第一章 二節 擬態微生物 -Mimesis Microbe-
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翌日、私はスーツに着替え、ノートパソコンと資料をカバンに入れ、ロングの髪型をチェックする。最後にマフラーを首に巻き、波島茜のいるウェルテルト国立大学へと向かった。
ウェルテルト大学院博士後期課程学生である
私の通っていた大学と彼女の通う大学は仲が良く、共同研究を行うことが多々ある。それをきっかけに私と彼女は出会い、話の合う仲として時折こうやって会いに行ったりする。
大学に着き、黒い車を停めた後、駐車場の近くの食堂に入る。
黄色い壁が特徴的で、一面ガラスの壁もあり、中はとても広い。中央には小さな電波塔があり、時刻や学内情報がモニターとしてそこに表示されている。天井付近にはカラフルな雲のオブジェが吊られている。
「久しぶりだね、茜」
食堂の端辺りの席で、顔に似合わずカツ丼をがつがつと食べていた彼女に私は微笑みかける。彼女は食べるのをやめ、水を一杯飲んで、ものを飲み込む。
「久しぶりね。顔がいつも以上に青白いから、仕事の方は捗ってるようね」
大人の女性のような声調で話す。声がきれいなので構わないが、背が低く、成人とは思えない若さを保った顔つきなので、頑張って大人っぽく振舞っているのだろう。
「過労死するほどにね」
「いいじゃない、就職難に遭うよりはよっぽどマシよ」
「過労死で死んでいく若者も少なくはないけどね」
私は彼女と向かい合わせで席に座る。艶やかな黒い長髪、小さく膨らんだ胸元を開け、金色のネックレスが強調される。かわいい顔して、結構大胆な格好をしてくる。
「それにしても、スーツってどんだけ真面目なのよ。他大学とはいえ、ちょっと浮いてるわよ」
若干引き気味に彼女は言った。
だが、それを倍に返す。
「冬なのにそんな胸元開けた服を着る君もそれなりにどうかとは思うけどね。あと女学生がひとりでカツ丼を男気よく食べる姿も違和感があったよ」
「……まぁ本題はというと」
眼を逸らしながら話題を変える。皮肉を言うのは得意なくせに、言われるのには慣れていないようだ。目が少し潤んでいる辺り、結構傷ついているようにも見える。
「お金になる話よ。はっきり言えば」
「仕事か。『宣告』か、それとも死体の解剖か」
テーブルに乗りかかり、アプローチしてくるが、私は冷たく返す。
「何よ、つまんない男ね。そうよ、仕事よ。頼まれた話じゃないんだけど、ゼクロスって解剖やRNAデザインとは別に独自で今流行りかけている新型感染"UV1"の研究もしているのよね。あ、何か食べる? なんなら奢るけど」
「遠慮するよ」
「そんな細い体じゃもたないわよ?」
「余計なお世話だ」
気前がよく、人が良いのも彼女の性格だ。だが、女の子にお金を払わせるにもいかないので、私は断った。
「ま、いいわ。それで、最近UV1の出現とともにぽつぽつと発症者が出てきてるから解明に努めてると思うけど、それに関する結果を聞いてきたの」
「情報収集ご苦労様。まぁ出所は君のいるラボのバーンステイン教授のプロジェクトだろうけどね。いまも僕との協力は首を横に振る一方か」
「その話はきりないから」
「わかった。それでなんだい?」と気軽に返答した。
「新型の病原体、今までプリオンだと思われてきたじゃない? けど、そうじゃなかったみたい。れっきとした感染症を引き起こす細菌だってことがわかったの」
「……?」
プリオンとは、病気の原因となる異常性をもつ蛋白質性の因子だ。ウイルスではないが、自己増殖し、脳にある正常なプリオンから感染性のある異常なプリオンに変え、脳に広汎な破壊を起こす。熱に強く、紫外線処理しても感染力は減少することなく、今のところ有効な治療法はない。
だが、細菌となれば話は別だ。プリオンとは違い、有効な治療法が見つかる可能性が高い。環境によってはそれだけで死滅する場合もある。
「……細菌、なのか……?」
だが、私は耳を疑った。事故死した死体に偶然感染していた見たことない病原体を調べても、あれはプリオン以外考えられなかった。気になるところもあり、感染者を探しては研究した時があったが、成分も蛋白質だけであり、細菌がもつ核酸やこれといった
懐疑的な表情を浮かべている私を見、彼女はこう言い放った。
「
「!」
私は声が出なかった。どうしてその考えが思いつかなかったのか。悔しくて、奥歯を噛み締めたが、彼女には気づかれないように冷静に振舞った。
「よく自然の中に溶け込む、というより同化するという意味での疑態微生物が挙げられるのだけど、この新型は見た目だけ変わる擬態なんてものじゃない、遺伝子から真似する奇妙極まりないバクテリアよ。ウイルスじゃなくてね。各エリアで数種類の症状に分かれる原因不明の病が流行って、それがやっと3パターンのプリオンだってわかったのに、結局1種類のみのバクテリアだったって話になったらもう嫌になっちゃうわよね」
「遺伝子を自らの意志で組み替えるのか……?」
「そうよ。より適応し、より死なないように、より繁栄しやすいようにね。厚かましいことこの上ないわよね」
その眼は笑ってはいなかった。私は黙ったままだった。
「ちなみにそのバクテリア、おもしろいプロセスでウイルスにも真菌にも擬態できるわよ」
「大きさも形もそれぞれに合わせて変わるということなのか……?」
つまり、私の研究していたプリオン病も、そのバクテリアの変化したものの一種に過ぎなかったということか。
「だけどあたしが思うに、あれは擬態なんてレベルじゃない。進化退化どころか、それを逸脱した変異を呼吸するかのように簡単に行う、神の冒涜に近い生物といっても過言ではないわね」
そんなSFまがいのことが起きるはずがない。だが、事実として起きているのならば。
恐ろしいことだ。遺伝子配列が短期変化するということは、有効な治療薬が作れないということになる。作ったとしても、奴等はすぐに耐性のある感染型へと進化するだろう。
それに、私自身の研究でその蛋白質性因子に擬態したと思われる矮小バクテリアを様々な方法で実験してみたが、高熱、凍結、放射線、真空、どれも完全には死滅せず、二回目以降は耐性が付いたのか、一匹も死ななかった。
幸い、殺戮兵器のような急死性はないが致死性はあり、一部の感染者が死亡している。また、風邪程の感染力はないため流行はしていないが、対症療法があるだけで有効な治療法ない。
正真正銘「不治の病」である。
「……ゼクロス?」
心配そうに、黙り込んだ私に声をかけてくる。
「わかったことはそれだけか」
茜は首を振った。
「それがわかったのは一週間前。そして一昨日、そのバクテリアが不思議なことに一気に蠕形動物型に変異したの、電脳界全エリアで」
最初、彼女の言っていることが理解できなかった。
「……全部一種類に突然変異したってことか」
茜は頷いた。
「感染者から死体、サンプルケースに入っていたものまですべて線虫のような同種に変異したの。意思が共通しているかのようにね」
細菌の以心伝心? 何の為に? 馬鹿馬鹿しいにもほどがある。私はそう思った。
「随分とおもしろい冗談だね。細菌同士がネットでもやって、みなさんで一斉に変異しましょうって拡散でもやったっていうのかい」
私は半ば笑いながら言った。だが、彼女の目は笑ってはいない。
「
「人為的な行為としか思えない。そう言いたいんだろう」
私は彼女の言葉を補った。
でも、と付け足す。
「『電脳界』は次元を超えた国際的ネットワークステーションともいえる世界だ。いろんな世界からいろんなものが混み合って、ましてや電脳的環境変化によって混合、進化、変異して、子供の考えたような
「えーと、マウス実験で分かったことなのだけれど、症状は咳、貧血、不眠症など様々ね。ただ致死性の病にかかることはあまりないわ。感染経路は素晴らしいことに
「全くだ」と返す。「医療機関で提案されている対処法はあるのか」
「生憎、今のところ明確なのはないけど、それぞれの症状に見合った薬を服用し続ければ大丈夫だと。変異してEHFのように急死性の症状になったりしたら大変なことになるだろうけどね」
「無難な妥協案だけがまかり通っているわけか。要は解決に導けてはいないと」
茜は一呼吸置き、
「ただ、それらとは明らかに異なる症状を発生させる劣性遺伝子を持つ、特異型の個体がいると聞いたことがあるわ。いわばミュータントね」
ただの
「少数派だけど、第Ⅲ期までそのバクテリアの共通形態があるの。症状は、第Ⅰ期は異常な性癖や精神不安定、幻聴幻覚。第Ⅱ期は脳や神経の異常発達によるホルモンバランスや肉体の不安定化、第Ⅲ期は……」
「どうした?」
口をつぐんだ茜の表情は、何かを躊躇ったようなそれだった。
「いえ、そこから先は私も知らないの。ただ、聞いた話だとなんていうか……ごめんなさい、よくわからないの」
申し訳なさそうに目を逸らした。
「そうか……電脳型、いや、人種共通か」
「ええ」と彼女は頷く。
「ゼクロスからは何かないの? 法的にどうかはこの際目を瞑るけど、独自で研究してるわけだし」
それを聞き、私は苦笑する。学生の人数がある程度少なくなっていることに気が付く。
「あぁ、他の仕事でなかなか手が付けられなかったんだ。二週間ほど手を付けていない」
それを聞いた茜は「本当に?」と驚いた表情を見せるので、私は小さく首を縦に振った。
「相当忙しかったのね。まぁいいわ。それで、仕事になるっていうのは、その特異型を患った病人を、私の友達が務めている病院のレーザン先生が担当しているらしいの。私の友達も、その患者の看護を担当しているから」
「その患者を診ろって? おいおい、それは主治医に任せておいた方がいいんじゃないか? 他人の病棟までズカズカ入って、横取りみたいだろ」
金になる話ほど、胡散臭く、宛てにならないものはない。そのような形だったら診察料といったものは貰えないだろう。
「協力という形でいいのよ。それに、その患者が死んだら最優先であなたのサンプルになるじゃない」
こいつも中々無神経なことを言う。
「死体っていろいろ不便なところはあるんだけどな」
「でも新型バクテリアは死体にまで感染するわよ。それに、一種類にになったんだから培養もできるし、十分なサンプルがとれて、ワクチンが作れる。ほら、解決の糸口は見えたわよ。バーンステイン教授も、他の研究者も昨日から急いで行動に移っているわ。ほら、あなたもそれに貢献しないと!」
「そう簡単にうまくいくといいけどね」
私は呆れた溜息をつく。「もう」と茜もため息をつき、
「そーいうマイナス思考がダメなのよ。ほら、話は以上よ。早くワクチン作りなさい」
「話が異常で整理がつかないのだが」
「そーいうつまらない駄洒落は飲み会でも使えないわよ」
「?」
そのとき、昼休み終了のチャイムが鳴る。
「やば、もうそんな時間? じゃ、また今度ね!」
そう言い、茜はヒールの音を鳴らしながら走り去って行った。周りを見渡せば、あまり学生がいなかった。大方の学生は午後の三限に講義を履修しているのだろう。あいつはラボに戻るのだろうが。
「……」
あいつの言った通り、少しだけ考えてやるとしよう。
その前に小腹がすいたので学食を食べることにした。茜が食べていたカツ丼を食券で買う。値段の割においしくはなかった。
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