蔓延しています。敦子さん、場所移りましょうか」

 落花は正座したまま泣き続けている敦子の手をとった。



 敦子は少女の手に引かれるまま駅前に連れていかれた。

 昼前の駅前はいつも通りだった。ただ、異常に人の数が少ない。

「人の数、少ないでしょ。みんなエクスターミネータにやられてるんです。政府は黙ってますけれどね。えーと、国立病院前行きバスは……」

 そこへ丁度、ロータリーに国立病院前行き経由のバスが入ってきた。

「これです。乗りましょう。病院に行けば分かります」



 国立病院の前はごったがえしていた。

 皆、一様にふらふらとしており、中には玄関前のローターリーに仰向けに倒れている人達もいた。

 床に寝ている人の中でも目を引くのは手足をばたばたさせてコンクリート床の上をぐるぐる回転している人達だ。

 看護師や医師が病院玄関の前で右往左往している。やがて玄関前にはシーツが拡げられた。症状が悪化している者は玄関口に横たえられた。漏れ聞こえるところでは、病院のベッドはもう満員状態らしい。

「エクスターミネータの特徴は感染者が殺虫剤にやられたゴキブリそっくりの動きをする点。実際に神経系統を侵す兵器ですから当然といえば当然です。

 脊髄がウィルスに侵され、最初に耳の器官が支障を受けます。上下左右の感覚に均整がとれなくなり、感染者は引っ繰り返るんです。同時にインターロイキンが作用する影響で熱が出て、気分が悪くなります。患者はあまりの苦痛に身をよじらせ、手足をばたつかせますが、全身の神経が痺れている為にもがくことしか出来ません。

 エクスタームネータの進行度はおおざっぱに分けて三段階。一段階目で抵抗力の弱い人間に取り付き、二段階目では一段階目の人間に症状を引き起こしつつ抵抗力のあった人をも侵し始めます。

 三段階目では一段階目の人は死亡。二段階目の人は発症します。

 強力な細菌兵器ですから人体の抗原作用は間に合いません。それこそ、一日で人間を死に至らしめる能力を保持しています。

 つまり、エクスターミネータが人類を死滅させる時間と、絶望係数が零になる時間は丁度、同じなんです。これが絶望係数が破滅へのカウントダウンだと少年とその仲間が考えた要因です」

 敦子は目の前の光景にあ然とするばかりだった。

「しかし、まだ望みはあります。各国政府は細菌兵器のワクチンを猛スピードで量産している、と少年は言っております。細菌兵器を作るんだからワクチンも開発しないといけませんよね。だから少年はこう考えました。絶望係数がなくなり切る前に、今回の事態が収集されれば数字減少の緩和も起こるのではないのか、と。

 その為にはどうすればいいのか。絶望をなくすことです。希望をもつ人々を増やして、絶望係数の減りを少なくするんです。そうすれば世界破滅への時間は長くなります。延長されます。

 その他の手もあります。絶望している人を殺すんです。根こそぎ。そういう手段での絶望係数激減の緩和も考えられます」

 敦子は少女を見詰める。落花は明るく笑っている。なぜ、この少女と自分は平気でいられるのか、それが不思議で仕様がない。

「あ、あたしたちはですね、ウィルスに対してちょっと強いんです。つまり二段階目で発症するタイプの人間なんですね。そういう体質の人間をネットやSNSで探し出しているんです。

 少年は考えました。そういう体質の人間が集まって、希望を撒き散らすなりすれば、すこしでも絶望へ至る道へのスピードが遅くなるのでは、と。むしろ、逆行できるのではないのか、とも。そこで少年は、今までの協力者の中からウィルスに強い人間を選んで、世界中のウィルスに強い人たちにこの事実を伝える作戦を考案し、その作戦実行部隊を結成しました。部隊名は『アクセラレーター』。

 入隊の証としてアクセラレーター隊員には部隊員が作った銃が与えられました。あたしのリボルバー銃もしかり。少年は武器に興味を持った時期があったので、そういうものの作り方も知っていたし、実際に作れる隊員がいたんですね。

 アクセラレーター隊員の役目は二つ。さっき言った希望を与えること。もしくは絶望が希望に変わらないのであれば、絶望係数の削減防止の為にアクセラレーター部隊員に証として与えられた銃で絶望している人を殺すこと」

 敦子は曇った声でらっかに尋ねる。

「あなた、さっきから少年、少年って言ってるけれど、その子、何者? 今、どこに居るの? あななたが言っている、希望を広める為にどこかでリーダーとして活動してるの? 話を聞くだけでは司令塔みたい」

 落花は明るく首を振った。

「活動はしていません。少年は現在、部屋でひとり休んでいます。なぜ休憩が必要なのか? 少年はアクセラレーター結成後に、あたしを部屋に呼んだんですね。少年は自分が気になって不安だった事項を片ずけ、懸念を希望に変えて自らの絶望係数削減を図ろうとしたんです。

 少年の気がかりはあたしが彼のことをどう思っているか、でした。

 つまり彼はあたしが好きだったんですね。天文学部員時代から。しかし少年は実行に移す勇気がなかったので今までずっと黙っていました。だけれども人類絶滅がかかるとなれば、そうはいきません。彼はあたしに告白しました。世界が破滅するかもしれないから、その前に想いを伝えたい、と。希望を持って絶望係数削減に努めたい、と」

「……あなたは彼に希望を与えた……」

 落花は残念そうに笑った。



「ごめん、部長、それは断る」

 少年は暗い部屋の中で口を開けたまま硬直した。やがてその顔が歪む。

「……どうして駄目なんだ、せめて、理由を聞かせてよ、誰か他にもう、いるのか?」

 少年の声は震えている。

「すいません、部長。付き合っているひとはいません。でも、部長って頭は回るけれど、ヘテロじゃないですか。あたしはレズビアンなんです。女性が好きなの」



 敦子は手で口を押さえた。

「じゃあ、彼は、今」

「はい。絶望のど真ん中に陥りました。そんな彼のお陰で絶望係数が滅茶苦茶に減りましたから、そこであたしは緩和手段をとったんです」



 落花は部屋に充満する硝煙の匂いにむせた。涙が出てくる。ここまで再現されているとは思わなかった。リコイルも。威力も。

 少年は頭部を破壊されていた。その際の返り血や脳漿は落花の体に振りかかり着ていた白いシャツは赤く染まっている。

 だが、こうするのが正しいと落花は考えていた。これぞ彼の意に叶った趣向。事実、彼が食うはずだった絶望係数の減りは収まっている。


 敦子は落花を眺めた。落花は邪気もなく笑っている。

「さてさて、はなしはここまで。第二段階で発症するあなたにお願いがあります。余命が長いあなた。あたし達に協力して。アクセラレーターの一員となり、希望を振りまく、あるいは絶望を減らしてください。緩和が起これば、ワクチンが完成する前に絶望係数が尽きる、という事態が回避できるかもしれないからです。勿論、アクセレーターに入隊する拒否権もあなたにはあります。強制はできませんから。あたしは他の該当者に入隊を勧めにいきます。敦子さん、どうします?」 

 落花は腰のズボンに挿していた銃を取り出した。自動拳銃だった。服の袖で隠れていたのだ。らっかは銃のグリップを敦子に差し出す。

「さあ、決めてください」

 敦子は手を伸ばしかねた。この事態を収拾する能力が、可能性が本当に自分にあるのかと絶え間ない疑惑に襲われる。

「……敦子?」

 不意に後ろから掛けられた声に振り向くと、そこには盾守先輩が立っていた。

 昨日、分かれたばかりの先輩。

「先輩、どうしてここに」

 盾守先輩の顔を見て知らず涙が出た。

 盾守先輩はそんな敦子に弱弱しく微笑んだ。

「親が入院したものだから、身の回りの世話をね。

それよりもね、敦子、ごめんなさい。あのね、昨日、話しそびれたけれど、わたし、あなたが嫌いになったわけじゃない。分かれた理由はそれじゃない。ただ、親が決めた男性と結婚しろって。それで、わたし、親だけはどうしても駄目。あの二人に応えないといけない、子供としてあの二人に子供として与えるべき希望を授けないといけない、そう思ってしまう。だから、結婚話も断れなくて。本当にごめんなさい。わたし、ほんとうはあなたと別れるのが死ぬほど辛いの。分かって。お願い」

 敦子は盾守先輩の中性的な顔を目をすぼめて見遣った。哀しい怒りが心に湧きあがる。それでいながら一方では憐れみの情が心の隅に滲む。

「先輩、わたしの気持ちより、親御さんの意見のほうを優先したんですか」

 盾守先輩は顔を手で覆って、嗚咽をはじめた。

「本当にごめんさない」

 敦子は落花に向き直る。落花は相変わらず笑っている。

「決心がつきましたか? 大田敦子さん」

 大田敦子は唇を引き締めた。グリップを握る。 

「ついたわ」

 銃を落花の手から抜き取る。振り向いて銃口を盾守先輩に向けた。

「……敦子! なにを……!」

 目を見開き、仰天している盾守先輩に敦子は告げる。

「先輩、これからわたしが喋るはなしを黙って最後まで聞いてくれますか?」

「あなたの気持ちはよくわかっているつもり。だから待って、わたしの意見も聞いて。尊重して欲しいの」

「そんなことはどうでもいいんです。先輩」

 敦子は撃鉄を親指で引く。

「これからわたしがはなす内容をちゃんと聞いて判断して欲しいんです」

 敦子は先輩を睨む。

 脇に立って一部始終を見ていた落花は満足したようすで誰にともなくひとり頷くと、背を向けて病院のなかに走っていった。

 病院内も人で溢れかえっている。落花は待合室のソファに座り込んでいる女子高生の前に屈み込む。

「ねえ、聞いてほしいことがあるんですけど。ちょっといいですか?」



               「そのスピードで明日へいけますか?」了

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そのスピードで明日へ行けますか? 池田標準 @standard_ikeda

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