第2話

 仕事帰り。

 いつもこうだった。どうしようもなく、暗澹あんたんとした気分になる。目につくもの全てが色褪いろあせて見える。まるで、自分が存在しているかどうから分からない。幻のなかに潜り込んだ気分。

 自分の手を見る。まるで自分の手ではないような感覚。動く。動くという事実そのものが、まるで、自分ではないかのような感覚をもたらしていく。

 仕事が自分を殺してくれると思った。仕事のなかにいる自分は、無で。何も存在がなく、希薄で。自分を忘れることができる。そして、仕事が終わると、突然中に放り出されたように、街にひとり。

 歩く。どこへ行くかも分からない。目的もない。ただ歩いて、自分を殺してくれる何かに、出会おうとする。


「暗いなあっ」


 突然、背中を叩かれる。まるで、幻のなかから現実に引き上げられるかのような。暖かい感覚。


「元から暗いんだよ俺は」


 かろうじて出てくる言葉は、まだどこかを彷徨っている。


「そんなわけないじゃないの」


 暗い。そう見えるのだろうか。いや、そうなんだろう。暗い。何が暗いのか。すべてか。


「俺のことだからな。俺がいちばんよく分かってるよ」


 嘘だった。

 それを察したかのように、言葉が途切れる。何も言わず、ふたりで歩く。


「今日、家庭科の実習でさ」


 彼女が、クッキーを取り出す。なぜか、クッキーだということがすぐ分かった。匂いか。


「クッキー。焼いたんだ」


「なんでだよ。そんなもの実習でやらないだろ」


「あら。よくお分かりで。実習は味噌汁とごはんでした」


「じゃあなんでクッキーを」


「手早く終わらせて、先生がぼうっとしてるうちに軽く、こう、サクッと」


「真面目に受けろよ授業を」


 自分の顔。なんとなく意識した。笑顔がない。やはり、暗い。


「あげるから。元気出しなって」


「いらんよ。何も食べる気が起きない」


「しぬぞ?」


「しぬかもな」


 きっと今、自分はさびしそうに笑ったのだろうか。彼女は、それでも明るい。

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