第二章 一節 珈琲が冷めないうちに

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 無意識で作ってしまったシナリオを人は真実と勘違いする。

 例えば「盲視」。視力を失ったのに相手の表情やものが視える現象だ。だが、この現象はただの変わった症例である。意識的な視覚系が機能してないが、無意識の視覚系は無傷のままである場合、盲視が起きるのは十分に摂理にかなっているからだ。脳には互いに独立して機能するふたつの層があるということを物語っている。

 私はニュースペーパーサイズにカテゴライズした立体投影に映る経済新聞の記事「人生の成功の秘訣は無意識にあった」を読んでいて、ふと無意識についてのことを思い出していた。


「ねぇ、平均よりは女子力高いエリート女子大生を呼んでおいて、それをすっぽかして新聞読むことはないんじゃないの?」

 心を落ち着ける場所は自宅と、いつも行く喫茶店だと決めている。だが、今回は失敗した。自宅にするべきだった。

 私はフレキシブルデバイスを片手に、ブルーマウンテンの珈琲に口をつける。

「ちょっと、聞いてるの?」

「……ひとつ、僕は君を呼んでいない。勝手に君がついてきただけだ。そしてもうひとつ、自分に自信を持つことはいいが、度を越えると自己陶酔者ナルシストと呼ばれるようになる。大抵の若い男は自分から可愛いという奴を嫌うらしいから気をつけた方がいい」


 新聞を読みながらそう言うと、前の方から溜息が聞こえた。

「もう……少しは構ってもいいんじゃないの?」

 媚びを売るような声が聞こえるが、所詮年下の色気は大したことはない。

「そういうのはどっかの酔った中年にでも吹っかけてくるんだな、茜お嬢さん」

 すると、手の抵抗を感じたと同時、デバイスを取り上げられる。数多の黒い文字配列の景色が一変し、喫茶店の景色と波島茜の半ば怒ったような顔が映る。

「いい加減そのドライな性格卒業したら? そんなんだから恋人できないのよ」

 私はそのつんとした目つきを見上げながら珈琲を啜る。

「昔はいたさ」

「所詮『昔』よ」

 彼女は椅子に座り、デバイスを新聞のように折りたたむ。


「それで、どうだった? 劣性遺伝の患者さんとは仲良くなれた? まぁあなたのことだからどうせ嫌われたと思うけど」

 挑発したような目と声で問いかける。こいつは俺にどうされたいんだと思いながらも、足を組み直す。

「極端に毛嫌いしていたよ。名はアイリス・ネーヴェ、十七歳の少女だ」

 すると、茜は嬉しそうにニヤニヤした。

「どうした」

「んーん、なんでも。ただ、妙な気起こらないのかなって思っただけよ」

「……医者も死生裁判士もそうだが、治療に私情は、特にそのようなけしからぬ思考は――」

「あーあー、わかったから、冗談を言った私が馬鹿だったわ」

 茜は耳を塞ぐ。それが一瞬頭を抱えているようにも見えた。


「で、症状はどうだったの? あ、レーザン先生とは仲良くなれた?」

「友好的な人だったからすぐに打ち解けたつもりだ。それよりも患者の方だ。見た目とは裏腹に症状は酷かった。見た目以上に内組織が破壊されている。僕に怒鳴りつけていたのが不思議なぐらいにね。だから『死亡宣告』したよ」

 すると、茜は心配そうな顔をする。

「そう……余命は数か月程?」

「そうだな。永くはもたない」

 急に黙り込んだ茜の表情を見ずに、微振動したの腕時計型ウエアラベルの画面を開く。大学時代の友人からのメールだった。


(ロミットからか。……あいつライブやってるのか)

 内容はライブの誘い。OBの関係で特別にチケットを半額にするという。あのときのあいつは趣味でバンド始めたばかりで実力も全然だったが、人間数年で変われるものなんだと感心した。副業の範疇ではあるがそこそこ有名になっている。

 だが、どうでもいい話だ。

「……ゼクロス」

「どうした」

 私はロミットからのメールを適当に返信し、彼女を見る。

「いつも思うけどさ、患者に対しての思いやりとかないように見えるんだけど」

「何を言っている、僕はこれでも完璧に治す思いで患者と接してきた」

「でも冷たい態度でしょ、正直」

「なんだっていいだろう」

「それにしてはツンツンしすぎなんじゃないの?」

「……苦手なんだよ」

「え?」

「仕事関係でなら仕方なくも同業者とは話せるけど、患者やそこらの人間と話すのは苦手なんだ」

 茜は阿呆の顔をしたまま私を見つめる。そして吹き出したように笑い始めた。


「何がおかしい」

「ふふ、あはははっ、え? あなた人見知り? ギャップありすぎでしょ、あっははは!」

 茜は笑い続ける。ここまで笑っている彼女を見るのは久しぶりだが、自分のことで笑われるのはあまりいい気分ではない。

「そこまで笑うことか」

「あははは、あー笑ったわ。だってあなたらしくないもの。人と話すのが苦手って、あぁでも言われてみればそんな感じがするわ。暗いもの」

 茜は笑い終え、だが、小馬鹿にしたような表情で私を指す。うんざりした私は無視し、テーブルの上のデバイスを取っては広げ、話題を無理に変える。


「……最近やけにいろいろな国で流行病が起きているらしいな。ちょっとした免疫不全もあれば一昔前に流行したペストや天然痘までもが急にな」

 私の意図を読んでくれたのか、茜は私の話題に乗る。少し笑い堪えているのが目に留まるが。

「でもこの世界じゃ治療法あるから過疎地域でもすぐに対策されて流行も終わるでしょ」

「まぁそうだろうね。あの病以外はな」

 私は新型バクテリアのことを思い出す。昨日改めて自宅にて研究していた擬態微生物。様々な条件を与えるとそれに応じてゲノムレベルで変異する奇妙なバクテリア。その原型は不確かだが、現在線虫のような形状を保っている。本当にバクテリアなのかと疑ったが、矮小であり明確な核を持たず、その上自力で分裂するので少なくともウイルスではないのだろう。生物学的基準は時に厄介だ。


「でもあなたなら何とかするでしょ。あの致死率90%のE型出血熱の治療法を開発したんだから。それにあのレーザン先生もいるんだし、他の研究者や医者も集まるんでしょ? なら大丈夫よ」

 茜は誇らしげに語る。自分のことのように自慢するが、臨床微生物学を専攻しているこの女子大生は何を根拠にそう思うのか疑問に思う。

 そのとき、ヘヴィメタルの曲調と共にデスボイスの歌声が聞こえてくる。茜は少し高級そうな赤い鞄からその音源である電子端末を出した。そろそろその物体型も音楽も古いと言われる頃だろうが、それが良いと主張するのが彼女だ。

「その着信音なんとかならないのか」

「うるさいわね、好きだからいいじゃないの」

 テレビ番組を見て今どきの若者は感覚がずれていると聞くが、茜ほどずれている人はそこまでいないだろう。学生時代にいたアニメーション好きの中毒者マニアの方がマシに思えてきたりする。

「あ、ごめんゼクロス、友達に今から遊ぼうって誘われたから行かないと」

 友人も同じようにどこかずれているのだろうなと思いつつ、

「論文の方は大丈夫なのか?」

「だいじょーぶ! そこらへんは真面目にやってるから」

 それじゃあね、と茜は急いで喫茶店を出ていった。それほど急かす意味はあるのかとその友達に訊いてみたいものだと思いながら、ふと目の前のテーブルの上を見る。


「結局あいつの分まで払うことになるのか」

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