第31話 厭離穢土欣求浄土 3

「彼女? 何で急に」清人は答えた。


「いや、この前大村が見たって言うんだよ」


「見たって、何を?」


「山下公園で女とデートしてたって」


 清人は何も言えなくなってしまった。「しまった、見られた」という思いはあったが、目撃したのが父ではなく大村さんだったので、少しほっとした気分だった。


「凄い美人らしいな」


「ああ、まあ……でもまだ付き合っている訳じゃ」


「いや良いことだ! 今の内に女遊びは色々とした方が良い。『英雄色を好む』と言うしな、はは」


 そう言って雅彦は笑い出したが、清人の心はゾワっとした。


 はっきり言って、『女遊び』などと表現されるの心外だった。大切な思い出である真子とのデートをそんな風に言われると、真子の名誉まで傷つけてしまうように感じた。


「違う、俺は真剣に」


 そう言い出した瞬間、清人は言葉に詰まった。


 果たして自分は『真剣に』どうしたいのだろう? そんな風に考えた。


 だが雅彦の方は清人の発言など意に介さないように、また自分語りを始めた。


「俺も若い頃は色々やってきたからな。面白いもんで結婚してからの方がモテたりしたんだよ。お前だって俺の血を引いてる訳だから、モテないはずはない」


 清人は黙って聞いていた。


「それとよ」雅彦は急に清人に顔を近づけ、


「今も女の作家二人からアプローチ受けてるんだ。これがまた結構美人なんだよ」と小声で言った。


 清人の心の中で穏やかならぬ感情が渦巻いた。この人は一体、何が目的で息子にこんなことを言うのだろうか?


 清人は父の発言の意図を考えた。


 父は一般的な父親同様、娘に対してはわりと甘く、「娘に嫌われたくない」という感情は備わっていた。


 なので流歌や、まさか真理亜にはこんな発言はしていないだろう。


 おそらくこんなことを言うのは、自分と大村さんぐらいなのだろうと清人は思った。それは自慢もあるだろうし、隠し事をしていることの後ろめたさを少しでも解消したいからなのだろう。


 だがそれを息子に言うのはどういう神経をしているのだろうか? 自分は同性だから、理解を示してくれるとでも思ったのか? 


 もしそうだとすると、心底不愉快だと清人は思った。


 父の性的な奔放さは昔から知っていた。そもそもの離婚の原因もそれで、父の女性問題で、母と何回夫婦喧嘩をしたか分からないぐらいだった。


「英雄色を好む」が父の口癖だった。


 なるほど、それは真理かもしれない。ただそれを口にし、実際に行動に移している自分を見たら子供達がどう思うのか? その辺の根本的な想像力が欠けていると清人は思った。


 清人はただただ黙って聞いていたが、自分の心の中で一つ整理がついた。


(これは黙っている訳にはいかない)そう、清人は思った。


「お父さん」清人は急にかしこまった感じで答えた。


「何だ?」


「……もうこれ以上、『女遊び』をするのは止めてください。流歌や真理亜のためにも」清人は静かに言った。


 清人はじっと父の顔を見た。


 最初父は呆気に取られた表情をしていた。ただ見る見る内に顔が歪み、怒りの表情をし出しているのを清人は見て取れた。


「親に向かって何だその言い草は!」雅彦は怒鳴った。


 清人はビクッとした。元々平和主義者で喧嘩などもまずしない人間だったから、大声で怒鳴りつけられる経験はあまり無かった。


 だが、それでも言わなければならない時がある。今がその時だと清人は思った。


「俺のことはどうでも良い。ただ流歌は高校生だし、真理亜は3歳だ。父さんももう50歳になるのだから、そろそろ落ち着いてもらいたいんだ」


 雅彦の怒りの感情がますます強くなっているのを、清人は感じ取れた。


 そもそも父は、自分より格下だと考える人間から注意や意見をされるのを極端に嫌う人だとは清人も知っていた。


 自分に自信が無い故に、他の人の意見に対して寛容では無かった。


 ただこの件に関して言えば、とてもオブラートに包んで注意できる問題じゃないと清人は考えた。


 雅彦は憤怒の表情を見せつつも、少し考えてから


「舐めるなよ清人。俺がそんなヘマをするかよ」そう吐き捨てるように言った。


 どうやら父は、バレずに上手く不倫をやり通せる自信があるらしい。


(そういう問題じゃない)清人は思った。


「隠し通せれば良いという問題じゃない! 父さんもそうだし多くの人が傷付く可能性があるってことを理解して欲しい。とにかく止めて欲しいんだ!」


「ふざけるな! まだ恋愛もろくに知らないお前如きに何が分かる!」


「流歌や真理亜が悲しんでも良いのか!!」


 清人はもう無我夢中で叫んだ。


 一瞬その場は静まりかえった。雅彦はすでに怒りで手を震わせていた。そして急に、横にあった本棚を思いっきり殴りつけた。


 ガンッと大きな音がして、本棚からは何冊か本がこぼれ落ちた。二人の間にはしばらく沈黙が続いた。


「……もう良い、帰れ」


 雅彦はもう清人とは目を合わせなかった。


「……ああ」


 清人は無言で父の部屋を出た。部屋の外に出ると、大村が心配そうな顔をして立っていた。


「若……」


「すいません大村さん、帰ります」


「……そう言えば真理亜たちは?」


「ああ、お二人なら先ほど買い物に行きましたけど……」


 清人は少しホッとした。さっきの会話が二人に聞こえていたらどうしようという懸念があったからだ。


「お騒がせしてすいません。失礼します」


 清人は大村に一礼して、そのまま振り返ることなくドアの外へ出て行った。外は秋晴れの空だったが、日もだいぶ傾きはじめていた。

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