第5話 欲は無く、決して怒らず 1
清人は力無く自分の部屋のベッドに倒れ込んだ。とにかく「疲れた」と思った。
思えば今日一日を振り返ると
春川真子が『天使』と呼ばれていることを知る。春川真子と初めて一緒に帰る。春川真子を『妖艶』と感じる。そして告白? される……。
(春川真子、春川真子……)
自分の中の『春川真子』という存在が、急激に大きく、かつジェットコースターのように揺れ動いた一日だと清人は思った。
五人で一緒に帰ると決めた時、自分は確かに「春川さんをもっと知りたい」と思っていた。
だが結果はどうだっただろう? もっと知るどころかその時以上に自分の中の『春川真子』がこんがらがってグチャグチャになっただけだった。
何より印象的だったのは、藤沢~大船間のわずか数分の間。おそらくあの数分間を、自分は一生忘れないだろうと清人は思った。
『本当に素敵な人だと思っている』
『あなたのことはずっと見てた』
『あなたのことをもっと知りたい』
清人は真子の言葉を断片的に一言ずつ思い出してみた。
人間の記憶というものは面白いもので、自分に都合の良い部分ばかり思い出していることに清人はすぐには気付けなかった。そして何より
『私はあなたのことを、好きになってしまいそう』
この言葉は、清人の心を掴んで離さなかった。
(春川さんはどういう意図でこんなことを言ってきたのだろう?)
その真意を知ることができるなら、自分は今何でもできると清人は思った。それだけこの言葉は清人の心に強く刻まれていた。
(ええい! 本を読もう!)
清人はとにかく気持ちを切り替えるべきだと考えた。これ以上『春川真子』について考えていてもどんどん泥沼に入っていく気しかしなかったからだ。
清人がまず手にしたのは宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』だった。昔から頭がごちゃごちゃしている時はこれを読むと決めていたからだ。
だがこの本を手にすると、同時に母のことも思い出されるので一概に良いとも言えなかった。
清人の母は宮沢賢治の大ファンだった。岩手県出身で賢治と同郷であり、ペンネームの『夜川そら』という名前も『銀河鉄道の夜』から取られていた。
だがその母は自宅にはほとんど帰ってこなかった。『取材旅行』と称して日本全国を飛び回っており、現地の旅館などで執筆を行なっているからだ。
たまに家にふらっと帰ってきたと思ったら自らの書斎で仕事をするばかりで、清人の知らぬ間に母の新刊が発表されることも少なくなかった。結婚していた時も仕事中毒な部分はあったが、離婚してからますますそれに拍車がかかり、母子間のコミュニケーションはほぼ皆無だった。
(仕事をすることによって離婚した事実や、家族そのものから逃げてるんだ)清人はそう考えた。
そういった母への複雑な思いを抱えつつも、宮沢賢治の本は清人にとって愛読書となっていった。『銀河鉄道の夜』や『注文の多い料理店』といった代表作はもちろん、『宮沢賢治全集』も全巻読破したほどだった。
ベッドに寝転びながら文庫本の『銀河鉄道の夜』を清人は読み始めた。『銀河鉄道の夜』は100ページも無いのでとても読みやすい。
物語はクライマックスへと進み、いよいよ最後のジョバンニとカムパネルラの会話のシーンに入った。ジョバンニは言う
「カムパネルラ、また僕たち二人っきりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない。」
清人はこの台詞を何回読んだか分からなかった。『銀河鉄道の夜』の中で最も好きな場面はここだったからだ。
読み終えた後、またこの台詞が載っているページを開いてみた。そしてこの言葉の意味について深く考えてみることにした。
(ジョバンニのこの台詞は宮沢賢治自身の魂の叫びだったはずだ)何よりも清人はそう思った。
宮沢賢治は詩人、童話作家としての顔だけでなく、二十代を教師として過ごし、晩年は農業生活を行い、学生や農民のために生涯を捧げ、ずっと独身だった。賢治の人生そのものが、世界の幸福の追求と、ストイックな自己犠牲に裏付けされた人生だったのだ。
(果たして自分はそんな生き方ができるだろうか)そう考えるととても自信がなかった。
いざ「世界のためなら俺の身体なんか百ぺん灼いても構わない!」と高らかに宣言したところで、燃え盛る炎を見てしまったら途端に怖気づき、「やっぱり今の無し!」と情けなく言っている自分しか想像できなかった。
漠然ながらも「人を愛する」「人のために何かをする」というのは自分にとって大事な信念であることは事実だけれども、やはりジョバンニの言ったような究極の自己犠牲をできるとは到底思えなかった。
春川真子は言ってくれた。あなたの『信念』があなたを『聖人』にまで押し上げたと。
(買いかぶり過ぎだ)そう、清人は思った。
しかし別のことも考えた。
よくよく考えると、春川真子は今日、信じられないくらい自分を褒めてくれていた。ここまで褒められたのは生まれて初めてと言っても良いくらいだった。
(……買いかぶり過ぎかもしれないが、彼女の期待に少しは応えられる自分になりたい)そう、清人は思った。
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