Act:01-3 パンケーキ・ララバイ 2

 レストランのキッチンに戻ったカールは早速、自身の前掛けエプロンを着用した。



 夜間帯のレストラン『フェー・ルトリカ』の店内は、昼間ほど客はいない。

 日中の客とは違い、テーブルの上に置かれている皿は少なかった。

 

 色の付いた液体――おそらく、アルコール飲料が入った飲用容器を手にしている客が目立つ。料理が乗った皿が少なく、店内は談笑している客達の喧騒が絶えない。

 日中は誰もが飲食を目的に来店していたようだが、夜間帯はどうも違うらしい。


 店内を妹と父親に任せ、カールはキッチンにわたしを招き入れる。

 そこには見慣れない器具や刃物、稼働したままの大型機械、大量の皿と容器が並んでいた。

 わたしは配膳に忙しかったため、キッチンにこれほど物があるとは知らなかった。

 


「まずは手を洗ってね」

 カールはそう言うと、キッチンの奥にある小さな水道台に向かう。

 手に薬液を塗し、こすり始めた。手が泡だらけになり、それを肘まで伸ばしていく。

 わたしも真似するように、手に薬液を取り、擦り始める。

 すぐに薬液が泡に変わり、手の中が不思議な感触に満たされた。



 ――なんだ、これは……?


 カールは水道台で手や腕についた薬液を洗い流す。

 洗う――つまりは、洗浄または消毒をするための行為なのだろう。この薬液は手に付いた汚染物質を吸着する働きがあるということだ。

 おまけに、浄水フィルターが見当たらない。どうやらコロニーの浄水設備はかなりグレードが高いようだ。

 水道から直接汲み取って飲用できるのは、他のコロニーではあまり見られない。

 

 コロニー・E2サイトはそれだけメンテナンスがしっかりしていて、環境監視や保全がきちんと行われていることの証明だった。


 わたしも水道水で手の薬液を洗い流す。

 そうしている間にカールは貯蔵庫から何かを持ってきた。複数のパッケージされた袋を作業台の上に置く。

 その中の1番大きな袋には、「パンケーキ・ミックス」と書かれている。



「今日はパンケーキを焼いてみようか」



「……ぱんけーき?」

 

 パンケーキというものは、レストランのメニューにも存在していた。

 注文した客を見ていないため、どのような物なのかは知らない。

 

 カールは次々と道具を並べていく。



「甘いものは好き?」


「……あまい?」

 反射的に疑問を口にしてしまった。

 おそらく、飲食物に関することなのだろう。


 わたしはこれまで、口にする物のことを意識したことはなかった。

 連合軍内で供給されている糧食は保存性や生産性を重視しているため、栄養バランスと扱いやすさ以外の要素はほぼ無視されているらしい。

 飢餓状態にならないために摂取しているだけだ。食事は作戦行動に必要なカロリーと水分を補給するものでしかない。


 だが、『料理』というものは糧食のようなものではなく、嗜好品のように「楽しむ」ためにあるようだ。



「女の子は甘い物好きだからね」 


「あとでアタシにも焼いてよねー!」

 カールの言葉に、彼の妹が反応する。

 返事をしてから、カールはわたしに向き直った。




「よし、作ってみようか」


 そう言うと、カールは作業台の上に広げられた道具や袋を整理する。



「……わたしが?」


「そう、クロエにやってもらうよ」

 答えるのと同時に、カールは作業台の前を譲るように退いた。


 そもそもどういうものかもわからないだけでなく、わたしは料理というものを知らない。

 わたしにとっての飲食物というのは、パッケージされて個人に分配される資源リソースでしかなかった。

 

  

 

 作業台に置かれた袋の中で、最も大きい物を手にしたカールは、それをわたしに手渡してきた。


「読んでみて」


「……パンケーキミックス」

「――裏、袋の後ろを見てごらん」


 袋の反対側を確認すると、そこには作業手順が記してある。

 分量、使用器具、作業内容、段階ごとに書かれたそれは軍のマニュアルほどではないが、作業を実施するのには充分な情報量だ。


「何か問題があったら教えてね、僕が手伝うから」


「1人で作るのか?」


「お客さんに提供しないから、失敗しても大丈夫だよ。思い切ってやってみよう」


 ――わたしに、できるのか?


 作業としては難しくないだろう。

 序盤の段階での作業は袋に入っている粉末に規定量の飲料水を加えて混ぜるだけだ。

 その次からは『フライパン』や『ホットプレート』という道具を使って、溶液を加熱していく流れらしい。

 その手順になったら、カールに相談すればいいだろう。



 並べられた道具の中から計量器と硬質樹脂製のボウルを手に取る。

 爆薬や改造弾薬の作成で計量作業は経験がある、問題は無いだろう――


 計量器の上にボウルを置き、数値を初期化。

 あとは袋の作業工程指示に沿って、粉を入れるだけ……


 袋のチャックを開け、粉末をボウルに入れていく。

 想定量は2人前、指定された分量通りに粉末を用意。

 

 次は飲料水。

 目盛りの付いた容器に水道水を入れ、規定量の水を粉末の入ったボウルへ流し込む。

 あとは、粉と水を混ぜる――



 袋の作業工程図に描かれている『ヘラ』を、並べられている器具の中から取る。

 それは軟質樹脂製のもので、プレート部がしなるほど柔らかい。

 おそらく、これを使ってかき混ぜるのだろう。


 改めて作業工程指示を確認すると、「さっくりまぜる」と書かれていた。


 ――さっくり、とはなんだ?

 

 どういった状態を指す表現なのかはわからない。

 だが、このような一般に普及している製品に記載されている文章というのは、確実に伝わる表現であるはずだ。

 それに対して疑問を感じているのが露見すれば、わたしがでないことの証拠となってしまう。

 少しでも疑われないようにしなくては……


 ふと、カールの様子を確認する。

 彼はこちらに背を向け、別の作業台で何かしているようだった。

 手元が確認できないため、どのような作業をしているかは把握出来ない。



 とりあえず、ボウルの中身――パンケーキ・ミックスの粉末と飲料水を混ぜ合わせることにした。

 粉末を溶かすようにヘラを動かす。

 あっという間に粉末が水に溶け、粘度のある液体へと変貌していく。


 粉末と同じ乳白色の液体、これを加熱することで食品になる――とは思えない。

 むしろ、このままスプーンですくって飲むものではないのかと不安になる。


 

 ――もしかして、分量を間違えたか……?


 再度、袋に書いてある量を確認。

 しかし、自分が入れた内容は間違っていない。



「どーしたの?」


 すぐ隣で足音がして、そちらを向くとカールの妹がいた。

 わたしの手元を覗き込んでから、器具の中から何かを取り出す。


 スプーンのように深みのあるそれは、液体をすくって注ぐような道具なのだろう。

 案の定、カールの妹――ルカはそれをボウルの中に入れた。


 

「タネはいい感じ、あとは焼くだけね」


「わかった」


 わたしが返事をすると、ルカは仕事に戻る。

 入れ替わるようにカールがやってきた。


 妹のルカと同じように器具でボウル内の溶液を弄っている。


「じゃあ、焼いていこうか」

 カールはボウルを手にしたまま移動し、機械設備の上に新たな道具を置いた。


「このフライパンを使ってね」


「……ふらいぱん?」


 新たに置かれた道具は持ち手の付いたポッドのようなものだった。

 作戦行動時に携行する『戦闘糧食』のパウチを暖めるためにポッドを使ったりしたが、この道具はそのポッドよりも底が浅くて広い。フードパウチが寝かせたまま入りそうな大きさだ。


 カールはその底の広いポッド――「ふらいぱん」に固形物を落とす。

 機械設備のスイッチを操作、間もなくして「ふらいぱん」の上に置かれた固形物の形状が崩れ、液化していく。

 すると、辺りに濃厚な臭気が漂い始める。

 重く、粘度のあるような匂いは、これまで嗅いだことのないものだった。



 「ふらいぱん」を軽く揺するカール。

 固形物は完全に液化し、それを「ふらいぱん」の全体に広げるようにする。

 そうしてから、溶液の入ったボウルに手を伸ばした。



「じゃあ、僕が1枚焼いて手本を見せるね」

 ボウルの中に突っ込んだままの器具を手に取り、溶液をすくい取る。


レードルオタマで生地をフライパンに注いで……」


 深みのある器具――レードルで溶液を「ふらいぱん」に垂らす。

 水を沸騰させた時のような微かな音と共に、溶液が泡立ち始めた。


 ボウルに入っている乳白色の溶液を焼き固める工程らしい。

 次第に、鼻腔に染みつくような香りが出始める。

 先ほど入れた固形物とは違う、特徴的な匂いだった。




「生地に穴が空いてきたら、これでひっくり返す」

 

 カールはヘラを手にし、待つ。

 しばらくすると、彼の言ったように「ふらいぱん」の上に広がったが固まり、気泡らしき穴が空いていた。


 そして、ヘラで「ふらいぱん」の底からすくい上げるように生地を取り、裏返す――



「あとは、もうちょっと焼けば終わり……」


 ひっくり返された生地はブラウン色で、スポンジ状になっている。

 レードルで上から溶液を垂らしたせいか、見事な円形だ。


 どこからか持ってきた白い皿に、焼き上がったそれを移す。

 元が液体だったとは思えないほどに、ふっくらとしているのが触らなくてもわかった。







「よし、焼いてみよう」


 わたしにレードルを手渡し、カールはすぐ横で待っていた。

 彼のやっていたように、ボウルの中にある乳白色の液体を掬い取り、「ふらいぱん」の上に注ぐ。


 どうやら、この機械設備は電気式の加熱調理器らしい。

 加熱部の上に器具を置くと、それに熱を加える――それによって「ふらいぱん」を調理器具として使えるということなのだろう。


 「ふらいぱん」から上がってくる熱気を浴びつつ、溶液が泡立つのを観察。

 液体を加熱することで沸騰し、気泡が発生するのは知っているが、これは『沸騰』とは違う現象のような気がした。

 おそらく、この『パンケーキ・ミックス』の内容物に特殊な成分が入っているのだろう。

 改めて、袋の裏側を確認――――したが、書かれている内容や単語を理解するのは困難だ。

 


 そうしている間に液体が固まって、気泡だらけになっている。

 ひっくり返すためにヘラを手に取った――

 


「待って、まだちょっと早い」


 カールから制止され、わたしは手を止めた。

 よく見ると、上部の面は液体っぽい光沢が残っている。加熱が足りていないということなのだろう。

 「ふらいぱん」の底にヘラを差し込み、加熱面を横から覗き込んでみるが、カールの焼いたようなブラウン色には達していなかった。



 彼の指示通りに待っていると、鼻に残るような濃厚な匂いが出始める。

 それが合図らしい、カールが小さく頷いて作業を促してきた。

 

 ヘラを差し込み、ひっくり返す。

 ぱたっ、という小さな音と共に裏返ったそれは、さっきと同じブラウンの焼き色になっていた。



「いい色だ!」

 

 カールが喜ぶ声を横で聞きながら、「ふらいぱん」に集中。

 既に液体っぽさは無くなってるから、裏返した面は色を付けるだけでいいのだろう。

 最初に焼いた面と違い、気泡で穴だらけになっているため、整った焼き色を入れるのは難しいはずだ。



「もう大丈夫だよ、こっちの皿の上に重ねて」


 ヘラで焼けた生地を持ち上げ、カールの焼いた物の上に置く。

 反対面の焼き色はカールの作った物ほどではなかった。


 すると、カールは焼いた物が乗った皿を手にする。

「好きな席で待ってて、持って行くから」


「わかった」


 彼の指示に従い、キッチンから店内に移動。

 客席はどこも空いていたが、カウンター席に座ることにした。


 

 待機していると、キッチンから皿を持ったカールが現れる。


「お待たせ、パンケーキだよ」

 わたしの目の前に皿が置かれる。そこには、先ほど焼き上げた物だけではなかった。

 2枚の「パンケーキ」という物が並べられ、飾り立てるように様々な何かが添えられている。


 半球状の白い固形物、黒い板、紫色の小さな塊。

 それらがどんな物なのか、少しもわからなかった。



 カールがわたしの手元にナイフとフォークを置く。

 そのまま手にしてみたが、目の前にある皿に置かれた物に対して、どのようにアプローチすればいいかわからない。


 ――そもそも、これは一体何だ?


 パンケーキというものは、糧食に入っていなかった。

 あの「パンケーキミックス」という粉末の中に劇物の類は無かったはずだ。

 

 そっと、フォークでパンケーキを刺してみる――が手応えが感じられない。

 こんな質量が無いようなものを口にして、行動に必要なカロリーを摂取できるというのだろうか?

 

 ――大丈夫だ、これは……食べられるはず。

 

 恐る恐る、自分が焼いた『パンケーキ』をナイフで切る。

 その断片を口に放り込んだ。

 すると、歯が浮くように感じられるほど強烈な何かが口の中を支配した。

 口内にねっとりと残る感触、焼いていた時に嗅いだ匂いが口から鼻腔へと込み上げてきた。


 その濃厚な匂いとは、これまで口に入れたことのないものだ。



 ――なんだ、これは……!?


 


「どう? 甘い?」

 

 カールがわたしに笑顔を向けてくる。



「……あまい?」


「もしかして、甘いもの苦手だった……?」

「――そんなことはない」


 もう一度『パンケーキ』を切り刻んで、口に放り込む。

 また、口の中全体に何かが広がっていくのを感じる。

 強烈な感触、印象――――これが、ということなのだろうか。

 

 

 

 ――こんなものが、存在したなんて……!


 再び『パンケーキ』を口にする。

 すると、口内で『パンケーキ』が解け、それが『甘い』と特徴的な匂いへと変化していく。

 その感触が、『甘い』が、とても気持ちいい。



 気付けば、自分が焼き上げた『パンケーキ』は無くなってしまった。

 代わりにカールが焼いたものに手を付けても良かったが、添えられているものに興味が湧く。



 ――もしかして、これも『甘い』なのか?



 白い固形物にナイフを入れる。

 『パンケーキ』のような柔らかさは無く、何かを固めたような感触。ゆっくりと切り崩し、フォークを使って口に入れる。


 ――これは、冷たい……?!


 白い半球状の固形物は、どうやらを冷やし固めたものらしい。

 また、『甘い』がやってきた――が、『パンケーキ』とはどこか違う。

 

 口の中で白い固形物が溶けて、広がる。『パンケーキ』の解ける感触とは別格だ。

 液体になった『白い固形物』は、口内でなめらかな液体へ変貌した。舌全体にまとわりつくような『甘い』に、わたしは思わず身震いする。


 


 ――これは、すごい……!




 『甘い』は、とても刺激的だ。

 この皿に乗っているものは、本当にただの飲食物なのだろうか?

 もしかしたら、成形されているアッパー系ドラッグなのではないか――思わず、そう思ってしまった。




 ――次は……この黒い板を食べてみよう。


 一見、口に入れられないような気もするが、そもそも食べられないものを同じ皿の上に置く理由はない。

 なら、この板も食べられるはずだ。


 黒い板をナイフで切ってみようとするが、さっきの『白い固形物』とは違い、全く刃が立たない。

 このまま飲食用のナイフで試していても、板よりも皿を切ってしまいそうだ。


 指で摘まんで、持ち上げる。

 冷たく、硬い。微かに光沢を放っていて、連合軍の糧食に入っているサプリメントやゼリーコーティングを彷彿とさせた。


 恐る恐る、口に入れてみる。

 歯を立てると、黒い板はあっさりと割れた。同時に口内に『甘い』が広がった。

 『パンケーキ』や『白い固形物』、そのどちらとも違う『甘い』。

 黒い板が口内で溶けると、粘度の高い液体となって舌を覆う。

 ただ『甘い』があるだけではない。鼻を抜ける濃厚な匂いと舌に刻み込まれるほどの『甘い』がまとまりつくような感触が、恐ろしいまでに衝撃的だった。


 こんなものが、この世界にあったとは……!



 口にずっと残る『黒い板』の匂いと『甘い』。

 それに、わたしは呆然としてしまう。




 すると、キッチンに戻って作業していたカールが店内に戻ってきた。

 わたしの様子を不審に思ったのか、怪訝な表情をしている。


「……どう? チョコ、美味しくなかった?」



「……ちょこ?」

 カールはわたしの手元を指差す。

 指で摘まんだままの『黒い板』、それを「ちょこ」と呼称しているらしい。



「まだ地球でカカオ豆が取れるかわからないけど、コロニーのは代替品だからね。やっぱり、地球のチョコレートの方が良かったかな……」




「――ちょこ、良かった」


「キャロブ豆のチョコでも美味しかったんだね! よかったぁ……!」


 安心した様子のカールに、わたしは感謝しなければならないだろう。

 こんなにすごいものを体験させてくれた。〈クロエ〉に偽装したからでもあったが、『業務』を遂行できなかったわたしに優しくしてくれたことは、とても嬉しかった。



「どう? 美味しい?」


 カールが何かを訪ねてくる。

 それはきっと、こんなにも「すばらしいもの」を口にした時に言うべき言葉なのだろう。


 




「おいしい、しーけー」


 

 昼間に怒鳴られ、居心地の悪さを感じていたはずの店内。

 今は、それを微塵も感じない。


 〈クロエ〉の偽装、レストランでの『業務』、全てを諦めようと思っていた。

 だが、諦めないでやってみようという気持ちになった。


 一般人として暮らすのは、想像以上に難しい。

 それでも、そうしなければ知ることもできないこともある。



 わたしは、知りたくなった。

 

 『甘い』を、『美味しい』を、もっと知りたい。

 たくさん、見て、感じて、触れて、食べてみたい――


 もっと、レストランで『業務』を続けていたい。

 そう、思える時間だった。

 

 


 

 

 


  


  

 

 

 

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