第41話 二人の銀河鉄道 5

「……そろそろ、温泉に行こうか」


 箱根の街を散策しながら、清人は言った。


「そうね」真子は答えた。


 二人は駅の方へ戻っていった。目的地の『天国園』は駅の方にあったからだ。


 二人はただ歩くだけでも箱根の街を堪能できた。落ち着いた雰囲気の中ただ散策するだけでも、二人の心は洗われた気分であった。


「温泉って、よく行くの?」清人は尋ねた。


「たまにね。家族と行くことが多いわ」


「そっか」


 二人はたわいも無い話をしながら、『天国園』の方へ歩いていった。天国園はホームページの写真を見た通り急坂を登る感じで、入口から下を見下ろすと箱根湯本駅と電車がよく見えた。


 二人は天国園の入り口に入っていった。そこはまるで昭和の銭湯のような趣で、木と硫黄の匂いが充満していた。このレトロな温泉の雰囲気は、二人にとっても好ましいものであった。


「じゃあ、男湯はこっちだから……」清人は男湯の方を指差した。


「そうね。またここで待ち合わせしましょう」真子は答えた。


 二人はそれぞれ男湯・女湯の方へと分かれていった。清人としては若干寂しい思いもあったが、一人になることによって少し気持ちは落ち着いた。


 清人は男湯の更衣室に入っていった。周りは全て木造で、中には一人も客が居なかった。


(やった。貸し切り状態だ)そう清人は思った。


 清人は服を脱ぐとすぐさま温泉に入っていった。かけ湯をして無色透明な温泉に足から入っていくと、とても熱かったが広くてゆったりとした雰囲気に清人は飲み込まれていった。


 そしてゆったりと温泉を堪能して四十分後、清人は温泉を出た。


 温泉を出てタオルで身体を拭いても、しばらく汗が止まらなかった。普段そこまでお風呂にこだわりを持ってはいなかったが、たまに入る温泉の良さ、効能に清人はすっかり魅了された。


 清人が男湯を出て入口の方へ戻ってみると、真子はすでに待機していた。


 女性よりも長く温泉に入っていた自分に驚きつつも、ほんのり赤くなっていた真子の姿を見て


(綺麗だ)と清人は思った。


 温泉上がりの真子は、また何とも言えない艶やかさ、色気があった。清人はこんな真子の姿を、いつまでも見てみたいと思えた。


「ごめん、待った?」


「いえ、私も今出たところよ」


「そっか」


「この後どうする?」真子は尋ねた。


「そうだな……ちょっと散歩しよっか」


 清人はそう決断すると、二人は天国園を出ていった。時刻はすでに夜の6時を過ぎていて、ほぼ真っ暗になっていた。


 下に駅のホームがあるので下は明るかったが、天国園周辺はろくに外灯も無く、ただ提灯がぶら下がっているだけでとても暗かった。


「……ちょっと向こうの方に行こうか」清人は言った。


 清人が言った『向こうの方』には、先に駐車場がある道だが、雰囲気のあるあばら屋と提灯があった。清人はどうもそのあばら屋に惹かれていた。清人はあばら屋の前に立つと


「凄いなこれ。空家なのかな?」まじまじと見つめてそう言った。


「家って感じはしないわね。単なる物置な気もするけど」


「そうだね」


「何と言うか、箱根って古い木造建築が多い感じがするね」


「そうね。昔ながらの温泉街ってことね」真子は答えた。


 二人はまた先の方へ歩いていった。坂を登ったところに駐車場があるだけだったが、その駐車場は高いところにあり外灯も無いので、星がとてもよく見えた。


 二人は満天の星空の前に立ち尽くした。下では駅のホームと電車の灯りが輝いていて、上をみると星空が大きく輝いていた。


「……綺麗だ」


「……そうね」


 二人はただただ黙って立っていた。こうしていると、二人だけこの星空に取り残されたような感覚があった。


 暗く高い大地に大きな星空。清人の頭の中で『銀河鉄道の夜』のジョバンニとカムパネルラが思い出された。


 清人が『銀河鉄道の夜』の空想の世界に浸っていると、ふいに真子は


「ありがとう」そう言った。


「ありがとうって?」清人は答えた。


「あなたが連れてきてくれなければ、こんな体験はできなかったわ。本当にありがとう」


「いや、俺こそ本当に楽しかったよ」


「あなたって意外と大胆よね」


「はは、そうかな……」


 二人は会話もそこそこに、満天の星空をもう一度見上げた。宇宙の広さを実感できるこの場所で、二人はただただ空を眺めていた。


「……ねえ、賀野君」


「何?」


「一つ質問があるのだけど」


「良いよ」


「あなたは……」


 真子は随分と溜めてから


「私のことをどう思っているの?」そう尋ねた。


 清人は真子の方を振り向いた。暗くてあまり表情は見えなかったが、その言葉に真剣味があることはよく分かった。


「……こんな曖昧な言い方は良くないわね。あなたは以前、自分の信念のことを『博愛主義』と言った。それは変わらないと思うのだけど」


「ああ、それは変わらないよ」清人は答えた。


「だとすると私は、その『博愛主義』の中の一人なの?」


 真子は静かに言った。


 清人は沈黙してしまった。真子のこと、信念のこと、清人の頭の中でこれらのことがぐるぐる駆け巡っていた。このことはどうしても、即答できるような問題ではなかった。


 沈黙している清人を見て、真子は


「ごめんなさい、困らせるようなことを言って」そう言った。


「……困らせる気は無かったのよ。ただどうしても、あなたの思いが気になって」


「だけど、私の存在があなたの尊い信念を揺らがせてしまうほどになってしまったのなら、私は……」


 真子は言葉に詰まった。そして、真子はふいに元来た道へと歩き出した。


 清人は歩いていく真子の手を取った。真子が驚いて振り返ると、清人はその手を引っ張り、強く真子を抱きしめた。


 下の箱根湯本駅からはちょうど電車が出発して、明るく光る電車が箱根の山を登り始めていた。

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