第9話 横浜クロニクル 1

 翌日の清人は絶好調だった。授業用の重たそうな用具を運んでいる女子がいたら率先して手伝い、転んで膝を怪我した男子がいたら絆創膏を手渡し、いつも以上に『聖人』としての活躍がめざましかった。


「今日の『聖人センサー』は絶好調だな」善幸は健次郎に向かって言った。


「……なんだ『聖人センサー』って」


「何か良いことでもあったのでは? 顔もいつも以上に生き生きとしている」


「ああ、昨日何かあったのかもな」


 二人は清人を観察していたが、その最中、真子が清人に近づいてきたのを見てとれた。


 真子と清人は二人でこそこそ話していたかと思うと、二人は教室の外へ出て行ってしまった。


「も、も、もしや……」


 善幸が騒ぎそうな雰囲気だったので、健次郎はとっさに善幸の口を押さえた。


「騒ぐなよ、まだ確定じゃないんだから」


 健次郎は半ば脅すような口調で言った。善幸は黙って頷いた。


 一方清人と真子は人気の無い教室へ向かい、誰もいないのを確認してから二人は教室の中へと入っていった。


「春川さんどうしたの急に」


「大したことではないわ。今度の日曜日のデートの件なのだけど……」


(『デート』って…本当に何の照れもなく言うな)そう、清人は思った。


「場所って決めていなかったでしょう?」


「ああそう言えば…ごめん。今度できた辻堂のショッピングモールとかはどう?」


「それも良いけど、私行きたいところがあるの」


「え、どこ?」


「山下公園」真子はきっぱりと言った。


「山下公園って、横浜の?」


「そうよ」


 意外だな、と清人は思った。山下公園といえば神奈川県屈指のデートスポットであるが、正直な話真子がそういう定番の場所を望むとは思わなかったからだ。


「分かった、山下公園にしよう」


「本当? ありがとう」


「山下公園だったら、最寄駅はどこになるんだろう」 


「みなとみらい線に乗るのが一番良いのだけれど、大船からだったらJRの石川町駅で良いんじゃない」


「分かった。それなら昼の12時くらいに大船駅集合で良いかな?」


「それで構わないわ。楽しみにしているわね」


 そう言うと真子は一足先に空き教室の外へ出て行った。


(しかしなぜ山下公園なんだろう)と清人は思った。


 実は春川真子にとって初デートは山下公園が夢だった……とかなら可愛らしいと思うのだが、どうもそういう感じでもなかった。


 そして何より、山下公園やその周辺エリアは清人にとっては行動範囲外だった。横浜はたまに買い物やボランティアで行くことはあるが、それも数えるほどでしかなく、中華街や山下公園などは子供の頃に行ったきりだった。


(上手くエスコートできるだろうか)そう考えると急に清人は不安になった。


 放課後。清人は今日は誰とも一緒に帰らず、一足先に学校の外へ出て行った。今日は水曜日でボランティアがあるからだ。


 ボランティアといっても今日の現場は近かった。清人の学校から徒歩10分ぐらいの距離にある公立小学校で、今日はそこで学童保育のお手伝いをする予定だった。


 清人は小学校に到着すると、一足先に着いていたボランティアの方々に一人一人挨拶をした。


「升宮先生、おはようございます」


「おお清人君! おはよう」


 一人元気よく挨拶を返してくれた人がいた。この人こそ今回のボランティアの主催者、NPO法人『アッシジの会』の代表を務める升宮六郎ますみやろくろう先生だった。


 升宮先生は現在67歳で、かつて横浜市内の公立小学校の校長先生として勤めていた。定年退職後にNPO法人を立ち上げ、横浜・湘南エリアを中心にボランティア活動を行う篤志家だった。


 清人は升宮先生の温厚で高潔な人柄をとても尊敬していた。


「いやいや、わざわざありがとうね」


「いえ、学校からも近いので」


「ちょうど今生協の宅配が来て、お菓子が大量に届いたから配るのを手伝ってくれないか?」


「はい!」清人は元気良く答えた。


 お菓子の配膳が終わると、清人は子供たちの相手をすることになった。子供たちと一緒に本を読んだりゲームをしたりしたが、歳が近く体力もある清人は、年配の人が多かった学童の職員にとてもありがたがられた。


 清人は子供が大好きだった。自分自身あまり家庭環境には恵まれていなかったこともあり、子供の頃の辛い経験がどれだけ本人に深い傷を残すかはよく知っていた。そのため自分と同じ思いを子供たちにはさせたくないという気持ちがとても強かった。


 小学生男子と正面から向き合って遊ぶのはとても体力の要ることだったが、清人はとても充実した時間を過ごせた。時間はあっという間に19時になって、今日のボランティアは終了となった。


「お疲れ様」升宮先生が声をかけてくれた。


「今日は大活躍だったね」


「いえ、疲れましたけど楽しかったです」


「そうか、それは良かった」


 二人はしばらく談笑した。


「そういえば升宮先生は横浜市内の小学校に勤めていたんですよね?」


「そうだね、関内の方の小学校で…今でもたまに行くんだよ」


「関内ですか……それだと横浜スタジアムや山下公園とかも近いですよね? あの辺ってどんな店がありますか?」


「お店か…でも私が通うような店だから若者好みではないかもしれないよ」


「そうですか……」清人は残念そうな表情をした。


「関内の方へ行く予定があるのかい?」


「はい、まあ……関内というか石川町に」


「それならこれをあげるよ」


 升宮先生は自分の財布を取り出すと、「茅ヶ崎~関内」のJRの回数券を十枚ほど清人に手渡した。


「え、いやこれをいただく訳には」


「良いんだよ、今日も色々頑張ってくれたからね」升宮先生は人の好い笑顔で微笑んだ。


「……ありがとうございます」


 升宮先生の笑顔を見ると、清人はもう何も言えなくなってしまった。


 思わぬ形で石川町に行ける切符を手に入れてしまった。それも十枚も。


 そして清人は別のことも考えた。


(これだけあれば下見も一回できるんじゃないか・・・?)


 そうだ、日曜日の『本番』のために今日一回下見をしよう、と清人は思い立った。

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