第二章 七節 蝕む悪夢
1
深夜二時を過ぎ、私は悪夢と激痛と共に目を覚ました。
「――っ、はぁ、はぁっ、ぐ……あぁああぁ……」
痛い。
痛い痛いいたいイタイイタイ!
全身が悲鳴を上げている。脳が引きちぎられているような激痛だ。
唸り、叫ぶ。
喉がはち切れそうなほど叫ぶ。
ベッドから転げ落ちる。じっとしてられない。机の上の書類を掻き乱す。物を叩き壊す。壁に頭をひたすらにぶつける。自分の声とは思えない奇声を発する。
誰か……誰か!
この衝動を止めてくれ!
だが、その思いは当然誰にも届くことなく、突如目の前が真っ暗になり、全身が倒れたような鈍い衝撃が走ったのを最後に、私の意識は失った。
2
「ゼクロスさん、聞いてるか?」
ハッとすると、レーザン先生が少し睨んだ目で私を見ていた。
「あ、あぁすいません。……ぼんやりしていました」
今は六人の研究協力者同士の会議ミーティング。新型感染体「UNC」の研究と昏睡状態の患者アイリスの今後について話し合っていた。そろそろ終わりそうだったため、気が抜けていたのだろう。
「ぼーっとしてたってゼクロスさんらしくないな。大丈夫か? ここのところ顔色も悪いし」
「大丈夫です。元々こういう顔ですから」
「いんや、更に悪くなってる。下手すりゃ真っ青どころか顔面青痣みたいになるぞ」
軽く笑いが起きる。私も特に考えることなく苦笑した。
「まぁミーティング中に集中できなくなるのはよくないことだが、具合が悪くなったら休んでも構わんよ」
「ありがとうございます。でも大丈夫なので」
実質、私よりもみんなに感染させていないかの心配はあるが。
「じゃあゼクロスさんの具合も悪いし、これでミーティングは終了! 一旦休憩を取ってくれ」
このあとはただひたすらに研究に没頭。少人数だが、みんな優秀なので特に困ることはない。ただ足を引っ張らないようにしなければ。そのためにも今はこうやって疲れた顔をしている場合ではない。感染は、私たちの都合を考えてくれはしないのだ。
3
リノバンス中央病院第一病棟屋上。ここには好みの珈琲がある自販機が設置されている。そのため、院内で気を抜くとき、大体ここに寄る。
ガシャコン、と缶が落ちる音。それを取り出し、カシュ、と開ける。
「ふぅ……」
やはりこの苦味が落ち着く。私は白い鉄柵に体重をかけ、街の景色を眺める。気温は低いが、それでも数時間に一度は外の風を浴びたい。
「ゼークロースさん!」
うなじに熱いものが当たる。反射的にびくりとし、後ろを振り向く。
「あっはは! ゼクロスさんのこういうリアクションはおもしろいな」
缶コーヒーを私の首に当てたトーマスは大きく笑う。こういうお調子者さがレーザン先生と似ている。だから昔から仲が良いのだろう。
「ライアンさん、やめてください」と少しだけ睨む。
「おーそうか、こーいうノリは苦手かー。まぁでもゼクロスさんがやさしくてよかったよ。俺の医院のノリ悪い後輩なんかブチキレてくるからな。なにもそこまでっていうくらいに」
そう言っては笑い始める。どうもこの性格は好かないが、好意的であることに対しメリットがないわけではない。まぁ一定範囲内なら嫌われているよりはマシだろう。
「あ、別にトーマスでいいぞ。俺たちは研究職の仲だが、これを機に友達になろうじゃねぇか! あっはっはっは!」
本当に元気がいいな。私は研究で疲れているというのに。疲れ知らずとはこのことか。
「……はい。トーマスさんも休憩しにここへ?」
「ん、まぁな。全部の病棟で屋上に自販機あるのここだけだし」
「院内にもいくつかありますが」
「たまには寒い風浴びて目を覚まさないと、この後の仕事で集中できない気がするんだよ。俺この後出張だし」
「そうなのですか」
「ま、数日居ないけど、頑張れよ」
「はい」と私はそっけない返事をする。
「ああそうだ」と何か思いついたような顔をした。
「感染を防ぐのはわからんが、ぶっちゃけあの患者を治せるのはレーザンじゃなくてゼクロスさんだと思うんだよね」
「何故そう考えたんですか?」
「一番年が近いからさ」
自信満々に言った。内心呆れに浸っていたが、おそらく私の表情はぽかんと固まっていたと思う。
「ま、応援してるぜ。いろんな意味でな」
肩をポンとたたき、大きく笑いながらライアンは院内へ戻っていった。
「……何なんだあの人」
少し考え込んだが、身体がだるく、頭が働かない。考えることをやめ、ただ外の景色を眺めることにした。
もうすぐ午後一時になるので院内に戻り、第五病棟へと向かう。ここのところ外部からの依頼が来ないので、自宅とこの病院の研究室でしか過ごしていない気がする。
「あ、クラウスさん」
曲がりで丁度ジャドソン・クラウスと合流した。向かう先は同じなので、並んで会話をする。
「おー、具合の方は大丈夫かい?」
午前のミーティングのことだろう。そこまでしっかりしていなかった私が珍しかったのか。
「大丈夫です。お気遣いありがとうございます」
「それならいいんだが、あまり無理はするなよ? いくら若いからと言って自分の身体を大事にしなかったら大変なことになるからのう。ましてや医者が病気になったら洒落にならんからな」
冗談を言っては軽く笑う。私は作り笑いをした。
「あぁはい、気を付けます」
「それと、ひとつ尋ねていいかい」
「はい、なんでしょう?」
「若いのに医者で、それも選別者の道を選ぶのは酷だと思うが、どうしてその道に選ぼうと思ったんだね」
「……それは」
躊躇った。沈黙を選んだ。その様子をジャドソンは読み取ったのか、
「まぁ、言いたくないのならば別にいい。そうだ、レーザンさんは回診や他の仕事で午後はいないそうだ」
研究室の前に着き、私とジャドソンは中に入る。
「……」
私が選別者になった理由。不思議なことにどうしてなったのか、あまり覚えていない。そもそも医者になった理由がわからない。誰かを治したかったのか。いや心当たりはない。多忙な生活の中で、私は大切なものをどこかに置いてきてしまった気がする。
それがどんなものだったのか、今の私にとってはどうでもいいことであった。ただ、目の前のことを片付けるだけに専念するのみ。
気が付いたら、私は院内の広い中庭のベンチに座っていた。夕日は沈みかけており、散歩をしていた患者たちは看護士に連れられ、院内へと入っていく。
(……もうこんな時間か)
仕事をしているときの私とそれ以外の私は別人格なのだろうか、先程までの記憶がぼんやりとしている。
「おーい、これだろゼクロスの好きなやつ」
頭の上に何かを置かれる。落ちないようにすぐ取ると、それはブルーマウンテンの缶コーヒーだった。
香霧が私の隣に座る。香霧は糖分の多い炭酸飲料をグイッと飲む。
「あぁ、ありがとうございます」
「いいってことよ。そんなことより、さっきは本当にびっくりしたな。意識不明だってのに、自分の手を噛み千切っているなんて聞いたこともない」
そうだ、思い出してきた。今日の午後の途中でトラブルが起きたことを。
「そう、ですね」
研究中、患者アイリスに異状が発生した。意識がないというのに上体を起こし、ただ夢中で自分の手を食べていたのだ。両の手は既に指四本がなくなっており、掌も半分ほどしかなかった。私たちは慌てて止めたが、その途端に甲高い奇声を発し、暴れたのだ。まるで悪魔でも宿ったかのように。
大量の鎮静剤と麻酔でなんとか解決はしたが、いつまたこのような奇病が発生するのかわからない。
「あら、ふたりともここにいたの」
この声はフランソアか。私と香霧は振り返ると、白衣のポケットに手を入れている姿があった。冷たい風が彼女の金髪を揺らす。夕日に反射され、キラキラと輝いているようにも見えた。
「もしかしてアイリスちゃんの話?」
「まぁ、そうだね。流石にあれはどう対策したらいいか」
香霧が参ったと言わんばかりのリアクションを取る。フランソアは「隣いい?」と言い、私の隣に座る。
「正直私もあんなの見たことない。ゾンビゲームでなら見たことあるけど」
「え、フランさんゲームしてるの?」と香霧。
「ええ、趣味でよくガンアクションやってるわよ。あとホラー系も」
そう話したフランソアはなんだか嬉しそうな表情だった。
「意外ですね」と適当に返す。だが、私の無関心さをフランソアは気付かなかった。
「やっぱり? でも楽しいのよね。でもゲームだからいいのであって、今日起きたことはゲームでも何でもないからね」
「実際にゲームのように感染してゾンビ大量発生で人類滅亡、という可能性もあるってこと?」
香霧は冗談を言いつつも、少し信じているのか表情を引きつらせている。
「でも、これまでにもUNCの劣性遺伝の患者はいるのでしょう。それについて他の医院から資料として読み通しましたが、そのような症状は見られませんでしたよ」
「でも異常な性癖とは書いてあったわよ。カニバリズムも十分に当てはまるわ」
「あれは完全に自食症だったからな」
「それどころか、もう既に第Ⅱ期の症状に入っているので、もう命を失うのも時間の問題です。あの、聞きたいことがあるのですが、第Ⅲ期の症状についてのデータがないのですけど、みなさん知ってますか? 随分前にレーザン先生に訊いてみたのですが、わからないと言われまして」
ふたりは少し考え始める。「レーザンさんでもわからないのか」と香霧は小さい声で呟いた。
「あぁ、一時期そういう議論が出たわね。第Ⅱ期はホルモンバランスの異常。大抵はそれで生体機能を妨げて死に至る人が多いから第Ⅲ期はないと言われているの」
第Ⅲ期の懸念はないということか。ではなぜレーザン先生はあのとき「ない」とはいわず「わからない」と答えたのか。
UNCの研究データを思い返す。
確か優性遺伝は様々な症状をもたらすが、大抵、癌細胞の増加による圧迫、機能不全によるものだった。特異型は最終的には内分泌の異常によるもの。だが、不思議なことに特異型のみ死亡してからの分解、つまり腐敗の進行が通常の死体より遅かった。
劣性遺伝UNCが細胞のリソソーム内の消化酵素の放出を鈍化させたか、蛋白質の消化による嫌気性微生物発生したことによって起きた自己分解機能の鈍化だろうと考えられるが。
「……」
アイリスも同様に内分泌バランスが異常になり、それなりの症状を来しているが、それはあくまでもともとの正常な身体がついていけていないだけであり、全体の値としては普通の人体よりも遥かに高くなっている。
健康以上に超人的な数値ステータスへと日々発達しているのだ。その際、まだ発達していない脳や器官が危険信号を出し、それが壊死や臓器不全だったのかもしれない。
「――だからアイリスちゃんは特例というか例外になっているの。でもその因子はみつからないままだからどうしようもないんだけどね」
「逆にその因子を見つければ治療につながるだろ。な、ゼクロス」
「まぁ、そうですね」とただ返答した。
確かにフランソアの言う通り、病気にも例外はあり、大抵それは今まで発症していなかったか、発見されていなかったか、突然の変異で発症した三つのパターンにわかれるだろう。
UNCはあれ以来一度も大きな変異はしていない。変異する前にワクチンを作らねば。
「それじゃあ、僕は先に研究室に戻ってます。少し身体が冷えましたし」
そう告げて私はベンチから立とうとした。
「あぁちょっとタンマ」
香霧が呼び止める。
「どうしました?」
「いや、大したことじゃないんだけど、ゼクロスってアイリスちゃんのこと嫌いか?」
突然の話題。本当に大したことないなと思いながらも、
「好きや嫌いという観念はつけないようにしてますが」
すると「あ~」とやってしまったなと言わんばかりの顔を浮かべる。何か変なことでも言ったのだろうか。
「それだとね、自然に嫌いな方に寄ってしまうんだよね」
「そうなんですか?」と疑問形で返す。私が無関心なのだから当然のことだろう。
「そうなんだよ。少なくとも相手はそう思っているよ」
そうだとしても、私としてはどうでもいいことだが。
すると、フランソアも話に乗じる。
「患者さんに嫌われるより好かれた方が効率がいいと思うわよ?」
効率という言葉に思わず内心で反応してしまう。だが、そこまで引かれることではない。
「そもそも、患者を治すにはまず患者の心を開かせないと。閉ざしたままじゃ治せるものも治せないわよ? メンタルが大事なの」
確かにそうだとは思う。思うには思うのだが……。
「たまにはアイリスのことを考えて、やさしく接してみたらどうだ?」
「……しかし」
「慣れないとは思うが、やってみなきゃ何も始まらないだろ。しっかりしろってゼクロス。今までこなしてきた仕事より断然楽だろう。今の自分を変えてみろって。きっと楽しいからさ」
香霧は微笑んだ。フランソアも頷いた。
鼻で息を吐く。
「……わかりました。できる限りやってみようと思います」
「よし、じゃあ一緒に研究室に戻るか!」と香霧。ひときわ明るい表情に煩わしく思うも、どこか心地の良さを覚える。
選別者は、死神は嫌われている。故に人との接触はなるべく避けていた。だが関わってみれば、案外そうでもないのかもしれない。
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