富嶽

「嘘……」


 希望が薄らぐ世界で会えた人は、一瞬であっけなく私の前から姿を消した。


 ほんの数十分の間柄でも、とても親切に気遣ってくれた。


 この状況じゃ自分のことで手一杯になっても当然なのに、諦めるな、と言葉をくれた。


 腰が折れ、ストンと地に落ちる。


 ツゥと頬に筋が通る。


「うう……うううう……うう……」


 嗚咽おえつが漏れる。


 また目の前で人が死んだ。


 不意に過去の記憶がフラッシュバックする。


 一度味わったあの苦しみが私をまた抱擁ほうようする。


 あれを繰り返すの。ママ。


 ──いやだ。死なせない。もう誰も死なせたくない。目の前で人が死ぬのは、もういやだ。


 私は崩れた瓦礫を必死に掻き分け始めた。片腕じゃ動かせる重量にも限度がある。


 でも諦めてやるものか。


 明日があるさ、という言葉が嫌いだった。


 明日の保証なんて、なにもないから。


 ママの時にわかったじゃない。


 あの黒雨もそうだ。


 『あれ』に、誰が明日が来ることを期待できるの。


 でも昼の私は忘れていた。


 明日は普通に来ると、慣れきってしまってた。


 富士を見たいと、のんきに構えてた。


 でも、世界はやっぱり容赦なかった。


 誰にも、平等に残酷だった。


 妹の救助に来たこの人にも冷酷だった。


 世界は無慈悲だ。


 でもそうじゃない人もいる。


 この人は私に思いやりを向けてくれた。


 だから私も彼に思いやりを向けたい。


「お兄さん!どこ!?」


 瓦礫を掻く。爪が剥離はくりする。


 手がみるみると真っ赤に染まっていく。だらんと下がる右腕を、無理矢理動かす。激痛が脳を貫く。


 でも諦めてやらない。


「お兄さん!!」


 私は叫ぶ。歯に力を込める。


 激痛を招く右は役に立たない。でも無いよりましだ。


 二枚目の爪が剥がれる。それでも、あきらめない。


 ──お願い、生きていて。もう誰も死んで欲しくないの。


 カラッ、と音がする。


 崩落の予感を感じたけど、手は絶対に緩めてやらない。


 また石が転がる音がして、音の方向を見やる。


 どす黒い赤い手があった。


 瓦礫に登り駆け寄る。手を掴む。グッと握り返された。温かい。生きている。


「お兄さん!?」


「真由梨ちゃんか。すまないが少し引いてくれないか。足が抜ければ出れそうなんだ」


 瓦礫の中からくぐもった声がする。


「わかった!待ってて!」


 無事だった。生きていた。


 腕を掴む手が、ぐにゃりと歪む。涙がボロボロとこぼれているのがわかる。


 私は両手を使って全身の力を振り絞る。重い瓦礫の中では、びくともしない。


 もう一本折れてもいい。


 私はこの人を助けたい。


「あああああああああああああああああ」


 私は雄叫びを上げ、渾身の力で引く。


 カラッと軽い音が響いた瞬間、彼の体が少し見えた。


「もう少し……」


 歯を食いしばる。ここが正念場だ。


 ──火事場の馬鹿力ってあるんでしょ。いま出でよ。


 私は私を叱咤しったする。


 ──お願い。


 馬鹿力が噴き出したのか、上半身を引き出せた。ガラガラと音を立て、お兄さんが瓦礫の中から這い出てくる。


 私は爪が剥がれた手で口を押さえた。


 お兄さんの足に残酷な角度がついている。


「やっちまったな……でも真由梨ちゃんのおかげだ。──ありがとう」


 お兄さんは私にお礼を言うと、にこりと微笑んだ。


 自分で意識して動いたわけじゃない。


 決して、そうしようと思ったわけじゃない。


 けれど気がつくと、私はお兄さんの胸に飛び込んで、大声で泣き叫んでいた。




 お兄さんのスマホも時計も壊れてしまったから、もう正確な時刻はわからない。


 空はすっかりと夜のとばりがおりているのに、赫灼かくしゃくとした炎が、月の代わりに世界を照らしている。


 遠くも近くも炎と煙と瓦礫と廃墟ばかり。


 あれから『あれ』は来てない。


 私達は元校舎にもたれかかり、煙に覆われた星が見えない空を眺めている。


「富士山を見たことがあるんですよね?美和に聞いたことがあります」


 私は富士絡みで、お兄さんに訊ねる。


 お兄さんも私と同様に、富嶽の黒板に命を救われていた。


 学生の学びを補佐する使命を持つ大きな体の持ち主は、最後に人の命を救うという崇高な行為で天寿を全うした。


「あるよ。──大学の頃かな。まだ小さい美和を後ろに乗せて、十国峠じゅっこくとうげからの富士を見に行ったよ」


「いいなぁ」


「見たことないの?」


「本当は明日から家族で行くはずだったんです。うちは芦ノ湖からですけど」


「芦ノ湖なら逆さ富士か。いや今の時期は見るには少し厳しいのかな。──俺はあの太宰治が『十国峠からの富士はよかった』って富嶽百景に書いてるから。どんなものか興味をそそられて、見に行ったんだよ」


「太宰って、富士が嫌いじゃなかったんですか?」


「富士そのものには、あまりいい印象は抱いてはいなかったみたいだね。でも十国峠からの富士だけは、さすがの太宰も感動したみたいだよ」


「ちょうどいま授業でやってたんです。太宰は富士が嫌いって思ってたから、共感できなくて太宰が嫌いになってましたけど」


 それはおもしろいな、と笑う彼の顔はすすで汚れていたけれど、とても優しくおだやかだった。


 本当は泣きたいはずなのに、ぐっと堪えてるのだろう。


 お兄さんの腕には二つのG-SHOCKが巻かれている。


 一つは彼の物で、もう一つは私の手を引いた美和が身につけていたものだ。


 瓦礫の中から、偶然発見できた。


 けれど、美和はいない。


「どうして富士が好きなの?」


 急な問いに私は戸惑う。


 きっかけを思い出すように記憶をたぐり、ゆっくりと言葉を紡ぐ。


「……母の影響です」


「お母さんの?」


「母が登山が好きな人で、小さい頃はよく近所の山に一緒に登りました。──その母が富士から見た朝陽あさひの感動は忘れられないって、ずっと話してて。いつか一緒に登ろうねって約束んです」


「してた?」


「……二年前に事故で亡くなりました」


「……それは、ごめん」


「いえ、気にしないでください」


「だから、美和は君を気にかけていたのか」


「……はい。美和には随分助けられました。話を聞いてくれたり、泣きたい時には側にいてくれたり。──それなのに、私は美和を助けられなかった……あの時、もっと強引にでも手を引いていれば、ひょっとしたら……」


 一度は活動を止めた涙腺がまた動き始めた。三角座りしている膝の上に、ボタボタと涙が落ちてスカートに滲んでいく。


「まだ、そうと決まったわけじゃない。君が負い目を感じなくていい」


 お兄さんはそう言うと、まるであの時の美和みたいに優しく肩を抱いてくれた。


 すごく温かい。


 不思議だ。肩だけじゃなく、心まで優しく包みこまれた感覚になる。


 美和といいお兄さんといい、私よりずっとつらいはずなのに、どうしてこんなに優しくできるの。


 零れる涙の量に比例して、私はこの人にどんどんと惹かれていっている。


 肩からすっと手が離れると、彼はポンポンとあやすように私の頭に手を置いた。


 明らかな子供扱いに、釈然としない複雑な心境になる。


 そういえばまだ聞いていない。


「あの、お兄──」──さんの名前は?と訊こうとしたけれど、耳に届かなかったはずだ。


 ヒューっという弱々しく凶悪な風切音が、再び響き始めた。


 爆音が耳をつんざく。


 爆炎が猛々しく天に向かってそびえ立つ。


 片足が動かない彼に肩を貸して、懸命に『あれ』から逃げる。


「俺はもういい。真由梨ちゃんだけでも逃げるんだ!」


「いや!」私は必死にかぶりを振る。「あなたは絶対死なせない!」


「君は俺と違って、まだ家族が生きてるかもしれないんだぞ」


「美和はまだ死んだと決まったわけじゃないです!……それに聞いています。あなた達のご両親が亡くなっていることも。私の母が死んだ時、美和は寂しさがわかるって、ずっと側で寄り添って話を聞いてくれました。そしてあなたも寄り添ってくれた。私はもう、誰も失いたくないんです!」


「真由梨ちゃん……」


「だから、あなたが残るなら私も残る」


「駄目だ!君は逃げろ!」


「美和を探して、家族も探します。だから私も側にいさせて。好きなあなたの側にいさせて!」


 伝えたい想いを私は命懸けで叫んだ。


「……真由梨ちゃん」


 私の突然の告白に、彼は驚きを隠せないようだ。


「気持ちは嬉しいけれど、俺は君より一回りも離れてるし」


「歳なんか関係ないです!母を失った時、私は美和に救われました。今度はこの壊れた世界で、あなたの優しさに救われた。二度地獄を味わった私に、天使のあなた達が舞い降りてくれたんです。だから、今度は私があなた達を救いたい」


 彼は目を丸めると、おかしそうに笑い始めた。


「こんなおじさんを捕まえて天使って」


 そう言って、私の涙を優しく拭ってくれた。


「気持ちはわかった。俺なんかでいいのかい?」


「あなたじゃないと。えっと──」


 ──そういえば名前をまだ訊いてない。


 その時だった。地面が唸り出した。体が激しく震える。


「真由梨ちゃん!」


 彼は叫ぶと、自分から遠ざけるように私を突き飛ばした。


 飛ばされながら、私は見た。


 地面が裂けて、彼が消えた。


「いやぁぁぁぁぁぁぁあああああああ!」


 裂けた地面は、元校舎もなにもかもを奈落へ吸い込んだ。


 富嶽の黒板も、美和の机も、パパのデコ弁も、全て吸い込まれた。


 彼も吸い込まれた。


「あああああ、いや、いやぁ、いやだよぉ……まだ名前も訊いてないのに……」


 絶望の底に落ちた私は、地面に突っ伏す。もう落涙を止めることができない。


「……治だ」


 暴力的な破壊音がこだまする中で、優しさを携えた声が耳に届いた。


 私は慌てて立ち上がり、裂けた奈落を覗き込む。


「治さん?」


 治さんがいた。


 崖の途中にしがみついて、奈落への落下を拒んでいた。


 私は必死に手を伸ばし、治さんの手を掴む。


「逃げろ!逃げるんだ!」


「いや!治さんの側にいる!」


「……頼むから逃げてくれ。君を死なせたくない」


 彼は悲痛な声を漏らす。


 でも私の決心はもう揺るがない。




『地球消滅まで……あと……五分』


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