Act:01-4 チキン・ワイルダー 1
すぐ耳元で大きな音が鳴り出す。
それが携帯端末のアラームだと気付く前に、僕は身体を起こした。
目の前には机、大量に積み重なっている書籍。レシピノート。
図書館から借りてきた古い週刊誌から、地球の郷土料理を調べていた。
昨晩はベッドで寝ることも忘れて、ずっと作業に没頭していたらしい。机に突っ伏して、意識を失っていたようだ。
地球の料理を調べているのは、ライフワークのようなものだ。
父親が地球出身だからとか、地球からやってきた遠い親戚のクロエのためでもない。
祖父が残したレシピブック、そこには知らない食材や料理がたくさん記載されている。
好奇心で調べていく間に、その料理の多くは気象変動や紛争の影響で地球上から失われてしまったことも判明した。
このコロニー・E2サイトは
僕がやらなくても、地球の料理を再現することは誰かがやっていることだろう。
顔の知らない祖父との繋がりである『レシピブック』。
書かれている料理の数々は「歴史」そのものだ。
しかし、これだけでは何の意味も無い。
地球の料理を再現し、店で出しているのは、多くの人に知ってもらうのが目的だった。
ただ記録として残しても、閲覧した人にしかわからないのでは意味が無い。
だから、僕はレストランのキッチンに立たせてもらっている。
父や母から何度も叱られ、妹からも呆れられてきた。
今、それがようやく形になってきたと思う。
そして、クロエをE2サイト呼んだのは、彼女の居場所を作るのが目的ではない。
僕は交換条件に、地球の郷土料理そのものやそれをルーツとする料理を調べることを依頼した。
しかし、クロエは記憶喪失。
おそらく、約束が果たされることはない。
コロニーのオンラインアーカイブ、公営図書館、個人営業の古書店。
地球の文化情報を調べる手段は限られているし、普通の住人はそんな調べ物をするはずがない。
だから、情報量も少なく、精度も高くない。
特に料理や食品に関する資料は不必要と思われているのか、そもそも保存されていないことが多かった。
大昔の新聞や週刊誌のアーカイブ、ボロボロに擦り切れた本、そうしたものから断片的な情報を集めて「レシピ」に直すことが、僕の休日の過ごし方だ。
旧公用語であるイングランド語、極東アジアのジャパン語、大陸のフレンチ語と様々な言語で書かれている内容を現在の公用語に変換するのは骨が折れる作業である。
――さて、仕事の時間だ……
今日は普通通りの日程、早朝から開店準備と仕込みをして――夜間まで営業。
そして、クロエが初めて仕込みから参加することになっていた。
配慮の無い母の言動を抑えるためにも、クロエへの指導や仕事の割り振りは僕が担当することになった。
僕がいない時は妹に頼んである。2人ともいない状況はほとんど無いから、多分大丈夫だろう。
シャワーを浴び、私服に着替え、ブーツの靴紐を結ぶ。
携帯端末と財布をズボンのポケットに押し込み、準備完了。
アパートの部屋を出て、エレベーターに乗って地上階へ。
セントラルシティの都市部区画で4人家族が不自由なく住める部屋や物件は少ない。コロニー自治政府の公営物件は年間居住費さえ負担すれば、インフラ設備の使用制限もなく、自由に使える。
だが、単身用しか存在しない。
僕は自治軍の予備役訓練生、妹は公立高校生、そのおかげで家族の住宅費は一部免除されている。
カナタ教官に頼み込んでクロエのID手続きと住居契約を先に進められたのは結果的に良かった。もし退院してから手続きを始めていたら、今頃は僕の部屋で寝泊まりしてもらうことになっていただろう。
アパートの出入り口から外に出たら、僕らの店「フェー・ルトリカ」はすぐそこにある。
財布の中からスペアキーを取り出し、店の玄関を解錠。
そのまま店内に足を踏み入れる。――今日は1番乗りだ。
店の奥に向かい、キッチン脇のブレーカーボックスを開けて空調と照明を稼働。
貯蔵庫の扉のすぐ近くにあるロッカーからエプロンを取って、身に付ける。
分厚くて重い扉を開けて中に入ると、貯蔵庫の中はしっかり冷えていた。
食材や加工食品が置かれたこの部屋はしっかりした気密性と冷房で、眠気が覚めるほどに肌寒い。
思わず、自分の吐息が白くなるのを目で追ってしまう。
――遊んでる場合じゃないな。
貯蔵庫から外――店の裏側へ出る扉の施錠を外す。
今日は食品の搬入があるため、ここを開ける必要があった。
貯蔵庫の外側には清掃用具を置いている。
そこから
毎日、父が店の表を清掃してくれる。
僕や妹は店内を担当し、母は店の向かいにあるベーカリーからパンを受け取り、貯蔵庫に商品を補給する。
ほぼ毎朝、全員が店を開けるために動いていた。
そこに1人、仕事を任せられる人員が増えれば――誰かを休ませたり、負担を減らせたりできるはずだ。
「おはよう、カール」
「父さん、おはよう」
店内の隅から掃き掃除をしていると、父のアントニオが来た。
デリバリー担当。昼夜問わず電気自動車で走り回ってくれるおかげで、店に客が来ない日でも売上をなんとか維持できている。
父の過去を聞いたことはないが、一般人とは思えないような屈強な肉体を維持している。それ故に疲れ知らずだった。
「カールは今日、出るのかい?」
「いや、クロエに仕事を教えなきゃいけないから……あと、今日はルカの登校日だよ?」
「――おっと、大事なことを忘れてたぜ。大事な娘のスケジュールを把握していなかったとはっ!」
父には休日が無い。
店内にいることが少ない代わりに、常に外で車を走らせていた。
デリバリーを受けていない時は個人タクシーをやったりもしていると聞いたことがある。
レストランには様々な客が訪れる。
それは、父の地道な『営業活動』の成果でもあった。
「2号車の故障の件でしょ? ヨナに連絡しといたよ。午後から見てくれるってさ」
「いつもすまんな、ヨナ君にはいつものやつをサービスしてやってくれ」
「大丈夫、わかってるよ」
僕の返事を背中で受けつつ、父は正面の出入り口から出ていった。
父の開店作業は店舗正面と車両の清掃。仕事量としては1番大変な内容だ。
店内の清掃を終えて、キッチンの
間もなく、母が食材を抱えた状態で貯蔵庫の前で待っている頃だろう。
指や腕の洗浄を済ませ、キッチンの奥へ向かう。
貯蔵庫の分厚い扉を開け、中から外に通じるドアを開けると――そこには母のモニカが待っていた。
「遅いよ」
女性らしさが感じられないような図太い体型と態度、威圧感のある言動のせいで一部の客からは怖がられている。
それでも、母は仕事に関しては手を抜いたりしない。
接客そのものには問題は無いのだが……ただ、母は人に厳しすぎるだけだ。
「ごめん、父さんと話をしてたから」
母の手元から荷物を受け取る。
今日は向かいのベーカリーだけでなく、スーパーからも何かを買ってきたらしい。合成ビニールの袋が足下にいくつか置かれていた。
「カール、トマト缶のストックが残り5缶しかなかったのを見てなかったの? 缶詰は全部5個以上は用意しておくってこと、頭に入ってないのかい!?」
「……母さん、昨日は訓練だったんだ。キッチンには入ってないよ」
「そうかい」と無愛想に返事をして、母は貯蔵庫へ入ってくる。
荷物の中身を棚や箱へ移し、整理していく。
勘違いされやすいが、母はとても真面目だ。
真面目過ぎるせいで、他人の言動を正そうとする。そのせいで人から嫌われてしまうことも少なくない。
「あの嬢ちゃんにちゃんと仕事をさせられるんだろうね?」
「クロエは教えればすぐに覚えてくれるよ、母さんは教えるときに脅すのがいけないんだ」
作業を指示する時は端的にわかりやすく伝える必要がある。もし『失敗したら』なんて話までする必要はない。
もちろん、指示内容を理解できなかったり、作業ができなくなった時は再度説明しなければならない。
この店はずっと家族だけでやってきた。
だから、他人に対して適切な「指導」ができない。
訓練校や高等学校に行けば指導方法を知ることができるけど、元々僕らはそこまで裕福じゃない。いつだって余裕の無い生活をしている。そんな状態で他人に仕事を教えるのは容易いことではないことくらいはわかっている。
だが、だからといってクロエを放置しているわけにもいかない。
彼女がここで生活するにあたって、少なくとも自力で家賃くらいは稼いでもらわないと僕たちが路頭に迷うことになってしまう。
「フン、じゃあアタシは自分の仕事に専念するさね」
「今日はルカが登校日だから、店内は任せたよ。クロエはキッチンで補助をやってもらうから」
貯蔵庫内の補給と整理が終わり、今日の仕込みの時間となった。
レストラン――
小規模店舗では加工品をそのまま提供することが多いが、父がキッチンに立っていた時からなるべく自分達で調理したものを提供することにこだわっている。
僕が父から「レシピノート」を譲り受けるまでは、キッチンは父の場所だった。
特にフライ系の料理を得意としていて、朝から大量のフライドチキンを仕込むこと自体は今も変わらず続いている。
母は店内の清掃とカトラリーや食器の準備。
一方、僕と妹はキッチンで今日と明日の分の仕込みだ。
貯蔵庫の棚の中から
記載通り、1枚ずつパウチ包装された鶏肉が入っていた。
再び、箱を抱えてキッチンに戻る。
作業台の上に箱を置くと、妹が大きな欠伸をしながら店内に入ってきた。
その後ろには、いつも通りの無表情なクロエがいる。
「……おはよー、アニキ」
「ルカ、ちゃんと顔洗った?」
「んー、ここで洗うー」
眠そうな顔をした妹がキッチンに入ってきて、水道台で顔を洗い始める。
一方、クロエは店内からこちらを向いたまま立ち止まっていた。
「仕込みというのは、何をするんだ?」
「クロエもこっちで手を洗って、エプロンを着けて。準備が出来たら教えるから」
クロエがキッチンに入ってきたのを確認してから、僕は再び貯蔵庫に入り、台車に必要なものを積み上げる。
一通り揃っているのを確認してから、台車を押してキッチンに戻る。
手の洗浄が終わったのか、クロエは妹のルカによってエプロンを着させられていた。
台車をいつもの場所――キッチンの中央に置き、必要なものを作業台の上に並べる。
すると、妹が作業に必要な道具を取り出して渡してくれた。
「んで、アタシはどうすればいーの?」
「ルカはコーヒーと生野菜の準備を頼むよ」
「はーい、終わったらすぐに自分の朝ご飯作っちゃうから」
「わかった。何か急ぎで作って欲しいものがあったら教えて」
「えー、ダイエット中だから特にいらないよ」
「ちゃんと食べなよ」
――さて、始めるか。
作業台の上に置いた箱を開封し、中身を広げる。
パウチされた鶏のモモ肉、小麦粉と牛乳、鶏卵。そこに父が考案したフライドチキン専用スパイスの瓶を置く。
そして、プラスチック製の大きなボウルを重ねたまま取り出す。
「――じゃあ、始めようかクロエ……」
僕の後ろに立っていたクロエ、彼女の方に振り返ると――クロエは目を大きく見開いたまま、固まっていた。
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