第二章 八節 生きたところで
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〔記録ノート 3〕
十月三十日。
手術が無事に終了してから一週間が経ち、患者が覚醒した。言語中枢、脊髄等、異状はないとみられる。但し内臓器官に幾つかの損傷と機能停止。一週間前までの活力は見られない。尚、昏睡状態の七日間に信号の乱雑化、過剰電流の発生はなし。現在のところ薬剤等生体拒絶反応なし。
壊死した臓器の一部を採収、検査すると、案の定、線虫型のUNCが大量に繁殖していた。それだけではなく、一匹一匹が肥大化しており、触手にも似た繊毛が生えていた。また、数匹孵化するかのように発芽している個体もおり、そこから黴カビのように生え、蜘蛛の巣のように広がっていた。この基盤がUNCを肥大化させ、活性化させたのだろう。
まるで大量の寄生虫が侵蝕しているかのような不気味さ。擬態微生物という名の遺伝的突然変異体のため、その内本当に寄生虫になるかもしれないことを想定しておこう。
ガスマスクを着け、412号室に入る。一週間ぶりにあの患者の声を聞くことになるので皮肉にも懐かしい気分になる。
だが、あのとき私に向けた憎しみの瞳とはうって異なり、痩せこけ、目の輝きがほぼ失いかけている。だが、まだ生気はある。両手の欠けた包帯の腕が痛々しくも見えるが、ある意味では自業自得だ。
「気分はどうだ?」
「……全身が変な感じ」
全身麻酔のためだろう。患者はゆっくりとこちらを見る。いつもと違う反応が調子を狂わせる。
「ならいいが」
私はパイプ椅子を出し、ベッドのそばに置く。私は腰掛け、いつものようにタブレットノートの電源をつけ、患者の顔を伺う。だが、いつものような嫌悪溢れる表情はしない。
「……病気、本当に治るの?」
突如話し始めた。弱弱しく、不安が混ざっているのが分かる。私は動きを止めた。
「治らないと言ったら?」
返事はなかった。少し意地悪だったかと、息を吐く。
「まぁ、治そうとしなければ医者とはいえないからな。どうした、死を間近にして不安になっているのか?」
「……生きたいの。まだ死にたくない」
その声は半ば震えているようにも聞こえた。やはり死への恐怖を感じているのか。
「そうだろうな。誰も死にそうになっているやつが生きたくないというはずがない」
「本当に生きたいの……なにがなんでも、私は死にたくない……」
そうか、と私は一言呟き、医療用タブレットの操作を続けながら、
「どんなことがあっても、自分は生きたい。そう言いたいんだな」
患者はこくりと不器用に首を動かす。
「ひとつ訊く」
少しの間の後、私は患者の金色の瞳を見つめる。
「これ以上生きて何になる」
ひどく冷たい声だっただろう。突き刺さるように傷ついたことを掲示する瞳。当然ながら、患者は黙り込んだ。
「延命治療を受け続けて、薬漬けにされて、人に迷惑をかけ続けて、そこまでして生きたい理由がおまえにあるのか」
「……」
普通だったら怒鳴り込んでは反論しただろう。だが、衰弱しているのか、それとも、それこそ本当に悩んでいるのか。患者は沈黙を続けた。
だが、この
病人において、この先、生きたい理由なしでは、生き続けるのは困難だ。理由を強く持たねば、小さなことでも簡単に折れる。フランソアの言う通り、精神面メンタルが重視されるだろう。
ここで言わなければ、この先の苦痛は乗り越えていけない。
「……外に、出たい」
「ん? なんか言ったか」
「外に出たい……!」
芯の通った声だった。強い思いが込められていることは確かだ。
「それだけのことでも……それでも私は外の景色を見て、外の風を浴びたいの……!」
外。そういえばこいつは小さいころから入院生活を送っていたな。確かカルテでは七歳から……つまり十年もずっとこの病室にいる。
「希望は分かった。外に出られたらどこに行きたい」
「いろんなお店に行って……おいしいものをたくさん食べたい」
「そうだな。治した暁には好きなだけ食べさせてやる」
「……! 本当に?」
その表情は嬉しそうなものだった。麻酔でうまく表情がなっていないが、確かに喜びを示している。私に初めて向ける表情だ。
「あぁ、約束する」
私はガスマスク越しで微かに笑ってみせた。それ故なのかわからないが、微かに安心した顔を私に見せた。
それにしても、やはり何かしらの危機感を抱くと嫌いな人でも頼らざるを得ない、友好的態度をとるという、ある哲学者の話は本当だったようだと片隅で感心する自分がいた。
あれだけ嫌っていたというのに、急に態度が変わるということは、誰でもいいから助けてほしいという暗示なのだろうか。少なくとも、死の間際の自覚はしたということだ。
「あ、それと」とためらうように口を開く。
「まだ行きたいところがあるのか」
「うん……家族みんなで行った教会前の花園に」
「教会前の花園か。どこの教会だ」
「よく覚えてない……でも、不思議な花がたくさん咲いていたのは覚えてる」
「不思議な花……?この世界にはいろいろあるが」
「え、と……昼夜で黒と白に変色して、四季で赤や青、黄色と、それから緑の四色に変わる花なんだけど」
聞いたことがある。確か、名は何だったか。頭痛とともに記憶を思い出させる。
「トリニオス、だったか。時の神が愛でた色彩の花だと聞いたことがある」
「たぶんそれのことかも」
いまだ思い出せないままでいる患者は口を小さく動かした。
今は秋から冬にかけているので黄色だろう。冬になれば青に染まる。
タブレットノートからネットワークを接続し、「トリニオス 教会」と検索する。
「……アルモス教会か」
調和と混沌を司る唯一神を信仰するアルモス教。この世界には数百を超える宗教が存在する。多すぎるのでいちいち覚えてられない。しかし、その教会の場所は案外ここから遠いわけでもなかった。
「それのことかもしれない。行ってみれば思い出せるかも」
「そうか」
記憶が曖昧だが、十年前のことだ。無理もないだろう。
検索したついでにトリニオスの変色について検索をかける。
土から水分とともに吸収されたアルミニウム等と色素アントシアンが混じることで変色するアジサイとは異なり、光量、温度、湿度で分泌される色素バランスが変化する。または細胞プログラムで周期的に変色の補助として働く説もあるという。
それらの条件によってジベレリンやサイトカイニンなどの植物ホルモンの分泌量が変化することにも色素と関係があるらしいが、何より発芽してから一年を通して栄養成長し、葉芽を形成していき、花芽形成という生殖成長の後に咲いた花は四年間その姿を保ち続けるという。
花言葉は当然『四季』と、
(『死期』……? 駄洒落か?)
笑いすら起きなかったが、とりあえず誰かが決めたのだろうと思い、タブレットノートのバックライトを消す。
「前からずっと思っていたが、ここには花すらないんだな」
初日からそうだったが、辺りを見回しても花瓶らしきものは一切なかった。あるのはこの間名の知らない少年が間接的にプレゼントした7色の蝶の折り紙ぐらいだ。スタンドの傍に家族写真と共に置いてあるので気に入ってはいるようだ。
「うん、お見舞いに来る人いないから……」
物哀しげに窓の外へ首を向ける。枯れかけた紅葉が冷たい風に吹かれ、葉を散らしていく。
「テレビがあるのにそれをつけないのは何でだ?」
「……変なものが視えるの」
「変なもの?」
幻覚だろう。自分の脳が作り出した映像もうそうに過ぎない。だが、これも立派な症状なので問いかけてみる。
「電源をつけたらとても怖い死神が話しかけてくるの。今そっちにいくからって」
「それは恐ろしいな」と感情を伴わない同情をする。
「でも夜中、テレビ消していても、誰かが話しかけてくるの。こっちに来ないかって」
「そこまでいくとはな。それは自分の心を強く保たなければすぐにやられてしまうぞ」
「……治してくれるんじゃないの?」
他力本願か。口から出そうになったが、今ここでいうことではないと判断した。敢えて別の言葉を選んだ。
「治すとは言ったが、最終的に左右されるのはアイリス、君の生きたいという意思だ。僕ら医者は主力であるが、あくまでサポート役だ。君の気の持ちようですべてが変わる」
「私の……気持ち?」
「あぁ、強い心こそが、一番の薬だ。強く生きろ」
「……うん」
小さい返事だった。しかし、不安そうな表情は少し和らいでいた。
「よし、いい返事だ。じゃ、また明日な」
「うん……」
彼女は金色の瞳で私を見て、不器用にこくりと頷いた。やはり体が弱っている。いつもなら何かしら反発してくるからな。
私は真っ白な病室を後にする。いつも感じる薬剤の強い匂いが弱まった気がするが、大丈夫だろうと、一瞬の思考のみで済ました。
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