第39話 お母さんの想い(2)
「そのストラップ・・・」
お母さんが僕のバッグに付いているストラップを指さした。
海に行った時に彼女と一緒に買ったペンギンのストラップだ。
「あ、これ・・・ですか?」
「涼芽も同じもの持ってたわ。もしかして一緒に買ったの?」
「あ、はい・・・」
「あの子もすごく大切にしてるわよ」
――え?
意外だった。
こんなもの、もう忘れられてると思っていた僕はちょっぴり嬉しかった。
「やっぱりそうだったのね・・・」
「はい?」
「冴木君。あなたに聞いておいて欲しいことがあるの。あの子の身体のことで」
「身体って、心臓のことですか?」
「あの子の心臓が生まれつき悪いことは知ってるわよね」
「はい」
改まったお母さんの話し方にちょっと悪い予感がした。
「あの子は生まれてからずっと身体の中に爆弾を抱えているようなものだった。
小学校や中学校の時は入退院を繰り返しててね。高校に入ってからしばらくは安定してたの。
だから安心してたのだけれど、最近また発作を起こすことが多くなってね」
「身体に爆弾・・・?」
「今まではなんとか薬で抑えてこれた。でも最近は心臓の負担が大きくなってきたので入院させたの。もう薬だけでは抑えられないみたい」
「薬だけじゃダメって、どういうことですか?」
「手術が必要だって言われてる」
「手術?」
その手術は心臓内を血管のバイパスで結ぶというかなり難易度の高い手術だった。
成功率が決して高くない手術だけに彼女のご両親も迷っていた。
「このままだと、またいつ大きな発作が起きるか分からない。あの子の心臓は遅かれ早かれダメになる。だからもう手術するしかないの。もう来るべき時が来たってことかしらね」
彼女の心臓がダメになるって・・・?
その言葉の意味を受け入れることができなかった。
「あの・・・手術っていつですか?」
お母さんは小さく横に首を振る。
「まだ分からない。でも早いうちにしなければならないと思う・・・」
「でも、その手術が失敗したら・・・」
僕は慌てて言葉を止めた。
そんなことを今考えてはいけない。
「葵さんはこのことを知ってるんですか?」
お母さんはゆっくりと頷いた。
「あの子は小さい時から自分の心臓のことは全部知ってる。手術をしなければもう駄目なことも。そしてそれはとても難しい手術だってことも」
彼女の笑顔は不思議な程に眩しかった。
その眩しさの理由が分かった気がした。
彼女は自分の持っている時間がとても貴重なものだと分かっていたんだ。
彼女にとっての一日一日は僕たちよりも貴重なものだった。
いつまで生きられるか分からない。
だから彼女の笑顔にはいつも一生分の笑顔が凝縮されていたんだ。
でも、その笑顔の裏側にはどれだけの不安と怖さがあったのだろうか。
それはきっと僕なんかには計り知れないものだろう。
僕は彼女のあの明るさや積極的な性格に嫉妬すら感じていた。
そんな自分の愚かさが情けなくて悔しかった。
「冴木君。あなたにお願いがあるの」
「はい?」
「涼芽に会いに来てくれる?」
「でも僕たちは・・・・・」
「分かってる。別に付き合うとかそういうものではなくて、普通に会ってくれるだけでいいの」
僕だって会えることなら会いたかった。
でも僕じゃダメだろう。
「僕が行ってもダメだと思います」
「どうして?」
「どうしてって・・・、僕はもう葵さんに嫌われてるから」
お母さんはびっくりした顔で僕を見た。
「そんなことあるわけないじゃない」
「いいえ。さっきも言いましたけど、僕はもう葵さんにはフラれてるし、もっと他に会いたい人がいるんじゃないかな?」
そう。きっと武田君が来てくれるはずだ。
そのほうが彼女も喜ぶだろう。
お母さんはしばらく黙って考え込んでいた。
「そうよね。無理言ってごめんなさい。勝手な話よね。今の話は聞かなかったことにしてくれる」
僕は黙ったまま頷いた。
お母さんはとても寂しい顔をしながら席を立った。
僕はその顔をまともに見ることができなかった。
「今日は、わざわざありがとう。ごめんなさい、勝手なこと言って」
お母さんはテーブルの上にあった伝票を手に取るとレジへと向かった。
僕は座ったままゆっくりと頭を下げた。
しばらく顔を上げられなかった。
本当にこれでよかったのだろうか?
僕は何度も自分に問いかけた。
僕だって、できることなら彼女に会って元気付けたい。
でも悔しいけど、情けないけど僕じゃダメなんだ。
僕では彼女を勇気づけられない。
その日、家に帰ってから久しぶりにハルノートを開いた。
僕は再び小説を書き始めた。
といっても、以前に書いた小説(はなし)のラストシーンの書き直しだ。
ヒロインを死なせるのを止めた。
今はそんな話は書きたくなかったのだ。
僕はラストシーンを思いっきりハッピーエンドに書き換えた。
それは彼女が元気になるようにとの祈りだったのかもしれない。
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