第16話 鎌倉のジョバンニ 2
清人は母の書斎の前に立った。ドアをノックするにも、自分の中で一呼吸置く必要があった。
「母さん?」ドアを少しノックしてから、清人は言った。
「何?」中から返事が聞こえた。
特別イライラしている様子でもなかったので、清人はほっとした。母が書斎にこもっている時は細心の注意を払わなければならなかった。スランプであまり筆が進んでいない状態で下手に声をかけると、怒鳴られることだってあったからだ。
「宮沢賢治のことで質問があるんだけど」
「宮沢賢治? あんたの部屋に全集あったでしょ?」
「ああ、全集じゃ無くて……『保阪嘉内』について書いてある本とか持ってる?」
「保阪嘉内? 宮沢賢治の親友でしょ。何で知ってんの?」
「いや、友達から聞いて……」
「へえ、高校生で保阪嘉内を知ってるなんて珍しいね」
それは清人も同意だった。ある程度宮沢賢治を読み込んでいる自分ですら知らなかったのに、なぜ真子は『保阪嘉内』を知っていたのだろうか?
「ちょっと待って」
そう言ってから3分後、書斎から母が出てきた。母の手には何かパンフレットが握られていた。
「これでも読めば」母は清人にそのパンフレットを手渡した。
そのパンフレットには『宮沢賢治と保阪嘉内 手紙と絆』と書いてあった。どうやらとある文学館で行われた企画展のパンフレットらしかった。
「へえ…こんな企画展があったんだ」
「確か6、7年前だったと思うけど、山梨の文学館で宮沢賢治と保阪嘉内をテーマにした企画展があって、私はそれ観に行ったんだよね」
「そうなんだ。何で山梨なんだろう?」
「保阪嘉内は山梨県出身だからでしょ。宮沢賢治と比べれば天と地だけど、嘉内は山梨ではそれなりに知名度があるよ」
「へえ……」
「じゃあ仕事戻るわ」母はそう言って書斎のドアを閉めてしまった。
清人も部屋に戻ると、もらったパンフレットを開いてみた。
そこに書いてある内容からすると、賢治と嘉内は同い年で、岩手の盛岡高等農林学校で出会い、他の友人らと共に同人誌「アザリア」を刊行するなど、共通の趣味を通じて友情を育んでいたようだった。
しかし嘉内はその後学籍除名処分になり、賢治とは離れ離れになるが、その後も手紙でのやり取り・交流等は続いていたようだ。
清人はパンフレットをざっと見た後、また賢治の嘉内あての手紙を色々と読んでみた。パンフレットで情報を仕入れた上でまた手紙を読んでみると、一層興味深さが増した。
賢治の嘉内あての手紙は七十三通あった。どの手紙も、賢治の真摯な友情と激しい情念が表現されていた。
農林学校時代の岩手山登山の思い出、自らの家業や仕事への苦悩、家族との確執と妹の病気、自らの信仰と自らの『道』への誘い……。
『我が友保阪嘉内、我が友保阪嘉内、我を棄てるな。』
特に後半になると、賢治の激しい訴え、激しい感情が手紙に吐露されていた。自らと同じ『道』を共に歩もうと賢治は訴えかける。
……しかし結局、嘉内は賢治と同じ道を歩むことはなかった。
賢治の情念に翻弄されながら、こうして清人は全ての手紙を読み終えた。
ふと時計を見ると、時計の針はすでに夜の8時を指していた。
(どうりでお腹が減る訳だ)
そう清人は思った。食事も忘れてしまうほど、清人は宮沢賢治の手紙を読み耽っていた。
そして清人はある手紙をもう一度読んでみた。
・・・あなたはむかし、私の持っていた、人に対してのかなしい、やるせない心を知って居られ、またじっと見つめて居られました。
・・・まことにむかしのあなたがふるさとを出づるの歌の心持また夏に岩手山に行く途中誓われた心が今荒び給うならば私は一人の友もなく自らと人とにかよわな戦を続けなければなりません。
・・・今あなたはどの道を進むとも人のあわれさを見つめこの人たちと共にかならずかの山の頂に至らんと誓い給うならば何とて私とあなたとは行く道を異にして居りましょうや。
・・・どうか一所に参らして下さい。わが一人の友よ。しばらくは境遇の為にはなれる日があっても、人の言の不完全故に互に誤る時があってもやがてこの大地このまま寂光土と化するとき何のかなしみがありましょうか。
清人にとって特に印象に残ったのはこの手紙だった。
パンフレットによると、この手紙は出された年代がはっきりしておらず、大正10年説と大正7~8年説が出ているらしい。
なぜ年代がはっきりしないかというと、嘉内が保管していた賢治からの手紙が貼られているスクラップブックにこの手紙は貼られず、ただ挿んだままであったからだそうだ。
清人はそれが何を意味するのか考えてみた。
(……貼られずに挿んだままだったということは、嘉内にとっても何度も読み返したくなるほどの特別な手紙だったということなんだろうな)
そう清人は結論づけた。
清人はさらに賢治と嘉内の友情の深さを考えてみた。結果的に道を違えてしまったとしても、ここまでの友はなかなか得ることはできないだろうと思った。
(自分にとって考えると……健次郎と善幸はどうだろう?)
清人は少し考えてみたが、やはり「違う」と感じた。二人は自分にとって大事な親友であることは確かだが、賢治の嘉内への友情のような狂熱的な、切実な感じとは違うと思った。
(となると……?)
清人は熟考した。色々な友達の姿を思い浮かべたがどうもピンとこなかった。
そうすると、ふと真子の姿が思い浮かんだ。
そしてなぜか、真子が一番しっくりくるように思えた。
清人はうろたえた。
(俺が賢治だとすると春川さんが嘉内、俺がジョバンニだとすると春川さんがカムパネルラ……?)
(いや、違う)清人はすぐさま否定した。
否定したのは良いものの、清人の心の中ではいつまでも真子の姿がこびり付いて離れなかった。
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