Act:01-7 スパイス・ウィンド 2
夜間帯の時刻に切り替わり、店の外は薄暗くなってきた。
この時間からは、
だから、この時間から忙しくなるということを理解しているつもりでいた。
だが、現状はわたしの想定を遙かに超えていた……
「カレーのおかわり頼むよ」
「こっちにも!」
「オレにも!」
「カレーシチューとチキンステーキで――」
「パンのおかわりお願いしまーす。あっ、カレーも」
次から次へと、客達が声を上げる。
それはサービスの要求、早急に対応しなければならない。
だが、自由に動ける者はいなかった。
「ただいま伺いまーす! 少々お待ちください!」
「アンタは早く盛りつけな、店内のことはこっちがやるよっ!」
「アニキー! パスタ茹で上がったからソースかけちゃうね!」
「カール、ハンバーグの注文だ。今から出来るかい?」
「チキンステーキを焼き終えたらやるよ!」
「アタシがやる、アニキはそっちをお願い!」
店内は満席、客は入ってくると同時にカレーとやらを注文していく。
キッチンはカールとルカが担当、接客はアントニオとモニカが対応。
わたしは皿洗いをしながら、カレーの盛り付けを行っていた。
カレーを盛るのは難しくない。レードルを鍋に突っ込んで具材とブラウン色の液体をすくって容器に注ぐだけ――具材のバランスが求められるが、それはなんとかクリアしている。
しかし、注文量が尋常ではない。
普段の数倍以上の食器が必要な状況だった。
提供し、すぐに食器を洗浄して使い回す。
全自動でやってくれる洗浄設備もあるが、それだけではとても足りない。
どうにかしてカレー用の容器を確保しなければならないのが大変だ。
「クロエさーん! カレー3つ!」
「了解だっ!」
食器拭き用の布で容器の水気を取り、コンロ近くの作業台に移動。
鍋のフチに引っかけたままのレードルを手に取り、深みのある容器にカレー・シチューを盛り付ける。
湯気と共に立ち上ってくる匂いに、思わず目眩がした。
この忙しさで体力を消耗し、昼食も取れなかったのもあって、すっかり空腹だった。
カレーが放つ匂いは、複雑で刺激的。煮込まれた肉や野菜はきっと『美味しい』はずだ。
――まるで拷問だな……
カールはこのピークは数時間で終わると言っていたが、とても耐えられる気がしない。
訓練と称して3日間、飲食を禁じられたことがあった。
その時よりも空腹を感じている気がする。
客達が次々と注文するカレー。
それがどんなものなのか、わたしはまだ確かめられていない。
こっそりと口にすることもできたが、許可を得ていないことをするのは不信感を抱かせるだけだ。
どんなに辛くても、信頼を得るために我慢するしかない。
「カレー、3つだ」
「――ありがと!」
わたしが盛り付けたカレーの入った容器がトレーに置かれ、店内へと運ばれていく。
何度そうしたかわからない作業、その度に生唾を飲み込む。
――いつになったら、ピークは過ぎるんだ……?
「――いらっしゃい! すぐに食器片付けるから、そこで待ってな!」
また新しい客が入ってくる。
やはり、閉店時間までこの忙しさが続くのではないだろうか……?
アントニオが下げてきた食器の洗浄を開始。
スポンジと専用洗剤を使用し、客の使った食器の汚れを落としていく。
カレーは汚れが見えやすいから、洗うのは難しくない。
だが、思っている以上に汚れが残ってしまうのが面倒である。
油系の汚れはなかなか取れない――――最近、気付いたことの1つだ。
「クロエ、カレー4つだよ! 早くしな!」
「――りょ、了解……!」
洗浄を終えたカレー用の容器を探すが――手元に残っているものは無かった。
洗浄設備の方は、まだ作業中。
水道台の中にある未洗浄の容器は……2つしかない。
――足りない……?!
今すぐ洗っても必要分に達しない。
これではカレーを提供することができない……
――まずは、やれることをやろう。
目の前にあるカレー用の容器を洗浄し、水気を取る。
それに盛り付けを施し、トレーに置いた。
数は足りない――が、そもそも食器が足りないのだ。仕方無いだろう。
カレー用の容器が下がってくるまでは、カレーを出すことはできない。
とりあえず、使用済み食器の洗浄を継続することにした。
スポンジに専用洗剤を塗布し、食器に擦り付ける。
泡が食器に残った汚れを巻き込み、白い泡に色が付いていく。
その汚れを巻き込んだ泡を水道水で洗い流せば、食器の洗浄は終了。
あとは乾いた布で拭いたり、食器立てに置いたりして、水気を取れば全作業が完了となる。
「クロエ! 足りないじゃないか! あと2つは出せないのかい!?」
店内から戻ってきたモニカの怒声がキッチンに響き渡る。
しかし、そう言われても食器が下がってこなければどうしようもないのだ。
「容器が無い」
「――なら、早く言いな。すぐに下げてくるからね!」
そう言ってモニカは店内へ戻る。
間もなくして、カレー用の容器を手にしたモニカがキッチンに入ってきた。
「無かったらちゃんと言うんだよ」
「……了解した」
モニカから容器を受け取って、洗浄を開始。
汚れを巻き込んだ洗剤を落とし、乾いた布で拭き上げた。
すぐにカレーを盛り付け、トレーに置く。
賑やかな店内、客の座るテーブルへと運ばれる。
客達は店内でリラックスしているようだった。
笑い、語らい、アルコールを嗜む。それはきっと、カール達が作る料理がそうさせるのだろう。
どんなに暗い顔で入ってきた客でも、店を出るときは明るい表情を浮かべている。
最初は飲食物にドラッグでも入っているのかと疑ったが、そんなことをせずとも、カールの作るものは他人に幸福感を与える作用があるようだ。
このコロニー……この店の中において、飲食は活動エネルギーの補給という行為以上の意味があるらしい。
それは、ホットケーキのような『甘い』だったり、フライドチキンのような『美味しい』こと自体に意味があるように思える。
本来、それに意味や必要性は無いのかもしれない。
もし、そうだとしても『価値』はあるような気がした。
また次々と食器が運ばれてきて、わたしはそれを洗う。
そして、わたしが洗い終えた食器に料理が盛られ、また誰かの元へ提供される。
それをいくらか繰り返していると、時刻は深夜帯になるところだった。
満席だった店内には静かになり、空席が出てきた。
作業量も少なくなり、食器の量も充分だ。
食器の洗浄を終了し、余裕があったのでカレーの鍋を確認する。
2つあった大鍋の片方は空になり、残った鍋も中身は半分も無かった。
あれだけの客に提供したというのに、まだこれだけ残っていたとは驚きだ。
むしろ、カールの家族全員で対応しなければいけない『カレーの日』が異常ではないだろうか……?
「クロエ、そろそろ休憩してもいいよ」
カールが手を洗いながら声を掛けてくる。
店内のカウンター席にはほとんど客が座っていない。
これだけの余裕があれば、全員で作業する必要は無いだろう――
――空腹だ……
情けないことに、腹が鳴ってしまう。
それを聞いたのか、カールは笑っていた。
「ご飯にしようか、クロエ」
「……わかった」
わたしも手を洗浄、消毒を終えてからキッチンを出る。
カウンター席に座って、全身の力を抜く。
かれこれ1日中は緊張が抜けないほど多忙だった。ようやく休めると思うと、空腹感と同じだけ疲労感も込み上げてきた。
しばらくして、トレーを持ったモニカが現れる。
そのトレーをわたしの目の前に置いた。
「はいよ、お疲れさん。今日はよく働いたね、明日もよろしく頼むよ」
モニカの声色は穏やかで、普段の感情的な言動ではなかった。
それが労いの言葉だと気付くのに、数秒要したほどだ。
だが、今日はそれくらい忙しかった。
――早速、カレーとやらを食べてみるか。
トレーの上にあるのはカレー・シチューとパン。
湯気と共に立ち上るのは、刺激と『甘い』の入り交じる複雑な匂い。表面に浮いた油分が光沢を放っている。
スプーンで液体をすくって、口へと運ぶ。
口に入れた瞬間、様々な匂いが溢れんばかりに広がった。様々な物が混ざり、溶け合い、一体となっている。
その匂いは口から鼻に抜け、思わず目に染みるほど強力な刺激に感じられる。
それと同時に、口内や喉にひりひりとした違和感が表れ始める――
――なんだ、これは……!?
口の中が燃えるように熱い。
舌に痛みのような刺激を感じ、ポッドに入った水道水をコップに注ぐ。それをすぐさま流し込んだ。
――まさか、毒物か……?
調理の工程を全て見ていたわけではない。
もしかしたら、どこかのタイミングで何かを仕込まれた可能性もある――――わけないか。
そういえば、カレーを食べていた客は水を大量に摂取したり、激しく発汗する様子を見せていた。
もしかしたら、カールが言っていた『スパイス』というのはそうした類の刺激物なのかもしれない。
――だが、悪くない。
『スパイス』の刺激が舌に残っていたが、違和感のように思っても不快には感じない。
むしろ、この刺激が徐々に心地良く思えてくる。
具材も様々で面白い。
ポテトは柔らかく、ニンジンとオニオンはそれぞれ異なる『甘い』を感じさせる。
肉はカレーの味に負けないだけの肉そのものの匂いと味があった。
噛めば、『美味しい』が肉から溢れてくる。
その全てがカレーの『美味しい』に直結していた。
スパイスが作用しているせいか、ただの『美味しい』とは違うような感じがする。
カレーを口に運ぶスプーンが止まらない、いくらでも食べられそうだ。
「大丈夫? 辛過ぎたりしない?」
不意に声を掛けられる。
顔を上げると、目の前にカールがいた。
「手紙では、辛い物が大好きって言ってたけど……」
「ああ、大丈夫だ」
どうやら、カレーは『辛い』らしい。
スパイスの刺激――口内や喉に感じた違和感のようなものが、そうなのだろう。
『甘い』、『美味しい』、『辛い』……
飲食物にそうした様々な要素があることを、これまで少しも想像したことはなかった。
食べることが、とても楽しい。
それは本来許されないことではあるが、それでもわたしはもっと『美味しい』を知りたい。
任務のために、この店で働いている――が、それを忘れてしまいそうなほどにカールの作る料理は魅力的に思えた。
「良かった……このカレーは君が調べてくれたレシピなんだよ! オリジナルはライスを使うんだけど、あえてシチュー風にアレンジしたんだ!」
手紙のやりとりをしていた〈クロエ〉は、カールに頼まれて様々な料理を調べていたらしい。
その女のおかげで、わたしはこの料理を口にすることができたというわけだ。
――当の本人は輸送船の中で死んでいたが……
「ジャパンだと、カレーは家庭料理なんだよね? ライスを食べたことないけど、きっと美味しいんだろうなぁ……元のレシピだとかなり粘度のある感じになるみたいだったけど――それがライスに合うんだろうね」
――ライス……? なんだそれは……?
わたしは〈クロエ〉ではないし、ジャパンという地域や国のことも知らない。
あくまでその女になりすまし、記憶喪失のフリをしているに過ぎないのだ。
それが看破されない限り、カールはわたしを〈クロエ〉と呼ぶだろう。
わたしはカールを騙している。
だが、そうしなければ――わたしは殺される。
任務を達成するには、死ぬことは許されない。
だから、どんな手を使ってでも生きねばならないのだ。
「……ごめん、君は記憶が――」
「大丈夫だ、気にするな」
嘘をつくのは得意ではない。
それでも、やるしかなかった。
気が付けば、カレーの容器は空になっている。
まだパンに手を付けてすらいなかった。
「まだ、おかわりあるよ?」
「――頼む」
空になった容器をカールに突き出す。
すると、カールは驚いたように目を見開いていた。
「……す、すまない」
「いや、いいんだ。お腹減ってたんだよね? おかわりの分はあるから気にしないで」
わたしが使った容器を手に、カールはキッチンに戻っていく。
スプーンを手にしたまま、わたしは自分の言動を思い返す――
――もしかして、悪い態度だっただろうか……?
わたしはあくまで従業員の1人でしかない。
おまけに、失敗ばかりだ。
そんなヤツが余分に飲食物を強請るのは、図々しいにもほどがある。
もしかしたら、カールに不快な思いをさせてしまった可能性があった。
絶対に彼から疑われるようなことはあってはならない。そうなってしまえば、他の家族からも疑われてしまうのは必然だ。
「おかわり」を断るために席を立とうとするが、新たなカレーを持った容器を手にしたカールが戻ってきてしまった。
その表情は、何故か――明るい。
「――どうぞ、めしあがれ」
トレーの上に、またカレーが置かれる。
『辛い』と『美味しい』が一体化した、野菜たっぷりの料理――
再び、スプーンですくって口に運ぶ。
口にした瞬間、様々な匂いと『美味しい』が広がり、『辛い』がやってくる。
「……おいしい」
思わずこぼれてしまった言葉に、カールが反応するように小さく笑う。
あれだけ騒がしかった店内にはほとんど言葉が飛び交わず、誰かが食事している物音や本のページをめくる音、マグカップの中身をすする音、そうした動作の音だけが聞こえる。
その中に、わたしも紛れる。
静かな時間、深夜帯特有の穏やかな空気が――わたしは気に入っていた。
そんな時間を、カールの料理を味わうことに使えるのは……とても贅沢なことだろう。
――わたしは……もっと、知りたい。
任務遂行は最重要目標だ。
それは絶対に揺らがない――が、任務以外を知ることは無駄ではないはずだ。
我々の司令官のように、正面突破以外の解決法を導き出せるかもしれない。
かつて、イークス提督は言っていた。
『敵を知り、己を知れば、百戦危うからず――』
敵を知るということは、弱点を見抜くことだ。
つまり、敵兵の視点ではなく、一般人としての視点を持つことで新たな切り口を見つけられるかもしれない。
ただ人を騙して、ちょっと豪華な食事を得るだけでなく。
この〈クロエ〉という身分を上手く利用することが出来るはずだ。
まずは、そのためにも……本隊と合流しなければ――
カレーの『辛い』で熱くなった口内を冷ますために冷たい水を飲みながら、わたしは今後の偵察行動の内容を考えるのだった。
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