第二話 作家と女子高生と一日目(1/2)

 トントン、と包丁がまな板をたたく規則正しい音がする。

 遠くにあったその音が、次第に大きくなって、近付いてくる。

 ああ、なんだかこの空気、なつかしいな。僕がまだ子供だった頃、それはいつも共にあった。母親の気配とでもいうのかな。すんすんと鼻を鳴らすと漂ってくる香りは、のものだろうか。ふんわりと柔らかくて、感情を包み込むように丸くしてくれる。

 不意に胸の内に込みあがってきたなにかが、僕を夢の彼岸から現実へと引き戻す。

 かすかに開いた瞳に、光がし込む。

 れてかすむ視界に、誰かの後ろ姿。

 まばたきを、一回。二回。そのたびにピントが合って、輪郭がはっきりしていく。涙が一滴、頰をなぞって落ちる。手のひらでそれを拭う。熱さだけが少し残って、すぐに消えていった。

 キッチンの上側にはめ込まれた擦りガラスは、すっかり夜の藍に沈んでいて。

 時計の針は、もう七時を指している。

 どうやら、丸一日寝てしまったらしい。

「誰、だ?」

 口の中がすっかりと乾いて、変な声になった。

「あ、おはようございます。よっぽどお疲れだったんですね。もう夜ですよ」

 ボリボリと後頭部をきつつ、上半身を起こす。

 ついでに欠伸あくびを一つ。

「ふわあああ。んーと、……誰?」

「先生、寝ぼけてます?」

 僕は少々、寝起きに弱い。

「うん、多分、ばっちり寝ぼけてる」

 えっと、覚えてますか、と見知らぬ少女がおずおずと言った。

 制服にエプロンというどこかアンバランスな組み合わせなのに、なんというか彼女が放つ妙に所帯じみた雰囲気のせいでやけにこの空間にんでいる。

 僕が変に慌てずにすんでいるのも、多分、そのせい。

「昨日、言われた通り、掃除にきたんですけど。あと、すみません。冷蔵庫を開けて、ご飯の準備をさせてもらいました。もうすぐできますけど、どうしますか?」

 尋ねられると、意識よりも早く体が反応した。

 ぐうううぅぅぅ、っと。

 エプロン姿の女子高生がくすくすと笑った。

「食べられるみたいですね」

 会話をしていると、段々と意識がはっきりしてくる。

 昨日は、ええっと、なんだ。そう。

 新作の打ち合わせに編集部へいったんだ。

 実に三ヶ月ぶりの打ち合わせだった。

 プロットにOKが出てからも悩みに悩んでしまい、結果、難産だったけれど、満足のいく作品に仕あがった。これでいけると信じていた。けれど、結果は全ボツ。

 で、ラブコメを書くように勧められた。

 そんで、アパートに帰ったら彼女がいたんだ。

 と、昨夜の光景が頭の中で急にふわりと浮かびあがった。

 白銀の月明かりを一人占めしていた美しい少女。

 名前は、確か──。

「思い出した。まつくんだ、しろはなまつくん」

「はい、そうです。しろはなまつです」

 そう言って、女子高生はわざとらしく敬礼なんてしていた。



 僕がシャワーを浴びて脱衣所から出てくると、部屋はすっかりと片付いていた。

 とんれいに畳まれ、テーブルの上にはご飯にしる、ほうれん草のおひたし。それから、日に干したとんのようにふわふわとした卵焼きが並んでいる。まるで朝食のような夕食。だが、それがいい。

 再び腹がくうっと鳴った。

 食料をせがむ腹をなだめつつ、部屋を見回す。

 ここまで整理整頓されているのは、引っ越してきた直後ぶりくらいかもしれない。

 床に重ねてあった本が、しっかりと本棚に収まっていた。僕は筆者のペンネームをあいうえお順で並べるようにしているのだが、そのルールもきちんと守られているようだ。

 かつて執筆の資料として買った、拡声器とか、三角コーンとか、ダンベルとかは、邪魔にならないように部屋の隅へ。うんうん。いいね。いいよ。いい感じじゃん、などと余裕ぶってうなずいていられたのも、しかし、ここまで。

「ぶふっ」

 むせて、奇声をあげてしまう。

「ごほっ、ごほっ」

 大丈夫ですか? とまつくんが駆け寄ろうとしてくるが、大丈夫大丈夫いやマジで大丈夫だから、ちなみに、絶対、だいじょうぶだよ、は無敵の呪文、と限界レベルまで引きあげた早口で制す。全然、大丈夫じゃなかったけど。緊急事態宣言発令!

 あるいはもう手遅れかもしれない。

 うへえ、ヤバイヤバイ、ヤッバイ。

 旧スクール水着を始めとするもろもろのコスプレ衣装も一緒に並べられているじゃないか。

 せっかくさっぱりしたばかりだというのに、嫌な汗がダバダバと分泌される。あ、終わったって思ったね。マジで。通報されたら勝てる要素ゼロだもん。ニュースだとなんて紹介されるのかな? 無職? それともラノベ作家? 同業者の皆様、風評被害らったらすみません。マスコミさん、どうしてすぐオタクをたたくん?

 ちらりと視線をまずはスク水へ。

 それから、まつくんへ。

 僕の視線をまつくんもまた追っていたが、にへらと笑うばかりでなにかを言うような気配もない。これは、アウトか? セーフか?

 むむむ、わからん。

 うかつに動けないから、とりあえず曖昧に笑っておく。

 いや、通報されてないならいいんだけどさ。これ、飯食ってる間に、警察が突入してくるようなクソ展開とかないよな。マジで。あ、胃が痛い。マジ痛い。きゅーんってなる。

 でも、問いただす勇気はないんだよなあ。

 だって、説明を求められてもく対応できる自信がないし。

 なにを言っても、言い訳みたいになりそう。

 玄関には、コンビニ弁当の空き箱でぱんぱんに膨らんだゴミ袋が二つ。

 開け放たれた窓から、秋の夜の甘い空気が香ってきた。

 きんもくせいかな。

 アパートの隣に住むおじさんが育てているのだ。

 カーテンが膨れるたびに、涼しげな風がった体を冷ましてくれる。ようやくきちんと呼吸ができたような気がした。よし、決めた。もう知らん。なにか言われたら、その時に対応しよう。諦めの呼吸、全集中。下手なこと言ってやぶへびにでもなったら目も当てられないし。

 とりあえず今は飯だ。

 なに食わぬ顔をして、のそのそとテーブルの前に座る。

「……じゃ、いただきます」

「はい! どうぞ!」

 まつくんはテーブルに肘をついて、こちらを窺うようにニコニコと笑っている。

 ちなみに、ご飯はすごくしかった。塩加減が絶妙なのだ。はぐっ。白飯をき込み、息つく間もなく卵焼きに箸を伸ばす。むぐむぐとしやくし、最後にしる。ずずっ。いっ!

 急に刺激された胃がもっと寄こせと叫んで、箸がすすむ。

「どうですか?」

「ん? ああ、めちゃくちゃしい。最高だよ」

「それはよかったです。あ、ご飯粒ついてますよ」

「どこ?」

「ここです」

 言うが早いか、ひょいっとまつくんが手を伸ばしてくる。

 彼女の長い爪の表面がくちはしかすかに触れる。

 ドキン、と心臓が一度だけ強く跳ねた。僕はなにもできなかった。そう、まるで童貞のように。いや、誰が童貞だよ。僕だよ。

 なんてこっちが情けないくらい内心慌てている間に、まつくんは少しのしゆんじゆんもなく、ぱくりとそれを食べてしまった。

 ん? んん?

 おっふ。そうですか、そうきますか。

 この子、やりよる。

 まつくんは無自覚で男をれさせてしまう魔性の女なのかな?

 多分、学校だとスクールカースト上位グループ。本人は目立つタイプじゃないけど、クラスの女子を仕切るような女ボスにやたらと気に入られたりして。故に自身にたかの花の自覚はなく、その辺のモブ男にも優しく声をかけたりするんだろう。そうなんだろう。

 ああ、ふたつ担当。あんたはなんて恐ろしいものを送り込んできたんだ。最終兵器。こほん。一つだけ、叫ばせてもらってもよろしいか?


「やめろや、れてまうやろおおおぉぉぉ!」

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