深海の夜空に星五つ
2121
深海の流れ星
きっと数日もしない内に死ぬのだと思った。
傾いた床に蹲るように座り、立てた膝に手を回す。服装だけは暖かい格好をしているから助かったけれど、そもそも生きるために必要なものの何もかもが足りていない。食べ物も飲み物も何もないのだ。全く何も無いわけではないけれど、ダウンのポケットの眠気覚ましのフリスクと焼肉屋で貰ったレモン味の飴玉二個だけでどうなるというのだろう。しばらくすれば、酸素さえもままならなくなるだろうし。
全ては海に沈んでしまった。
俺自身も例外ではない。
友人に誘われた船での旅行だった。
甲板でビール片手に着いた先でどこを観光するか友人と話していたら、立てなくなるほど衝撃が足元からして何かが壊れるメキメキという音がした。友人は飲んでいたビールを服にかけてしまって、笑いながら上着を脱いでいた。あのときはまだ、笑っていた。
場所は太平洋沖、目的地まであと半分でつまりは海のど真ん中という場所での出来事だった。
その内に人がざわめき始め、今度は床が傾き始めた。「この船は沈む」と誰かが叫び、客室から出てきた人たちが坂になった床を上っていく。竜骨が派手に折れたとすれ違った誰かが言っていたのを耳にした。
俺と友人もその中に紛れ、救命ボートへ乗る順番待ちをしていたところでバキリと派手な音がした後、傾いた床が垂直になっていく。なんとか俺は手すりに掴まっていたのだが、友人はそのときに海へと落ちてしまった。友人の落ちた海面は小さく飛沫を上げてそのまま見えなくなってしまい、俺は奥歯を強く噛む。
船が沈んだ衝撃で渦潮が起こり、渦に巻き込まれ崩れながら沈む船にはさすがに捕まり続けることが出来ず、俺は手を離してしまった。そうしてほぼ垂直になった床を転げ落ち、運良く辿り着いたのはおそらく船の倉庫のような場所だった。空気を溜めたまま、上に船体の一部がのし掛かり、ゆっくりと深く深く沈んでいく。
海底の柔らかい砂の上に着き一瞬安心したのだが、だからどうしたというのだと絶望が押し寄せた。気付けば全身はびしょ濡れで、辺りは真っ暗で、食料も何もなく、海底では助けも呼べない。
暗闇と寒さが自分の首をじわじわと絞めていくような、最悪な状況だった。
友人の死にいまだ何の感慨も浮かばないのは、俺ももうすぐそちらに行くことが確定しているからだろう。
ただ死を待つだけの猶予時間。考えても足掻くことも手立ても無くて絶望的な状況にも関わらず、服もほとんど乾いてきた今、意外にも精神はひどく安定していた。
ただ一つ、この状況だからこそ良かったと思えることがあるとするならば。
「深海には夜空があるのか」
窓の向こうをよく見ようと、冷たい窓に手を付ける。分厚い窓の向こうには、星の蠢く夜空が広がっていた。
夜空の正体は光さえも届かない暗闇の海で、星は深海の生物だった。よく見れば、光はイカやクラゲの形をしている。
深海の生物の多くは光る器官を持っているのだと何かで読んだことがある。ホタルイカやチョウチンアンコウなどがそれに当たる。また深海の生物の九割がいまだ見付かっていないのだとも。この夜空の中にも誰も知らない生物の光があって、人知れずこの目に映っているのかもしれない。
呼気で白く曇る窓を手で拭う。すると不意に五つの光が右から左へと過ぎていった。ここへ落ちてからずっとこの景色を見ていたが、今までに見たことの無い光だった。窓に遮られて、過ぎ去った物を追うことは出来ない。
青白く光るその生物は、光る部分こそ小さいが全貌は人と同じくらいの大きさのようだった。ゆらりと揺れながら通り過ぎていくその光を見るに、悠然と大海を泳ぐクジラを想起させられた。
しばらくするとバシャンと水が跳ねる音がして、水飛沫が頬に飛ぶ。何かがこの場所に上がってきたのだ。
おそらくさっき通り過ぎていった生物だろう。暗闇の中で辛うじて見える光は五つと五つの塊で、ふよふよと蛍のように浮かんでいる。
そいつは床に這い出て、ヒタリヒタリと濡れた音をさせて迫ってくる。黒い影はだんだんとこちらにやってきて、動くたび床に近いところで光が揺れた。
何者か分からないその生物に食われて死ぬのかと、俺は自分を抱くようにして蹲る。そんなことしても結末は変わらないというのに。こんな状況にあっても、自分に死をもたらすものとはまともに対峙したくないのだ。
目の前にそいつの気配を感じる。
トン、と頭に何かが触れた。
「……ヒト?」
か細い音は紛れもなく言葉の形をしていて、思わず顔を上げた。
目に留まったのは光。その人の指先の、爪が光っているのだ。光る爪が、俺の顔を確認するように頬に触れる。
好奇心の塊のような黒く大きな瞳が、俺のことをじっと観察していた。窓を隔てて見るみたいに、お互いの顔が見えるように光る手を二人の真ん中に翳す。白い肌と鼻筋が間近にある。
俺はその指を握る。人差し指は冷たくて海の温度と同じだったけれど、人と同じ柔らかさがあって懐かしさがこみ上がる。
次の瞬間、よく分からない涙が目から溢れていた。涙はどうしようもなく止まらなくて、ぎゅっと指を握ったまま手の甲で涙を拭いた。
誰かがいる。言葉を介するモノがいる。
胸に広がるような熱を感じた。俺は今までずっと寂しかったのだと、そのとき初めて理解した。
「見えル?」
耳に響くような語尾で、そいつが言う。深海特有の方言のような物だろうか。超音波のような、耳の奥に残る不思議な音が混ざる。
手には水かきがあって、淡い光の中で見える足は魚の尾びれのようだった。
この人は、人魚だ。
「人魚なの?」
確認するように、聞いてみた。なんでもいいから、対話をしたかった。この暗闇の中で、五感の全てを使って人の存在を実感していたかった。
「そうよ。陸のヒトにとっては珍しいでしょう?」
「はじめて見た」
「わたしはヒトの涙、はじめて見た」
「なんで泣いてるんだろうね? 俺にもよく分からないんだ」
「怖かったのね。もう大丈夫よ」
その人は、微かに口許を綻ばせる。
「死に行くヒトには、せめて優しくしなさいと教えられたかラ」
そうして改めて、死の託宣が優しい響きで告げられるのだった。
それは人魚の女の子だった。
年はまだ十代半ば、一度も切ったことがないという髪は腰まであり、幼いながら将来が期待できるような可愛らしい顔をしていた。
暗闇で色彩が分からないが、どうやら彼女の瞳は限りなく透明に近いらしい。瞳の中に、光が乱反射して青く淡く輝いた。
「やっぱり俺は死ぬのかな」
彼女に言われてから、急速に死への実感が伴ってくる。同時に少しづつ諦めも出てきた。
「ここは陸のヒトが滅多に入ってこれないほど、深いところなの。助けはまず来ない。例えあなたが息を止めて私が手を引いたとしても、途中で溺れて死ぬわ」
それを聞いて全身の力が抜けていくようだった。
「俺の死因ってなんだと思う?」
「酸欠じゃないかしラ。餓死する前にここの空気が無くなると思う」
酸欠ならば、餓死よりは辛くないような気がする。どうせ死ぬなら、苦しまないで死にたい。
「俺の命運もここまでか」
せっかく運良く生き長らえたと思っていたのにな。
こんな状況でもお腹はすくので、ポケットから飴玉を出して口に入れた。どちらにせよ死ぬのなら、食べられるものは食べてから死にたい。
「人魚の伝説って知ってる?」
試しにそんなことを聞いてみる。実行する気など更々無いのだが。
「知ってるけど、私を食べても何も起きないわ。あれは長く生きた者に与えられる奇跡みたいなものだから」
「つまり事実ではあるのか」
「事実かどうかは知らない。私も実際に食べて不老不死になった人を見たことがあるわけではないかラ」
「それもそうか」
なんとか人魚の伝説にすがれないものかと淡い期待を籠めてみたが、それも叶わないらしい。元々そんな伝説を信じているわけでも無かったから、これには別に落胆しない。
「悪くない人生ではあったかな。最後にこんな景色も見られたし」
「こんな景色?」
窓の向こうを指差せば、彼女も僕の隣で景色を見た。きっと彼女にとっては見慣れているであろう、深海の夜空を。
「夜空みたいな世界が広がっているとは思ってなかった」
「ヨゾラ?」
「夜の空」
「空なら分かル! 見たことはない。昔はもっと浅いところに住んでいたのだけれど、もう何十年も前から深海から出てはいけないと言われているかラ」
ねぇ、としなだれかかるような声色で彼女は訊ねる。
「空はどんなもの?」
空。きっともう見ることの出来ない空を思い浮かべる。
「空は太陽が昇ることから始まるんだ。朝、太陽が昇って空は明るくなっていく。昼は青い空が広がって、俺はそれを見ると爽やかな気持ちになるよ。それから空は赤く染まって、夜になる。夜の空には星が輝く。この景色みたいに」
「星……? 星は生物?」
「空の向こうには宇宙があるんだ。宇宙から見たら、地球は小さい物なんだよ」
「私の世界は水の中。地上のヒトは陸の上。その上にも、まだ世界があるの?」
「あるよ」
「人はいル?」
「まだ見付かってない。けれどいるかもしれないね」
人魚がいるくらいなのだから、宇宙人もいるのかもしれない。
彼女は上を向いて、何かを考えているようだった。空を想像しているみたいだ。
「海の空は光がゆらゆら揺れル」
「水面の裏側は、君にとっての空なんだね」
プールの底に沈んで、見上げた空を思い出す。
「色はその色に近いかもしれない」
「あの色の、空」
「いつか見れるといいね」
彼女はそれから何度かやってきた。日に一度は家に帰らないといけないらしいのだが、寝るとき以外はほぼ一緒にいてくれた。
時間としてはきっと深海に落ちてから三日ほどしか経っていなかっただろう。
喉の乾きはひどく、歯は震えて噛み合わず、かじかんだ指先はもう感覚が乏しい。フリスクはとうに食べ終わり、残る食糧は飴玉一つ。
酸素が無くなりつつあるせいで次第に頭が朦朧としていた。うまく息が吸えなくて、フッと寝落ちるときのようにカクンと頭が落ちた。
「もうすぐ死ぬのね」
隣に俺がするように尾びれを抱いて座る彼女がそう言った。
「うん、そうみたい」
思ったよりも怖くないし、穏やかだ。
酸素が足りなくて、思考が絡めとられているのかもしれない。
ボーッとする頭を押さえて、思い出したように飴を舐めた。
「前も食べていたけど、それも食べ物?」
「そう」
「なに?」
「飴だよ。ずっと舐めていたら口の中で溶けてなくなるんだ」
「どんな味なの?」
「レモン味、といっても分からないのかな? 甘くて酸っぱい味がする。君にあげたら良かったかな。ごめんね」
「大丈夫。死んだら海流に流そうと思うのだけれど、それでいい? 死んだら死体は見付かった方がいいんでしょう?」
「そんなことしてくれるの? それはありがたいな」
「人魚が死んだヒトを見かけたときはそうすることにしているの。それでね、海流に乗せるときだけは海に浅いところに行けるの。もしもそのときに少し空を見に行っても陸の人にはバレないかしラ?」
「大丈夫だと思うよ。この辺は陸からも遠いから、見付かる可能性は低いと思う」
そう、と嬉しそうに彼女は笑った。
「早く見に行きたいわ」
「それは俺に早く死んでほしいということ?」
冗談めかして言うと、悲しげに唇を引き結んだ。
「そんなこと、思っているわけ無いじゃない」
一息に捲し立てるように彼女は言う。
「地上の人と話すのは楽しいわ。けれど私が『生きて一緒に空を見ましょう』と言っても絶対に出来ないじゃない。どうやっても嘘になってしまうじゃない」
彼女に悲痛な顔をさせてしまった。けれど死に行く俺に出来ることは、もうあまりない。
「嘘を吐いてもいい?」
そう前置きをして、俺は嘘を吐く。
「空を見に行こう」
これは叶わない約束だ。
「一緒に見る空は何色に見えるだろうね」
そして深海で男は死んだ。
人魚が肩を揺らすとぐらぐらと揺れて、肌は冷たくなっていた。
……死んだなら、もう水に付けてもいいのよね。
服の一番上に着ている上着を剥いて軽くする。
彼女は男の顔を見下ろして少し考えたあと、顔を近づけ舌で口内を漁り、アメダマというものを貰った。
「……あ、美味しい」
目を閉じて舌でアメダマを転がすと、カラカラと音がする。
そして、男の首の後ろ辺りの襟を掴み上を向いた。
「空。空はどんなものかしラ」
目指すは水面よりも上、陸よりも上の空を見るために。
尾で水をかき、高速で水面へと浮上する。もしも海で見ている人がいたならば、流れ星が上へと流れていくような景色が見られたに違いない。深海には流れ星も流れるのだ。
海から人魚の顔が覗く。始めて肺に陸の空気を深く吸い、天を仰いだ。空は暗く、まだ深夜だった。
「ねぇ、あなたはこれを深海よりもキレイと言ったの?」
男は人魚に抱き締められるように顔を海から出して、上を向いた。
「これは夜空ね。手を伸ばしても届かない。星はもっと近くにあるんだと思ってた。深海よりもずっとキレイ」
澄んだ冬の夜空を人魚は夢中になって見ていた。数えきれないほどの星の真ん中には天の川の帯が伸び、片隅には月が浮かんでいた。
「空が明るくなっていく。朝というものが来るのね」
夜は朝に飲み込まれ、眩しさに人魚は目を細める。
「ねぇ、見ている? あの色はなんて言うの? どうして答えてくれないの?」
なんでと言う彼女に寄りかかるように、男の頭がカクンと傾く。
「どうして死んでしまったの? ━━嘘つき」
次の瞬間、言ったことに後悔するように彼女は続けた。
「ごめんなさい、それも嘘。空が綺麗なのは本当だったわ」
そして彼女は頬に海の水ではない水滴をはじめて感じながら、男の顔を最後によく観察した。
「あなたはそんな顔だったのね。そんな瞳の色をしていたのね。ねぇ、あなたにもこの空見えている? 見えているなら嘘つきじゃないわ」
太陽が昇り、白んだ空は色を持ち始め青い空がやってくる。
人魚の口の中で飴玉がカラリと鳴った。
深海の夜空に星五つ 2121 @kanata2121
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