第29話 厭離穢土欣求浄土 1

 土曜日。清人は川崎駅に降り立った。


 昼の1時であったが、川崎駅の改札はすでに人でごった返していた。横浜や鎌倉のように観光客とかではなく、ショッピングで来ている人が多い感じだった。


 清人はそのままバスターミナルへと向かい、八丁畷行きのバスに乗り込んでいった。バスはすぐに出発し、川崎の街を走り出した。


 清人はただ川崎の街並みをぼんやりと眺めていた。居酒屋や飲食店が軒を連ね、パチンコ屋や古い商店街なども多く見受けられた。


(賑やかではあるけど、粗野で猥雑な街だ)


 清人はそう思った。清人の『川崎』という街に対する印象は昔からこんな感じだった。良いイメージとしては『飯屋が安くて美味しい』というのもあったが。


 だが、清人の中では少し変化があった。川崎には「粗野で猥雑」という印象があり、その言葉自体は決して褒め言葉ではないのかもしれないが、そこに昔ほどのマイナスイメージは無くなっていた。


『美は乱調にあり』という言葉を、清人は思い出した。誰が言ったかは忘れてしまったが、川崎という街を表現するのにぴったりの言葉ではないかと清人は思った。


(お洒落でエキゾチックな横浜も良いけど、アウトローでごちゃごちゃしている川崎も、また違った魅力がある)そんな風に清人は考えた。


 神奈川が誇る二大都市は、その特性やカラーが全く違っていて、だからこそお互いを引き立てあっているのではないかと清人は思った。


 そう思うと、ディープな川崎に足を踏み入れたい欲求も出てきた。


(また時間がある時に、川崎はじっくり散策してみるか)清人はそう考えた。


 そんなことを考えていると、バスは目的地の八丁畷へ到着した。


 八丁畷は京急線沿いの街で、古く小さい商店街もあり、どこか懐かしい雰囲気のある街だった。


 清人はバス停を降りて八丁畷の街を歩いた。昼間だというのに居酒屋は結構賑わっていて、店内ではおっさん連中がどんちゃん騒ぎをしていた。


(楽しそうで良い)清人はそう思った。


(昼間から飲む酒というのは美味いのだろうか)そうとも考えた。


 まだ酒の味など知らなかったが、飲めるようになったら、川崎の飲み屋で一杯飲んでみたいと考えた。変に格式めいた小洒落た店より、よっぽどこの辺の店の雰囲気の方が好感を持てると清人は思った。


 そして、清人は八丁畷にあるマンションに到着した。かなり大きいマンションで、中には事務所なども多く構えられていた。そしてマンション内の郵便受けの402号室には『杉畑出版』の文字があった。


 清人はマンションのエレベーターに乗り、その402号室へと向かった。エレベーター内で清人はまた沈鬱なムードになってしまったが、「真理亜に会える」と考えると少しモチベーションは上がった。


 エレベーターが到着し、402号室の玄関前で清人は立ち止まった。清人は一旦深呼吸してから、チャイムを押した。


「はい」中から男性の声が聞こえた。


「ああ大村さん、俺です」


「おお、若!」


 インターホンからそんな声が聞こえてから数十秒後、玄関のドアが開いた。そこには40代後半くらいの、しわくちゃのワイシャツを着た中年男性がいた。


「大村さん、お久しぶりです」清人は挨拶をした。


「いやいや! 若の方こそお元気で?」


「まあ元気にやってます」


「この前、姫も来たんですよ」


「ああ、流歌から聞きました」


 この大村という男は、清人の父が経営する零細出版社『杉畑出版』の唯一の従業員で、元々は清人の父の中学時代の後輩だった。


 明るくひょうきんな性格で、上司である清人の父を『殿』と呼ぶのはまだしも、清人のことを『若』、流歌のことを『姫』、真理亜に到っては『マリア様』などと読んでいた。


「父はいますか?」


「ああ、殿はまだ帰ってきてません。どこか営業に行っているみたいで……」


「そうですか」


「でも、奥方とマリア様はいらっしゃいますよ」


「分かりました。じゃあちょっと挨拶してきます」


 清人はリビングの方へと向かった。父の再婚相手の人と真理亜は、リビングにいることが多いからだ。


 清人がリビングの方に到着すると、そこにはまだ20代くらいの女性が、3歳の子供を抱いてソファーに座っていた。どうやら何かアニメを観ているらしかった。


「あ、清人君!」女性の方が清人に気づいた。


「お久しぶりです。玲奈さん」


「おにーちゃん!」


 子供の方も清人に気がついた。この子こそ清人と流歌の妹、真理亜だった。


「真理亜! 大きくなったな!」


 清人がそう言うが早いか、真理亜は清人のそばへ駆け寄り抱きついてきた。清人は真理亜の頭を撫でた。


「このまえねー、るかおねーちゃんもきたよ!」真理亜は元気一杯に答えた。


「そうか、おねーちゃんも来たか!」


 清人と真理亜は手をつないで戯れた。清人にとって、真理亜とこうして戯れるのは至福の時間だった。


「ごめんね。お父さん、もうすぐ帰ってくると思うから」女性の方が口を開いた。


 この女性は杉畑玲奈といって、清人の父・杉畑雅彦の再婚相手であった。まだ27歳の女性で、清人の父とは20歳以上年齢が離れていた。


「ああ、さっき大村さんから聞きました」


「そうだったんだ」


 そこから清人は10分ほど、真理亜と遊びながら話をした。話といっても近況報告ぐらいであったが、玲奈と真理亜は楽しそうに聞いてくれていた。


(ああ、やっぱこの二人と話すのは楽しい)そう、清人は思った。


 そう思っていたところで大村さんがリビングの方に来た。大村さんは大声で


「若! 殿がお帰りです!」と言った。


「分かりました、すぐ行きます」


 清人は真理亜にバイバイをしてから父の部屋の方へ向かっていった。


(ああ、これからは楽しくない話だ)


 清人はさっきまでのテンションとはうってかわって、陰鬱な気持ちで廊下を歩いていった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る