第13話 横浜クロニクル 5

「じゃあそろそろ行こうか」


 カフェではしばらく文学談義などをしてから、二人は店を出た。時計は2時を指していた。


 外は雲一つ無い快晴で、日光が強く照りつけていた。


「あなたは結構文学が好きなのね」店を出て歩き始めると、真子が口を開いた。


「まあ親も作家だしね」


「宮沢賢治が好きなのは驚いたわ。やはりお母様の影響?」


「うん、まあ……」


「どの作品が好きなの?」


「まあ童話が中心かな。『どんぐりと山猫』とか、『猫の事務所』も好き。一番好きなのはやっぱり『銀河鉄道の夜』だけど」


「あなたらしいわね」


「春川さんは?」


「私は童話も好きだけど、詩集が好きね。あと書簡集とか」


「書簡集?」清人は立ち止まった。


「宮沢賢治の書簡集とか読んだことないの?」真子は尋ねた。


(そういえばそんなのもあったな)と清人は思った。


『宮沢賢治全集』の何巻目かに、「書簡」の文字があったのだけは覚えていた。


「ぜひ読んでみるべきよ。『銀河鉄道の夜』が好きならば特に」


「ごめん、そういうのがあるのは知ってたけど、まだ読んだことなかったよ」


「『作家の手紙』というのは面白いものよ。特に手紙というのは、不特定多数の人達に見られることを想定していなかったりするから、作家の意外な一面を垣間見ることができるの」真子は珍しく熱っぽく話した。


 清人は少しドキッとした。普段どこまでも冷静な彼女が、好きなものを語る時はやはり熱っぽくなるのかと思うと意外だった。それに、真子がここまで宮沢賢治に思い入れがあるとは知らなかった。


「……『銀河鉄道の夜』が好きなら書簡集はおすすめだって言ってたけど、何か関係あるの?」


「そうね……あなたの家に宮沢賢治の書簡集はある? もしあるならその中の特に『保阪嘉内』あての手紙を読んでみると良いと思うわ。保阪嘉内は『銀河鉄道の夜』のカムパネルラのモデルとも言われているから」


「へえ、そうなんだ!」


 それは初耳だった。清人も少し声が大きくなってしまった。


「ありがとう春川さん、帰ったら読んでみるよ」


「宮沢賢治と保阪嘉内の交流は興味深いものがあるのよね」真子は続けて話した。


 結局、宮沢賢治の話をしていたら元町ショッピングストリートを半分近く通り過ぎてしまっていた。


 しまった、と清人は思った。宮沢賢治の話に自分も夢中になってしまっていて、二人で入ろうと思っていたおしゃれな雑貨屋などは通り過ぎてしまっていた。


(『戻ろう』と言うのもおかしいし、どうしよう……)


「春川さん、どこか入りたい店ある?」とりあえず清人は真子にお伺いをたてた。


「賀野君はどこか入りたい店があるの?」


 清人は言葉に詰まった。まさかオウム返しの質問がくるとは思わなかったからだ。


「いや、別に……」


「今日の目的は山下公園でしょう? なら早めに行った方が良いわ」


 清人はただ沈黙するしかなかった。自分の中の『色んな店に入って楽しくショッピング』といったプランは音を立てて崩れ去った。そして『元町ショッピングストリート』に対しても申し訳なさが出てきた。


(どんな店が好みか分からないとは思っていたけど、店に入ることもないとは……)


 そんなことを考えていたら、山下公園にはすぐに着いてしまった。予定ではショッピングに時間をかけるつもりだったので夕方頃の到着を考えていたのだが、時計の針はまだ2時半を指していた。


「綺麗な所ね」真子は少し嬉しそうな声で言った。


「ああ……そうだね」


 清人も内心楽しかった。以前来た時はみなとみらいの夜景がとても美しかったが、昼の快晴の中で見るみなとみらいの風景もとても美しかった。夜に来た時と比べると、家族連れの姿が多かった。


「あれが氷川丸?」真子は公園に係留してある船を指差して言った。


「そうだよ」


「今日は氷川丸を見たかったのよ」


「氷川丸を? 船が好きなの?」


「船というより、『氷川丸』が好きなの」


 清人は戸惑った。『氷川丸が好き』とは全く予想外の答えだったが、デート場所に山下公園を選んだ理由も分かったので少しホッとした気分にもなった。


 真子は氷川丸の前でしばらく佇んでいた。


 奇しくも水曜の夜に自分が佇んでいた場所とほぼ同じ場所で佇んでいたので、清人は少し恥ずかしくなった。


(凄く絵になるな)と清人は思った。


 氷川丸の前に佇む真子の姿はとても美しく儚げで、まるで旅立つ夫を見送りに来た女性のようだと清人は想像した。


「ねえ、あれを見て」真子はとある看板を指差した。


「何?」


「船内を見学できるみたいよ」


「へえ、ただ係留してあるだけじゃないんだ」


「行きましょうよ!」真子はとてもテンションが上がっていた。


(可愛い)


 清人は思った。さっきの宮沢賢治の話をしていた時もそうだったが、テンションの上がっている真子は殺人的な可愛さだと清人は考えた。ただそれと同時に


(これだけ可愛い姿をクラスの人に見せられたら、春川さんを『近寄りがたい』と考える人はいなくなるのに)と清人はなぜかお節介な気持ちも出てきた。


「ねえ、行くの? 行かないの?」清人がぼーっとしているので、真子は催促をした。


「ああごめん、行こうか」


 二人は船の横の階段を登ると、船内の受付にたどり着いた。二人はここで入場券を購入した。


「順路に従って、気をつけてお進みください」と受付のお姉さんは案内をした。


「じゃあ行きましょう」真子は真っ先に歩き出した。


「あ、ちょっと待って春川さん」


「何?」真子は立ち止まった。


「さっきから気になってたんだけど、春川さんがそんなに氷川丸を好きな理由って何?」


 真子は少し考えた様子を見せた。清人は真子の真剣なその姿を見つめた。


「……この船はね、杉原千畝の偉業の生き証人なのよ」たっぷりと溜めてから、真子はそう口にした。

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