第30話 初めてのホテルで(3)

ベッドの脇にある電話の呼び出し音だった。

その突然の音に二人ともビクリと驚きながら顔をも合わせた。


受話器からはさっきの天使おばさんの声がした。

「あと十五分でご宿泊料金になりますが、どうなさいますか?」


――え? ご宿泊?


それが何を意味するかは僕の貧弱な恋愛知識でも理解はできた。


「ど、どうしよう?」


電話口の天使おばさんの声がとても大きく、話の内容は彼女まで聞こえていたようだ。

・・・っていうか、あのおばさん、僕達が高校生って知ってて言ってるのだろうか。


彼女も困ったような複雑な顔をしていたが、黙って僕を見つめていた。


どうしよう? 分からない。

彼女はどうしたい? まさか・・・泊まる? 


そうぐちゃぐちゃと考えている間に、気持ちとは裏腹に僕は反射的に返事をした。


「はい、あの・・・もう出ます」


彼女はホッとしたような、がっかりしたような、どちらでもとれる顔をしていた。


「そうだよね。もう帰らなきゃ・・・ね」


彼女の寂しそうな声に僕も黙って頷いた。

冷静になって考えれば泊まれるわけがない。


複雑な感情が僕の頭に渦巻く中、ゆっくりと帰り支度を始めた。

忘れ物が無いかと部屋の中を確認する。

すると彼女が床に這って何かを探していた。


「何か落としたの?」

僕がそう尋ねたが、彼女の返事は無かった。


「何捜してるの?」

返事が無い。どうしたのだろうか?


僕は探し物を一緒に探そうかと彼女に近づいた。

すると彼女の体が小刻みに震えていた。


「え?」


――違う!


僕は彼女の体に何か異変があることに気づいた。


「どうしたの? 大丈夫?」

「ごめんね。ちょっと・・・苦しくなっちゃって・・・」


明らかに様子が変だった。


「大丈夫・・・すぐ治まると・・・思う」

彼女は苦しそうな声で呟いた。

でも、どう見ても大丈夫ではなさそうだ。


どうしよう、こんなところで・・・。

僕はどうしたらいいのか分からず、ただ茫然とするだけだった。


徐々に彼女の息遣いが荒くなってくる。

僕は焦った。

胸のあたりがかなり苦しそうだ。


「ドジだな、私。薬・・・学校のカバンの中だ・・・」


え? 薬って、まさか心臓か何か?


目の前で人が苦しんでいるなんて生まれて初めてのことで、僕は頭の中が真っ白になった。


どうしよう・・・。

どうしよう・・・。

頭の中で同じ言葉が反芻される。


もう彼女は喋ることができないくらい苦しい状態だった。

もうだめだ。何とかしないと。

そうだ! 救急車だ!


僕は携帯を慌てて掴んだ。

しかし携帯の電源が入らない。

どうやら海に落とした時に壊れてしまったようだ。


――役立たずめ!


僕は携帯をベッドに投げつけた。

僕はさらに頭の中がさらにパニック状態に陥る。


僕はベッドの脇にある電話機を見つけ、すぐに受話器を取った。


フロントの人に事情を話し、すぐに救急車のお願いをした。

僕は無我夢中で何がなんだか分からなくなっていた。


このあとの出来事については、僕は気が動転していて断片的にしか記憶が無い。


憶えているのは、救急車が来た時、ホテルの前に人だかりができていたこと。

僕は彼女と一緒に救急車に乗ったこと。

救命士さんから彼女の家への連絡先を聞かれたが、僕は答えられなかったこと。

彼女が苦しみながらも自宅の連絡先を伝えたこと。


そのあとのことはよく覚えていない。


気がつくと僕は病院の集中治療室の前に座っていた。


そうだ。僕と彼女は救急車で病院へ運ばれたんだ。

僕は全く状況が理解できていなかった。


彼女はどうして倒れたのか? 

今、何の治療をしているのか?


僕の横には見覚えのある男性と女性が心配そうな顔で座っていた。

頭の中はまだ混乱していて誰だか思い出せない。


思い出した。

葵さんのお父さんとお母さんだ。

病院からの連絡でここへ駆けつけたのだ。


もう二時間以上もの間、誰も喋ることは無く、静寂が続いていた。


集中治療室の扉が開く。

みんな一斉に立ち上がって出てきた医師のところに駆け寄る。


彼女の容態がなんとか落ちついたということを伝えられた。

僕は安堵の気持ちを抑えられなかった。


ホテル内でのことだったので事件性を懸念したのか、僕はこのあと警察の事情聴取を受けた。

恐らくホテルの天使おばさんが連絡したのだろう。


事件性は無いと分かり、警察からの尋問は形式的なものだけで、僕はすぐに解放された。

ただ、このあとに待ち構えていた彼女の両親からの尋問のほうがすごかった。


学校をサボり、二人でホテルに一緒に入り、挙句の果てにそこで倒れただなんて、弁解の余地はなかった。


彼女のお父さんからの尋問はキツいものだった。

誰が学校から抜け出そうと誘ったのか? 

誰がホテルへ誘ったのか?  


僕はどちらも自分から彼女を誘ったと説明した。

彼女のお母さんからは本当のことを言うように念押しされたが、僕はそのまま頷いた。


別にカッコをつけたかった訳ではない。

実際に最終的に電車に手を引いて一緒に乗り込んだのは僕だし、ホテルに入らなければならない状況を作ったのも僕なんだから。


この時に初めて僕は葵さんが既に入院中であったことを知らされた。

彼女が心臓に先天性の病気を持っていることも。

常に症状を抑える薬を飲み続けなければならないことも。


彼女は僕と一緒にいた時、なぜか薬を持っていなかったらしい。

駅で彼女が帰ろうと言った時、どうして帰らなかったのだろう。

あの時に学校に帰ればよかったのだ。


病気のことは知らなかったとはいえ、僕の優柔不断さが彼女を危険な目に遭わせてしまった。

それは紛れもない事実だ。僕自身がそれに納得していた。


今後は葵さんには会うことはもちろん、連絡もしないことを僕は約束させられた。当然のことだろう。


「ごめん。葵さん・・・」

僕はひとりで病院をあとにした。


このことは当然のこととして僕の両親や学校にも報告が行くことになり、かなりの大事になると覚悟していた。

学校もサボってしまったし、ただでは済まないだろう。


停学? まさか退学なんて・・・。

そんな心配をしながら家に帰った。


しかし、帰ってからは親に何も言われなかった。

その後、学校からの呼び出しも無かった。


僕はちょっと肩透かしを食らった気分だった。

どうやら彼女の両親はどこにも報告や抗議をしなかったようだ。


僕を気遣ったのか、それとも彼女を気遣って騒ぎを大きくしたくなかったのか。


まあどちらにしても、もう彼女に会うことはできないだろう。


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