第32話 厭離穢土欣求浄土 4
清人は自分のベッドの上で目が覚めた。時計を見ると、すでに夜の7時になっていた。
(ああ、もう真っ暗だ)そう清人は思った。
川崎から大船までは結構時間がかかるのだが、あの後どう帰ってきたか清人はあまり覚えていなかった。帰宅したらすぐにベッドに潜り込んで寝てしまったからだ。
だが一回寝たおかげで、数時間前の父との喧嘩を新鮮に思い出すようなことは無くなっていた。一回睡眠を挟めば嫌な思い出も多少緩和されるので、清人はすごく嫌なことがあった日は一回ベッドで寝ることが多かった。
(……あの人は一体何なんだ)清人は考えた。
父とは価値観が合わないということはずっと前から思っていた。だから父との会話は気が重いと。そしてそれを真子にも話して、エールももらっていたはずだった。
(でも結果はこのザマだ)清人は自嘲気味に考えた。
あそこまで意見が衝突するとは清人も思わなかった。そもそも唐突に父が女性関係のことを話し始め、それに答えるようにしていたら、父に対してどうしても意見を言わざるを得ない状況になった。
流歌と真理亜のためならあの人も考え直してくれるだろうと思っていたが、それは甘い考えだったようだ。
(……あの人は父親の自覚があるのだろうか)
(そもそも家族とは何だ)
清人は、根本的な部分で自分の家族について考えてみた。
ただ自分の家族について考えてみると、どうしても『親』に対して濁った感情が噴出するのを抑えられなかった。
別に愛していない訳ではない。ただ親には澄んだ気持ちで『愛してる』などと到底言えないと清人は思った。
流歌と真理亜だったら、全くの無条件かつ澄んだ気持ちで『愛してる』と言えるのだが、親に対してはどうしてもそうはいかなかった。
(春川さんもこんな気持ちなのだろうか)
清人はふと、真子のことを思い出した。
真子は自らの父のことを『過保護』だと言っていた。いや、それに関しては自分も全く異論が無い。
(……無責任で自分勝手な親を持つ俺と、過保護で支配的な親を持つ春川さんは、果たしてどっちがキツいんだろうか?)
清人はそんなことを一瞬考えたものの、それと同時にそうやって比べるのも良くないという感覚があった。
清人は、「〇〇よりマシだ」という考え方は嫌いだった。
例えば今の自分の境遇を嘆いた時、「虐待されている子どもよりマシだろう」「貧困に喘いでいる子どもに比べればマシだろう」と言われたとする。
なるほど、それはその通りかもしれない。自分は暴力などを受けている訳ではないし、貧困という訳でもない。自分より悲惨な境遇にいる子どもたちは山ほどいるのだろう。
だがそれが何なんだ、と清人は思った。
「〇〇よりマシだ」という考え方さえすれば、今の自分の苦悩は、孤独は、全て解消されるとでも言うのだろうか?
そんな考え方をしたところで、あるのは不健全な癒しだけ。ほとんど憂さ晴らしと同義じゃないかと清人は思った。
だが、『虐待』という問題に関しては、清人は色々と思うところがあった。
TVを見れば『虐待』のニュースは頻繁に見られた。幸いにも周りで聞いたことはなかったが、ニュースになっているのは氷山の一角で、潜在的に虐待にあたる仕打ちを受けている子どもたちは結構な数いるのだろう。
今の自分の状況も、『
だが自分はもうすでに高校生であるから、自分に関してはそこまで問題では無かった。
清人は何より年端もいかない子どもたちの運命を案じた。
「七つまでは神のうち」という言葉がある。
その通りだ、と清人は思った。それこそ7歳くらいまでは、およそ人間離れした美しさ、精神性が子どもたちにはあると。
でもだからこそ、それぐらいの年齢の子どもたちが虐待を受けるニュースは見ていて心が痛んだ。
子どもを車内に置き去りにして、熱中症で亡くなったりするニュースを聞くことがあった時、清人は色々なことを想像した。
その子どもたちは一体どれほど苦しんだのだろうか。頭痛や吐き気がして意識も朦朧としながら、それでもなお親を信じ、親を愛し、あのむせ返るほど不快な灼熱状態の車内に取り残された子どもたちが、「ママ、パパ」と叫ぶ姿を想像すると、胸が張り裂けそうな思いになった。
(なぜその子たちがそんな目に遭わなければならないのか)
(一体どうすれば、その子どもたちの苦痛は、苦悩は、癒されるのだろうか)
このことは、何十回何百回考えたことか。
子どもたちにとって『苦しむ』ということがどれだけ大きいものか清人は分かっていた。
子どもにとって、学校と家庭は世界の全てであり、大人のようにストレスを受け流す技術も視野の広さもなかなか持てないものだ。
だからこそ、『虐待』というものがどれだけ子どもに深刻な苦痛と影響を与えるかは分かっていた。
清人は虐待の痛ましい犠牲者である子どもたちの運命と、今日の出来事を思い出した。そうすると、ふと涙が出てきた。
(何も泣くことはないだろ)
そう冷静に思ってはみたものの、涙は清人の意思とは無関係に流れ続けていた。
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