第47話 洗礼と告白 5

「ちょっとお父さん」真子は口を挟んだ。


 しかし栄一の顔は、どこまでも清人の方を一点に見つめていた。栄一は真子の言葉が耳に入らないような感じで


「驚いたかな?」と言った。


「ええ、まあ……」清人は答えた。


「まどろっこしいのは嫌いでね。単刀直入に言わせてもらった」


「君が『聖人』と噂されるくらい学校で評価されているのは分かった。でもそれはあくまで他者の評価だ。君自身が何を考え、何を信念にしているかは伝わってこない。そう思わないか?」


「まあ、そうですかね……」清人は返答に困った。


「君は私のことをどう思う?」


「二階堂先生のことですか?」


「真子に対して、正直「過保護だな」と思っているだろう?」


「いや、そんな……」


「隠さなくても良い。正直な話、私自身がそう思っているんだ。『過保護』だと」


「私はどうしても、『父親』の視点でしか真子を見ることができない。だから過保護に、あれはダメこれはダメとしか言うことができなくなってしまっている。私は結局のところ真子を、自分の娘を信用できていないのかもしれない」


「ちょっとお父さん何を言って」


 真子が口を挟もうとしたが、栄一はそれを手で遮った。


「だから君の視点を聞かせてくれ。君にとって真子とは何なのか、真子について思うことは何なのかを」


 栄一はどこまでも真剣だった。清人は栄一のその真剣さに圧倒されてしまった。


 そして清人は熟考した。清人の頭の中で、真子への思いがいくつも交錯しているのを感じた。


「……まず」清人は口を開いた。


「真子さんとは二年生になってから同じクラスになりました。でも、一緒に帰ったり、色々と話すようになったのは二学期になってからです」


「真子さんは僕を凄く評価してくれました。僕の『博愛主義』をあそこまで真っ直ぐに褒めてくれたのは、後にも先にも真子さんだけです」


「そこから、「真子さんを知りたい」と思い始めました。横浜や鎌倉でデートをして、真子さんの博識さに驚かされ、とても楽しい時間を過ごしました」


「僕は真子さんにどんどん惹かれていきました。博識で、不思議で、優しく美しい女性だと思いました。それと」


「ちょっと待ってくれ」栄一は口を挟んだ。


 栄一の目はだいぶ穏やかになっていた。父として、娘をここまで褒められるのはとても嬉しいものだったのだろう。だが栄一は『ある一点』どうしても気になる部分があった。


「……君はさっき自分の主義を『博愛主義』と言ったね?」


「はい」


「それに至った経緯を教えてくれないか?」


「経緯と言われましても……僕にとって、幼い頃から漠然と抱いていた『信念』なので」


「なるほど。特別何か大きな事件があったり、本から影響を受けたりとか、そういう訳ではないと」


「……全く影響が無い訳ではありません。先ほどの『宮沢賢治』も、自分の価値観の形成に大きな影響があったと思います」


「確かに宮沢賢治はそんな感じだね。ストイックで自己犠牲的な博愛主義者というイメージだ」


「そうですね」


「私も、宮沢賢治の言葉で好きなものがある。「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」」


「『農民芸術概論綱要』の一節ですね」


「流石、よく知っているね」


「はい。僕もその一節は好きです。宮沢賢治の信念と苦悩が、よく表れていると思います。ただ……」


 清人は少し考え込んだ。そして


「僕は真子さんと出会ってから、自分の『信念』自分の『道』が、大きく変わったと思っています」清人は真っ直ぐな目で、言い切った。


 真子と栄一は清人をじっと見つめた。清人は二人に注目されていることを気にも留めないような飄々とした雰囲気だった。


「宮沢賢治の手紙の中で、こんな一文がありました。「私は一人一人について特別な愛というようなものは持ちませんし持ちたくもありません。そういう愛を持つものは結局じぶんの子どもだけが大切というあたり前のことになりますから」という一文が」


「それは初耳だな。非常に賢治らしいが」栄一は答えた。


「はい。おそらくですが前までの僕だったら、この言葉には一言一句同意していたと思います」


「ほう」


「『じぶんの子どもだけが大切』という感情を、僕は否定しません。僕も子どもは大好きだからです。せめて親だけは、子どもがどんなことになろうが最後まで味方であってほしいと思っています」


「賢治もそれをよく分かっていたからこそ、『あたり前のこと』と表現したのではないかと思っています。そして、だからこそ『特別な愛を持たない』という決心をしたのだと」


「なるほど」


 清人は少し間を置いたが、覚悟を決めた表情で


「僕は『博愛主義』が信念です。ただその他に、真子さんへの『特別な愛』が、僕にはあります」そう、言い切った。


「僕は、この二つを天秤にかけるような真似はできません。博愛主義も真子さんへの愛も、僕にとって非常に大切なものだからです。どちらかを失っても、僕は僕で無くなります」


「僕は真子さんに導かれました。宮沢賢治の色々な側面を教えてくれたのは真子さんです。僕は真子さんのおかげで、世界が広がりました」


「僕は真子さんと共に生きたいです。真子さんと二人で、新しい世界へと踏み出していきたいです」


 清人は熱っぽく、はっきりと言い切った。


 そこからしばらく、沈黙が流れた。栄一は清人をじっくり見つめていた。


 しばし沈黙が流れた後、栄一はふいに


「清人君、真子を頼むよ」と、静かに、でもはっきりとそう言った。


「……私も歳だな。真子のことを、まだまだ子どもだと思っていたんだと思う」栄一は続けて言った。


「真子には真子の世界があって、これから新しい道へと踏み出すことがある。むしろそうしなければならないということを、理屈では分かってはいたが感情的な部分で分かっていなかったのかもしれない」


「お父さん……」真子は静かに言った。


「真子、自由に生きなさい」


 栄一はどこか寂しげな表情で、そう言った。


「お父さん、でも……」


「あまり父親が出しゃばってはダメだな。そう思い知ったよ」


「ダメな父親だな、私は」


「いえ、二階堂先生の真子さんへの愛を、僕は尊敬しています」清人はきっぱりと言った。


「はは、ありがとね」


「……もうすぐ妻も帰ってくるから、良かったら夕飯でも一緒にどうだい?」


「あ、はい。よろしくお願いします!」


「私は仕事に戻るよ。ゆっくりしていきなさい」


 栄一はそれだけ言い残すと、大広間を出て自分の部屋へと戻っていった。大広間には清人と真子だけが残された。


 清人は少し放心状態になっていた。しかし、そんな放心状態の清人の左手に、暖かい感触があった。


 清人の左手の甲の上に、真子の右手が添えられていた。


 暖かく柔らかい、手の感触が清人には伝わってきた。清人は真子の方を振り向くと、真子は真っ直ぐな目で清人を見つめていた。


「共に、生きましょう」


 真子は慈愛に満ちた目で、そう言った。


 清人は真子の右手が置かれていた左手を返して、真子の手を強く握った。


 二人の手は、いつまでもいつまでも強く握られていた。

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