あの鐘を鳴らすのはだれ

東原そら

日常

 地面が裂けて、彼が消えた。



 *   *   *



 ふわふわしたひつじ雲が放牧された空が見える。


 今日もおだやかな一日でありますように。満員電車の窓から、私は神様や仏様やキリストや、そんないろんなものに願った。


 電車がカーブに差し掛かると、遠心力で人の波に潰される。苦しいけれど心地いい。いつもの平凡な日常の出来事だ。


 クラスメイトが億劫おっくうに思う月曜の朝も、私はわりと平気だ。いつも通りに一週間が始まるのが、なにより嬉しい。


 急激な生活環境の変化は、自分にも周囲にも大きなストレスをもたらす。


 もう、あんなことはたくさんだ。


 満員電車の扉が開くと、たくさんの人が一気に放流される。みんなが自分にとっての日常に流れていく。その流れに乗って、私も自分の日常に向かって歩き出す。


 教室の扉をくぐると、友達みんなとパチパチと手を合わせて、最後に白のG-SHOCKをつけた親友の美和みわとハイタッチした。


真由梨まゆり~。いよいよ明日だね!準備はバッチリ?」


 美和がそそっかしい私を憂慮している。


「ご心配には及びません!」


 私は冗談めかした敬礼で応える。


「ホントに~?真由梨はこういうとき、絶対なにか忘れてくるんだから。修学旅行のときみたいになりたくないなら、もう一度きちんと確認しておいた方がいいよ」


「もう信用ないな~。さすがにもう財布は忘れないってば」


「でも、あれはホントにウケたよね」


「もう、いい加減忘れてよ~!」


「あ~あ、芦ノ湖あしのこか~いいなぁ。──でもようやく夢が叶うね」


「うん。今回は遠くから眺めるだけだけどね」


「きれいだよ~!ホントに。兄貴に連れてってもらった時はメッチャ感動したから」


「それ何度も聞いたよ~いじわる~。言うから余計待ちきれなくなるじゃん」


「ふふ。それで、あっちの明日の天気はどうなの?」


「あ、それ調べてない……」


「ほら、やっぱり抜けがあった」


「もう~美和~」


 明日から世間はシルバーウィークに突入する。


 うちは家族で初めてのキャンプを予定している。目的地は芦ノ湖だ。私の大学受験前にパパが企画してくれた。


 ようやくだ。


 この話が持ち上がった時から、ずっと明日を心待ちにしていた。


 美和といつもの朝を過ごしていると、先生が教室に入ってきた。


 愛しい平凡な日常の、始まりだ。



 お昼が近くなると、私は頬杖をついて授業にのぞんでいた。


 この時間、いつも私の頭の中はパパのデコ弁が占めている。でも今日は集中できない要因がもう一つあった。


 富士だ。


 ちょうど授業の題材が『富嶽百景ふがくひゃっけい』だったものだから、余計に意識は明日のキャンプに向いた。


 芦ノ湖から富士が望める。逆さ富士は時期的にちょっとむずかしいと思う。ようやく拝める憧れの富士はどんな迫力だろう。私はファンのバンドのコンサートに行くような気持ちで、心をリズムよく弾ませていた。


 今回は遠くから眺めるだけでいい。大学に合格してから登るのは挑戦しよう。


 だから約束を果たせるのは、もう少し先になる。


 意識を授業に向かせるように、カッカッと板書の音が力強く教室に響く。


 けれど私の集中力は内閣支持率のように右肩下がりだ。


 『富嶽百景』。富士をテーマにした太宰治だざいおさむの小説だけど、富士を嫌う太宰の心情に、私は一欠片も共感を抱けていない。


 そのうえ、凝った表現と難解な熟語のはさみが、かろうじて張りつめていた私の集中の糸をプツンと完全に切ってしまった。


 ふうと、深い息を吐きゆっくりとまぶたを閉じる。


 隣の男子からお腹の音がする。


 彼氏と旅行に行くって言ってる声もある。


 教科書をめくる音もする。


 板書をノートに書き写す音も聞こえる。


 おだやかなだなぁ、と思った。


 腹虫の声に耳を傾ける時間も、キャラを予想する時間も、退屈な授業を気だるく思う時間も全てがおだやかに過ぎていく。


 この変化のない平凡さがなによりも愛おしい。そう思えることも、命があるからこそだ。



 けれど、終わりは突然だった。


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