崩壊

「……アメリカにミサイル落下?」


 第一声は、教科書をしきりにしてネットサーフィンを楽しんでいた男子からだった。


 棒読みの口調にも関わらず、その声音は一瞬で平穏な教室の隅から隅まで響き渡った。


 普段ならこの手のことは授業を阻害することなく、右から左へさらりと流される。


 しかし今日は違った。


 おそらくニュースの見出しであろうそれは、残響するように私の心の低い部分にいつまでも滞留し続けた。


 無感情な声音に、得体がしれない異様な怖気おぞけを感じる。私は発信先に目を向けた。


 他のクラスメイトも、不真面目な生徒に冷淡れいたんな視線を刺していた。


 心の奥が無性に気持ち悪くなる。


 知らない舌が首筋を這っているような、生理的嫌悪を催す気持ち悪さがあった。


 根拠はない。


 けれど嫌悪感は確実に私の身体をむしばみ、心を不安という名の闇色にあっという間に染め上げてしまった。


 先生は「ここは試験に出すぞ」と脅しをかけ、何事も無かったように授業に戻ろうとした。


 第二声は、窓際に座る美和だった。


「あれ?なに?」


 美和は外の変化に声を漏らした。


 その声音は驚きとは違う。私のように怖気をまとっていた。


 四角が囲む景色に目をやると、空が赤と黒が混ざった汚い色に染められていた。


 まだ夕映えには早過ぎる時刻だ。


 昼食前の時間に無縁の空の色合いを見て、第三声からもう第何声かも不明になった声が続々と上がった。


「煙?」


「火事か?」


「なにか降って来てるよ……」


「爆発してるんじゃない!?」


「おい、やべぇぞ!」


 先生も含め全員が、外界の暴力的な絵に目を奪われた。


 窓の中の光景は、そこだけ四角に切り取ると映画のようにも見えた。でも違う。虚構ではなく、まぎれもなくノンフィクションだった。


 空から、粒が大きい黒い雨がいくつも降っていた。稜線りょうせんはいびつに変形し、ビルが割れ、地面に穴がいくつも穿うがたれている。狼煙のろしのような大量の黒煙は、こぞって空を目指してレースを展開していた。


 まだ遥か彼方でも、破滅を呼ぶ黒雨の形ははっきりと見て取れた。


 ──逃げなきゃ。『あれ』はいずれここまで来る。でもどこに行けば。


 逡巡しゅんじゅんする私に道を指し示すように、スピーカーから焦燥に駆られた校内放送がこだました。


『全校生徒にお知らせします。全世界にミサイルが投下されていると情報が入りました。政府からは詳細な情報はまた発表されていません。しかし命の危機に瀕する緊急事態です。全校生徒は至急体育館に避難してください。避難の際は決して慌てず、二次被害を招かないよう教師の指示に従い慎重に行動してください』


 正しく伝達するために、普段なら抑揚をつけて、ゆったりとした口調で放送する。マニュアルを遵守じゅんしゅする冷静さは皆無だったけれど、命の危機が間近なことはよく伝わった。


 指示に従うクラスのみんなが、死骸に群がる蟻のように教室の入り口でごった返す。


 廊下も人が溢れ、校内放送が憂慮した二次被害がいまにも起きそうだ。


 その光景を、私はぼんやりと眺めている。


 平凡が壊れる。普通が遠くなる。


 ──ママ。いやだよ。


「真由梨、急ごう!」


 美和が私の手を強引に引いた。ぼんやりとしていた私は我にかえる。


 ──そうだ。美和は助けないと、美和は絶対死なせない。


 私は入り口に走る美和に叫ぶ。


「待って!あんなの体育館でも絶対耐えられないよ」


 山を蹂躙じゅんりんする『あれ』にとって、体育館は紙細工同然だ。きっと防げない。


「そんなこと言ったって、他にどこに行くの!?」


 涙が溢れていた。美和は不安に潰され、顔がぐしゃぐしゃになっていた。


「地下に行こう!」


 建物が崩壊する地上では危険をきっと回避できない。私は地下の安全性に賭ける。


「駅まで2㎞はあるんだよ……」


「空の様子を探りながら行こう!大丈夫。絶対辿り着けるよ!」


「でも、先生は体育館に行けって……」


「おまえら、なにしてるんだ!?早く来い!」


 逡巡する私たちに、先生は苛立つように声を荒げた。


「真由梨、私は体育館に行くから」


 背を向ける美和に、待って、と思った刹那だった。


 ヒューっという弱々しい風切音の中に凶悪な威力を携え『あれ』がグラウンドへ落下した。


 過剰なまでに暴力的な破壊音が耳をつんざき、校内は絶望的な瓦解音に包まれた。




 ──痛い。


 痛んでる箇所が把握できない程、多量の痛覚が脳を刺す。


 熱いまぶたにゆっくりと意識が届いて、まどろんだ視界が徐々にはっきりする。


 私は唖然とした。


 戦場のようだった。かつて校舎と呼んでいた建物は名前を失った瓦礫となり、全てが焼け野原となった光景が私の眼前に広がっていた。


 街は壊れ、空は燃え、人が焼けている。世界は地獄になった。


 腕が非常識な角度をしていた。


 瓦礫は私を嫌うように避けて積み重なっていたので、身体は動かせた。痛みに耐えながらゆっくりと仰向けになると、眼前に『富嶽』の文字があった。講義を記した黒板が瓦礫から体を張って守ってくれていた。


 富嶽。明日のキャンプはもうキャンセルだ。パパのキャンプ飯楽しみだったのに。


 ──パパ?


 パパはどうなったのだろう。陽一も。


 家族の安否を確認できる唯一のアイテムは、デコ弁と仲良く教室の鞄の中だ。


 教室。私は親友の顔が脳裏に浮かぶ。


「美和……どこ?……」


 微妙なバランスで成立している瓦礫の上で、崩壊を招かないように私はゆっくりと立ち上がる。


 おびただしい煙と炎、髪と肉が焼ける吐気を誘発する劇臭に刺激され、内包物を全て散乱した。


 鼻を衝く酸味をまとったよだれはなみず氷柱つららのように垂れる。


 ──苦しい。けれど、そんなことを言ってる場合じゃない。


「誰かーっ、誰かいないのー!?」


 空っぽになった胃に、大きな声がチクチクと刺さる。


 それでも私は叫ぶ。


 命を求め、渾身の力で叫ぶ。


「誰かーっ!?」


「こっちだーっ!」


 呼び掛けに誰かが応じた。


 生きてる人がいる。


 声をかけると誰かの声が返ってくる。私が愛した平凡な日常は、それが当たり前だった。


 平凡は壊れて、異常な世界が姿を見せた。その異常から声がする。


 世界はまだ生きている。


 私はすがるように声へ向けて足を踏み出す。


 役に立たない右腕をだらんとさせ、左腕と両足で瓦礫を慎重に下る。地に足をつけ、声の方に走る。


 男性がいた。濃紺のつなぎを着て、必死に瓦礫をき分けている。


「生存者がいたか」


 男性は首だけ振り向き私を確認した。三十歳前後だろうか。少し笑ったように見えた。


「あんただけか?」


 笑顔は消え、男性は苦悶の表情で訊く。私は首を縦に振る。


「誰もいないんです。目が覚めて会ったのは、あなただけです」


 男性は深い息を吐いた。


「ということは、もうここには生存者はいないかもしれない。──どれくらい前に『あれ』がここに落ちたのか知らないが、ここで三時間探して、生きてた人間はあんたが最初だ」


「三時間……?」


 私はかなりの長時間意識を失っていたのだ。


「あの、いま何時ですか!?」と、焦りを帯びた声音で訊ねた。


 男性は白いG-SHOCKに目を落とすと「五時前だ」と、目を伏せたまま言った。


「もう五時間も経ってる……」


 私はペタンと、その場にへたりこんでしまった。


 パパは、陽一は、美和はどうしたのだろう。生きていた人達は安全な所に避難したのだろうか。


「幸いいま、この辺りに『あれ』は飛んで来てない。今のうちにあんたは安全な所に逃げた方がいい」


「安全って、どこですか?」


 私はおそるおそる訊ねる。


「ネットだと、駅の地下街に人が溢れてるようだ。──上がこの有り様だから、地下が安全と考える奴も多いんだろうよ」


 生きている人がいる。美和もそこにいるかもしれない。


「ネット見れるんですか?」


「接続がかなり不安定だがな。たまに繋がる。電話も同じようなもんだ」


「あ、あの携帯貸してもらえせんか!?家族に電話したいんです!」


 街の状態から停電が容易に想像できる。貴重な電池の消費に断られるかと思ったけれど、男性は「ほら」と、すんなり貸してくれた。


「……あ、ありがとう」


「こんな時だからな。──心配だろ。でも繋がるかは保証しないぞ」


 私は頷き、パパの番号を順番に押す。けれど受話口からはビジートーンしか聴こえなかった。陽一も同じだった。


「駄目だったか?」


 背中で話す男性は、変わらず瓦礫を掻き分けている。


 私が無言だったことで察したのだろう。


 私は押し潰れる思いに声が出ず、弱々しく首を縦に振ることしかできなかった。


「そうか……まだわからねぇから諦めるな。今のうちに逃げろ」


「……あなたは何をしてるんですか?」


「妹を探してる」


 長時間瓦礫を掻き分けていた男性の手は、血と泥で赤黒く染まっている。


「妹さん?誰ですか?」


「木内美和って言うんだ。知ってるか?」


「美和のお兄さん?」


 私の言葉に男性は希望が差したような顔になる。


「知ってるのか!?」


「親友です。同じクラスでした」


「ひょっとして、君が真由梨ちゃん……なのかい?」


「……そうです。更科さらしな真由梨です」


「美和から聞いたことがある。そうか君が」


 私は校舎が壊れる前の出来事を、美和のお兄さんに話した。


「真由梨ちゃんが倒れていた所を探す方が効率が良さそうだな。すまないが、そこまで案内してくれないか」


 私は頷き、痛む右腕のことも忘れて富嶽の黒板まで案内した。


「ここです。この瓦礫の上で私は目を覚まして。生きて避難してるかもしれないですけど」


「美和ーっ!」


 お兄さんは崩れそうな瓦礫によじ登り、ガラガラと掘り始めた。


「その辺り、危ないですよ!──あっ!」


 私の叫びと、瓦礫の崩落はほぼ同時だった。


 目の前でガラガラと瓦解音を立て、再び崩れる元校舎に、お兄さんはあっという間に飲み込まれて、消えた。


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