第一話 作家と担当と打ち合わせ(1/2)

 東京都千代田区某所。

 高くそびえ立つビルの一室で、僕は判決を待っていた。

 朝早くから電車を乗り継ぎ、受付で偽名ペンネームを告げ、エレベーターで指定の階までのぼり、やたらとわいい美少女たちが表紙を飾る文庫本に囲まれたスペースへ通されてから早二時間。

 最初は世間話なんかを挟んでいたもののいつしか話題は失われ、僕は銅像のように黙り込み、やがてはふたつ担当が手の中にある原稿を黙々とめくり続けるだけの時間が流れていった。

 しかし、それも永遠には続かない。

 チクタクとりちに時を刻み続ける秒針の足音に耳を傾けていると、

「うん!」

 ドキッと心臓が飛びあがった。

 落書きの一つもない無機質な机の表面で、ふたつ担当が百数十枚に及ぶ原稿の端をれいに整えている。トントン、と規則正しくどこかとがった音が響く。

 最初、彼女に渡した時にはきっちりと端をそろえていたのだが、一枚、また一枚とめくられるたびに少しずつズレが生じたのだった。

 仕切り板一枚だけで区分けされた打ち合わせ用スペースに、ごくりと僕の唾をみ込む音だけが浮かんで消えた。より正確に表現するのなら、ごきゅり、だったかもしれない。

 とにかく、それくらい緊張していたのだ。

 喉はカラカラだった。ふたつ担当が用意してくれていた二リットルペットボトルの緑茶は、待っている間に空いてしまった。

 もう何十回も繰り返したことだとはいえ、この瞬間はいつだって緊張するし、怖い。

 正直、逃げたい。

 それでも、ここを通過しなくては次のステップは踏めないのだ。

 ちらり、と目の前に座るうるわしい女性の顔を盗み見る。

 それに気付いたのか、ふたつ担当は芸能人すら裸足はだしで逃げ出しそうな美貌をいかんなく発揮してにっこりと笑った。ふんわりと髪にかけられたパーマの先が、やっぱりふんわりと揺れる。緊張が、少し解けていく。これは、まさか!

 いけるのか?

 いけちゃったりするのか?

 ホヅミ先生、大勝利~!! 的な?

 しゃー、んなろー!

 いやおうなく、内なる僕のテンションがあがる。机の下で、ガッツポーズの準備はできている。さあ、言え。ほら、言え。あの言葉を。そして、ひれ伏せ。うははは。

 机の上に寝かせられた原稿の表面を、ふたつ担当の丁寧に手入れされた指先がどこかいやらしくう。

 そして彼女は、そのバラのようにあでやかに引かれたルージュの唇をこんな風に動かした。


「ボツね♡」


 語尾についたハートマークが、目を〝ぎよう〟にすれば見えるんじゃねってくらいわいらしい声だった。しかし、内容は全然これっぽっちもわいくはなかった。判決、死刑。思ってたのと真逆の反応。頭が真っ白になる。サラサラと灰になって吹き飛んでいく自尊心。

 声も出せない。

 再起動まで、あと五秒。

「駄目です。これじゃあ、売れません」

 立ち直る間もなく追い打ち。

 心臓に三百六十五のダメージ。

 判定はクリティカル。

 ぐふっ。ひ弱な作家の体力ゲージなんて一気に赤く点滅して、そのままギュイーンと空っぽになる。再演算開始。起動まで、あと、あと。ピー、ガガガッ。起動不能起動不能。チーン。

 ホヅミ先生の次回作にご期待ください。完!

 ……。

 …………。

 ………………じゃ、ねえええよっ!

 人生、そうそう都合よく終わってくれないもんである。

 どれだけの絶望を突き付けられようと、体力がゼロになろうと、泣こうとわめこうと、僕たちのこの不条理で残酷な世界ってのはどこまでも続いていく。

 まあ、だからこそ、やり直しとかが利くんだし、逆転満塁ホームランもあるんだろうけど。

 それはそれとして、今はこの栄養不足でやたらと骨ばっている平らな胸が痛い。小学生の時、ちょっと気になってた女の子に陰で泣き虫って言われてたのを知った時くらいつらい。

「ぼ、ぼぼぼ。んぼ、ボツぅ?」

 とはいえ、一応、再確認。

 過呼吸のせいでく発音できなかったが、ツッコミはなかった。

 ふたつ担当はやっぱり笑顔を崩さない。

「はい」

「全部?」

「そう。全部」

 さらりと切り捨てられる。

「OKをもらったはずのプロットの原稿なんだけど?」

「でも、思ってたのと違ったっていうか。というか、先生だって、序盤の方、プロットから随分と変えちゃってるじゃない」

「コンセプトは変えてないだろうっ。話の流れだって。第一、僕はこっちの方が面白いと思ったからこうしたんだ」

「私はそうは思わないわ」

 即答。

 くそう。ならば、手を変えてみるか。

「これ、僕の三ヶ月の結晶なんだよね」

「はあ」

「このままだと、僕、半年以上無収入になっちゃうんだけど?」

「うん? それが?」

「それが、じゃなくてっ! てか、鬼か! ふたつ担当、鬼の目にも涙って言葉、知ってる?」

「んー、言葉の意味は知ってるけど、今は知らない。編集部としては、面白さの担保のないものを本にするわけにはいかないの。わかるでしょう?」

 はー? っはー? なに言っちゃってくれてるの? 面白いだろ、めちゃくちゃ面白いだろ。傑作だろ。なんなら新人賞取れなおしちゃうレベルだろ。本当にちゃんと読んだの?

 あんたのその大きくて、ラブリーチャーミーな瞳は節穴かよ。

「この前のも、その前のも全ボツだったよね?」

「ああ、そう言われればそうね。で、それがどうかしたの?」

「……おま、おまっ。お前なああああああっ! こ、これが人間のやることかよぉぉぉ!!」

 血の涙を流しながら駄々っ子のようにバンバンと手のひらを机に強くたたきつけると、ようやくふたつ担当の表情が変わった。めっ、とそこに宿る光はまさしく子供を𠮟る親のものである。

「まあ、ホヅミ先生。駄目。暴力は駄目よ。作家たるもの、戦うなら言葉を使いなさい。というか、担当編集にくちげんで負ける作家ってどうなの?」

「うるせー。ばーかばーか」

「わー、ホヅミ先生ったら悪口の語彙なさすぎ。小説だと、あんなに素敵な表現をするのに、どうしてなの?」

 言い返せず、僕はガツッゴーンと机の上に突っ伏した。

 ああ、と響くうめき声と共に魂が家出していく。実家に帰らせていただきますって勢いだ。おーい、魂。君の実家は僕の体ここだぞ。気が済んだら、帰っておいで。

 やあ、みんな、と体を抜け出した魂が、次元の壁を越え、に直接語りかける。

 これまで繰り広げてきた一連のやり取りでなんとなく状況を把握できた人も多いとは思うけど、あえて、ここで一度、自己紹介的なものを入れてみるね。

 では、はじまりはじまり。

 僕、ことからつかはじめは作家である。

 より正確さを求めれば、ライトノベル作家ってことになるのだろう。

 よわい、二十八。大学四年の時に書いた小説が運よく──あるいは運悪く──ライトノベルの新人賞を受賞してとんとん拍子でデビューが決まり、それから六年ほど小説を書いて暮らしている。決して楽な生活ではないけれど、年に二、三冊の文庫本を出すことでどうにかこうにか専業作家として生計を立てているのが現状だ。

 ペンネームは本名の由来でもある誕生日をそのまま持ってきて、八月朔日ほづみ

 こう書いて〝ホヅミ〟と読む。

 旧暦のはちがつついたちは現在の九月中旬頃を指していたこともあり、稲の刈り取りが行われ、穂を摘む時期であったから〝ホヅミ〟と読まれるようになったんだとか、うんぬんかんぬん。

 そして、僕の目の前で憎たらしくもわいらしい笑みを浮かべているのは、担当編集であるふたつシオさん。デビューの時からずっとお世話になっている唯一のお得意様にして、相棒にして、殺したいほど憎らしくもある敵役だ。

 くりいろのふわふわとした長い髪。整った目鼻立ち。グラビアアイドル顔負けのスタイルをしていて、一見、人畜無害そうな笑顔を浮かべているけれど、仕事に関しては一切の妥協を許してくれない。鬼のように残酷で美しい才女なのである。

 そのふたつ担当が、おーい、なんて言いつつ机に突っ伏している僕の頭を突いてくる。

 自己紹介げんじつとうひを終えて気が落ち着いたのか、ようやく帰ってきた魂をかぷっと一みにしながらちらりと顔をあげると、そこにははちきれんばかりに実った〝たわわ〟があった。

 ジャイアントでグレイトなGカップだった。

 触れたら程よい弾力で跳ね返されそうな。

 それでいて吸い付いてきそうな。

 思わず、視線がくぎ付けになる。

「あ! まーた胸を見てる。ほんっとしょうがないな。この童貞は」

「ど、どどど、童貞ちゃうわ。あと、編集部でそんなこと大声で言わないでよ」

 詰まりつつ、僕はやっぱりその魅惑の果実から目を離せない。

 この男、童貞である。

「その反応はどう見たって童貞のそれでしょう。大丈夫。編集部全員、知ってるから。というか、ホヅミ先生、今、二十八よね。ヤバいわよ。魔法使いになっちゃうかも」

 なにが楽しいのか、くすくすと笑い続けるふたつ担当。

 おい、笑いごとちゃうぞ。てか、編集部全員ってマジか。全員で僕を笑っているのか。どうする? 処す? 処す? いや、まだ笑ってもらえる内が花なのかもしれない。

 真顔で言われたら、お前を殺して、僕も死ぬ。

 三十を過ぎて童貞だったら魔法が使えるようになるというのは、まことしやかにささやかれる都市伝説である。真偽のほどはさだかでないが、結構な不名誉であることは間違いない。そして、彼女の言う通り、このままではあと少しで僕もその仲間入りを果たしてしまう。しかし、否。

 断固として否を訴える。

 僕はヤツらとは違う。

 チャンスは、ここにっ、目の前にいいいぃぃぃっ、転がっているんだっ。

「心配するくらいなら、そのエロい体で童貞を捨てさせてくれよおおおぉぉぉ」

「じゃあ、早く百万部売れるような作品を書いてみせて。いつも言ってるじゃない。百万部売ったら、なんでもしてあげるって。それとも、私じゃ不満かしら、なんてね」

「ぐぬぬぬ」

 そうなのだ。

 この女。

 デビュー当時からずっとそう言って、純粋な僕をたぶらかしてきたのだ。

 そして、かくも男という存在は女の乳に弱く、同時に性欲というものは人に与えられた最大の衝動であるということもあり、愛のままにわがままに、僕はっ! あのっ! Gカップを好きにしようとっ!

 今日まで絶えず頑張ってきたのだった。

「いつも思うんだけど、百万部はちょっとハードル高すぎじゃない?」

 ぶすっと不満を口にする。

 業界最大手と名高いこのレーベルでさえ、数えるほどしか成し遂げた者がいない。ミリオン作家とは、選ばれた人間だけが名乗ることを許される至高の称号だ。

「そんなことないわ。不遜じゃなく、私の体にはそれくらいの価値があるもの。安売りはしない主義だし。先生と同期のおとなか先生なんて、もうすぐ三百万部よ。だから、ね! ホヅミ先生も頑張って新しい作品にチャレンジしてみましょ! 先生の場合、百万部うんぬんよりも、童貞を捨てるよりも、とりあえず先にもう一つの童貞を捨てるところからスタートしなくちゃいけないんだから」

 力強く口にされた、もう一つの童貞。

 ああ、なんて嫌な響きだろう。

 男としてこの世に生を受けた際に、我々は〝童貞〟というひどく卑屈な状態異常を背負わされる運命にあるのだが、作家という職業を経ると、あら、不思議。

 同時にもう一つ同じような不名誉をその身に宿すことになる。

 それこそが〝重版童貞〟である。

 もともとは某有名出版社の名物編集が、デビューから一度も重版のかかっていない作家を指して使った言葉なんだとか。詳しくは知らないけど、要は重版未経験者。

 重版とは、本が予定よりも売れて増刷される制度のこと。

 つまりだ。君の書く本は追加で刷るほど売れてませんよ、ワロスワロス、と今、この担当はしているのだ。まあ、悲しいことに事実なんだけどさ。

 この担当、やっぱ鬼だ。気遣いなんてじんもない。どうせ鬼なら、虎柄ビキニでも着て、ダーリン、愛してるっちゃとかって言ってくれたらいいのに。そういうサービスはないんだもんな。それにしても、

「童貞の重版童貞、ねえ」

 思わずぽつりとこぼしてしまう。

 それが悪かった。

 言葉にすると急速に、今、自分の置かれている立場に現実感を得てしまうのだった。

 二十八歳。

 男としても、社会人としても一番しい時期だ。

 なのに、この体たらく。ヤバいどころじゃない。もうここまできてしまったのなら、最高の女で童貞を卒業しなくては割に合わない。つまり、百万部を売り上げて、この体だけは最高の女を抱かなければ、僕の人生に価値なんてない。そう、僕は童貞をこじらせていた。

 慌てて上半身を起きあげた僕に、ふたつ担当はにっこりと笑った。

 まるでそれを待っていたかのようなようえんな笑み。

 髪をかきあげる仕草なんて本当にセクシーで、ふわりと甘い香りが漂ってくる。ああ、しまった。いつもこうなんだ。こうやって、手玉に取られる。

 どうやら僕には学習能力なんて機能は備わっていないらしい。

「あら、やる気になった? じゃあ、楽しい楽しい打ち合わせを始めましょうか」

 天使の顔をした悪魔が、そこにいた。

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