第一話 作家と担当と打ち合わせ(2/2)

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 六時間に及ぶ打ち合わせを終えて、少し早いけど担当と軽く食事をしてから家路に着く。

 秋の木枯らしの中を、乾いて赤く染まった葉がチラチラと舞っていた。いくらか酒も入っているのに、少し寒い。腕をさする。

 ふう、と胃の奥から吐き出した息はまだ白く色付かない。

 それも、あとどのくらいだろう。

 じきに冬はやってくる。

 不意に、打ち合わせの時のふたつ担当の声がよみがえってきた。

『ラブコメを書きましょう』

『なん、だと?』

 寝耳に水だった。

 デビューから五年。

 僕はこれまで、ライトノベルの中でも一般文芸寄りの青春小説や恋愛小説を書いてきた。

 どれもヒット作には至らなかったが、それでも透明感溢れる文章が好きです、とか、目に浮かぶような情景描写が素敵でした、なんて感想をくれるファンも増えてきたところだった。次の作品も当然、同じ路線のつもりだった。そのつもりで企画を進めてきた。

 なのに、このタイミングでラブコメ?

 うそだろ?

 僕の強みが、これまで築いてきたものが、全くかせないステージじゃないか。

『うははは。なにを寝ぼけたこと言ってるんだ。ふたつ担当らしくない。そもそも作風に合わない。ラブコメってシチュエーションとかキャラの魅力とかキャラ同士の掛け合いが重要な要素だろう。僕の作品は、そういうのを二の次にしたストーリー小説だぞ。わかってる?』

『そうね。でも、ホヅミ先生にはここで一度、自分の殻を破って欲しい。ううん。むしろ、破るべきだと私は思うの』

 それでもなお渋っていると、あのね、とふたつ担当がノートPCになにやらグラフを表示させた。どうやらこちらがすぐに了承しないのも織り込み済みだったらしい。

『これを見て。一つ一つは説明しないけど、こういうデータも出てるの。今、ライトノベルの読者が求めているのは、ご飯がすすむようなしいシチュエーションとわいいヒロイン。まず、この二つなわけ。それを踏まえた上で、さっきホヅミ先生が言ったことも含めて断言するわ。次にくるのは日常系ほのぼのラブコメブームよ。そして、ホヅミ先生のラブコメなら私は絶対に売れると思うの。チャレンジするのに、最高のタイミングなのよ。ねえ、先生。お願い。その童貞特有のこじらせにこじらせた妄想力でわいい女子高生とのあまあまな日々を書いて。きっと重版されるわ。JKで童貞を捨てるなんて、ほら、男の夢みたいなものじゃない』

『あのさあ、それは頼んでるわけ? それとも、けんを売ってる? どっちなんだ。第一、僕は学生時代からボッチだったから、リアルで普通な女子高生なんて面白おかしく書けないし』

『もちろん、全力でお手伝いさせてもらうから。やる気を出してもらうための〝秘密兵器〟だって、もう送っちゃってるのよ』

 どうも話を聞いていると、書いてきた原稿をボツにしたのも僕にラブコメを書かせたいが為なような気がしてきた。

 こうなったら、なにを言ったところで聞き入れてもらえないだろう。

 仮に僕がどれほど素晴らしい作品を書きあげたとしても、担当にその気がなければ企画会議にすらかけてもらえない。

 そして悲しいことに、僕はそのデータをくつがえすだけの実績をこれまであげてきていない。

 ね、考えるだけ考えてみて、なんて言われたが、結局、どうしたってうなずくしかないのだった。それでも僕は、まだ足を踏み出すことをちゆうちよしていた。

 少し時間が欲しい、とそう答えた。

「ラブコメなあ」

 やっぱり声は色付かない。

「僕のこの五年はなんだったんだろうなあ」

 少しだけ寂しいのは、寒さのせいだけじゃないはずだ。

 随分と気が早く、すでにクリスマス模様になったきらびやかな駅前を抜け、アパートへと歩き続ける。中心市街地から遠くなるにつれて、明かりが少なくなっていく。

 空には、りんと白銀の光を放つ満月が輝いていた。

 その月の光を受けて、足元から長い影が伸びている。ふっと息を吹きかけた途端に、揺れて消えてしまいそうな頼りない影だった。まるで、今の僕のよう。これでは駄目だ。貧乏人に、腐ってる暇なんてない。

 わかってる。

 早々に百万部を売り上げて、あのGカップにウフフなことをしてもらうのが目的であるなら、彼女の言葉に従うべきなんだ。夢の筆おろし。脱童貞。そのまま結婚。なんでもやるって言ってるんだから、遠慮なく一生面倒みてもらう。エンダァァァ、イヤアアアァァァ!

 仕事なんてさ、それでいいじゃないか。

 下らない感傷も、プライドも、全部捨ててしまえばいい。

 ああ、頭ではちゃんとわかってるんだけどなあ。

 でもさ、そんな簡単なもんでもないよな。

 を吐いて積み重ねてきた五年という月日は、決して軽くない。

 そんなことを考えながら歩いていると、やがて我が家が見えてきた。

 大学卒業と同時に転がり込んでから、主に金銭的な余裕がなくて一度も引っ越ししていないオンボロの木造二階建てアパート。その一階部分の角部屋が僕の城だ。スペースの都合で、洗濯機なんかは外置き。

 その雨風にさらされ続け、汚れに汚れた洗濯機の前になんかいた。泥棒か?

 おい、と喉のところまできていた言葉が、しかし、急に止まったのはどうしてか。言葉尻は小さくなって、やがて夜の闇に溶けていく。

 雲が途切れ、月の光がまるでスポットライトのように一人の女の子に注ぎ込まれたからだ。

 真っ黒だった影が引いて、輪郭があらわになる。世界と彼女とを隔てる境界線が、銀色にはじけ、輝いていた。はっきり言おう。

 れてしまった。

 そんなことは、二十八年の人生で初めてのことだった。

 と、どうやらあっちも僕に気付いたらしい。

 ゆっくりと振り向いた。

 幼いながらも端正な顔立ち。つややかな黒髪に白銀の光が触れて流れる。日の光を知らないみたいな白い肌に細く長いまつ毛の影が落ちている。まとった衣服は、処女雪のように真っ白なブレザー。二の腕のあたりに、見たことのない高校の校章が輝いていた。

 すっかりと見慣れてしまった光景の中で、彼女だけが特別だった。

 やがて、ビクッと少女の体が驚きで跳ねた。

「あ、あれ?」

 思わずって感じの、わいらしい声が響く。

 どこか夏の風鈴をほう彿ふつとさせる。

 キンと響いて、空気の中にゆっくりと溶け込んでいくというか。

 むというか。

「もしかして、ホヅミ先生ですか?」

「そうだけど」

 うなずきつつ、内心、首をかしげる。

 どうして、僕のことを知っているんだろう?

 基本的に顔出しなんてしていないから、僕が作家の八月朔日ホヅミだってことは限られた人しか知らないはずなんだけどな。

「君は?」

「えっと、そ、そのぉ」

 そこで僕は、少女の手の中にあった荷物に気付いた。

 こちらの視線を追うように、彼女の視線も荷物へ。

 すいっとそれが僕の胸元へ差し出される。

「初めまして。これ、編集部からです」

「ああ、ありがとう」

 言って、荷物を受け取る。

 ん? 編集部? その荷物を持ってきたってことは、もしかして彼女がふたつ担当の言っていた秘密兵器ってことか? そういえば、わいい女子高生を書け、なんて言っていたっけ。バイトかなにかで雇ったのだろうか。にしても、わいい顔してるなあ。

 アルコールを入れているせいでぼうっとした意識のまま無遠慮に見ていると、

「ええっと」

 少女がどこか居心地悪そうに体をよじった。

 とにかく、聞いてみることにした。

「君がふたつ担当の言っていた秘密兵器ってヤツ? あの人、こういう手回しだけは本当に早いな。考える暇も与えてくれないのか」

「え?」

ふたつ担当に雇われたバイトじゃないの? 新作の執筆に協力しろって言われてきたとか」

「あ、あー!! はい。はい。そうです。バイトです。怪しいものとかじゃ全然ないです!!」

 ややあって、こくんこくん、と少女が勢いよくうなずく。

 やっぱり、そうか。

「ふうん。で、なにができるの?」

「えっ? えーっと……家事、手伝いとか。うん。そうです。たとえばー、そのぉ、ご飯を作ったり、とか? 洗濯をしたり、みたいな? 部屋の掃除も。ええ。得意なんです、家事」

「家事? 変わってるね。学生なのに。ふむ。ま、いいか。じゃあ、早速、明日からよろしく。とりあえず、部屋の掃除から頼んでもいいかな? ここしばらく締め切り前で忙しかったから、散らかってるんだ」

 言って、洗濯機の横に置いてある植木鉢に隠してあった合鍵を渡す。

「ほい、これ。合鍵ね。僕は多分、夕方まで寝てるから。勝手に入って、勝手にやって」

「え! いいんですか?」

「別に盗まれて困るものもないし。ふたつ担当がわざわざ寄こしたんだ。君も相当優秀なんだろ。期待してる。じゃあ、お疲れ様。今日のところは帰っていいよ。僕もすぐに寝るしさ」

「あ、はい。お疲れ様でした」

 ぺこりと頭を下げた少女の脇を抜けて、部屋の鍵を開ける。

 ドアノブは冷えきっていて、手のひらが少し痛んだ。それを我慢して、扉のむこうへ。

 ──パタン。

 閉じた部屋の中へと飛び込んだ僕の脳裏には、しかし、少女の顔がいまだはっきりと残っていた。不意に思いたって、すぐにもう一度ドアを開ける。

 彼女はまだそこに立ち尽くしていた。

「一個だけ聞くのを忘れてた。名前は?」

「ああ、えっと」

 ささっと、少女は身だしなみを整えて、

しろはなまつといいます」

 とてもうれしそうに笑っていた。

 しろはなまつくん、ね。

 ちぃ、覚えた!

 その名前は、不思議と僕の中へ自然に溶け込んでいった。まるで昔から知っていたかのような。そんなことないはずなのに。彼女も初めましてって言っていたし。

 その奇妙な感覚を持て余しつつ、まつくんに告げる。

「じゃあ、おやすみ。まつくん」

「はい、おやすみなさい。ホヅミ先生」

 やっぱり、耳にむような不思議な声だった。

 今なお、うれしそうに笑って、胸のあたりで小さく手なんて振っている。

 全く、なにがそんなに楽しいのやら。

 苦笑しつつ今度こそドアに内側から鍵をかけて、水を一杯だけ飲む。

 それから、編集部から届いた荷物の確認。

 品名に書かれてある文字に顔をしかめて、開けないまま押し入れに突っ込んでおく。

 ああ、ようやくだ。ようやく寝れる。原稿で徹夜続きだったから、三日ぶりの睡眠だ。外出着のまま、敷きっぱなしにしていたとんに膝からがくんと倒れ込んだ。

 途端に、体の奥から次々と疲れが湧いて出た。アルコールが体中に巡ってきた感じがする。腕が重い。まぶたの裏側がガンガンと痛んで、頭はもやがかかったように白くなっていく。

 なんだか、やけに疲れたな。ほんと、疲れた。

 そう思ったのと同時に、僕の手から意識がするりと離れていった。

 あっという間に、眠りに落ちた。

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