第一話 作家と担当と打ち合わせ(1/2)
東京都千代田区某所。
高くそびえ立つビルの一室で、僕は判決を待っていた。
朝早くから電車を乗り継ぎ、受付で
最初は世間話なんかを挟んでいたもののいつしか話題は失われ、僕は銅像のように黙り込み、やがては
しかし、それも永遠には続かない。
チクタクと
「うん!」
ドキッと心臓が飛びあがった。
落書きの一つもない無機質な机の表面で、
最初、彼女に渡した時にはきっちりと端を
仕切り板一枚だけで区分けされた打ち合わせ用スペースに、ごくりと僕の唾を
とにかく、それくらい緊張していたのだ。
喉はカラカラだった。
もう何十回も繰り返したことだとはいえ、この瞬間はいつだって緊張するし、怖い。
正直、逃げたい。
それでも、ここを通過しなくては次のステップは踏めないのだ。
ちらり、と目の前に座る
それに気付いたのか、
いけるのか?
いけちゃったりするのか?
ホヅミ先生、大勝利~!! 的な?
しゃー、んなろー!
机の上に寝かせられた原稿の表面を、
そして彼女は、そのバラのように
「ボツね♡」
語尾についたハートマークが、目を〝
声も出せない。
再起動まで、あと五秒。
「駄目です。これじゃあ、売れません」
立ち直る間もなく追い打ち。
心臓に三百六十五のダメージ。
判定はクリティカル。
ぐふっ。ひ弱な作家の体力ゲージなんて一気に赤く点滅して、そのままギュイーンと空っぽになる。再演算開始。起動まで、あと、あと。ピー、ガガガッ。起動不能起動不能。チーン。
ホヅミ先生の次回作にご期待ください。完!
……。
…………。
………………じゃ、ねえええよっ!
人生、そうそう都合よく終わってくれないもんである。
どれだけの絶望を突き付けられようと、体力がゼロになろうと、泣こうと
まあ、だからこそ、やり直しとかが利くんだし、逆転満塁ホームランもあるんだろうけど。
それはそれとして、今はこの栄養不足でやたらと骨ばっている平らな胸が痛い。小学生の時、ちょっと気になってた女の子に陰で泣き虫って言われてたのを知った時くらい
「ぼ、ぼぼぼ。んぼ、ボツぅ?」
とはいえ、一応、再確認。
過呼吸のせいで
「はい」
「全部?」
「そう。全部」
さらりと切り捨てられる。
「OKをもらったはずのプロットの原稿なんだけど?」
「でも、思ってたのと違ったっていうか。というか、先生だって、序盤の方、プロットから随分と変えちゃってるじゃない」
「コンセプトは変えてないだろうっ。話の流れだって。第一、僕はこっちの方が面白いと思ったからこうしたんだ」
「私はそうは思わないわ」
即答。
くそう。ならば、手を変えてみるか。
「これ、僕の三ヶ月の結晶なんだよね」
「はあ」
「このままだと、僕、半年以上無収入になっちゃうんだけど?」
「うん? それが?」
「それが、じゃなくてっ! てか、鬼か!
「んー、言葉の意味は知ってるけど、今は知らない。編集部としては、面白さの担保のないものを本にするわけにはいかないの。わかるでしょう?」
はー? っはー? なに言っちゃってくれてるの? 面白いだろ、めちゃくちゃ面白いだろ。傑作だろ。なんなら新人賞取れなおしちゃうレベルだろ。本当にちゃんと読んだの?
あんたのその大きくて、ラブリーチャーミーな瞳は節穴かよ。
「この前のも、その前のも全ボツだったよね?」
「ああ、そう言われればそうね。で、それがどうかしたの?」
「……おま、おまっ。お前なああああああっ! こ、これが人間のやることかよぉぉぉ!!」
血の涙を流しながら駄々っ子のようにバンバンと手のひらを机に強く
「まあ、ホヅミ先生。駄目。暴力は駄目よ。作家たるもの、戦うなら言葉を使いなさい。というか、担当編集に
「うるせー。ばーかばーか」
「わー、ホヅミ先生ったら悪口の語彙なさすぎ。小説だと、あんなに素敵な表現をするのに、どうしてなの?」
言い返せず、僕はガツッゴーンと机の上に突っ伏した。
ああ、と響くうめき声と共に魂が家出していく。実家に帰らせていただきますって勢いだ。おーい、魂。君の実家は
やあ、みんな、と体を抜け出した魂が、次元の壁を越え、
これまで繰り広げてきた一連のやり取りでなんとなく状況を把握できた人も多いとは思うけど、あえて、ここで一度、自己紹介的なものを入れてみるね。
では、はじまりはじまり。
僕、こと
より正確さを求めれば、ライトノベル作家ってことになるのだろう。
ペンネームは本名の由来でもある誕生日をそのまま持ってきて、
こう書いて〝ホヅミ〟と読む。
旧暦の
そして、僕の目の前で憎たらしくも
その
ジャイアントでグレイトなGカップだった。
触れたら程よい弾力で跳ね返されそうな。
それでいて吸い付いてきそうな。
思わず、視線がくぎ付けになる。
「あ! まーた胸を見てる。ほんっとしょうがないな。この童貞は」
「ど、どどど、童貞ちゃうわ。あと、編集部でそんなこと大声で言わないでよ」
詰まりつつ、僕はやっぱりその魅惑の果実から目を離せない。
この男、童貞である。
「その反応はどう見たって童貞のそれでしょう。大丈夫。編集部全員、知ってるから。というか、ホヅミ先生、今、二十八よね。ヤバいわよ。魔法使いになっちゃうかも」
なにが楽しいのか、くすくすと笑い続ける
おい、笑いごとちゃうぞ。てか、編集部全員ってマジか。全員で僕を笑っているのか。どうする? 処す? 処す? いや、まだ笑ってもらえる内が花なのかもしれない。
真顔で言われたら、お前を殺して、僕も死ぬ。
三十を過ぎて童貞だったら魔法が使えるようになるというのは、まことしやかに
断固として否を訴える。
僕はヤツらとは違う。
チャンスは、ここにっ、目の前にいいいぃぃぃっ、転がっているんだっ。
「心配するくらいなら、そのエロい体で童貞を捨てさせてくれよおおおぉぉぉ」
「じゃあ、早く百万部売れるような作品を書いてみせて。いつも言ってるじゃない。百万部売ったら、なんでもしてあげるって。それとも、私じゃ不満かしら、なんてね」
「ぐぬぬぬ」
そうなのだ。
この女。
デビュー当時からずっとそう言って、純粋
そして、かくも男という存在は女の乳に弱く、同時に性欲というものは人に与えられた最大の衝動であるということもあり、愛のままにわがままに、僕はっ! あのっ! Gカップを好きにしようとっ!
今日まで絶えず頑張ってきたのだった。
「いつも思うんだけど、百万部はちょっとハードル高すぎじゃない?」
ぶすっと不満を口にする。
業界最大手と名高いこのレーベルでさえ、数えるほどしか成し遂げた者がいない。ミリオン作家とは、選ばれた人間だけが名乗ることを許される至高の称号だ。
「そんなことないわ。不遜じゃなく、私の体にはそれくらいの価値があるもの。安売りはしない主義だし。先生と同期の
力強く口にされた、もう一つの童貞。
ああ、なんて嫌な響きだろう。
男としてこの世に生を受けた際に、我々は〝童貞〟というひどく卑屈な状態異常を背負わされる運命にあるのだが、作家という職業を経ると、あら、不思議。
同時にもう一つ同じような不名誉をその身に宿すことになる。
それこそが〝重版童貞〟である。
もともとは某有名出版社の名物編集が、デビューから一度も重版のかかっていない作家を指して使った言葉なんだとか。詳しくは知らないけど、要は重版未経験者。
重版とは、本が予定よりも売れて増刷される制度のこと。
つまりだ。君の書く本は追加で刷るほど売れてませんよ、ワロスワロス、と今、この担当は
この担当、やっぱ鬼だ。気遣いなんて
「童貞の重版童貞、ねえ」
思わずぽつりと
それが悪かった。
言葉にすると急速に、今、自分の置かれている立場に現実感を得てしまうのだった。
二十八歳。
男としても、社会人としても一番
なのに、この体たらく。ヤバいどころじゃない。もうここまできてしまったのなら、最高の女で童貞を卒業しなくては割に合わない。つまり、百万部を売り上げて、この体だけは最高の女を抱かなければ、僕の人生に価値なんてない。そう、僕は童貞を
慌てて上半身を起きあげた僕に、
まるでそれを待っていたかのような
髪をかきあげる仕草なんて本当にセクシーで、ふわりと甘い香りが漂ってくる。ああ、しまった。いつもこうなんだ。こうやって、手玉に取られる。
どうやら僕には学習能力なんて機能は備わっていないらしい。
「あら、やる気になった? じゃあ、楽しい楽しい打ち合わせを始めましょうか」
天使の顔をした悪魔が、そこにいた。
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